慶長見聞集/巻之六

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巻之六
 
 
 
見しは今、江戸にて六七年以来高きもいやしきも杖をつく。扨又桑の木は養生やうじやうによしとて皆人このみければ、木こり爪木つまぎをこる者が、深山みやまをわけて是を尋ね、せなかにおひ馬につけて江戸町へうりに来る。当世たうせのはやり物よせい道具なればとて、若人たちかひとりて、炎天えんてんの道のよきにも杖をつき給ふ事、誠に人の非間世のおきてをもはゞからざる振舞ふるまひ云にたえたり。楽天らくてんが詩に朝来てうらい鏡に向て多疑たぎを生ず。白髪せんきやう我は是たそ。竹馬春秋ちくばしゆんじうなほ昨日、いづれの年の雪のばんとうの糸をそむと作れり。此心を和歌に、乗捨し昔の竹の馬もがな老のさか行く杖とたのまんと詠ぜり。了角あげまきの童子をさして竹馬の年といへり。されば杖つく事昔より仔細有つてつくとしられたり。龍杖とは、費長房仙翁ひちやうばうせんおうにあひてせんをまなぶ。仙翁せんおう一つのつぼの中に長房を引入て、仙術せんじゆつををしへけり。仙翁せんおうがつぼの中には日月の光空にやはらぎ、四方に四季の色をあらはし、百二十丈のくうでんろうかく有、天にしやうじつ舞遊び、かうがんえんわう声やはらかにして、池にはぐぜいの舟をうかべり。其壺中別世界こちうべつせかいにて人間世にんげんせいにあらず。壺中の天地乾坤てんちけんこんの外と作れるも是也。仏の境堺きやうがいなる故也。長房此つぼを出て家に帰る時、仙翁せんおう青き竹杖を一つ長房にあたへたり。此竹杖を葛陂と云所にて捨てければ、忽にこの杖龍つゑりようと化してのぼる。詩文に杖の異名多し。あげてかぞふべからず。扨又歌道に用ひ来れる卯杖うづゑとは、正月初卯はつうの日の節会せちゑに用ふる、長さ五尺三寸なり。八千べん君が為にと神山かみやま白玉椿卯杖しらたまつばきうづゑにぞきると詠ぜり。みつゑ共云。いはひの杖とは、古歌に、つきもせぬいはひの杖を亀山の尾上行きてきるにこそあれとよめり。山人の杖とは、拾遺しふゐに、相坂をけふこえくれば山人の千年つけとや杖をきるらんと詠ぜり。つら杖とは、つくづくとしも物思ふころと云ふ前句に、つら山は打なげきぬる折々にと、玄仍付給ひぬ。狩杖かりづゑとは、此比兼如の席に杖つくと云前句に、狩場と付ければ、狩杖かりづゑははらひ杖にて有るべしと申されければ、其句かへりたり。棒しもとは人を打杖、あふごとは、物になふ杖を名付、拐とかけり。いせものがたりにあふごをかごとよめり。などてかく逢期あふごかたみに成りにけん水もらさじとむすびしものを。ばちはつゞみを打つ杖、そくぢやうは東司とうし也。毬杖ぎつちやうは正月是を用ふる。柱杖しゆぢやうとはかしやうと云虫の中の骨なり。其虫の骨をひやうする也。しつべいは禅家ぜんかに用ふる人を打杖也。しやくぢやうは𦬇ぼさつの持ち給へり。弓杖は的に用る。竹馬杖とは了角あげまきの童子をさす。竹馬を杖ともけふはたのむかなわらはあそびを思ひ出でつゝとよめり。はとの杖とは老人の杖の頭に鳩の頭をきざみてつく事、鳩は物にむせぬ鳥也。老人それにあやかり、物にむせじとのまじなひ也。新後拾遺しんごしふゐに、八幡山神やきりけんはとの杖老いてさか行く道のためとてと詠ぜり。梨の杖とは、ほそ長く梨をむくに頭の方よりむきて杖をのこす法なり。人にたぐへては梨のごとく杖つく共いへり。或説にさうれい中陰ちういんの磚義あり、父にはさんいの色を著て、オープンアクセス NDLJP:319きりの木の杖をつき、母にはしさいの色を著て竹の杖をつくともあり。ほとんど杖には桑を用ふと云々。老いたる人は杖つき虫の身をかゞめるごとく行歩自由ぎやうぶじいうならず、故に老人には昔より杖をゆるし給へるいはれ有り。礼記らいきに五十にして家に杖つく、六十にして郷に杖つく、七十にして国に杖つく、八十にして朝に杖つくといへり。みちぬべき年の末々悦びのと云前句に、杖もゆるさん九重こゝのへの内と紹巴ぜうは付けたり。若き人はつゝしみ有べき事也。
 
 
見しは今、大鳥おほとり兵衛べゑと云若き者有り。士農工商の家にもたづさはらず、当世異様たうせいゝやうをこのむ若党と、伴ひ男のけなげだてたのもし事のみ語り、常にあやうき事を好んで、町人にもつかず侍にも非ずへんふくの人なり。若き者共是を聞て、一兵衛と云者は、人頼むならば命の用にも立つべしといふ。世にたのもしき人こそあれと云て、まねかざるに来りせざるに集り、筒樽を持寄て知人となる。此一兵衛知ざる人をば男の内へ入るべからずと、居たる跡をばほこりを払てなほり、同座すれば立しりぞく。子華子に云、子車氏がゐのこ、其色もつぱらにして黒し、一度子をうんで三つのゐのこ有り、其二つは則すゐにして黒し。其一つは則まだらにして白し。其おのれが類にあらざる事をにくんで是をかみころす。其おのれにおなじき者をば、是をやしなふ事たゞつゝしみて其やぶらん事を恐ると、いへるにことならず。又若き殿原達とのばらたちは一兵衛をまねきよせ物語せよとあれば、馬といはゞ蛇に綱を付ても乗べし、すまふならば鬼ともくまん、兵法ひやうはふならばしらはにて太刀打せんなどと、利口りこうをいへば引出ひきで物をとらせ、明暮あけくれ伴ひ給ふ事だゞ虎を愛してみづからうれひをまねく成るべし。古人の言葉に好友かういうにともなへば芝蘭しらんの室に入るがごとく、悪友あくいうにちかづくときんば、鮑魚のいちぐらに入るがごとしといへり。故に善悪のかげひゞきのごとし。いさめる者はかならずあやうき事有り。夏の虫飛んで火に入る。爰に北河権兵衛と云人つみ有り。被官ひくわんを手打にせし所に、石井猪助と云者わきよりはしりよつて、権兵衛をさしころす。此者をからめ仔細をとへば、別のゐこんなし。我権兵衛がわかたうと知音なり、互に命のように立べしと兼約せし故也と云。皆人聞て、かやうのいひあはせ世にためしなきいたづら者、火あぶりにすべしときせられければ、猪助四方をはつたとにらんで、侍と侍が云あはせ一命を捨つる程の義理だてを、いたづら者とはひがごとなり。然ば大鳥一兵衛とて名誉のをこの者世にたのもしき知人あり。此人と盃を取かはしたる若き者、死生しゝやうもしらぬふてきなるあふれ者、江戸中に千人も二千人も有るべし。其者共の知音の中われにひとしかるべしといふ。諸侍是を聞き、若き者を召使めしつかひせつかんに及ぶ時に至ては、たゞ龍のひげをなでてたましひをけし、虎の尾をふみてむねひやす心地有て安からずといへり。江戸御奉行衆ごぶぎやうしう聞召しおどろきさわぎ、先一兵衛をからめ、くびがねをかけ、かなほだしをうち、問注所もんぢうしよにおき、かれを見るに、よの男に一かさ増して足の筋骨すぢぼねあらとたくましうして、二王を作り損じたる形体けいたいなり。扨同類どうるゐるべしとて大名小名の家々町中までもさがし出し、首を切てさらす事オープンアクセス NDLJP:320限りもなし。大名衆の子供たちをば命をたすけ、奥州つがる、はつふ、そとの浜、西はちんぜい、鬼海島きかいがしま、北は越後のあら海、佐渡島さどがしま、南は大島、戸島、八丈へながし給ふ。扨一兵衛をばすねをもみひざをひしぎ、夜る昼問へども同類どうるゐをばいはずしてにつこと打笑ひ、愚なる人々かな、からだをせめて、など心をばせめぬぞといへば、にくきやつが、くわうげんかなとて、荒手あらてを入れかへて五日七日十日二十日水火のせめにあて、様々さま推問すゐもん、がうもんすれども、更にくるしむ気色なく、其心あくまでふてきにして、誠に血気の悪者わるもの也。そら笑ひするつらだましひ、せいりきこつがら人にかはつて見えにけり。皆人せむべきやうなしとて、あきれはて居たりしに、一兵衛云けるは、何とやらんいま程はあたりしづまり物さびしければ、物語しておのにねぶりさまさせ申すべし。われ武州八王寺の町酒まちざかやに有て酒をのみしに、古無殿こむそうの一人尺八しやくはちいて門に立ちたり。我此者をよび入れ、あら有難の修行しゆぎやうや、御身ゆゑある人と見えたり。世におち人にやおはすらんと酒をもてなし、此一兵衛も若き比は尺八を吹きたり。古無殿こむどのの尺八一手ひとて望みなりといへば、此者きよくを一吹きたり。我聞て打笑ひ、しりをくりあげ尻を打たゝいて、古無殿の尺八ほどはわれしりにても吹くべしといへば、古無大きに腹を立て、無念至極むねんしごくの悪言かな。われいにしへは四姓しせい上首じやうしゆたりといへども、今は世捨人よすてびととなる。然ども先業せんごふをかへり見、貧賤をなげかずして仏道ぶつだうえんに取付、空門くうもんに思ひをすまし、内に所得しよとくなく外に所求なく、身を安くして、普化上人ふけしやうにんの跡をつぎ、一代教門けうもん肝要出離解脱かんえうしゆつりげだつの道に入り、修行をはげますといへども、悪逆無道あくぎやくむだうの一言にわれしんいのほのほやみがたし。すがたこそ替れども所存において替るべきか。是非ぜひしりに吹せて聞べしといふ。此一兵衛も尤しりにて吹くべしといへば、互にかけ物をこのみしに、古無こむ云ひけるは親重代おやぢうだいに伝はる吉光よしみつのわきざし一腰持ちたりとて坐中へ出す。此一兵衛もこしの刀を出すべし。此刀と申すは、われしたはら鍛冶を頼み、三尺八寸のいか物づくりにうたせ、二十五までいき過ぎたりや、一兵衛と名を切付、一命にもかへじと思ふ一腰を出す。町の者共両方のかけ物を預り、一兵衛が尻にて吹く尺八きかんと云ふ。其時我古無が尺八おつとつてさかさまに取りなほし尻にて吹きければ、皆人聞て、実に古無が口にて吹きたるより、一兵衛が尻にて吹きたるが増りたるといへば、われ此あらそひにかちたり。各かやうの事にそにんあらば、八王寺町の者共へ尋給へと云。皆人聞きて、扨こそ一兵衛木石にても非ず物をいひそめけるぞや。こゝ彦坂ひこさか九兵衛と云ふ人たくみ出せる駿河とひとて、四つの手足てあしをうしろへまはし一つにくゝり、せなかに石を重荷おもににおき、天井てんじやうより縄をさげ中へよりあげ一ふりふれば、たゞ車をまはすに似て、惣身そうしんのあぶらかうべへさがり、油のたること水をながすがごとし。一兵衛今ははや目くれたましひもきえ果てぬと見えければ、すこしいきをさすべしと縄をおろし、とひへ水をそゝぎ、口へ気薬きぐすりを入れ、扨もかひなし一兵衛同類をはやく申せいはずんば又あぐべし。なんぢせめ一人にきすといへば、其時一兵衛いきのしたよりあらくるしやかなしや候。いかなるせめにあふとてもおつまじきとこそ存ずれ共、此駿河とひにあひていかでいはでは有るべきぞ。それがし知人オープンアクセス NDLJP:321数しらず。先紙を百枚帳にとぢ持来り給へ。同類どうるゐ残りなく申上書付べしと云。望のごとく帳をとぢ筆取出て、扨同類はと問ば一兵衛が存知の人々を残なく申べしとて、日本国の大名衆をかぞへたつる。御奉行衆ごぶぎやうしゆ聞召し、とふにたえたるいたづら者まづ禁獄きんごくさすべしと引立てろうに入る。もんぜんの言葉に、むかでは死に至れども、うごかずといへるは、此者の事也と諸人云ひあへり。
 
 
見しは今、大鳥一兵衛と云者、江戸町に有て世にまれなる徒者いたづらもの、是によつてきんごくす。仔細は前に委記せり。然に一兵衛籠中ろうちう東西をしづめ大音あげていふやう、なにがし生前せいぜん由来ゆらいを人々に語て聞せん。武州大鳥と云在所ざいしよに、りしやうあらたなる十王まします。母にて候者、子のなき事を悲みこの十王堂じふわうどうに一七日こもり、まんずるあかつき霊夢れいむのつげあり、くわいたいし、十八月にしてそれがしたんじやうせしに、こつがらたくましくおもての色赤く、むかふば有て髪はかぶろにして立て三足あゆみたり。皆人是を見て、悪鬼あくきの生れけるかと驚き、すでにがいせんとせし処に、母是を見て云ひけるやうは、なうしばらく待給へ、思ふ仔細有り。是は十王へ申子なれば、其しるし有ておもての色赤し。伝聞つたへきく、老子は神武天皇御宇五十七年に当てそこくへたんじやう、支那はしうの二十二代宣王せんわう三年丁巳九月十四日也。胎内たいないに八十一年やどり、白髪に有つて生れ給ひぬ。故に老子と号す。成人せいじんの後、身のたけ一丈二尺、龍眼りようがんにしてひたひ広く金色こんじきなり。耳ながく目ふとく眼に光りあり。くちびる大にしてもんあり。歯は四十八有り。足のうらに紋あり。手の内のすぢ直にしてまがらず、其形尤奇異きいなり。かやうのためしあれば鬼神にても候はじ。たすけおき給へと申されければ、我をたすけおきをさな名を十王丸といべり。其十王の二字をへんじて一兵衛と名付事、十方地獄中唯有ばうぢごくちうゐう一兵衛無二又無三の心なり。されば籠内ろうないをば地獄ぢごく、外をしやばと罪人ざいにん云ふ、是道理也。しやばよりあたふる手一合の食物を、朝五夕晩五夕是を丸して、ごき穴より此くらき地ごくへなげ入るを、数百の罪人共是をとらんとどうえうする。がうりきなる者共は他の食をうばひとる。無力の者わづらはしき者共は、あたふる食をえとらずしてつかみあひはりあひする事、餓鬼道がきだうの有様なり。つら是を案ずるに、それがし裟婆しやばにて十王といはれし身が、此地ごくへ来る事いんぐわれきぜんのことわりのがれがたし。然りといへども、仏は極楽ごくらくのあるじとし、十王は地獄の主と成る事、是順逆じゆんぎやくの二だう魔仏まぶつ一如いちによにして、善悪不二ぜんあくふにの道理也。釈尊しやくそんたうりてんに御座て、十方の諸仏𦬇しよぶつぼさつ集り給ふ中において、地蔵𦬇ぢざうぼさつにつけてのたまはく、未来悪世みらいあくせの衆生をば、汝にふぞくす。悪道へ落し給ふことなかれと有りしにより、或はえんま王となり、中有ちううの罪人をたすけ、或は十王と成て六道の群類ぐんるゐをとぶらはんと毎日地獄に入り、衆生しゆじやうの身がはりに立て苦しみを請、諸々の罪人をすくひ給ひぬ。経に一切衆生五逆罪さいしゆじやうごぎやくざいを作る共、十王を信ぜば地獄に入り罪人にかはつて苦をうけん事決定けつぢやう也と説かれたり。それ娑婆において泰時が記したる成敗せいばい式目しきもくは、日本国の亀鑑題目きかんだいもく十三人奉行の内仁知をかね、六人に文章を書事、六地蔵六観音を表す。十三人の奉行は十三仏とす。将オープンアクセス NDLJP:322軍をえん魔王につかさどり、善悪理非をさたする事閻魔えんまの帳に罪の軽重を付るを学ぶ。是今生後世利益こんじやうごせりやく方便はうべん自業得果じごふとくゝわの道理をたゞし、終には仏道に引入る方便とす。然るにわれ娑婆しやばに有つてむじつのざんにより、此地ごくに来る事、右の経久つねひさごとく各々に成りかはつて我くるしびを請け、籠中の罪人をすくはんための方便なり。いかで罪をまぬかれざらん。自今じこん以後いごにおいて十王地獄の法度はつとを定むべしと云。籠中の罪人此由を聞き、有がたし尤と同じ、夏の事なれば南の風おもてごきあなあかりをかたどり、たゝみ三畳かさね、其上に一兵衛をなほし、今日より地獄のあるじえんま十王様とぞあふぎける。其時十王ゑみをふくみ、もとより宏才利口者くわうさいりこうもの地ごくの法度を定る。第一よこはし付たり高雑談たかざふだん、然るにわれしやばの法度はつとを見しに、けんくわ口論をば理非りひ共に非におつ是非なり。地ごくの法度は理ある者をば十王があたりにゆるかしくおくべし。非有者ひあるものをば食事をとゞめ、かはやのねにおくべしと云ふ。然間地獄しづか成事前世未聞、是一兵衛が威徳ゐとくなるべし。
 
 
見しは今、仏法繁昌故、江戸寺々に説法あり。老若貴賤参詣らうにやくきせんさいけいの袖つらなりくんじふせり。愚老も神田の浄西寺にやうさいじ談義だんぎ聴聞ちようもんし、帰るさにかたはらを見ればほそき山道有り。此末に山居の寺有りと聞き、なぐさみがてら、此寺を見んと草村くさむらを分行所に禅宗ぜんしうの小鹿あり。人倫じんりんえ、あたりに古狸ふるたぬき一つ二つ見えたり。狸は昼穴にねて夜る出て人をまよはすとかや。此たぬき昼出てあるく。古歌に、人すまで鐘も音せぬ古寺に狸のみこそ鼓うちけれと、よめるも思ひ出せり。我住持じうぢに逢て山居さびしき体さつし申たりといへば、老僧聞てさびしきが我宗わがしうの本意なりと返答なり。我いはく、今江戸町繁昌故、仏法もさかんにして諸僧寺々にて檀那だんなあつ談義だんぎをのべ給ひ、爰に浄西寺じやうさいじの上人智徳世にこえ、釈迦一代の法門ほふもんを手びろく説法し給ふ。今日なかんづく禅法ぜんぼふ沙汰さたしたまひたり。夫本来面目を知らんとほつせば、まづ父母ふぼ末生已前みしやういぜんを知るべし。然るに世尊霊山せそんりやうせんに有つて、一枝のこんはらげをねんじて、大衆にしめす。迦葉かせふ独はがん微笑みせうす。これ不立文字ふりふもんじ教外別伝けうげべつでんにして、大切の法門なり。達摩だるま直指人心見姓成仏ぢきしにんじんけんしやうじやうぶつと談じ、趙州てうしうは有にあらず無にあらずといひて、心々にさとりをあらはせり。龐居士馬祖はうこじまそに問て云、万法ばんぽふと侶ざるもの是なん人ぞ。祖の云ふ、汝一口に西江水せいかうすゐ吸尽すひつくさせんを行て、則称に向ていはんと返答せり。居士こじは此水をのみえずして地ごくに落ちたり。此坊主は西江水を一口にのみ尽し、海底かいてい沙石させきをありありと見て心清涼せいりやうたり。其上四大海の大魚小魚悉くわが腹に入て、共に成仏じやうぶつせりと放言はうげんはき給ひぬと語りきれば、禅師ぜんじ聞きて、釈尊しやくそん一代の法門は一とんにして一の法たりといへども、日本においては十しうに分つて宗々しう法門ほふもんかくべつたり。しかるに、末世において一宗の教法けうぽふを修行成就する事一人も有るべからず。其宗の義理をかたはし聞き覚えて早まんきをおこし、仏法知りがほして高座かうざにあがり説法せつぽふす。故に能化のうげのさはりはまんしん也。今時の僧皆名利みようりのためにほだされて法門ほふもんをさへづり、無道心むだうしんにしてねんじゆをくりまんしんおこすにより、十七八九は必天魔てんまと成てかへつて仏法をばめつオープンアクセス NDLJP:323せんとす。我朝の柿本の紀僧正きそうじやうと聞えしは智徳れいげんの聖にて有しが、大法慢だいほふまんをおこし、日本第一の天狗あたごさんの太郎坊たらうぼう是なり。昔日不立文字教外別伝せきじつふりふもんじけうげべつでんなどといひしぜん祖師そしは、先教意をよく胸にをさめて、其上釈迦しやか智音底ちおんていの言葉をのべられたりいかで末世の僧、是をしきとくせん度に思ひあはする事有り。唐国たうこく猩々しやうと云者は、人の面にして身はましらに似たり、よく物いふ。古語に猩々よく物いへども走獣そうじうをはなれず。扨又我寺のあたりにふる狸古狐多く有て、暮れば人の形に化して夜毎に来てわれに言葉をかはすといへ共、是も獣をばのがれず。山海経さんかいきやうに、黄山に鸚鵡あうむと云鳥あり。其かたちみさごに似て、青き羽赤きくちばし人の舌のごとくにて、よく物いふと云々、万の声を聞きて其まねをなす。歌にあはれともいはゞやいはん言の葉をかへすあふむのおなじ心をとよみたり。礼記らいきにあうむよく物いへども飛鳥ひてうをはなれずといへり。日本にもくろつくみと云小鳥、諸鳥のなく声を聞きて其まねをなす。是がをかしさに籠に入て皆人飼ひ給へり。きんじうに此類多かりき。皆是似たる物也。蝙蝠かはほりと云物は鳥と虫との形に似て、其身黒くくさくして闇所あんしよを好む。或時は土穴どけつに入り、或時は雲ゐを飛行し□をなして人をあざむく。かるがゆゑに、契経に末世まつせ比丘びくにたとへて、僧に似て僧にあらざるを、へんぷくの比丘びくと名付、仏蔵経ぶつざうきやうには鳥鼠比丘てうそびくとも説かれたり。此虫百年の後、白蝙蝠しろかはほりと成つて、さかしまに木の枝、岩岸いはぎしにかゝつて人のたゞしく行くを見て、却て倒行と思ふ。然に我しうぜん沙門しやもん廿年三十年仏法修行しゆぎやうし、本来の面目めんぼくと云ものは何者ぞと尋来れども、其形目かたちめにも見えず、聞くにも聞えず、手にもとられず。仏祖ぶつそもかれをしきとくするによしなし。仏さへあらはしがたきまことにてと云句に、人にしたがふ心なりけりと紹巴ぜうは付けたり。然に他宗たしう坊主ばうず禅法ぜんぼふを唱ふる事、たゞ是くろつぐみが鶯の声を聞きて法花経ほけきやうとさへづり、とけんの声を聞きては時鳥ほとゝぎすと鳴く。されども誠の鶯時鳥には争およばんや。かんてうには蝙蝠比丘へんぷくびくあり。本朝にはくろつぐみ比丘びくあり。万事わがたもつ所の道を思ひ、他をあざむく事なかれと物がたりし給ひぬ。
 
 
見しは今、品川に五ぢうのたふ有り。里の翁語りけるは、昔鈴木道印すゞきだういんと云有徳なる町人立たり。幸順かうじゆんと云息あり。父子連歌数寄ぶしれんがずきなり。其ころ都に権大僧都ごんだいそうづ心敬と云連歌師れんがしあり。道印父子と知音なり。心敬東に下り侍し時、海づら近き宿りにて、朝霜あさしもはひさき風吹浜辺哉、東にあまた年をおくりし比、月こよひ月に忘るゝ都哉。白川のせきを見侍る時、関も関こずゑも秋の木ずゑ哉。東に侍りし次の年、初冬の比、めぐるまを思へば去年の時雨しぐれ哉。品川九本寺にて、九つのしなかはりたるはちすかなと発句有りしに、人聞きて、河にはちす珍事めづらしきことと沙汰しければ、極楽のまへにながるゝあみだ川はちすならではこと草もなしと、心敬証歌しようかを引かれたり。心敬と道印父子他にことなる知音故、品川にては毎年心敬の下向を待ちかね、京にて心敬は、秋来るをおそしと待ちていそぎ品川へ下り、あけくれ連歌せられたりと語る。我聞て道印父子七堂がらんを建立こんりふ福徳ふくとくのしるし見えたり。扨又連歌数寄といひしかど、下手へた故にやオープンアクセス NDLJP:324道印とも幸順とも名付たる発句付合、古き文に一句もなし。其ころ都に其名聞えし連歌師専順せんじゆん智薀ちをん宗祇そうぎ紹永せうえいなどあり。詩は詩人に向て吟ずといへるなれば、心敬京都に有つて右の連歌とは詠吟なく、東のはてなる品川のすゞきを懐み、年々遠国をんごくの山をこえ海を渡て、はる来ぬる旅衣たびころも、心敬の所存しよぞん計りたがしといへば、里の翁聞て旅人の不審尤也。されば心敬はすゞきなますを好み、秋風たてばすゞきつりに品川へ下り給ひぬと返答する。われ聞て其方は年にも似ぬ戯語げごをいふ人かなと笑ひければ、翁聞きていやいにしへもさることあり、張輪ちやうりんと云者、古郷の鱸のなますをくはでと願ひければ、おしはかりて、秋風に鱸のなます思ひ出て行きけん人の心地こそすれとよみたり。此古歌の心をや思ひ出でけん、品川のわらはべの落首らくしゆに、年毎に秋風たてば品川の鱸をつりに下る心敬とよみければ、此歌にはぢ、其後は心敬下り給はず。されば歌に、鱸つるさほのたわみのをゝよわみ波のたよりによせてこそひけ、と詠ぜり。鱸を名所に多くよみたり。続草庵和歌集しよくさうあんわかしふに、あさなぎにすゞきつりにやあはぢがたなみなきおきにふねもいづらん。是は草の名十よめり。鱸つる更井の浦、すゞきつる藤江浦ふぢえのうら、きの国にも読めり。玉葉ぎよくえふに、鱸つる干瀉ひかたの浦の海士あまの袖、鱸とる海士あま小舟をぶねのいさり火とも詠ぜり。昔堀川江城において千句あり。連衆は心敬、宗祇、元祐、道印、幸順、印幸なり。開題かいだいの発句に、幸順、春も来て帰らん雪の朝哉とせられたり。扨又幸順はいかい数寄すきにや有りつらん、ほこのうらに書残したる付合あり。桜井元祐は生国しやうこく下総船橋しもふさふなばしの人連歌師なり。都へ上り連歌に長ずるが故、参内さんだいせられたるとかや。下向げかうに品川幸順宿へ立寄り給ひき。此人のぼりにはまづしき体なりしが、いしやういちじるかりければ、幸順出逢興じて、あやしや御身誰にかりきぬといへば、此小袖人のかたよりくれはとりと、やがて元祐付けたり。然者しからば幸順七堂がらんを立てられしが、悉く風にそんじ、たふ一つばかりは如何なる上手じやうずの工みが立てけん、風にも損ぜず。此塔は文安三丙寅年成就せしとなり。つき鐘にも、年号切付ねんがうきりつけ見えたりしが、当年風に損じたりと委しく語る。愚老聞きて、有がたや道印塔を立て置き、自他の利益をなせり。寺塔に向へばおのづから罪業除滅ざいごふぢよめつすと経に説きたり。昔寺の始る事漢の明帝の時、仏法漢土に渡る。此時寺を立る。寺は仏のべう也。白馬寺はくばじと号し仏法をあがめたまふ。我朝に寺塔はじまる事欽明天皇の御宇ぎよう、大和久米寺おなじく塔をも立てられし。是寺塔じたふの始なり。大日経に、塔の深秘至極しんぴしごくありと云々。然に慶長十九年甲寅年八月二十八日未刻ひつじのこく大風吹きて、此塔百六十九年をさかんにして滅する時節にあへりといへば、品川の人云ひけるは、此塔品川の名物めいぶつところのかざりなるを悪風そんさすものかなと風を恨む。我聞きてそれはひが事也。古歌に、いづくにて風をも世をもいとはまし吉野のおくも花は散りけりと詠ぜり。かるが故に咲けばちることわりしらぬ花もがなとせられたる専順の心を、品川の里人はづべし。たゞ時刻到来じこくたうらいは恨みて益なしといへば、海道とほる老人聞きて、いや品川の里人さとびと風を恨るこそあはれなれ。王元之わうげんしが詩に、りやうちうの桃杏たうきやうまがきにえいじてなゝめなり。さうでんす商州刺史しやうしうしゝの家、何事ぞ春風ゆるしえざる。鶯に和して吹たる数枝の花と作りたり。此詩誠にあはれなり。二本の桃杏籬たうきやうまがきにうつろひし、やオープンアクセス NDLJP:325うじう刺史しゝが家のかざりなるを、何故し春風は情なく為の飛来る花の枝を吹き折るぞとなげきしも、品川の里人風をうらむにあひおなじ。やさしく有りけりといへり。
 
 
聞きしは昔、園碁ゐごの道は尭舜げうしゆんの時分より有りとかや。我朝には吉備きび大臣遣唐使けんたうしの比まであらずとしられたり。されば碁の上手じやうずは人の石の善悪を分別して、わが利を得給へり。然ば基を能くうつ人はよろづ損益そんえきをしり、物毎に案ふかゝるべしと思ふ処に、下手へたにかしこき人有り。上手じやうずに愚人有り。むかしわれ知人なりし真野仙楽斎は、関東にて碁の上手といはれしが、よの事はかたくなにゆくりなき人にて候ひし。又伊豆国下田と云在所に、山田と云者あり。此者万にたらざりけるゆゑ、皆人ばか山田と名をよべば、なにぞとこたへて腹立る事をしらず。され共基をばよくうちたり。先年北条氏直公ほうでうゝぢなほこう存世の時分、其ばか山田所用有りてや、折々小田原へ来り、舟方村ふなかたむらに宿有りしに、其比小田原に武与左衛門、須衛木、斎藤などといひて基よく打者共あり。ばか山田にたがひせんの碁、いづれも真野まのには三つ四つの碁也。これらの人やれ下田のいくぢなしのばか山田の、舟かた村へ来り居ると云ぞ、急ぎつれてこよ、くまじきと云とも頭をもたげさすな、首に縄を付て引てこよとてつれよせ、集て打けれども、終に碁には打負けずと語れば、人聞きて孔子のたまはく、狂にして直ならず、伺にしてげんならず、悾々として信ならず、吾是を知らずと云々。此三つは悪くとも又とりえ有る所あらば、せめての事なり。若さもなくば何のやうにもたゝぬ捨者すてもの、孔子も如何共すべきやうなしと云々。此山田は、碁を打一道のとりえあり。笑ふべからずといへり。彼馬鹿かのばか山田今江戸へ来り、石町の六郎右衛門が処に有りて入道し、仙栄せんえいと名付けたり。今の上手には二つの碁なり。此者碁ずきにてあひてをきらはず夜昼わかで打ちけり。或時仙栄せんえい碁打所へ、兄の六郎左衛門病死、唯今成るべし、急来れとつぐる。仙栄聞きて、此碁打はたさずして兄の死めにいかであはんやといふ間に、死たりとわらへば、人聞きて物にすき勝負をあらそふには賢愚けんぐによらず、むかしもさる事あり。嗣宗と云人は、七賢の内の随一ずゐいち、もとはばくえきをこのみいぬるをも忘れ食をもわすれ、終夜脂燭しゝよくを尽し、ばくえきす。此人父死すとつげ来る。相手さてはやめんといふ。嗣宗大事の勝負なり。たゞはたさんとて親の死目しにめをしらず。かゝる徒なる人も気を転じかへ、後は賢人と名をよばれ、金句を云おき、人の為に成り給ひぬ。仙栄も後は如何なる者になり、如何様なる金言をいひのこさんもしらずといふ。或時仙栄鼻紙を十帖慈悲じひなる人より得たりとて持てあるき人に見せ、鼻紙かけに碁を打つべしといふ。我も人も是がをかしさによび入れ、人集つて四つ五つせいもくおき、鼻紙がけにうたんとて、手を見、石をつきよせ集つて助言じよごんをいひ、ともかくもして打勝つて、ばか仙栄を笑はんとせしかども、碁にはかしこくして却て紙をとられ、こなたがばかに成りし事の無念さよといへば、仙栄聞きて、いや方々は勝つべきと思ふ故にまくる。我はまけじと用心する故に勝つ。おのの宝をたくはへ給ふも、得失の心持は、わがつに定めておなじ事成るべし。得をばおこオープンアクセス NDLJP:326る事なくしてわざはひの来らん事をつゝしむ。失をよくつゝしめば必得来るべしといふ。せいは道によて賢とかや。橘中仙きつちうせんと云は、昔橘の木をわりて見れば、中に仙人有り。碁を打つて居たり。其仙人は商山しやうざんの四かうにてぞありけるとなん。花橘のうちかをるかげと云前句に、仙人や碁に生死を忘るらんと宗砌付けられたり。碁には仙人も愚人も他念を忘るゝ事変らずと知られたり。されども或文に、囲碁ゐごしゆごろく好みて明し暮す人は、四十五ぎやくにも勝れる悪事と書きたれば、此者の罪業鉄札ざいごふてつさつにも付所やなからん。そのうへ仙栄鼻紙がけを好み欲心に著する事、ばくえきは仏ふかくいましめ給へり。地獄のすみかをまねく者也といへば、仙栄聞きてわれ明暮碁にすく。是観念也これくわんねんなり。はながみを見せねば、碁相手なし。石の上にも世をぞいとへると云前句に、乱碁らんごに我生死のあるを見てと、権大僧都こんだいそうづ心敬付る。然者人の石死する時、欲心に亡ぶる事をあはれみかなしむ。我石死する時みやうじう当来たうらいを悦び、無常を観ずるといふ。愚老此是非ぜひ分明ぶんみやうならず。或時禅師ぜんじに此義を尋ねければ、師答て仙栄が観念殊勝しゆしようなり。昔達摩だるま天竺てんぢくにて修行の時、無智の僧二人有り。彼僧碁をうつより外はなし。見る人是をにくみ聞者かれをそしる。達摩だるま此事をしづかにうかゞひ給ふ時、二人の僧答て云、黒死くろしする時は黒ぼんなうのうする事を悦び、白死しろしする時はびやく煩悩ほんなうのうする事を悲しみて、無常ぼだいを観ずる也と申しけるが、みやうじうの時紫雲しうんたな引き、聖衆来迎しやうしゆらいかう有て往生わいじやうのそくわいをとげたり。観念くわんねんをもて往生する事うたがひなし。仙栄が返答有がたし。昔しんの王質わうしつといふ者薪をきりに山に入りけるに、仙人碁をかこみて居たる所に行きぬ。しばらく斧をひかへて是をみるに、仙人なつめのごとくなる物を王質にあたへぬ。是をくひけり。さて日暮れ薪きらんと思ひ、斧をもたげければ、えちたゞれぬ。あやしみて家に帰りて見れば面影もなくあれはてぬ。知人一人もなし。不思議に思ひて人にとへば、われ七世のむかし王質といふ者有りて、山に入りて帰らずと語りけり。七世の孫にてぞ有りけるとなん。古今集に、故郷はみしこともあらず斧のえの朽ちし所ぞ恋しかりけるとよめり。碁に他念をわするゝ事、古今ことならず。
 
 
見しは今、江戸町に大谷隼人おほたにはいとと云者有り。此人世に珍らしき事をたくみ出して、人にほめられん事をのみいみじく思へり。或時うすきねを川辺へ持出て水車を作り米うつ事をせしに、諸人米を持寄て白米にうたせつるが、えきなきにや重て人是をまなばず。又或時はせんたう風呂をたて、衣類をばかきに縄を付、天井へ引上げておき、こふろの内に火をあかし、湯をも内にてつかふ事をせしかども、是をも人まなばず。扨又すゐふろと云物を我たくみ出したるといひて人に見する。是には徳有りとて皆人毎にまなび、今家々に見えたり。是ばかりは隼人が工み奇特きとくなり。此すゐふろ上がたには有るべからず。いで是をこしらへ船につみ、関西へ持行き、京堺辺きやうさかひへんにて売るべしと、俄に用意す。老人見て、いやすゐ風呂と云物はむかしより上方に有事なれども東国になし。是を隼人みるか聞くかして、江戸にてこしらへはじめたり。後漢書かんじよ朱浮しゆふが伝にれうとうにゐの子あり。子をうめり。白頭ことなりとして是をオープンアクセス NDLJP:327けんず。行きて河東にいたつてたんしを見れば皆白し。恥ぢていだいて帰る。かるがゆゑにみづからよしとほこるを遼東れうとうゐのこといへり。其方かみ方へ持行き、京堺家毎に有るすゐ風呂見るならば、恥ぢて江戸へ持帰るべし。万珍らしき事をば、当世やうとてかしこき人の今工み出せるやうに思へり。それも皆智恵ちゑ有る昔人のたくみなれど、はじめある物はかならずをはり有る習ひ、或時はとなへうしなひ、或時は其跡中絶せしを、又あらためてまなべり。一とくをあいして余の失を忘れ、一失をきらひて余の得を忘るゝは人の常の心なり。故に智者は千度おもんぱかつてかならず一失あり、愚者は千度おもんぱかつてかならず一得有り。古人はあらためてえきなき事をば、あらためぬをよしとすとこそ申されし。此心論語にも見えたり。万珍敷事をもとめ異様を好むは浅才の人かならず有る事なり。ある書にわが悪を云ふ者はわが師なり。わがよきをいふ者はわが賊なりと記せり。子路は人の告るに過をもつてするときんば悦ぶと申されし。わづかの徳をほむるにより、まんしんをおこす。ほむる下にかならずそしり有るべし。其上末世まつせの人下智下劣にして奇特きとくなる工みなりがたし。物毎にけうあらせんとする事はあいなきものなり。興は自然に出来るが面白し。たゞつひえもなくて物がらのよきが能きなり。扨又今珍らしき事様々あれども益なしとて、やがて捨つる、それこそ誠にかしこからぬ当世人のたくみ成るべし。
 
 
見しは昔、江戸町えどまちあとは今大名町に、今の江戸町は十二年以前まで大海原おほうなばらなりしを、当君の御威勢ごゐせいにて南海をうめ陸地くがぢとなし町を立て給ふ。然るに町ゆたかにさかゆるといへども、井の水へ塩さし入り、万民是をなげく。君聞召し、民をあはれみ給ひ、神田明神かんだみやうじん山岸やまぎしの水を北東の町へながし、山王山本さんわうやまもとの流を西南の町へながし、此二水を江戸町へあまねくあたへ給ふ。此水をあぢはふるに、たゞ、是薬これくすりのいづみなれや、五具足ぐそくせり。色にそみてよし、身にふれてよし、飯をかしいでよし、酒茶によし。それ世間せけんの水は必大海に入る。一切の善は必法性ほつしやうに帰すと云々。此水大海へいらずして悉く人中に流入る。元来此水は明神山王みやうじんさんわう御方便ごほうべんにて、氏人をあはれみわき出し給ふといへども、人是をしらず。其上此流の中間に悪水あくすゐ有りて、流をけがすにより、徒に水ちぬ。然るに今相がたき君の御めぐみにより、中間の濁水だくすゐをのぞき去つて、清水せいすゐを万人にあたへ給ふ。古語に、せんきうの水清けれども山がらす流をけがすと云々。せんきうより流出づる河は、仙人集つて仙薬せんやくをあらひすゝぐ故に、河流をむ者迄長命なり。所に其川の中間にかけ山の鳥、其流をあぶる時水却つて毒とへんずといへり。新続古今しんしよくこきんに、君をこそ神もあはれと石清水いはしみづ外より出でぬ流とおもへばと詠ぜり。誠に流を汲んで水上を知るといへる、古人の言葉思ひあたれり。其上日本国の人あまねく此水をあぢはへり。神と君慈悲じひ平等ひゞやうどうの御心より流れ出づる清水しみづ、誰かかつがう信敬しんきやうせざらん。伝へ聞く、いにしへ後漢ごかん武師将軍ぶしゝやうぐんは城中に水尽き、かつにせめられける時、刀を岩石にさしゝかば、たちまち泉わき出で、人民命をつぎたりしに、江戸の流ことならずや。扨又昔、薬の泉出来たるためし有り。雄略天皇ゆうりやくてんわう御宇ぎように、美濃国本巣もとすオープンアクセス NDLJP:328こほりにふしぎなる泉わき出づる。老いたる者此水をのみぬれば。老を忘れ、わかきにかへる心いさぎよく、夜のね覚もなく老をやしなふゆゑ、養老やうらうの水と名付けたり。いはんやわかき身に薬と成つて命長くさかえ、万民楽にあへり。今天下太平目出度御時代ごじだいなれば、仙家せんかの水の流を汲み、皆人一ぜつの上に万徳まんとく薬味やくみをなめ、寿命長遠じゆみやうちやうゑんならん事を悦びあへり。
 
 
見しは今、世間の知人あまた有りといふ共、したしかるべき隣近所となりきんじよの人なり。不慮ふりよなるいひごと悪事出来の時は、奉行所ぶぎやうしよへ召され、左右のとなりの者は知つたるかと御尋ね有つて、隣の者のいひ口を正路しやうろとなし給ふ。下郎のたとへに、遠くの親子より近くの他人といへるはまこと実義じつぎなり。めをといさかひも女はかならず隣をたよりとする習ひ有り。然らば江戸町わりは十一年已前いぜんの事なり。其比売買に金一両二両の屋敷は、今百両二百両五百両のあたひする、町さか行くまゝ、皆人屋敷を高くつきあげ家をあたらしく作りなほす。昔の境ぐひを尋ぬるに、ほそきくひを立置きつれば、皆くさりて其印一つもなし。然る間寸地分地すんちぶんちの境をあらそひ、人毎に云事して近き隣も心遠くへだたりぬ。されば通町小西三右衛門、宮本市兵衛と云人、屋敷境やしきさかひをあらそふ処に、町衆出合まちしういであひ両屋敷の本間ほんけんを打つて見れば、三右衛門屋敷一寸たらず。市兵衛屋敷柱の内に一寸のあまりあり。町衆云ひけるは、過分くわぶんの出入かと思ひつるに、たゞ一寸のちがひなり。市兵衛前々よりあやまり来り家を作る事なれば、三右衛門堪忍かんにんし給へ。わづかの事にいさかひ、末代まつだい隣と中悪くせんは愚なるべしと云ふ。三右衛門聞きて町衆の御異見ごいけんさる事なれども、われ此面五間このおもてごけんうらへ町なみの屋敷を各々御存ことの如く、当年たうねん過分くわぶんの金にて買ひとり今新屋敷しんやきしを作りなほす。此屋敷は孫、ひこ、やしはごの末々までもつたはる五間の屋敷に、一寸のきずつけん事思ひもよらず。かしこき人はあたふる物をさへことによりてとらず。むらうたうと云は、糸の一すぢ針一本も主ある物をば取るべからずと仏もいましめ給ひたり。いはんや此一寸の地は金にて買ひとりたる人の地をほしがるは非道也ひだうなり。曲れる人の隣にすぐなるそれがしむつびがたし。しきりに此一寸の地をわれに堪忍かんにんせよとは、各は欲をはなれたる人々、誠の生仏いきぼとけにてかくのたまふか、此三界中がいぢうに欲をはなれたる人間一人も有るべからず。其上天よりあたふる宝をとらざれば、却つてわざはひをうくといへる本文ありと云て、一寸の地を取りかへしたり。皆人沙汰さたしけるは、元より一寸は三右衛門地也といへども、わづかの寸地をあらそひ取りかへしたるは人欲ふかきによつて也。運命論うんめいろんに云、張良ちやうりやう黄石くわうせきの符をうけて三略の説をしゆしてもつてぐんゆうにあそぶ。其言や水をもつて石に投ぐるがごとし。是を受ことなしと云々。誠に三右衛門に異見、水を石になげ入るがごとし。説文に度量衡どりやうかう粟をもつて是を生ず。十粟一分となし、十分を一寸となし、十つ寸を一尺とすと云々。此寸地を積りぬれば、粟百粒のあらそひわづかの事なりといひてあさらひ笑ふ。老人聞きて申されけるは、いや一寸のわが地を三右衛門取返したること本意に叶ひたれ。古人の言葉に、悪人のほろぶるをいたみおもオープンアクセス NDLJP:329ふは、鼠の死ぬるをかなしむが如しといへり。然るときんば、道理なくして人の物とるをよしと思ふは、鼠の物くらふをあいするがごとし、是本意にあらず。道理とひが事をならべんに、誰か道理につかざらん。その上よき者にはよみんぜられ、よからざる者にはにくみんぜらる。是聖人のをしへ也。扨又天理に私の心なし。一がう人欲にんよく私なしといひて、無理に人の物をほしがるはひが事なり。夫聖人の道は見るべきをば見てみまじき事をば見ず。聞くべき事をば聞きて聞くまじき事をば聞かず。いふべき事をばいひていふまじき事をばいはず。とるまじき事をばとらず、取るべきことをばとる。一つも道理にたがふ事なし。或人道を行くに金を見付けながら、是をとらず。供人ともびと見て、何とて是をば取給はぬぞといへば、天しり地しり汝しりわれしる。主にしられぬ物をばいかで取るべきとて終に取らず。四知しちをはづるとは是をいふ。人はたゞ心のうちにある五じやうじやうをよくをさめて、たゞしくせんにはしかじ。先哲せんてつもあやまつてあらためざるをとがといひ、あやまつてよくあらたむるを善の大なるといへり。然る間、君子はふたゝびあやまちせずとなり。そのうへ綸言りんげん再びしがたしといへども、あやまりては則あらたむるにはゞかる事なしとあり。ことわるべきにあたつてことわらざれば、かへつて乱をまねく、屋敷の境には、ふときくひを打おくべき事なりといへり。
 
 
見しは昔、江戸町にて金に判する人、四でう佐野さの松田まつだとて此等三人也。砂金さきんを吹きまろめ、一両、一分、一朱、朱中などと、目をも判をも紙に書付取渡する事、天正十八とらの年より未迄六年用ひ来る。此判このはん自由じゆうにあらずとて、後藤庄三郎とうしやうざぶらうと云ふ人、京よりくだり、おなじひつじの年より金のくらゐをさだめ、一両判りやうばんを作り出し、金の上に打判うちはん有つて是を用ふる。又近年は一分判ぶはん出来て、世上にあまねく取あつかへり。されば愚老若き比は、一両二両道具のはづし金を見ても、まれ事のやうに思ひ、五枚三枚持ちたる人をば、世にもなき長者有徳者うとくしやなどといひしが、今はいかやうなる民百姓たみひやくしやうにいたる迄も金を五両十両持ち、扨又ぶげんしやといはるゝ町人連ちやうにんれんは五百両六百両もてり。此金家康公御時代より諸国に金山出来たり。又万民金持事は、秀忠公ひでたゞこうの御時より取あつかへり。そのかみ金は奥州より出来はじまりぬ。然るに出羽では陸奥むつ押領使あふりやうし鎮守府将軍ちんじゆふしやうぐん藤原朝臣基衡ふぢはらのあそんもとひらは、世にこえたる福徳の人なり。奥州平泉ひらいづみに広大なる堂塔だうたふ建立こんりふし、たくはへ置きたる珍宝ちんぽうを残さず、みな仏師運慶ぶつしうんけいに取らする。わし、あだちぎぬ、狭布けふのほそぬの、信夫しのぶもぢずり、白布しらぬの、ぬかべの駿馬しゆんめ、七けんまなか有る水豹あざらしの皮六十枚、すゞしのきぬ一品ばかりを舟六艘につみて渡す。其注文ちうもん第一に砂金さきん百両と記せり。其頃迄は金まれなりと知られたり。扨又頼朝公天下を治め給ふによつて、基衡もとひら子息しそく秀衡入道ひでひらひふだう出羽奥州ではむつ年貢ねんぐと号し、金四百五十両鎌倉殿へ奉る。頼朝公御覧有て希有けうに思召し喜悦なゝめならず。此内を急ぎ御門みかどしんずべき由おほせ也。建久元年十一月十三日頼朝公上洛しやうらくのみぎり、三井寺みゐでら平家のために一宇も残らず灰燼くわいじんとなる。青龍院せいりようゐんは八幡殿のことに御きゝやうし給ひ、御髪おんはつうづまるゝと云々。是によつて此寺の修理料しゆりれうとして十二月八日オープンアクセス NDLJP:330頼朝公御剣ぎよけんこし砂金さきん十両ほどこさしめ給ふ事を記せり、ていれば建久四年みづのとの丑十月十一日、鎌倉中の法度はつとを定めつる文に、○炭一駄代銭百文○薪一駄卅束、但し三ばづけ代百文○かやぎ一駄八束代五十文○わら一駄八束代五十文〇ぬか一駄代五十文、くだんの雑物ざふもつ近年かうぢきにして法に過ぎたり、売人に下知すべき者也と云々。是は天正十九当年迄三百六十二年以前の事也。今の売買にたくらぶれば、銭のあたひは少もかはらず。昔金一両の代に米銭のさた古き文をも見ず。天正年中のころ金一両の代に米は四石、永楽えいらくは一貫、但しびた四貫にあたる。三十余年以前の事也。其比金一両見るは、今五百両千両見るよりもまれなり。然れば、今は国治り民安穏あんをんの御時代、皆人金沢山に取あつかふといへども、あたひは古今同じ事にてめでたき宝なり。夫れこがねの正体しやうたいは、打つても砕きても、火に入り水にうもれ、まんごふをふるとても色性いろしやうかはらず。かるが故に、仏をこんがうふえの正体しやうたいとはいへり。
 
 
見しは今、愚老箱根地を通りけるが、逆縁ぎやくえんながら、泰庶山金剛王院たいしよざんこんがうわうゐん参詣さんけいせしに、聞きしにこえてたつとく有りがたき霊地れいち也。うしろには高山峨峨がゞとつらなり、真如しんによ月影つきかげをやどす。前には生死しやうじの海まんまんとして、波ぼんなうのあかをすゝぐかと覚えたり。本尊ほんぞん文珠師もんじゆし利𦬇りぼさつにておはします。衆生しゆじやうをけどし給へば、うゐの都と名付、関東第一の霊山れいざんなり。文応元年八月廿八日鎌倉の将軍箱根において御ほうへいし給ふ。山の衆徒しゆとら湖の上に舟をうかべ、延年すゝいはつ廻雪袖をひるがへし、歌舞かぶ伎楽ぎがくを尽す。御遊覧ごいうらんの事古記こきに見えたるも思ひ出侍りぬ。実朝公さねともこうの歌に、玉くしげ箱根の海にけえ〔本ノマヽ〕ありや二国かけて中にたゆたふと詠ぜり。此歌の心をうかゞふ、海より東は相模、西は伊豆の国なるべし。然るに、名所集には、此水海を相模の内に入れられたり、此説覚束おぼつかなし。扨又宋朝のけいれんが詩に、ぞうしようぜつにうする富士がん根にわだかまつて、直に三州の間におすと作れり。此両山二国三国にひろごりならびて高き山也といへば、里の翁聞きて、富士は三国のうちにありといへども、歌には駿河の富士とよみ、箱根の水海も二国の中にあれども、相模の国に詠ずる事、小を捨て大に付くが故の名也といへり。又続後撰しよくごせんに、箱根路を我越えくれば伊豆の海やおきの小島に波のよるみゆとよめり。此歌の心相違さうゐせり。伊豆の海箱根路よりは見えがたし。沖小島おきのこじまと詠みけれども、伊豆の海北の海辺に島は一つもなし。足柄箱根路あしがらはこねぢをこえ山中を下り、三島を行き過ぎ、駿河の国浮島うきしまはらにて伊豆の海は見ゆる。此歌人は箱根路をも通らずして聞き伝へてよみけるか、又は歌の五文字を書きちがへたるにや。伊豆の国南の海には大島も小島もありといへば、かたへなる人聞きて、愚かなる人の歌物語うたものがたりこそほいなけれ。此歌は鎌倉右大臣かまくらのうだいじんよみ給ふ。玉葉集にものせられたる名歌めいか短才たんさいにしてある深き心をはかりしらんや。月影に海の千里の詠してと、古歌によめるは千里の外迄も見ゆる由、是和歌の風流ふうりうなり。其上、沖小島おきのこじま浮島うきしま足柄あしがら三島みしま大島おほしまは国替へておなじ名の名所あれば、歌も又しかなり。千載集せんざいしふに、さつまがたおきの小島にわれありとおやにはつげよ八重の潮風しほかぜとよめるは薩州さつしう隠岐おきの小島の浜びさしと詠ずるオープンアクセス NDLJP:331は隠州、さて又丹後豊前にもよみたり。新勅撰しんちよくせんに、足柄あしがらの関路越え行くしのゝめに一村かすむ浮島が原と詠ぜり。足柄は相模、浮島は駿河なり。万葉にとぶさたてあしがら山に舟木きる木にきりかけてあたら舟木を。是は筑前観音寺ちくぜんくわんおんじ沙弥満誓さみまんせいよめり。続千載集旅の歌に、陸奥みちのくはよを浮島も有りといふせきこゆるぎのいそがざらなんと、小町詠ぜり。浮島は奥州、こゆるぎのいそは相模さがみなり。あはれなる三島の神の宮柱みやばしらたゞ爰にしもめぐり来にけり。安嘉門院あんかもんゐん伊豆の三島を詠めり。新古今しんこきんに、三島江や霜もまだひぬの葉につのぐむほどの春風ぞふく。是は摂津国なり。続後撰集しよくごせんしふに、三島の浦のうつせ貝とよみし国、いまだかんがへずと歌集にも記せり。新拾遺しんしふゐに、三島野やかた尾の鷹とよめるは越中えつちうなり。雪消えて大島しろき朝なぎにしのの葉うかぶ沖の釣舟つりふねと詠ぜしは伊豆、新勅撰に、都にもいそぐかひなく大島のなくのかげぢは塩みちにけり。是は備前、新千載に、大島岑に家居せましをとよみしは大和、つくしぢやかたの大島と詠ぜしは周防、かくのごとく国かはつておなじ名所多ければ、歌も分明しがたし。すべて古歌をそしりあざむく事、北野の神慮しんりよもおそろし、ゆめなんずる事なかれといへり。