慶長見聞集/巻之一
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【 NDLJP:247】慶長見聞集巻之一 見しは今、三浦 の山里に年よりたる知る人あり。当年の春江戸見物とて来りぬ。愚老に逢ひて語りけるは、扨も〳〵目出度御時代かな、我如 きの土民迄も安楽にさかえ、美々敷 こと共を見聞く事の有難さよ、今が弥勒 の世なるべしといふ。実々 土民の云ひ出せる詞なれ共、全く私言にあるべからず。今の世の人間は、三界無庵火宅 を去てたのしびを極むる国に生 をなせり。仏の世界にあらずんば、などか我も人もかく有難き楽にあふべきぞや、盲亀 の浮木優曇華 なるべし。
見しは今、養心斎 といひて年のかぎりしらぬ老人、当年江戸へ来りたりしが、三百年以来の時代を見たりといひてくはしく物語なせり。康安二年二月、都に悪星 出現 して天地変異 せし事共多かりし。近江の水海 十丈程干 たりけるに、様々の不思議あり。先 白髭明神 の前なる沖に、まはり十ひろ計なる瑠璃 の柱立てならべ、五丁ばかりのそり橋水の上に浮びたり。水底すみわたりて、竹生島よりみの浦の【 NDLJP:248】間に龍宮 有て、金玉のうてな七宝荘厳 あきらかにあらはれ、龍神 の往来の為体 、手に鏡を取て見るがごとく、心言葉 も及ばれず。諸人見物せり、我も能見たりと委 しく語る。某聞て、其年号を考るに、慶長十九当年迄は二百五十三年に成りぬ。是はふしぎ也。御身何とて長命成哉と問へば、老人答て、我常に心安んずる、是養生 、白居易 が詩にたゞよく心閑則 ば、身も涼しといへり。夫人間の寿命 は、天地人の三六を合て、百八十歳のよはひをたもつ事、是定れり。然るに身の行ひ道にたがひて後、医術を尽すといへども、日暮 れて道をいそぐに異ならず。すべて養生の道といふは、少年より老年に至る迄、おこたることなきを以て聖人の道とせり。故に養生は損せざるを以て延年 の術とす。其上身をいとなむ事、第一食物、第二きる物、第三居所也。此の三つをつゝしめり。四百四種の病は、宿食 を根本とし、三途 八難 のくるしびは、女人 を根本とすと、南山大師の遺教 也。富貴にして苦あり、苦は心の危憂 にあり、貧賤にして楽みあり、楽は身の自由にありと、楽天がいひしも、誠に妙言 也。心の安き程のたのしみ、たぐへてなし、たぐへてなし。彭祖 がいさめに、服薬千朝 より一夜の独宿にはしかじと云云。人間は衣、食、居、医の四つをもちひ、精けを深くつゝしむに至ては、齢三百年いくべきと、養生論 に委しく見えたり。上古の人は無為無事にして、天地陰陽の道に叶ひ、身をたもち天命を尽し給へり。文選 に身をおくに至ては理を失ふ、是を微にうしなふ、微を積みて損をなし、損を積みて衰をなす、衰よりはくを得、白より老を得、老より終を得、悶 として端 なきが如しといへり。身の養生に至ては其理を失ふ事わづかに少しきなる所より始て、其始終を知ることなき故に、身おとろふる。すくやかなる時くすさゝれば病時悔る也。世の人のふるまひ、平生は油断 有つて、已 に存命不定 となり、俄に良薬を服すといへども、治る事かたし。渇 に臨んで、井をほる事たゞに力を費す。あへて雪髪銀糸 をまつ事なかれと、古人もいへり。かくよき道ををしふるといへども、我身に保つはまれ也。此翁若きより今に至る迄、養生怠らず。故に二百余歳を保ち来ぬ。何事も前方より用心なすべき事也と申されし。
見しは今、江戸吉祥寺 の境地在家 離れたる古跡、此住地洞谷禅師 と申て、法令世に超え、釈迦達摩 の変化 かと沙汰せらるゝ。有日 愚老此方へ参詣せしに、人倫 絶 たる閑居 物さびたる異地、山高くして上求菩提 をあらはし、谷ふかきよそほひは、下地衆生 を表せり。四神相応 の地をしめし、後に浅間山日光山そびえ、東に筑波山西に富士山、箱根山、軒端 につらなり、和光 の影もくもりなく、弘法を守護し給ひ、月 、真如 の光をかゝげ、前には生死 の海まん〳〵として、波煩悩 のあかをすゝげば、むしの罪障 も消滅 すと覚えたり。誠に有難き霊山 、谷めぐり岩松そばだつて、風、常楽 の声をなし、不変の色をあらはすあたりに、ううる草木までも心あり顔也。然る処に、門前の傍に、草木のたぐひと見えて、からき物どもあつまりこぞり居て、いしゆ争ひをなす。愚老是を見て、誠に勧学院 の雀は蒙求 をさへ【 NDLJP:249】づるとかや。草木経 をとくといへるも是なるべし。大論には、禽獣魚虫、草木問答多く見えたり。末世にもかゝる奇特有と思ひ、ひそかに忍び聞居しに、先胡椒 出て申けるは、そも何某と申は事もおろかや、神農 の御代に、大唐四百余州にてからき物を集めらるゝ、我にまさるものなし。古語に胡椒の木よく多子を生ず。故に皇后の宮に慶して是を植ゑ、椒房椒 宝共名付給ひぬ。扨又皇后の宮に椒を以て壁にぬる。温暖 にして悪気をさくると云々。其上人間の諸病をおぎなふ良薬とて、日本国へ渡さるる、からき事にも位にも誰か及ばん、恐らくとひたひにしわを打よせて、さも有げなる風情也。山椒 はゑみ顔にて、異国を見ねばそは知らず、本朝においてをや、我等と申は、関白殿近衛殿をはじめとし、公家武家の面々達、御賞翫 あればこそ、りんこうじ、じやうこうじ、くはんせんなんどといふ爵を給はるなり。よきへうたんなどに入れ、よるひる御腰をはなれず御自愛浅からず。其上くらまの木の芽漬 と古記にほめられたるは、山椒の木の皮迄もはぎ取て煮 しめ味ひ給ひぬ。是も山椒の威光にあらずやと、目を見出してゐたりける。蓼 申けるやうは、某出生をたづぬるに、釈尊 十大御弟子の中に、智恵 第一とほめられし文珠 の霊草 なればとて、りこん草と名付給ふ。かるが故に、末に至り弘法修行 のちしや上人は、我等りこんにあやからんと、夏九旬 の其間、からき難行 し給ひて、けたでといひて専用也と、はをならしてぞ立にける。はじかみいふ様、われは是忝 も弥勒 の化草衆生 いかでか信敬せざらん。それ正月七日をば、人日 といひて人間の始れる日也。此日唐土、天笠、我朝内裏において七種をあつめざふすゐを煮て其かざりにはじかみを一へぎ置きて、万歳を祝ひ給ふ故に、人日七種 のさいがう中において、一箇のしやう姜 をこなかきすといへり。生姜 つひにらつをあらためずといひて、根本知の位を捨てず。万刧 をふるとても自性かはらぬかんきやう也と、こぶしを握りて居たりける。からしは下座よりころび出て、いかに面々聞召せ、我等と申は寸尺にたらずさつふんにもはづれ、不肖の身なれば、系図位 も候はず、たとへを以て申す也。それ天下の宝となし給ふこがねは、黄なる色を持来る故、黄金と名付、白き色をもつゆゑ銀 といふ。故に名は題号 にあらはるゝと古人もいへり。扨又五味をかんがふるに、あまき故に甘草 と名付、苦き故に苦参 、すき故に酸棗仁 、しほはゆき故塩硝 、其上辛子は無量寿仏 の霊草 、西をつかさどる。からき中にもすぐれければからしといふはことわりならずやと、せいにも似せぬこうざいは、ふるなの弁もかくやらん。然る処に米出て申けるは、我此場へ出べき物にあらねども、各のあらそひを教化 の為に参じたり。それ非情 草木は無相真如 の体にして、一塵法界 の心地 の上に、雨露雪霜 のかたちをあらはす。されども迷ふが故、一切衆生 にあぢはひあり。仏には味ひなし。草木に味ひ有といへども、米には味ひなし。それいかにとなれば、古仏砂利 変じて已に米と成と説かれたり。かるが故に、人間は米を𦬇 といふ。諸穀の中に米を以て第一とす。抑米を作り始 めし事、天笠にゆうのうと云し人作る。又毘沙門 作り始給ふ。田の神は本地毘沙門 也。多門天王 の城は、ベイシラマナ城とて、白米のふる都也。米を𦬇 といふ事、種の時文珠𦬇 、苗の時は地蔵𦬇 、【 NDLJP:250】稲の時は虚空蔵𦬇 、穂の時は普賢𦬇 、飯の時は観世音𦬇 、一体分身 、皆毘沙門天 にてまします。飯は三宝 とて、過去、今世、未来三世の諸仏也。然るに五味と名付は、娑婆世界 の化名 なり。根本に至りては一味一法也。万法一位に帰す。一位は無味々々は米に帰す。すべて口すさびに、五味と云言の葉草もさもあれや、空のよねには味ひもなしとよみければ、かれらがまんやはらげて、白露はおのが姿を其儘に紅葉におけば紅 の玉と詠ずる古歌の心かやと深く合点して、一処にころびあひてから〳〵と笑ふ。此 声吉祥寺にひゞく。門前の沙弥 是を聞き、何者ぞや、門前にて釈迦達摩の文句を引出し、法令を沙汰するも所にこそよるべけれ。忝くも吉祥寺 大禅 智識ましますあたりにて、得道 がましき言句 ふぜい、見ても聞きてもくさ〳〵して、鼻持せられぬことぞとよ。万法もと閑也。みづからいそがはし。たゞ平等の一理にかなへるあり。其上かれをば三世仏もふしぎ、歴代の祖も不可得 、況や非情 草木のたぐひ推参はいはすまじ、ひとすりに誠に赤がしの大きなるすりこぎを取りそへ、からきあまきをわれいまだ知らず、皆すり合てあぢはふべしと。腕まくりして走りよれば、嵐に木の葉の散如く、ちり〴〵になりてうせぬ。
見しは昔、当君江戸へ御打入より此かた、町繁昌し、家居多く出来たり。されども、皆草ぶきにて焼亡 しげし。然に慶長六年霜月二日の巳の刻、駿河町かうのじやう家より火を出す。此大焼亡に江戸町一宇も残らず。御奉行衆仰には、町中草ぶき故、火事絶えず。幸なる哉、此序 に皆板ぶきになすべきよし御触有ければ、町こと〴〵く板ぶきに作る所に、滝山弥次兵衛といふ者、諸人に秀でて家を作らんと工み、海道おもてむねより半分瓦にてふき、うしろ半分をば板にてふきたり。皆人沙汰しけるは、本町二丁目の滝山弥次兵衛は、家を半分瓦にて葺きたり。扨も珍しや奇特哉と人褒美して、異名 を半瓦弥次兵衛といふ。是江戸瓦葺の始也。古歌に瓦の松、軒の瓦、瓦の屋などと詠ぜり。瓦屋を心かはらやと心のかはるによせてよみたる歌あり。件 の弥次兵衛が人に心かはら屋せし事、古今異ならず。昔瓦始る事、唐国にて崑吾 氏といふ者土にて作りはじめたり。扨又王元之が黄州竹楼の記に、黄岡 の地に竹多し。大きなるものは椽 の如し。竹工是をわつて其節をゑりさけて、用ひて陶瓦 にかふ。比屋皆しかなり。其価廉にして工はぶけるを以て也。此竹瓦の徳興 おほし。夏は急雨に宜し、瀑布 の声あり。冬は密雪 に宜 し、砕玉 の声あり。琴をひくに宜し、琴調和暢 せり。詩を詠ずるによろし、詩韻清絶也。碁を囲に宜し、子声 丁々然たり。投壺 に宜 し、矢声 錚々然 たり。皆竹楼のたすくる所也。されば愚老大和国を順礼せしに、宮寺などに、竹瓦多く見えたり。是又黄州の竹楼を学びけるにや。然者家康公興ぜらるゝ江城の殿守は五重 、鉛瓦 にてふき給ふ。富士山にならび雲の嶺にそびえ、夏も雪かと見えて面白し。今は江戸町さかえ皆瓦ぶきとなる。万広大に有て美麗なる事前代未聞、あけくれ皆人見ることなればしるすに及ばず。
【 NDLJP:251】 見しは今、江戸河口に洲崎有て塩みちぬれば、船道を見うしなひ、舟を洲へのりあげ、風波に損ずる也。瀬戸物町に、野地豊前といふ人あり。他に施す心ざし身のためにあらずやとて、天正十九卯の年事也しに、洲崎にみをしるしを立つる。是を俗にほんぎといふ。舟人見て悦ぶ事限なし。惣じて水の深き処をみをといふ。其しるしに立る木也。是をみをつくしと歌に多くよまれたり。身をつくすといふ心也。難波江に始て立たると、土佐日記に見えたり。新後拾遺に、恨のみ深き難波のみをつくししるしやいづくよる舟もなしと詠ぜり。いなさ細江にも読たり。水に立るみをつくし、蘆間 にまじる漂澪 とよめり。洲崎 によする波のむら蘆 と云前句に、暮れかゝる舟やみををも知ざらんと昌叱 付けられたり。扨又舟つなぐ木をばかし共はつ木ともいふ。古歌に、ぬれ衣今ぞはつ木にかけてなすかつぎしてけり与謝 の海士人 、是は丹後 也。かしふり立てくほりするといへり。くほりは舟つながんもよほし也。梢 を下にしてふり立る。されば霞のみをつくし朽ち残ると詠ぜしに付て思ひ出せり。今は早野地も死ほん木も朽ちて跡なし。然ども名は朽ちやらで残りとゞまり、此洲を野地ほん木と名付て、出入舟をさ今において是を尋る河瀬のあらんかぎり、此名立て朽つべからず。易に積善 の家に必余慶 ありと云々。人に能事をなしぬれば、却て我身におひ、末代子孫の面をよろこばしむると、我語りけれは、老人聞て古徳も仁を人に施べしといへり。諸人を親子の如く思ひ、慈悲深重 に心を大に持ちぬれば、神明仏陀 の利生を得て、天道のかごにより、災をものがれ、善人の名を得、悪鬼も却てしゆごすと知れたりと申されし。
見しは今、江戸町城生といふ座頭 、古今の歌を一首も残 ず覚えたると語りいふ。予聞て誠しからずと古今集をひらき、歌を一首得心しつれば、其つゞき歌の頭を残らず覚えたり、頗る奇特 也。扨又江戸に奈切屋治兵衛といふ者と、われ将棊をさす。われ下手 にて常に負けたり。此者目を煩ひひしとつぶれ、盲目に成りぬ。われ逢てけろんして云、其方古しへ我と将棊を諍論 し、或時は駒をそばへ突よせ、或時は駒をぬすみ人の目をくらませし其罰にて、目つぶれたるといへば、盲人聞て、われ盲目たり、されど将棊は古にかはるべからず、其方駒の場所いづくをさし引と正直にことわるならば、今とても吾勝つべしといふ。愚老聞て、其方目ある時負けたるさへ遺恨なるに、目くらにまくるものやあらんと笑ひがてら、てう盤を引寄せ駒をならべ、飛車 の頭の歩 を我つきたるといへば、此ものは指の先にて駒をちとさぐりちや〳〵と歩をつき、駒のあがりさがりするに、あたりをそんさゝずとつゝ取られつ、算を乱しさしつるが、終には我負けたり。二十日程過ぎ盲人にあひて、先日の将棊は我角行をすて、金を取たるゆゑ負けぬ。後悔千万といへば、いや角行捨たるは、能 手也。其方歩をつき桂馬 をあがる故、まけぬといふ。是をあらそひけるに、角行の手をも桂馬の手をも作りて見せたり。かゝる不思議あり【 NDLJP:252】といへば、或禅師是を聞て、さる事もありぬべし。されば物を覚ゆるに、品により人により、かはると知られたり。それ算道し算勘 といひて、二つのわかちあり。算をよくおくといへ共、勘にうとき人あり。勘有て算に下手あり。所謂二義をたつするに、算は鍛錬 にあり。是歌よく覚えたる座頭 に同じ。勘は工夫あり。是盲目の将棊 さしに異ならず。其工夫と云は、智を兼たり。故に算人世に多く、勘人 は希有 也。是をふかく物にたとふるに、将棊は是本来の面目、三界 も衆生 も悉くもて、将棊盤 の上に、そなはれり。扨又是を目前に比すれば、盤は月に似て其内に知れぬ。一物有名付てかつらの君とす。是を歌人、目には見て手には取られぬ月のうちのかつらの如き君にぞありけるとよめり。此君王をたな心に握るを将棊の上手、勘知 の人とも悟道 の師とも号す。是は大切の法門 、仏祖不伝以心伝心 の旨なくして至り難しといふ。我聞て将棊盤を月にたとへ王 を桂 に比するといふ共、皆もて相違せり。不審 して云く、盤は方にして静也。月は円にして動く、是不合せり。答て、古語に方なる先は円也、円なるはしは方也。又文中子 に円方動静をもて天地の心を見ると云々。又問て云、将棊に二王あり、月に一君あり比してたらず。答て心月を見ざるや。問て云、盤は一面月は二おもてたとへて余れり。答て和歌を詠ず、月は我ふたりの君のかたひらてあはせて見れば一おもて也。問て云、天心の二月いづれをめづるや。答て、己心の月を友とす。問て云、三界中 に二君あり、臣いづれにつかへん。答て、将棊を見よ、賢臣二君 につかへず。問て云、元来一物也、如何なるか是二王。答て、魔王 は滅却 し一仏王に帰す。問て云、邪王一如なり、そもさんか滅不滅 。答て、水波不異 。愚老聞て、殊勝 と云てさりぬ。
見しは昔、愚老若き比迄は、はたの帯は麻布抔 を四尺程に切り、中より二つにわり、割りたる方をば腰へ廻し前にて結びたりしが、当世の下帯 は替りたりといへば、若き人誠しからずと笑ふ。老人聞て、古へもさる事やありけん、古今集わかれの歌に、した帯 のみちはかた〳〵きつるともゆきめぐりてもあはんとぞ思ふ。此帯は腰 両方へ引まはし、前にて結べば再びあふが如く、人にわかれても又めぐりあはんと注せり。扨又途中に契恋 と云題にて、定家卿、道のべの井出 の下帯 引結びわすればつらし初草 の露 と詠ぜり。此歌の心は、清友といふ人、大和国井出 の里をとほるに、道にめのと七八の姫をいだきて立ちけるを見て、其姫おとなにならば迎へん。其しるしにわが下帯をとき結びてとらせけるを、女はわすれず待ちけれど、男はわすれてとはざりしに、女恨みて井出 の玉水 に身を投ぜしとかや。是は大和物語にあり。いとけなきより契る行末と云前句に、下帯を結びもはてずたえぬらんと、宗祇 付けられたり。今は世上豊 にて、皆人ねりはぶたへ抔のやはらかなる物を腰へ引まはし片結びになせり。又古へもかくありと聞えたり。俊頼の歌に、蘆 のやのしづはた帯の片結 び心やすくも打とくるかなとよめり。賤はた帯はひとへに結ぶといへり。賤機織帯 は下人の帯とも記せり。一所に片結びにあふと歌にも詠【 NDLJP:253】ぜり。ひたち帯とは、鹿島明神 の祭に男女集り、契を定むる布の帯に名を書付、神前におきうらなひ抔の様にする事色々の説あり。古歌に、東路 の道のはてなる常陸帯のかごとばかりも逢見 てしがなとよめり。扨又下帯を雲雁菊にも詠ぜり。山本の雲の下帯長き夜にいく結びして雁も来ぬらん。又残り床敷菊の下帯共よめり。されば当世色好みの人達は、どんす、綸子 、あやじゆす抔のはばひろ物を二ひろ余りにきり、腰へふたへにまはし後るにて片結びにとめ前へ長くさげ、海道 あるくとては裾をかゝげ、股尻 を人に見する、下賤小者のたぐひ迄もすると見えたり。古人のことばに、人まづしきは心と貧といへり。おのれが果報の程にふるまふならば事かく事有るべからず、過て用る故に不足たり。其上にごりたる水にて足を洗へ、すみたる水にて纓 をすゝげとこそ申されしといへば、老人是を聞て、いや〳〵彼等がひが事とは云ふべからず。上を学ぶは下のならひぞかし。大名は申に及ばず、小名迄も今は諸侍 華美 を事とし、綾羅錦繍 を身にまとへり。是によりて郎従 も分さい〳〵に外見をかざり、形相 をつくろひ領納 する知行 をば皆衣裳にかへつくせり。今の時代、天下太平にして弓を袋に入れ、太刀を箱に治め、たゞ世の風俗のみ専とし、万美々敷 事前代未聞 耳目 を驚す計也。去程に民はゆたかならず。此根源を尋るに、武家の華麗 衣服欲より起れり。慎しみ有べき事也とつぶやきけり然所 に諸侍衣服過分の由、公方 に聞召 、慶長十九に、当年御法度被仰出趣、衣裳の科混雑 すべからざる事。
有為無常 の有様日月天にめぐり生死を旦暮にあらはし、寒暑時を違へずして無常を昼夜に【 NDLJP:254】尽すといへども、ぜんごふ拙身なれば、是を驚きがたし。心前の発句に驚かぬ身を諫めつゝ落葉哉とせられしも、実 に殊勝 也。扨又いつなげきいつ思ふべき事なれば、後の世知らで人の過らんと、西行法師が詠し歌をたゞ何となく思ひ出る折節、蛛戸口 に家をいそがはしくかくる。愚老是を見て誠に心なき非情 のたぐひぞかし。人出入の戸口とも知らずはかなき振舞なせり。かくは思へど、人又蛛に同じからずや。僧正遍昭 は夕暮に蛛のいとはかなげにすがくを常よりもあはれに見て、さゝがにの空にすがくも同じ事またき宿にもいくよかはへんと詠ぜり。実々 人は閑ならざるを以て栄とし、苦しび多きを以てたつとしとす。誠におろかなる振舞也。いかにもして、人は縁をはなれ身を閑にして事にあづからずして、心を安くせんこそ暫くも楽しみといひつべけれ。愚老も此義を思ひつゞけて、つら杖をつく〴〵と身のはかなさを蛛のふるまひ見てぞさとれると口ずさみ侍りぬ。人間おろかに明暮なせることわざ、さぞな神仏はかなくや見給ふべき。
見しは今、たばこといふ草、近年異国より渡り老若男女此草に火を付、烟をのみ給ひぬ。然者江戸町に道安と云てはやりくすし有りけるが、夜昼あかずたばこの烟をすひたまふ。愚老これを見て、此たばこ何の薬やらんと問へば、道安答て昔から国にて薬をやいて其烟を筆管を以てのみたり。我朝の人かしこくて金にて作りきせると名付。序例に云、人有て久嗽をやむ。肺虚 して寒熱を生ず。欵冬 花を以て三両芽をやいて、烟の出づるをまつて筆管を持て其烟 をすふ。口に満つる時んば是をのむ。うむに至るときんばやむ。凡数日の間五七にしていゆることをなすと記せり。然共此たばこと云草医書にも見えず。薬とも毒とも知がたし。され共典楽衆を始、いづれものみ給ひぬ。当世はやり物なれば、我も是を用ると返答せり。是愚なる事ぞや。論衡 に益なきののうをなし、補なきの説といへる、猶夏を以て炉をすゝめ冬を以て扇をすゝむるが如し。亦いたづらならくのみ云々。そのかみ神農 は千草をさへ味ひ知て、今の世の人の為に成給ひぬ。すべらぎのみつを其代の始にてと云前句に、薬の草葉種はつくせじと兼載付られたり。然に日本は粟散辺地 にして大国に比するには及びがたしといへども、智恵 第一の国といひならはし、文武を以て国を治め他国までも恐れ、絶ず御調をそなへ給へり。其上当代 の名医施薬院 、寿命院 、驢庵 、以庵 、招法印、延寿院 抔 といひて余多まします。是薬師の変化かと沙汰せらるゝ。せめて此草をなも知らでは、異国の聞えしかるべからず。
見しは今、道斎といふ老人たゞひとり灯し火の下 に文をひろげて、見ぬ世の人こそゆかしき友ならめと、明暮 になぐさむわざぞをかしう見えける。若き人是を見て、老て死せざるはこれ賊するといへる本文 有り。其上老の学文用にたゞず、たゞ朽 ちたる木にして功のならざるに比す。老来て十字 見 九つわするべし。学は少年に有る事をと云て笑ふ。老人聞てよき事またん身とも思はずと云前句に、老たれ【 NDLJP:255】ば何にしかじの世中にと能阿 付けられたり。学て時に是をならふとこそいへるなれば、老耳にはやくもなし。あながちに学文するにはあらず。文選古詩 に、生年不㆑満㆑百常千歳の憂をいだく。昼短く苦㆓夜長㆒何不㆓秉㆑燭遊㆒と云々。扨又東坡 は夜あそびする時は、五十年いきて百年いけるに同じと申されし。愚老七十余歳なり。終夜灯をかゝげて古の賢聖と閑談 し、今世の思ひ出、百五十年楽めり。年老心閑無㆓外事㆒と三体詩に見えたるも面白し。昔をも遠くなさぬは心にてといふ前句に、しみさす文をひらきてぞ見ると兼載付 られしも、又をかし。後漢 の蔡邕 が言葉に相まみえん事期なし。たゞ是書疏 以て面にあつべしといへり。眼の相対する事真実 の友ならず。北窓古人の編一読三四度、たゞ旧友に向顔 の心ち侍る也。幼にしてまなぶ者は、日の出の光の如し。老て学ぶ者は灯 を取てよる行くが如し。孔子も四十五十にして聞ふる事なくんば、是又おそるゝに不足といへり。其上荘子は七十にして始て学を好て名を天下に聞ゆ。荀卿 は五十にして始て来て学を好てながく碩儒 となる。朝 に道を聞きて夕 に死すとも可也と申されし。されば栄啓期 といふ者は、人男老の三楽を文にくはしくしるせり。われ又三つの楽みあり。扨又露の命のかゝるあはれさといふ前句に、昔だに聞くはまれなる年のおにと宗祇 付けられたり。人生七十古来稀 といへる名言を思ひ出て、杜子美 が時分だに七十に成るはまれなるに、宗祇八十に余れるをあはれといへる句なるべし。此人わが心に同じといふ。人聞て愚なるいひ事かな。宗祇は古今まれなる連歌の名人、同じ心とははゞかりなからずやといふ。老人聞て、宗祇は歌人八十有余まで金句をはきて心を楽しめり。愚老一生涯賢聖 の金言を聞てみづからが心をやしなへり。用る気味はかはるといへども、楽むこゝろは異ならずといへり。
見しは今、庭に植ゑおく木だち色々ありといへども、椿にますはあらじ。其上勧学の文にも、草に霊芝 木に椿 ありとほめられたり。椿には異名多し。やつをの椿、浜椿、玉椿、はた、山椿、八千とせ椿、春椿、かた山椿、八嶺椿、つら〳〵椿、いづれも古歌に見えたるが、いづみのつら〳〵椿つら〳〵に見れどもあかぬこせのはるのはとよめり。此つら〳〵椿のせつ様々に記せり。当世皆人の好み給ひけるは白玉こそ面白けれと、尋求めて植る白玉椿やちよへてと詠ぜり。されば当年の春しろき花の咲きたる椿一本持来て売らんといふ。本両替町に甚兵衛といふ人思ひ設けし事也と、此白玉椿を買ひとり、是こそ俗にいふ誠のほり出し也とて庭に植る。雨ふりければやがて花ぶさおつる。をしき物哉とて取あげ見れば、花もさかざる木に白玉をそく飯 にて付たり。たばかりにあひぬる事の無念さよと思ふ所へ、廿日程過其花うり来て、白玉をめすならば持て参らんといふ。甚兵衛出合て後花うりぬす人よ、しやつ遁すなとひしととらん、とくいましめよ縄をかけよ、御奉行所 へつれてゆかんとひしめきけり。隣の正兵衛といふ人是を聞き、いかに甚兵衛腹立はことわりなり。尤此者は盗人也。然共花盗人なればきやしやなる人にあらずや。扨此ものが花売盗人ならばかうたる甚兵衛も花の香ぬす人よ、それいかにとなれ【 NDLJP:256】ば、如何なるか是きやしやの賊と問ふ。答て曰、掬 ㆑水 月在 ㆑手 、弄 ㆑花 香満 ㆑衣 と古人もいへり。又歌人は香をだにぬすめ春の山風と詠ぜり。花盗人やさしき人也といへば、甚兵衛聞て実々掬水 すれば、月の威光をぬすみ、花を弄すれば花の香をぬすむいはれも月華のそく也。此道理に負けたりと花盗人の縄を免されたり。
見しは今、玄徳 と云藪薬師 無学にして法印の位に進み乗物にのり、われいみじげなる体たらくなせり。人是を見て医は意也とかや。徳なくして高位にあるは、位をぬすむ人也とて、異名を医賊法印 といふ。此人のみならず、俗出共渡世風流を専とし物をしらぬ人も、官位を望み乗物にのり威風をなし給へり。爰に有職 の人の申されけるは、当世の人のていたらくをかへり見るに、己れ富たるにまかせ、心の儘に振舞 世のはゞかりをも知らず。散帯禿髪の姿にて行義正しからず。かるが故に、仁義の道を知らず、仁の道なくして人といひがたし。仁者は人也といひて仁の道をおこなつて後人と名をよばる。義は宜也とて、万事よくそれ〴〵によろしくするをいへり。皆人官禄 を欲するがゆゑ、忠義を思はず万をかざり其言葉すなほならず、上位に在ておごらず、下位に在て乱れずと、周易 に見えたり。いみじかりし賢聖は時にあはざれば自らいやしき身と成て位をむさぼることもなく心をやすくす。高き位を望むも次におろかなり。たゞ智恵 と心とこそ世にすぐれたるほまれねがはしき事ならめ。されども己達せんと欲せば、先づ人を達せよと先哲 も申されし。おのれよりこのかみには体敬をいたし、おのれよりおととには愛顧 を尽し仁義を以て本とす。扨又心おろかに拙き人も家に生れあへば、高位にのばり望みをきはむるも有るべし。又有徳なる人をば果報目出度人也とてうやまへり。実にも是はことわり也。公家、武家、俗出ともに位を望み給ふ人金なくて叶ひがたし。古き言葉に貧きと賤きとは人の悪む所と云て富と貴は人の欲する所也。然共漢書に位の高からざるをばなげかざれ、智恵の広からざるをばなげくべしといへり。そのかみいざなぎいざなみの尊一女三男をうみて天降 し給ふ。それよりこのかたわれ人とあまたに成りぬ。おほよそ男の数十九億九万四千八百二十八人、女の数廿九億四千八百二十人としるされたり。然時んばいやしむべき下なく貴ぶべき上なしといへども、富貴貧賤に生れ、あるひは始はとんで終は貧にし、或は先たつとく後はいやしくなる、皆是過去のかいぎやうつたなき故也。古へ行平 の中納言さすらへ人となり、わくらはにとふ人あらば須磨 の浦にもしほたれつゝわぶとこたへよとよみしも、いとあはれなることぞかし。又光源氏は春の夜のおぼろげならぬ契りゆゑ、年二十五と申せしに、是もつの国須磨の浦へ流され、あまりつむなげきの中にしほたれて、いつまで須磨の浦をながめんなどと詠じさせ給ひて、明けぬ暮れぬとおはせしが、帰京有て後は、太政大臣藤 のうら葉に太上天皇とかくのごとくのたのしびにあへり。高位下位に生れおとろへさかふる人間の有様私ならず。仏も衆生 の業報 をおさへて転ずる事不㆑能といへり。三世 了達 の智恵 を以て衆生業報の因縁を知見【 NDLJP:257】し給ひて、大集経の十来に、高性の者は礼拝 の中より来り、下賤の者は驕慢 の中より来るといへるなれば、前世の罪を後悔すべし。今更作る事なかれ。たゞ自位に任じて天然の道をまもるにはしかじといへり。
見しは今、江戸に古より細き流たゞ一筋 あり。此水神田山岸の柳原より出る也。慶長十一年春、玄仍 此流の辺 に来り、青柳 の木ずゑよりわく流哉と発句をせられたり。実面白旧跡 後々未代迄も詩人歌人此流にいかでか詠吟なかるべき。楊巨源 が詩に、水辺の楊柳鞠塵糸 、立 ㆑馬 煩 ㆑君 折 ㆓一枝 ㆒、只 春風の最相惜むあり。慇懃更 向 ㆓手中 ㆒吹 といへり。此詩あはれなり。家づとにせんと一枝手折るを春風惜しむやらん、わが手の中へ念比 に吹来ると作りたるを、朱子もほめたるとかや。然者此水御城堀のめぐりを流て舟町へおつる。此流に橋五つわたせり。されども皆たな橋にて名もなき橋ども也。然者家康公関東へ御打入 以後、から国の帝王より日本へ勅使わたる。数百人の唐人江戸へ来りたり。是等 をもてなし給ふには雉子 にまさる好物 なしとて、諸国より雉子 をあつめ給ふ。此流の水上に鳥屋 を作り雉子を限りなく入れ置きぬ。其雉子屋のほとりに橋一つありけり。それを雉子橋と名付たり。又其下に丸木を一本渡したる橋有ければ、是をひとつ橋まろき橋共いひならはす。又其次に竹をあみて渡したる橋あり。是はすのこ橋竹橋とも名付たり。扨又御城 の大手 の堀に橋一つかゝりたり。よの橋より大きなればとて、是をば大橋と名付たり。町には舟町と四日市のあひにちひさき橋只一つ有り、是は往復 の橋也。文禄 四年の夏の比 、此橋もとにて銭がめを掘出 す。永楽京銭 打まじりて有しを、四日市の者共此銭がめを町の両御代官 板倉四郎右衛門殿、彦坂小刑部 殿へさゝげ申したり。夫より此橋を銭がめ橋と名付たり。其見し棚橋共は皆朽果て、その跡堀川となり今は夥敷 橋かゝりたり。されば昔のたな橋は絶えて久敷成ぬれど、名こそながれて猶聞えけれのふる言の葉ぞ思ひ出 にける。今は東西南北の町に大河多くみえけれども、皆堀川也。橋もかぎりなく出来たり、水底ふかうして此河に主ありて人を取事度々なり。みな人沙汰しけるは、古き池にこそ主も有蛇 も住といひ伝へたれ。是は堀川なれば、河すゞきか獺などにて有るべし。其上かはうそは老て河童 と成て人を取ると古記にも見えたりといへば、かたへなる人云、今江戸の橋広大にして長く皆板橋に欄杆 、所々に銅 のぎぼうし有て見よしといへども、橋の名を聞けばとなへいやしくゐなかびれてをかしかりき。古より聞き伝し名所の橋多し。唐橋 は山城に在り。見はし、内橋、雲のかけ橋は禁中の事とかや。古歌に若芽 かる春にもなれば鶯の木伝ひわたる天の橋立と詠ぜり。宇治橋、瀬田 長橋、広橋、細橋などいふこそ聞きもとなへもやさしき名也とぞ。老人聞ていや江戸の橋の名笑ひ給ひそ。昔の橋の名も一つ橋、丸木橋、竹橋、中橋、堀江橋、皆是名所にて歌によみたり。此橋の名今江戸の都に出来たれば、詩人歌人などか此橋に詠吟なかるべき。其上古しへ由来有るにや、橋の異名多し。さゝやき橋は備後、くまのなる音なし川にわたさばや密語 の【 NDLJP:258】橋のしのび〳〵に。かたち橋作州 、かつま田の形 の橋のいかねどもうき名は猶や世にとまるらん。おもはく橋 奥州、ふまばをし紅葉のにしき打敷て人もかよはぬおもはくの橋。とゞろき橋近江、あられふる玉ゆりすゑて見るばかりしばしなふみそとゞろきの橋。浅水橋 越中、あさみづの橋の忍びぢわたれどもとゞろ〳〵となるぞわびしき。ちつか橋近江、君が代は千束の橋をいくかへりはこぶ御調 の数もしられず。くめぢ橋信濃、埋木 はなか虫はむといふなれば久米地 の橋は心してゆけ。朽木橋 奥州、ふみだにもかよはぬ□〔此間欠文〕と詠ぜり。橋の異名つくし難し。されば橋の徳義をば仏法世法に多くしるされたり。橋は勢至菩薩 の尊形 を表したまへるとなれば、衆生いかでか仰がざるべき。法華経七の巻に、如渡 得船 とあり。もろ〳〵の法門を説給ふも、衆生迷倒 の大川を越えて本分 の岸に到らしめんが為の船橋 也と説けり。実々 水波の難をのがれ、万民とめる世をすなほに渡るはこれ橋の明徳也。此江戸川に橋なくんば幾千万人川のみくづと成て、いたづらに命をうしなはん事必定、有がたき橋の威徳也。然者先年江戸大普請 の時分、日本国の人集てかけたる橋有り、是を日本橋と名付たり。又其川すそに空へ高き橋有り是を天竺橋といふ。是等の橋は御代目出度時分新規 に出来たるにより、いづれも名高き橋ども也。
見しは今、相模、安房、上総、下総、武蔵、此五ヶ国の中に大きなる入海あり。諸国の海を廻る大魚共、此入海をよき住所と知て集るといへども、関東の海士 取る事を知らず磯辺の魚を小網 、釣 を垂れ取る計也。然処に、今武州江戸繁昌故、西国の海士 悉く関東へ来り、此魚を見て願ふに幸哉と地獄網 といふ大網を作り、網の両の端に二人して持程の石を二つくゝり付、是を千貫石と名付、二筋綱 を付、長さ三尺程はゞ二三寸の木をふりと名付て、大網の所々に千も二千も付る。此槙 といふ木、魚の目にひかるといふ。早舟一艘に水手 六人づつ七艘に取乗り、大海へ出て網をかけ、両方へ三艘づつ引分て大網を引く、一艘はことり舟と名付け、網本に在て左右の網の差引する。此網の内にある大魚小魚一つも外へもるゝ事なし。海底のうろくづ迄も悉く引上る。扨又海底にある貝をとらんとて網を海へおろし大網を引すゑて、舟の内にまき車を仕付、碇 を打て網を引きぬれば、砂三尺底にあるもろ〳〵の貝どもを熊手 にて引おとす。天地開闢 より関東にて見も聞もせぬ海底の大魚、砂底 の貝を取りあぐる。去程に四時を待て波の上砂の上に出る魚貝ども、今は時を知らず常に服しぬれば、江戸にて初魚初貝の沙汰なし。はや二十四五年この方、此地獄網にて取尽しぬれば、今は十の物一つもなし。数𦊙洿池 に入ずんば、魚鼈 勝げて食 ふべからずとは、孟子の言葉也。其上淮南子 に流を絶ちてすなどる時んば、明年に魚なしといへるも思ひ出てうたてさよ。もろ〳〵の魚の中にも、取分鯛鱸 こそ床敷けれ。玉葉 に、くるゝまに鱸 つるらし夕塩 の干瀉 の浦に海士の袖みゆと、為家卿詠ぜり。扨又、行春を境の浦の桜鯛 あかぬ形見にけふや引くらんとよめり。桜鯛と名付け、春に用ひ給へるもいとやさしかりき。鰹しびは毎年夏に至て西海より東海へ来る。伊豆、相模、安房の海に釣りあぐる初鰹 賞翫 也。小田原北条家【 NDLJP:259】の時代、関東弓矢有て、毎日戦ひやむ事なし。鰹 は勝負 にかつうをとて、古き文にも記し、先例有るにやといひて、侍衆門出 の酒肴には鰹を専と用ひ給ひぬ。しびは味ひよからずとて、地下 の者もくらはず。侍衆は目にも見給はず。其上しびとよぶ声のひゞき死日 と聞えて不吉也とて、祝儀などには、沙汰せず。然間海士鱑 をつりては塩引 にしてつかねおく所に、此魚肉ふかきによりて、頓 て虫わき出づる。其虫みづから肉をくらひ肉をくひ尽て後は、死かたまつて又本の肉となる。異香 あたりを払てふかし。此魚を信濃、上野、下野の山国へあき人持行き売買す。此等の国の人賞翫他事なし。されば鱑つると古歌に多くよみたり。藤江 の浦 藤井 の浦 紀 の海に詠ぜり。此国の浦里の人鱑 賞翫 としられたり。庭訓 往来 に、生物には鯛鱸 は最前にほめて書出し、扨又塩肴 には鮎 の白干 、鱑 の黒作りと記せり。黒作りの事知らず。注にもあらず覚束なし。然に今の時代に至て鱑 は鰹 よりも滋味 まさりたりとて、皆人賞翫 なり。下万民 猶しか也。人の好みも時代に依てかはると見えたり、ていれば、一季を待て来る魚さへ、関東の海にはしばしもとゞまらずして去り行きぬ。今より末の世東海に生魚貝有べからず。遠国より持参る塩魚塩貝 をこそくはめ、され共川魚は昔にかはらず。若鮎 、初鮭 を皆人賞翫し給ふ。関東に多し。鮎は玉川、鮭はきぬ川にあり。建久五年甲寅正月十四日、佐々木三郎盛綱 生鮭 を二つ頼朝公へ進上す。越後の国の所領 の土産 と云々。頼朝公殊にもて御自愛、一つは唯今伺候の輩にほどこさしめ給ふと、古記に見えたり然るに初鮭は十年以前迄冬の末より取しが、今は秋のはじめにあり。近年初鮭一喉は金五十両卅両のあひすたれ。いにしへのたとへにこそ、一字 千金 春宵 一刻 直 千金などとあれ、今は初鮭一喉価千金とやいはん。是も大海の生魚なきが故也。西国の海士 賢 くば関東万民のわざはひ也と、我いへば老人聞て、地ごく網に付て思ひ出せり。華厳経 に仏教の網を張り、法界 の海を渡して人天 の魚をすくひ、ねはんの岸におくと説給ひて、三界の群類 を誓ひの網にてすくはんとの方便 なるに、今世 地獄網 にて海中のうをくづまでも取尽す事、外道 のなせるわざなるべし。扨又戈猟 といふ事あり。戈はいぐるみとよむ。矢のさきに網を付て魚をいくるむ。猟は狩する事也。論語に釣すれども網せず。弋 す共宿 を射ずと云々。縦 釣をたれて魚を取とも、大網をたてきりて、有るかぎり取る事を戒 め給へり。弋 するとは弓射る事也。空を飛びなんどするをば射殺 すとも、宿鳥 を射るは情なき由也。此心を広き網には魚ものがれずと云前句に、いる矢をもいぬる鳥には心せよと、宗祇付られたり。昔或人ひつまりたる池水にすめる魚を取て大海へはなちける故、長者と成りたり。ちひさき形を請たる物也とも、命を惜む事大山より重し。本草綱目 に云、人魚あり形人に似て腹に四足あかひれの如し。よくしやくを治す。海、山川にも人魚の網にかゝる、人恐 れてくらはずと云々。仏は物の命を殺す事十悪五逆の始にいましめ給ふ。古歌に、むくふべきつみの種をやむすぶらん海士 のしわざは網の目ごとにとよめり。おそろしき大殺生 言葉に絶えたり。
【 NDLJP:247】慶長見聞集巻之一 見しは今、
君臣上下各別たるべし。