コンテンツにスキップ

聖金口イオアン教訓下/第60講話

提供:Wikisource

第60講話

[編集]

<<きたりてわれまなべ、われこころ柔和にゅうわにして謙遜けんそんなるものなればなり〔マトフェイ十一の廿九〕>>


われところじゅんじてはず、哀憐あはれみじゅんじてつぐるなり、われけんよりもむし慈悲じひあいす。おうなんぢふ、ちからおほいなり、さりながらわれおのれにところ権柄けんぺいもつなんぢよわきをおどろかさんをほつせず、ゆえごとくいはず、きたりてわれまなべ、われ萬物ばんぶつきみたり、主宰しゅさいたり、俯視ふししてこれに戦慄せんりつせしめ、『ゆびをのばしててんをはかりちり量器ますにもらん』〔イサイヤ四十の十二〕といはざるなり、かへつつぎごとくいふ、『きたりてわれまなべ、こころ柔和にゅうわにして謙遜けんそんなるものなればなり』といふなり。われまこと柔和にゅうわなり。そはなんぢつみおかしたれども、われ鞭撻べんたつしのけたり、われまことあまんじて謙遜けんそんなり、そは主宰しゅさいれいたる地位ちいにあるもの解放かいほうせんがためきたりたれども、かれ解放者かいほうしゃたるほゝち、諸僕しょぼくわれ十字架じゅうじかくぎせり、しかれどもこれにもかゝはらず、われかれためおのちちいのりて、『ちちかれゆるたまへ、かれところらざればなり』〔ルカ廿三の三十四〕といへり。ゆえに『きたりてわれまなべ、われこころ柔和にゅうわにして謙遜けんそんなるものなればなり』、きたわれわがぼくせつねがふ、かつこれをねがひこれをねんごろもとむるをぢざらん、むをずしてかればつすることのあらざらんがためなり、きたおそるべきものをわれよりるにさきだちて、温柔おんじゅうわれまなきたいま治療ちりょうするなり、しかれどもいくばくもなうして審判しんぱんせん。いまわれ宥免ゆうめんするなり、しかれどもすこしくのちには判決はんけつくださん、いまわれ憐憫れんびんするなり、しかれども若干そこばくときぎなばなる審判者しんぱんしゃとしてあらはれん。『きたりてわれまなべ、われこころ柔和にゅうわにして謙遜けんそんなるものなればなり』。一は温柔おんじゅう尊敬そんけいすべく、一は権柄けんぺいおそれよ。きたざんもつかんばせあらはるゝにさきだつべし、なんとなれば謙遜けんそん一定いっていときもつかぎらるればなり。けだししゅへらくたゞ現生げんせい久忍きゅうにんをあらはすのときなり、かくのごとき慈悲じひとざさるゝ時来とききたらん、時来とききたらばらつひゞき再臨さいりんをいづくにもほうぜん、しょてん使ぜんぎょうして、億萬おくまんしゃ審判しんぱんにあらはさん、ほうすでさだめられて、われ天軍てんぐんじょうじていたらん、もろもろ首領しゅりょう権柄けんぺいくに随伴ずいはんせん、くにひかりぜんかいてらさん、各人かくじんまえこの諸行しょぎょうをしるせるしょひもとかれん、律法りっぽう確守かくしゅしたるものはしょうをうけて、きびしき判決はんけつ魔鬼まきくだされん、審判しんぱんせらるゝものひとおのれ行為おこなひゆうしてたん、思念おもひ各人かくじんうつたへて、良心りょうしんはこれをつみせん、あく審判者しんぱんしゃことば注意ちゅういせん、火炉かろ審判者しんぱんしゃ判決はんけつたん、あはれめよとのことばもの最早もはやたすけざらん。ゆえあはれみのざすにさきだち、生命いのちしゅくする賀儀がぎ完了おわるにさきだち、この観場かんじょうおわるにさきだちてきた、けだしさだめられたるまつすでもんにあればなり。審判しんぱんはじむるにさきだちてきた、けだしわれもしこれにさきんじ、して審判しんぱんこうするならば、最早もはやあはれむことあらざらん。これがためわれおろかなる童女どうぢょ明白めいはくなるたとへをあらはせり、けだしあぶらゆうせざるかれ生命いのちともしびえ、婚莚こんえんしつかれためにとざゝれて、かれこれをたゝくに、うちよりこたへてなんぢらずマトフェイ廿五の一〕といはんとす、これ審判しんぱんおい罪人ざいにんにつげられんとすることば預示よしするなり。ゆえに、兄弟きょうだいや、われもし救世主きゅうせいしゅことばにより、しゅ慈悲じひまなぶならば、審判者しんぱんしゃ審判しんぱんさきだち、じんもつてつぐるところのものに留心りゅうしんせざることあらざらん、改善かいぜん時機じきうしなふことあらざらん、善行ぜんこう施與せよとをもつおの霊魂たましいせん。われおの〳〵永生えいせいため緊要きんようなるものをべし、さらばづべきおこなひとほざからん……。われ霊魂たましい貞潔ていけつにてかざり、きよ信仰しんこうあたひすべからざる真珠しんじゅかたみづかせん、われ生命いのちむにさきだち、かい現状げんじょうと、えいはなと、じょうのあらゆる快楽かいらく廃滅はいめつするにさきだちて、いつはらざる審判者しんぱんしゃよろこばせん。けだしかれみづからいへることごといはく『しゅいふ、罪人ざいにんほつせず、しからばなんぢくいきよ』〔エゼキリ十八の三十二〕。もしかれ罪人ざいにんばつせんとほつするならば、かくいはざりしならん、かれあはれまんをほつす、ゆえすゝむ、宥免ゆうめんせんとす、ゆえ説得せっとくするなり、かれげんをもてなんぢおそらすは、なんぢよりじつあやふきをあらかじのぞかんがためなり。かみおどすときは、すくはんとほつするなり、しかれどももくするときは、ばつせんとほつするなり。われいにしへれいによりてこれる。かみニネビヤじんおどしてかれゆるし、ソドムじんためもくしてかればつせり。もしわれくるしみをみづか引誘いんゆうせずんば、かれ栄冠えいかんそなへん。かれごくむなしうせんをねがひ、暗獄あんごくとざさんをほつし、すべてのいかりをたゞ魔鬼まきためにのみそんせんをほつし、たれをもばつせずして衆人しゅうじんしょうせんがため審判者しんぱんしゃとしてせんをほつす。ゆえわれはかくのごと主宰しゅさいゆうすれば、慈悲じひのみちみてることば熱心ねっしんにうけ、『きたりてわれまなべ、われこころ柔和にゅうわにして謙遜けんそんなるものなればなり』、といふに注意ちゅういせん、われのぞましきかみこえくをたまはらんがためなり、いはく『ちゝしゅくせられたるものや、きたりてなんぢためそなへられたるくにげ』〔マトフェイ廿五の三十四〕、しゅイイスス ハリストス恩寵おんちょうじんとによりわれみな此国このくにおいたのしむをん、かれちちおよ聖神せいしん光栄こうえい世々よよす。「アミン」。