<<人は見ゆる世界に於ていかなる尊敬にて高められしや>>
預言者は神の人間にあらはしたまへる恩恵を一言にてあらはせり、いへらく『人は尊敬にありて知らず』と。これ預言者は如何なる尊敬を言ふか。彼が他の聖詠に於て言ふ所をきく可し、曰く『爾彼を神使より少しく降らしめ、彼に光栄と尊敬とを冠らす』と、彼は此の尊敬を説明し、続ていへり、曰く『彼を立て爾が手の作りし物の宰となして、万物を其足下に置けり、即悉くの羊と牛又野の獣、天の鳥、海の魚、一切海に游ぐ者なり』〔聖詠八の六~九〕。実に最大なる尊敬は人に悉くの有形物体に宰たることを許與し給へるにあり、然のみならず、いまだ何等の善をもなさゞる者にさへ許與し給へるにあり。けだし神は未だ人を造らざる先きに、我等の像に依り、肖せて人を造らんといひ、其後此の肖せててふ言を説明せんと欲して『海の魚と天空の鳥とを治めしめん』〔創世記一の廿六〕といふを加へたり、人の此の実体は大さ三「ロコート」〈六尺〉に過ぎずして、其体力に於ても無言なる動物に比すればかくの如く小なり、然るに神は之に聡明なる霊魂を賦與し、智力を以て彼等萬物に最秀づる者となし、これをもて最大なる尊敬の標記となし給へり。人は此の才能の助けによりて城市を設け、海を割り、地を拓き、無数の芸術を発明し、猛き動物に宰たる者となれり、されども最重くして且最大なるは己が造成者たる神を悟り、徳行に進み、善きと善からざるとを識別するにあるなり。見ゆる造物の中に在て人は独り神に祈祷し、人は独り天啓をうくるに適し、大に奥秘なるものを悟り、天に属するものを学べり、地は人の為なり、天は人の為なり、日と星とは人の為なり、月の運行と、歳時の代替と、天候の殊異多様なるは人の為なり、果実、植物及びかくの如き多種なる動物は人の為なり、昼夜は人の為なり、使徒と預言者とは人の為に遣はされ、神使は人の為にしば〳〵つかはされたり。他に又多く数へんを要するか。すべてを数へんことは為し能はざるものとす。神の独生子の人となり、釘せられて葬られしは人の為なり、復活の後恐るべき異象のありしは人の為なり、律法は人の為、楽園は人の為、洪水は人の為なりき。実に人の為に尊敬の最大なるものは是れ即恩と罰とを以て改善を得しむるにあり。凡て前時に行はれたる照管の限りなき事件は人の為なり、又未来の審判も人の尊敬の為に行はれん。故に約百も言へり曰く『人は何物たる、汝これに審判を行ひ給ふや』〔イヲフ十四の三〕之と同く聖詠者も他篇に於ていへり曰く『人は何物たる、汝之を憶ふや』〔聖詠八の五〕。神の独生子の限りなき祉福を以て再び来り給はんも人の為なり、けだし一の祉福は彼既に洗礼と他の諸機密とによりて與へ、又種々の奇跡を地に充たして我等にこれを授け賜ひしも、他の祉福はたゞこれを賜はんことを約し給へり、即天国と永生是なり、これ我等彼の後嗣となり、彼と共に王たらんが為なり。故にパウェルはいへり、曰く『我等もし忍ばゞ、彼と共に王となるべし』〔ティモフェイ後二の十二〕。預言者が此のすべてを想ひ、人々の自ら己の尊貴をすてゝ、邪悪を尚び、自ら己を獣欲に委するを見て、彼等を無言なる動物に比するは當然なり。又他の預言者等も耻無き聴衆に耻を起さしめんと欲して屡此の如き比較を為す。されば預言者の一人は『彼等肥たる牡馬の如くに行めぐり』云々〔エレミヤ五の八〕といへり、然れども他の預言者は『牛は其の主を知り驢馬は其の主の厩を知る』云々〔イサイヤ一の三〕といひて、太闢よりも更に強く言顕せり、けだし太闢は彼等を無言なる動物に似たりといひしかども、此の預言者は彼等を家畜よりも無智になれりといふ、何故なれば『家畜は其の主を知るも、イズライリは我を知らざればなり』〔イサイヤ一の三〕。