- 発行所:正教会編輯局
- 屡〻、各〻の二の字点は屡々、各々に改めた。
聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓
- 祈祷と清醒の事
百三十二、 〈淫行、醜事又は嫉妬等の如き其の微細なる思念と粗大なる思念とにつきて〉――微細なる思念に力を盡して其の粗大なるを忽にする者は恰も左の人に似たるあり、其の家不潔にして種々の砕片を充て、中に細小の塵埃もあらんに彼れこれを清潔にせんと思立ちて先づ家より細小の塵埃を搬び出したれど石又は其他の躓づきとなるべき物を遺しき。もし彼は細小の塵埃をすべて搬び出すといへどもこれによりて其家は未だ美麗を得ざるべし、されども石又は其他を搬び出す時は塵埃も遺さゞらん、けだし彼れも醜きをなせばなり。
百三十三、 いかにせば神を畏るゝの畏れを我が頑なる心に確として存せしむることを得べきか。――すべてを畏るゝの畏れをもて行ふべし且此の畏れを賜はらんが為めに心を備へて〈己の力に及ぶ丈心を其れに向けて〉神を呼ぶべし。すべての事に於て此の畏れを己の目前に置くあらば此の畏は我が心に確として動かざるものとならん。
百三十四、 神を畏るゝ畏れの我が記憶に来るあらんに我れ彼の審判を想起して直ちに感動すること数回これあり。我れ此事を如何に受用すべきか。――それ此事の汝が記憶に来る時、即汝の識ると識らずして犯しゝ所の事を感動する時は汝宜しく注意すべし此れ魔鬼の働きにより生じ愈々大なる定罪に至らしむるにあらざらんかと。されどいかにして真実の記憶を魔鬼の働きによりて来る所の記憶より弁別すべきかと問ふあらんか、宜く聴くべしかゝる記憶の汝に来るあらんに汝は匡正をあらはさんと実際に勤むるならばこれ真実の記憶にしてこれにより罪は赦さるゝなり。されど想起して〈神を畏るゝと審判とを〉感動するも其後再び同罪に陥り又は更にあしき罪に陥るを見るあらんにはかゝる記憶は敵者よりするものにして魔鬼が此を汝に入れて汝の霊を定罪に付するものたることは汝に知られん。これ汝の為に二の明白なる途なり。ゆゑにもし汝は定罪を畏れんと欲せば魔鬼の行を避くべし。
百三十五、 朝時と暮時とを汝の思念を試みるが為めに適当の時とならしむべし。此の時に汝は己れに問ふべし、我れ夜又は昼を如何に送りしかと。而してもし汝は何の犯罪をか発見するあらば神の助けにより匡正に盡力すべし。
百三十六、 我が霊魂は多くの疵を有ちながらいかんして痛哭せざるか。――誰か失ひし所を知らば其の為めに涕泣す。又誰か願ふ所ある者は其の願ふ所の者を得んを期し多くの旅行をなして多くの患難を忍ぶなり。
百三十七、 或る他人の為にはあらずしてたゞ独一の神の為めに神に属するの業を為すを努めん。されどもし此の如くならずんば汝の労は徒然なるべし。故に善を作して出来る丈我が意志の為に其労の無益となるを致さしめざらんやうに己れに儆醒すべし。
百三十八、 聡明に且実着に研究して何か汝の為めに善なるが如くに見ゆる所の事に於て浮誇或は動乱或は其のこれに類するものを発見するあらば知るべしその善は神よりするに非るを。けだし神の善は常に心の開明と謙遜とを増して人に安静を得しむるものなればなり。
百三十九、 もし善なるが如く見ゆる所のものにして試を経て悪なるものと認めらるゝ時はこれを抛棄すること恰も誰か美味の如くに見ゆる所の食物を嘗めんに其の苦きを覚えて直ちにこれを口より吐出すが如くすべし。
百四十、 天性自然なる思念の推動によりて善良なる者を思ふの場合も亦屡々これあり、然れども此をも神に献ぐべし、けだし我等が天性は神の造なればなり。されど我等が此れ〈即ち善良の思〉を仕遂げんことは神の誡命によらずんば能はざるを知るべし、即ち誡命を目前に置くある時は我等の心はこれによりて善良なる者を遂るに固めらるゝなり。
百四十一、 汝もしすべて善なる行を成しすべて誡命を守りし時は思を謙らんが為めに次にいふ所の言を記憶すべし、曰く『汝等すべて命ぜられし事をなせし時もいふべし無益の僕、為すべき事をなせしのみなり』と〔ルカ十七の十〕況や我等一の誡命を成すをも未だ得ざりし時に於てをや。かくの如く我等は常に思ひ善行に由りて己を責め且己れにつげていふべし我れ此の行の神に悦ばるゝや否を知らずと。神の旨に依りて作為するは大なる行なり、されども神の旨を成すは更に大なる行にしてこはすべての誡命を連合するなり。けだし神の旨に遵ひて何なりとも作為するは神の旨を成すに比すれば個々なる且細小なる行なればなり。故に使徒もいへり『後にある者を顧みずして前にある者を望む』〔フィリプ三の十三〕。それ彼は前進して及ばざる所幾ばくもなかりしといへども止まらずして常に己を見て不充分なるものと思へり、故にそれが為めに上達したりき。
百四十二、 もし誰か神を悦ばすの目的に依らずして善なる行を為すあらば此の善なる行は為す者の意志によりて悪なる者となるなり。人各々常に善なる行を為すに力を盡すべし。されば後来神の恩寵により其の行が最早神を畏るゝの畏れによりて成就すべきをも與へらるゝなり。
百四十三、 汝ぢ何の善をか為したるある時は汝は此の神の賜〈汝に與へられたる〉は神の仁慈に出づるを知るべし、けだし神は衆人を矜めばなり。されば神より汝にあらはされ引て悉くの罪人にも及ばんとする矜恤を汝は己の弱きによりて亡さゞらんが為めに自から己れに注意すべし。神より汝に善の為めに與へられしものを悪によりて失ふことなかれ、されど此の賜は汝が己を賞賛して汝に恩恵を施したる神を忘るゝある時は失はるゝなり。然のみならず汝は仁慈者たる神に感謝をさゝぐべき所の者を己れに帰するを敢てするや汝に定罪をも引くあらん。使徒はいへり『汝ぢ何のいまだ受けざりしものあるか、もしうけしならば何為ぞいまだうけざる者の如く誇るや』〔コリンフ前四の七〕。故に汝は決して誘はれて善行の為めに汝を賞賛する所の思念に依頼するなかれ。一切の善は神に属す。
百四十四、 諸聖人は聖神を己れに有するを賜はりて聖神の殿となるなり。聖書にいふあり『彼等に住り且歩み給へり』〔コリンフ後六の十六〕。罪人等は此れより遠ざかる、所の如し、曰く『睿智は悪なる霊に入らず』〔智慧書一の四〕。されど彼等は神の恩寵にて〈悔改の為めに〉守らるべし。
百四十五、 詩を唱ふに方り汝の心の高ぶらんとする時は録する所の言を憶ふべし、曰く『叛逆する者に自から誇るなからしむ』〔聖詠六十五の七〕。さて叛逆するするとは即ち神を畏るゝの畏れをもて聡明に歌はざるを意味するなり。詩を唱ふに方り汝の思の浮戯れざるや否を試すべし、さらば汝は其の浮戯るゝと又これに随て神に叛逆するとを必ず発見せん。
百四十六、 詩を唱ふに方り思念の為めに苦められ将た其れなくしても神の名を助けに呼ばんに敵は我に密につげていへらく神の名を間断なく呼ぶは虚誇に導くべし、けだし人は其時我れ善く行為すと思ふべければなりと、此の事をいかに思ふべきか。――それ病者の医と其治療とを常に要求し又漂流する者の溺没に遭ふを免れんが為め断えず避難所に達するに急にするは我等の知る所なり、此に由りて預言者も大に呼んでいふやう『主は世々に我等が避所たり』〔聖詠八十九の一〕又いふやう『神は我等が避所と能力なり患難の時には、速なる佑助なり』〔聖詠四十五の一〕。故に我等は患難の時に於て必ず緊要に矜恤なる神を呼ぶを学ばん。されども神の名を呼ぶも思にて誇らざるべし。愚者に非るよりは誰か人より助けをうけて自ら誇るか。されば我等は神に必要を有する者として敵に対して神の名を助けに呼ばんにもし無智にあらずんば思にて誇るべからざるなり、けだし必要によりて呼び憂ひて趨り附けばなり。然のみならず我等神の名を間断なく呼ぶはこれたゞ欲を殺すのみならず欲の働きをも殺す為の療法なるを我等は必ず知らざるべからず。医者が療法〈適当の〉若くは膏薬を求めて患者の疵に貼りて効あらんに、病者は其の如何に行はるゝを知らざるが如く実に其の如く神の名も呼ばれてたとひ其の行はるゝ所以を我等は知らずといへども悉くの欲を殺すなり。
百四十七、 我が思の静黙して擾さるゝなく煩はさるゝなしと我が意に思はるゝあらんに其時も主宰ハリストスの名を呼ぶことを学ぶは宜しきや否や。けだし思念は我れにつげていへらく今我等は平安に居れば此れに必要あるなしと。――我等己を罪人と認むる間は此の平安を有すと思ふべからず、けだし聖書にいふあり『罪人に平安ある無し』〔聖詠四十八の廿二〕。されば罪人に平安あるなくんば此の〈汝にあるの〉平安はいかなるものなるか。我等は恐る、けだし録していへるあり『人々平和安固なりといはん時忽ちにして滅亡は彼等を襲はん、妊婦に劬労の来るが如く人々避くるを得ざるべし』〔ソルン前五の三〕。されども亦神の名を呼ぶを廃せしめんが為に敵が狡計をもて心に暫時平穏を感ぜしむるの場合あり、けだし神の名を呼ぶによりて敵が無力にさるゝことは敵に知られざるにあらざればなり。此を知りて我等は神の名を助けに呼ぶをやめざらん、けだし是れ即ち祈祷なればなり、聖書にいふあり『間断なく祈祷せよ』と〔ソルン前五の十八〕。さて間断なきものは終り有らざるなり。
百四十八、 唱詩或は祈祷或は読経の時に当りあしき思念の生ずるあらばこれに注意し清き思念をもてこれに抵抗せんが為めに唱詩祈祷或は読経を一時中止するを要するか。――これを軽賤すべく唱詩祈祷若くは読経に更に子細に注意すべし、汝ぢ誦する所の言より力を借らんが為なり。されどももし敵の思念を研究し始むるあらんには敵がすゝむる所の者に注意して何の善をも永く為得るあらざらん。されば敵の狡猾が唱詩祈祷或は読経をに妨ぐるを見るあらば其時彼れと競争するなかれ、何となれば此れ汝の力の能くする所にあらざればなり、神の名を呼ぶに盡力せよ、さらば神は汝に助けて敵の詭計を空うせん。
百四十九、 祈祷、読経及び唱詩の時に感動をいかにして得べきか。――それ感動は間断なき想起より来る。故に祈祷する者は己の行と又其これに類する行を為す者のいかに審判せらるゝを心に想起すべし、視よ彼の恐るべき声は左の如し曰く『詛をうくる者は我を離れて永火に入れ』〔馬太二十五の四十一〕。さて読経と唱詩の時に当り感動の生ずるは人が其の心を起して誦する所の言に注意し其の言中に籠もる所の力を己の霊中に受くるにかゝるなり、其の善なるものは善徳に熱心なる者とならしめんが為め又悪の為めの報をいふものは悪を作す者に及ばんとするものを避けしめんが為めなるによる。されども此事を回想するを守りつるも其時にも所謂無感覚の尚汝に存するあらば弱わるなかれ、けだし我等が勉励をうくる所の神は仁慈に鴻恩に且寛容なればなり。唱詩者のいふ所を常に想起すべし、『我れ切に主を恃むに主は我に傾けり』〔聖詠三十九の一〕。此を学びて神の矜恤の速に汝に来らんことを望むべし。
百五十、 我れ唱詩者の言の旨趣を子細に推究するを勤むる時に其言よりして悪なる意思に移ること屡々これあり。――敵が唱詩の言に因み汝に向て戦を挑むに工夫を凝せるを汝ぢ察見する時に特別の勉励をもて詩の言の力に思を潜むるを勤めんは無用なるべし。注意と共に誘はれずしてこれを読むべし、けだし汝はたゞ詩の言を唱ふのみなるも敵は其の言の力を知りて汝に敵する能はざればなり、さればかゝる唱詩は汝の為に神に祈願するに代りて敵に勝つに資けん。
百五十一、 唱詩に練習するの間或は又人々と会見の時に諸の思念が汝を動揺せしむるあらんに我れ口にて神を呼ぶの便利あらずして心にて呼び或はたゞ神を想起するのみなる時は豈此れ我を助くるに不充分なるか。――それ唱詩の時にあたり或は人々と共にする時に汝に神を呼ぶべき場合あらんに汝は口づから発するなくんば神を呼ばざるものゝ如く思ふなかれ、彼は察心者にして心を見る者なるを記憶して汝の心中に於て彼を呼ぶべし。是れ聖書に述る所なり、曰く『爾の戸を閉ぢて隠微にある汝の父に祈祷せよ』〔馬太六の六〕。されば我等は口を閉ぢ心中に於て彼れに祈らん、けだし口を閉ぢて神を呼び或は己の心中に於て彼れに祈祷する者はこれこれを命ずる所の誡命を行ふなり。されども心中に神を呼ばずしてたゞ神を想起するのみならばこは更にいよ〳〵迅速〈便利〉なるべし而してこは汝を助くるに充分なりとす。
百五十二、 常に心に神を思念し或は言の助けを假らず中心に於て神に祈祷するは宜きや否や。或時我れ此事を練習し我が思の散乱に陥り宛ら夢中の妄想に在るが如きに遭遇したることあり。――智識の正を失はず放心或は妄想に力めて陥らざるは是れ即ち己の智識を統御し常に神を畏るゝの畏れによりてこれを保つを得る所の完全者の行なり。されども神の為めに恒なる清醒を有する能はざる者は舌にも教訓を與ふべし〈即ち舌を以ても神に祈るの言を復誦せしむべし〉此れに類するの事を我等は海を游ぐ者に於ても見るなりそれ彼の練達者は游泳の術を善く学び得たる者をば海の溺らす能はざるを知りて敢て自ら己を海中に投ず。されども此の術を学び始むる所の者は最早深處にあるを知りて溺れんを恐るゝにより急ぎて深處より岸上に游ぎ来り而して暫く休息して再び身を深處に投ず、かくの如くに練習するはこれ己れより先き既に此を学び得たる者の段に達せざらん迄は此の術を完全に識らんが為なり。
百五十三、 多くの事件の為めに祈祷する時は其の事件を各々祈祷に於て記憶すべきや否。――汝ぢ許多の事件の為に祈祷せんと欲せば神は我等何に於て必要を有するを知るにより左の如く祈祷すべし、主宰主イイスス ハリストスよ汝の旨に循て我を教へ給へと。されども欲の為めなる時はいふべし汝の旨に循て我を教へ給へと。誘惑の為めなる時はいふべし汝は我れに有益なる者を知る、我が弱きを助けて我れに汝の旨に循て誘惑より救はるゝを得しめ賜へと。
百五十四、 祈祷に於てはすべてを全能なる神の旨に托するやうに特に留心すべし、而して其の祈祷の目的は我等が願ふ所をして神の旨の如くならしめんことを要すべし。
百五十五、 読経の為め又は手工の為めに坐して祈祷せんと欲するに思念が我に勧めて東に向はしめんとするあらば我れいかに為すべきか。――坐するか将た行くか将た何に従事するか将た食ふか或は身体の需要の為に他の何事をか為しあらんに東に、否西に向ふべきの場合ありとも祈祷するに躊躇するなかれ、けだし我等は間断なく又いづれの時にもこれを行ふべしとの誡命をうけたればなり。たゞこれを行ふに軽忽を以てせざらんやうに留心すべし。
百五十六、 思念は我等に勧めていふやう汝はすべてに於て罪を犯す、故に毎言毎行毎思念につきていふべし我は罪を犯せりと、けだしもし我れ罪を犯せりといはざるならば是れ即ち己を罪を犯さゞりし者と思ふなりと。――我等は言に於ても行に於ても思に於てもすべて罪を犯すとの篤信を常に有すべし、されども何れの場合にも我れ罪を犯せりといふことは能はざるなり。是れ我等を失心に擠さんとする摩鬼等の勧むる所なり。されば我等が毎行此の如くにいはずんば我等は己を罪を犯さゞりし者とするものゝ如く我等に勧むるなり。然れども我等は伝道の書にいふ所を記憶す曰く『言ふに時あり黙するに時あり』〔伝道書三の七〕。されば朝には〈過ぎし〉夜の為め又晩れには昼の為めに我等が祈祷に於て痛悔と共に主宰たる神につげていはん、主宰よ汝の聖なる名の為めにすべてを我れに赦し給へ、我が霊を愈し給へ我れ汝に罪を得ればなりと〔聖詠四十の五〕。されば汝は此れ猶誰か常なる債主を有して彼より金を各時に借らんに毎々彼れと精確に決算し得べき有らずして一度に清還するものに似たり、此處に於てもかくの如くするなり。
百五十七、 唱詩の時に当り智識の迷ふある時は如何にすべきか。――もし放心によりて思ひ錯まるある時は回帰りて前に置く所の詩の我が記憶に存する言より始めよ。されども一度二度三度回帰りて汝の誦読が断れたる所の言を想起し難きあり或は想起したるも誦読を続くべき場所の見付け難きある時は同詩を最初より始めよ。敵の目的は忘るゝをもて頌讃に妨を為すにあり。前に置く所の詩を順序によりて読むは頌讃なり、されども此の時に放心せざることはたゞ其の清き心情を有する者にのみ能くすべし、さりながら我等は尚薄弱なり。されば我等は己の放心を認むるある時は読む所を理解せんが為めに醒心を回復せん、然らずんば頌讃は我等の為めに定罪とならん。
百五十八、 さて祈祷中智識の牽かるゝある時はいかに為すべきか。――神に祈祷して智識の牽かるゝある時は放心なくして祈祷するに至る迄は苦戦すべく又牽かれざらんやうに汝の智識を醒ますべし。されども此事の長く続く時はたとひ祈祷の終りに至るとも内に己を責め感動をもていふべし、曰く主よ我を矜み給へ我れに我が悉くの罪を赦し給へと。さらば汝は悉くの罪に於て赦をうけ祈祷の時に生じたる放心に於ても赦をうけん。
百五十九、 兄弟の詩をよむ時我等が思の時として平安に存するあり又時として牽かるゝあり。我れいかに為すべきか。――汝が思の平安に存して兄弟の誦読により感動をうくるを見る時は此の行を固く執るべし。されども汝の智識が他の思に誘はるゝを見る時は己を責むべく且己れをして兄弟の讃頌に心を留めしむべし。されどもし智識の重ねて誘はるゝを見る時は重ねてこれに禁ぜよ、而して三次に至る迄はかく為すべし。さりながら智識が存し止まる〈此れに〉時はこれを誦読より誘引すべし、されどもこれを閑散に置くなかれ、審判と永苦とを思はしむべく且神の聖なる名に祈祷していふべし、曰く主イイスス ハリストスよ我等を矜れみ給へ。
百六十、 もし誰か兄弟と共に唱詩に立ちて兄弟が読む所の詩を知らざるあらんにこれを聴くは己れに益あるか或は己の知る所の者をよむは更に益あるか。――兄弟が読む所の詩を知らざる者はこれを聴くに代へて自から知る所の者を読むと更に益あり、けだし放心は聴くと混ずればなり。
百六十一、 運動は〈悪念に対するの〉は〔ママ〕あしき思念に傾かず又これに同意せずして穏に神に趨り就くにあるべし。故に思念の入るあらば動揺するなかれ、思念の何を為さんと欲するを調査し穏に主を呼びてこれに敵すべし。主はイウデヤの地に来り、即ち人心に来りて悪魔を逐はん。故に彼れに呼ぶこと門徒の如くなるべし、曰く『主や我等を救ひ給へ我等亡びん』〔馬太八の二十五〕さらば彼は醒め起きて思念の風に禁じて風穏ならん、けだし彼れの力と栄とは世々にあればなり。