聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓
- 祈祷と清醒の事
九十一、 誰か我が為めに祈祷せよといふあらば己の心中に左の如くいふべし、曰く『願くは神は我等を矜まんを』と、此れにて足れり。されども彼を始終記憶することは是れ互に祈祷するを能くし得る完全者の行なり。
九十二、 〈淫慾に対し〉目を守るべし、飽くまで食するなかれ。敵の悉くの羅網を破壊するの謙遜を得よ。敵に譲るなかれ、左の如くいふて絶間なく祈祷すべし、曰く『主イイスス ハリストスや我を耻づべき欲より救ひ給へ』と、さらば神は汝を憐まん。それ人は己れに不注意なるにより、即ち其の先きに成し遂げたる事又は其れに類するの事を己の心に回想するをゆるすにより其の肉慾に誘はるることあり。もし思の此れに旋転するをゆるすあらばたとひ体を以てせずとも精神にて思念と同意するにより戦は増大して滅亡に至らん。かゝる人は自分の物に自分から火を點するなり。されば自ら惺々して己を悪しき記憶より懇に守るべし、これ自ら己に火を點せんを恐れて欲念の為めに引誘せられざらんが為めなり又逢迎と談話とより及びすべて罪に致すの端緒より遠ざからんが為めなり。すべて汝の生活の秩序をも此れに適準せしむべし。謙遜と涕泣とを愛すべくすべてに於て我意を断離するに苦辛すべし。談話の為に己を弱らすなかれ、けだし談話は汝をして神の為に大に発達するを得しめざればなり。汝の感覚の諸機関、即ち視ると聴くと嗅ぐと味ふ触るゝの諸官を力を用ひて勒制すべし、さらば汝はハリストスの恩寵により大に発達せん。慎んで汝の家宝をハルデヤ人に示すなかれ、〔列王記下二十の十二―十八〕然らずんば彼等は汝を俘にしてワワィロンの王ナウホドノソルに引率せん〔列王記下二十四の十三〕〈是言意は自から己れに誇るなかれ、けだし此れに由り己の霊宝を魔鬼に示して魔鬼は汝を捕ふべければなりと〉。イイススを得んが為めに彼れに趨り付くべし、もし大に発達せんと欲せば自ら勤苦すべし。
九十三、 堅固の心をもて慾念に抵敵すべし、けだし格闘者にして苦戦するあらずんば栄冠を蒙らざるべければなり。修道士の行は戦を忍耐すると心の勇気をもて彼れと対立するにあり。さて余〈父ワルソノフィイ〉は少年の時淫慾の鬼にしば〳〵強く誘はれたりしがかゝる思念に対して戦ひこれを抗拒しこれと相和せず永遠の苦を自ら己の目前に想像しつゝ苦辛したりき。五年の間余は日々かくの如く行為したりしに神は我を此の思念より弛め給へり。間断なき祈祷と涕泣とは此の戦を空うせん。
九十四、 耻づべき諸欲より自から救はれんと欲せば何人とも自由に交際するなかれ。此れに由りて汝は浮誇より免れん、けだし浮誇には諂諛が混合せらるべく諂諛には自由の交際が混合せらるべくして自由の交際は悉くの欲の母なればなり。
九十五、 智より速なるものはあらじ、すべての必要の時これを挙げて神に向はしむべし、さらば彼は汝に要用なる教訓将た要用なる助けを與へん。
九十六、 中心の憂愁なくんば誰れも思念を見分るの才能を得ざらん。されども神が人に此の才能を與ふる時は彼は常に神の神をもて思念を見分ることを最早能くし得ん。
九十七、 思慮の賜を得んが為めに我等の心の何を勤むべきことを我れに教へよ、又神を念ふ間断なき記憶の事を書るし給へ。――それ汝が心の勤労は神に間断なく祈祷するにあるべし、願くは神は汝をして自ら迷はしめず将た其の一己の望みに従はしめざらん。此れに由りて汝は思慮を得ん。されども不断の記憶即ち教訓に基礎を据うべし、畏るゝことなかれ、神は汝を固め且汝を確定せん。尚汝は弱らずんば穫るを得んとの希望をもて播くべし。〔コリンフ前九の十、ガラティヤ六の三〕。
九十八、 熱心は時として来り又時として去る、神を念ふ記憶は或は熱心にて守られ或は勉強して僅に保持せらる、然のみならず心は我が欲するなくして偏僻なる或は無智なる記憶を出し或は時ならざる思念を出だす、如何にすべきや。――中心の憂愁をもて熱心と祈祷とを得るを自ら勤むべし、さらば神は汝に常にこれを得せしめん。不注意の為に自から生ずる所の遺忘は彼等を逐出すべし。清醒の賜は諸の思念の入るを許さゞるべく、もし入るあるも其をして害を為さしめざるべし。神は願くは汝に清醒と不眠とを與へん。
九十九、 自ら弱わるなかれ、尚時を有する間に練習すべく自ら謙遜すべし、順良なれ、服従せよ、さらば謙遜なる者に恩寵を與へ驕傲なる者に反対する神は汝に助けん〔ペートル前五の五〕。間断なくいふべし『イイススや我に助けよ』と、さらば助け給はん。
百、 朝にはいさゝか心内に存すれども其後事は交々汝を牽引し晩に及んで発見せらるゝは空虚なり昏迷なり及び失心なり、如何かすべき我れ亡びん。――汝は此によりて望を絶つべからず。舵手は其舟の波にうたるゝ時救に望を絶たず湊に漕よする迄は舟を御するなり。此の如く汝も事に引誘せられて放心せしを見ば預言者と共にいふて己を其途の始めに呼戻すべし、曰く『我れ言へり今始めたり』〔聖詠七十六の十一、希伯来原文に依る〕。且又己が内部の行為より離れずして其の遇ふ所の事を撿みしいかにこれを処理すべきを考ふべし。神の為めに慮るの配慮は霊魂の救に於て行ひ且遂ぐる所の霊神上の行為なり。己れに最必要なる事をもて限りを定め区々たる小事の為に己を累さゞらんことを及ぶ丈尽力すべし。聡明に己れに注意せよ、さらば神は汝に助けん。
百一、 願くは主は汝ぢの諸の事に於て聡明に行ふを得んが為めに汝に霊智を與へ給はんことを。己の舌を空談より禁じ腹を嗜甘より禁じて近者を怒るなかれ。過甚なるなかれ、己を虚しきものと思ふべし、衆人に愛を守るべく、何時か神の面前に現はるべきを記憶して常に己の心に神を有すべし、〔聖詠四十一の三〕此を守るべし。さらば汝の地は神に百倍の果を献らん。
百二、 己を虚うすとは如何なる意か。――己を何人とも比べず善行に就ては我れこれを成せりといはざるを謂ふなり。すべてを失はざらんが為めに高慢を戒むべし。
百三、 我れいまだまろ〳〵〔ママ〕の造物より己を卑く視るべき所以の者を有せず、されども己の良心を試す時は己れもろ〳〵の造物より卑く見るに当る者なるを発見す。――今や汝は正路に入りぬ。これ最真理なり。神は己を卑く視るの量に汝を導かん。
百四、 いかなる途によりて速に救に達するを得べきか、労苦か将た謙遜か。――眞実の労苦は謙遜なしに成る能はず、けだし労苦は自づから徒然に帰して無となるべければなり。聖書にいふ『我の謙遜と我の労苦とを眷みて我がすべての罪を赦し給へ』〔聖詠二十四の十八〕。ゆゑに謙遜を労苦と合する者は速に達せん〈目的を〉。謙遜と自卑〈外部の状態に於るの自卑〉とを有するものも亦達せん、けだし自卑は労苦に代るべければなり。されどたゞ一の謙遜のみを有する者はたとひ進歩すといへども左程速に達するにあらず。眞の謙遜を得んと願ふ者はいかなる場合に於て何を以てなりとも断じて己を尊視すべからず。眞実の謙遜は此に存す。
百五、 いかにして遺忘より救はるべきか。――主が来りて地に投ずる所の火をうくる者は〔ルカ十二の四十九〕遺忘と心の奪はるゝとを知らざらん、けだし常に此の火に触るればなり。試に物体の火を例に取るべし。人は何物に占領せられたるにせよ其上に熱炭を投ずるあらば其の誘惑に止まり居ることは最早少しも能はざらん。もし汝は心の奪はるゝと遺忘とより救はれんを欲せば己に霊火を得るの外にはその目的を達する能はざらん、けだしたゞ此の温煖によりて遺忘と心の奪はれとは消失すべければなり。されども此の火は神に向ふをもて得らるべし。もし汝の心が日夜哀痛して主を尋ぬるなくんば汝は大に発達することあたはざらん。されども若しすべて他事を擲ちて此れに従事するあらば此を達せん、止まりて識れよ〔聖詠四十五の十一〕。
百六、 謙遜はいかなる場合に於ても何事の為めにも己を尊視するあらざると萬事に於て我意を絶つと人々に従順なると外より我れに及ぼす所の事を心を撹すなくして忍耐するとにあり。真実の謙遜はかくの如し、されば虚誇は己に余地を見着けざらん。謙遜なる者は其の謙遜を言語に表するを要せず、彼の為めには『我を免るせよ或は我が為めに祈祷せよ』といふて足るなり。又謙遜なる者は下賤なる事を自から求めて為すを要せず、けだし彼れも此れも虚誇に導き進歩に妨げ益よりも害を生ずればなり、されども何か命せらるゝ所ある時は逆らはず聴従して行ふなり、これ大なる進歩に導くなり。自卑に二種類あり、一は心の自卑にして一は外よりうくる所の卑辱によりて生ずるの自卑なり。外よりうくる所の自卑は心の自卑より勝れり、けだし自ら己を卑うするは他よりうくる所の卑辱を忍耐するより易すければなり、何となれば後者は更に大なる悲痛を心に生ずるによる。
百七、 〈人々の賞賛する時己を謙りて其れに抗言するは宜しきや否〉――沈黙することは更に益あり。けだしもし誰か答ふるあらば是れ即ち賞賛をうくるなり、これ最早高慢なり。彼れもし謙遜して答ふと思はんもそれだに最早高慢なり、けだし彼れもし自から己の事をいふ所の言を同く他人より聴くある時は堪ふるあたはざるべし。
百八、 言語及び交際の自由も腹を喜ばすことも心の悲痛あるなく清醒と涕泣あるなくんばこれを止むる能はず。凡ての欲は人々が困苦して得る所の謙遜に克つなり。
百九、 哀哭は涙より生ぜずして涙は哀哭より生ず。もし人は他の罪に注意せずして独り己の罪を見るあらば哀哭を得ん。けだし此れに由りて彼の思念は収束せらるべく且かくの如くに収束しつゝ神に依るの悲哀を心に生ずべく〔コリンフ後七の十〕而して此の悲哀は涙を生ずるなり。
百十、 高慢するなかれ、何となれば此をもて己を害すればなり。諸父は己の思念に注意するが為めに時を定めたりき、言ふあり朝に自ら省みよ汝は夜をいかに過ごしゝやと、晩にも亦同く省みよ日をいかに過ごしゝやと。而して日中は諸の思念に煩はさるゝ時に自ら己を省察せよ。
百十一、 もし欲念の心に入るあらば何をもてこれを拒反すべきか、これに抵抗し或はこれに禁戒を発することを恰もこれに向つて怒るが如くするを以てすべきか、或は神に趨りつき其前に俯伏して己の弱きをあらはすを以てすべきか。――それ欲は憂に同じ。されば主はこれを区別せずしていへらく『汝ぢ憂の日に我を呼べよ我れ爾を脱れしめん、此を以て汝は我を讃栄せん〔聖詠四十九の十五〕。是故にすべての欲に対して神の名を呼ぶより有益なるはあらじ。されども抵抗することは何れの人にも適するにあらずしてたゞ其の魔鬼が服従すべき所の神によりて有力なる者に適す。さればもし誰か無力にして抵抗すと。又魔鬼に対して権を有する大人の行も亦同く魔鬼に禁ずべし。諸聖人中魔鬼に禁ずること首天使ミハイルの如く権を有したるによりて此を成し遂げたる者果して多きか。されども我等荏弱なる者にありてはたゞイイススの名に趨り附くべきあるのみ、
けだし欲は既にいひしが如く即ち魔鬼なり、されば彼等は退かん〈此の名を呼ぶにより〉。
百十二、 己れに注意すべく誡命を行ふに百方尽力すべし。されど何に於てか勝たるゝある時は弱わるべからず、望を絶つべからず、更に起くべし、さらば神は汝に助けん。常に哀哭をもて主の仁慈の前に己を投ずべし、願くは汝を欲より脱れしめん。
百十三、 多くの人に接して談話するを避けよ、けだし怠慢と薄弱と不従順と暴戻とはこれより生ずればなり。
百十四、 思念は我れにつげていへらく沈黙は何よりも最入用にして彼は我れに益ありと、思念がかくの如く我に勧むるは果して当を得るか。――それ沈黙とは與ふべく又は受くべき所の者と美食又は其他これに類するの行為とより己の心を止むるにあるに非ずや。主が賊にかゝる者の譬をもて学士を責め且問ひて誰か彼に近き者かといひし時学士は答へて『彼れに矜恤を行ひし者是なり』といへり〔ルカ十の三十七〕又聖書に主は『矜恤を欲して祭を欲せず』〔馬太十二の十七〔ママ〕[1]〕といへり。もし汝は祭よりも矜恤の勝るを信せば汝の心を矜恤に傾くべし。沈黙は人が自から得るある、即ち無玷を得るに先だちて自慢に赴くの縁由を人に與ふるなり。真実の沈黙の位置を有するはたゞ人が最早十字架を負ふたる時にあるのみ。ゆゑに汝は憐む〈近者を〉あらば助けをうけん、されどもし汝の量を越て高く上らんと欲し己を憐みより止むるあらんには知るべし汝は有る所のものをも併て失ふを。ゆゑに内部に於ても外部に於ても偏らずして其中を執るべし『主の旨のいかなるを悟るべし、蓋し時悪ければなり』〔エフェス五の十六〕。
百十五、 内部に於ても外部に於ても偏らずして中を執れとは何を謂ふか。――是れ即ち人の為めに慮る配慮の中に在る時は沈黙を敢てせず又己れに怠慢ならざるを謂ふ。是れぞ墜落の危険あらざるの中道なる、沈黙によりて〈独り自ら居る時は〉謙遜を有すべし、されど配慮の中にある時は己れに儆醒すべく己の思念を止むべし、而して是皆一定の時を以て限られざるなり、況や日を以てをや。
百十六、 己の思念を黙すべからず、けだし己の思念を隠す者は癒されずに存すべし、さればたゞ其の思念をしば〳〵神父に質問するによりて矯正せらるゝなり。
百十七、 誰か己の群〈思念〉を守ることイアコフの如くするあらば睡眠は彼れより退かん、されば彼れいさゝか睡りかゝるあらんも彼の睡眠は他人の儆醒に同しからん、けだし心の燃ゆる火は彼をして睡眠に耽るに至らしめざるべく彼は太闢と共に歌はん、曰く『我が目を明にして我を死の寝りに寝ねざらしめ給へ』〔聖詠十二の四〕此る程度に達して既にその甘味を嘗めたる者は言ふ所の事を了解せん、かゝる人は人の嗜好の眠りに熟睡せずしてたゞ天然の眠を利するなり。
百十八、 汝ぢ奉事の時に当りて神の為めに目を瞑するあらんに汝の思念の集中するあらばたとひ汝と共に立つ所の兄弟等の為めに奇怪に思はるゝとも注意を向けるあるなかれ。
百十九、 先づ枝葉にて披茂るべし、其後神が命ずるある時は果実をもあらはすべし。
百二十、 憂愁するなかれ、主の汝に助をあらはさゞる間は仆れつ起きつ失脚しつゝ又己を責めつゝあるべし、たゞ怠慢なるべからず、即ちたゞ自分の力に応じて己れに注意せよ、さらば神は汝を助けん。
百二十一、 心の擾れと共に何もいふべからず、何となれば悪は善を生まざればなり、汝の思の静まる迄は忍耐せよ、而して静まる時に穏に〈匡正に要用なる所のものを〉いふべし。
百二十二、 驕傲と自義と浮誇とを戒めてこれに対するに謙遜と神を畏るゝの畏れと思慮とを以てすべし。汝の力に応じて此等の徳行を守るを努めよ、さらば神は汝に助けん。
百二十三、 誰か己の思念につげて『我と神と即ち世に唯我等のみなり、さればもし彼の旨を行はずんば最早彼れに属するにあらずして他に属するなり』といふか神をいかに迎へんを記憶して日々に自ら体より出去るを待つか、――かくの如き者は救の路を探り得たるなり。
百二十四、 神を畏るゝの畏れを以て己れに注意せん、而してもし善心なる神の仁慈に依り我等に戦を緩減し給ふあらば其時にも油断あるべからず、けだし多くの人は既に援助をうけ己れに油断して倒まに仆れたればなり。然れども我等は緩減をうけて神の我等を救ひしを〈記憶して〉感謝せん、又其の同じき欲にも他の罪にも再び陥らざらんが為めに祈祷に止まらん。かくの如くもし誰か大食して胃脾或は肝臓の病にかゝるあらんに医の親切と知識とによりて癒さるゝあらば己に経たる危きを記憶してあしき容躰に再び帰らざらんが為めに最早自ら油断に耽らざらん。主も其のいやせし者に告げて曰く『視よや汝は愈たり罪を犯すなかれ恐くは患にかゝること前よりも甚しからん』〔イオアン五の十四〕。よろしき兵士は常に平和の時に作戦の術を講ず、けだし戦時は戦の為めに欠く可らざる所の者を便宜に学ぶを許さゞればなり、言ふあり『備あれば擾されず』〔聖詠百十八の六十〕。人は最後の際に至るまで戦の配慮なくんばあるべからず、然らずんば姦猾なる敵、即ち『主が其口の気をもて我れより亡すべき者』〔ソルン後二の八〕の虜となるの運命に陥らん。老人のいひしを記憶せよ、曰くもし人は新天新地を造るありとせんに其時にも人は配慮なくんばあるべからず。
百二十五、 使徒パウェルは忍耐の力を論じて次の如く書せり、曰く『汝に要用なるものは忍耐なり、神の旨を行ふて約束のものをうけんが為めなり』〔エウレイ十の三十六〕。ハリストスと共に十字架に上らんと欲する者はハリストスと苦みを與にする者となるべし。
百二十六、 遺忘の事をいはん『我が呻吟の声により我が餅を食ふを忘るゝ』〔聖詠百一の六〕に到りし者は敵たる遺忘の勝つ所とならざらん。
百二十七、 もし困苦の為めに憂愁するあらずんば謙遜を得ん。而して謙遜を得る時は罪の赦をもうけん、けだしいふあり『我が謙遜と我が困苦とを顧みて我がすべての罪を赦し給へ』〔聖詠二十四の十八〕。謙遜する時は恩寵をうけ而して恩寵は汝に助くるなり。希望をもて神の業に注意せよ、さらば神も汝の許可なしに汝の業を建てん。
百二十八、 長老に問ふを得ざる時はすべての事の為めに三たび祈祷すべし。さてかゝりし後心が何方に傾くを毫末と雖察視すべく此の如くにして行ふべし、けだし報道は顕然と有るべくどうでも心は了會せらるゝあらん。
百二十九、 何をか偽知識〈偽称智慧〉といふか。――事は果して我が意ふ如くなれりと己の思念を信ずる是なり、此れより脱せんを願ふ者は何に於ても己の思念を信せず、すべてを其の長老に問ふべし。
百三十、 もし救はれんことを願はゞ悔改すべくすべて汝に死を蒙らしむる所のものを絶ち太闢と共にいふべし、曰く『今始めたり』〔聖詠七十六の十一〕。故に今より我意と自義と傲慢と等閑とをすてゝこれに代へて謙遜と従順と温柔とを守るべし。全く己を卑しき者と思ふべし、さらば救はれん。
百三十一、 我意を絶つとは、善なる事に於ては我意を絶ちて聖者の意を行ひ悪なる事に於ては己れ自から悪を避くるにあり。
- ↑ 投稿者注:「馬太十二の十七」は「馬太十二の七」の誤りだと思われる。