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- 0002 大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あめ)の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙(けぶり)立ち立つ 海原は 鴎(かまめ)立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島(あきつしま) 大和の国は 天皇の宇智の野(ぬ)に遊猟(みかり)したまへる時、中皇命(なかちひめみこ)の間人連老(はしひとのむらじおゆ)をして献らせたまふ歌…32キロバイト (5,788 語) - 2019年4月2日 (火) 14:37
- 踏み通り 国覓(ま)ぎしつつ ちはやぶる 神を言向け まつろはぬ 人をも和(やは)し 掃き清め 仕へまつりて 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国の 橿原(かしばら)の 畝傍(うねび)の宮に 宮柱 太知り立てて 天(あめ)の下 知らしめしける…70キロバイト (12,797 語) - 2019年4月2日 (火) 14:38
- 養老七年癸亥夏五月幸于芳野離宮時笠朝臣金村作歌一首[并短歌] [原文]瀧上之 御舟乃山尓 水枝指 四時尓<生>有 刀我乃樹能 弥継嗣尓 萬代 如是二<二>知三 三芳野之 蜻蛉乃宮者 神柄香 貴将有 國柄鹿 見欲将有 山川乎 清々 諾之神代従 定家良思母 [訓読]瀧の上の 三船の山に 瑞枝さし 繁に生ひたる 栂の木の いや継ぎ継ぎに…166キロバイト (35,332 語) - 2023年9月5日 (火) 15:40
- 蜻嶋 八間跡能國者 [訓読]大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は [仮名]やまとには むらやまあれど とりよろふ あめのかぐやま のぼりたち くにみをすれば くにはらは けぶりたちたつ うなはらは かまめたちたつ…92キロバイト (19,758 語) - 2024年8月3日 (土) 01:53
- 湯原王(ゆはらのおほきみ)の芳野にてよみたまへる歌一首 0375 吉野なる夏実(なつみ)の川の川淀に鴨ぞ鳴くなる山影にして 湯原王の宴の席(とき)の歌二首 0376 蜻蛉羽(あきづは)の袖振る妹を玉くしげ奥に思ふを見たまへ我君(わぎみ) 0377 青山の嶺の白雲朝に日(け)に常に見れどもめづらし我君(わぎみ)…63キロバイト (11,801 語) - 2019年4月2日 (火) 14:37
- ずに行けばつけ込むごまの灰。就虫(さなだ)の物蟷螂(かまかけ)と、ねがけかゝるを蚋(あぶ)ないと、蜂払ふやう払ひのけ、無難に道を行く事は、御蔭参りの蜻蛉(かげらふ)と、しんしん肝に銘じつゝ、鈴虫の音のいさぎよく、伊勢の宮居に蠅礼し、二見の浦の蛤も、むしの縁かと思はれつ。脚津の里を打過ぎて、又かへる子…85バイト (16,791 語) - 2024年3月24日 (日) 09:05
- 螂(たうらう)が斧をいからかして、龍車に向ひ、ちゝうがあみにあひをなすに似たり。武勇といひ智謀といひ、天竺(てんぢく)震旦(しんたん)は知らず、日本蜻蛉洲(あきつす)の内には、両御所に肩を列(なら)ぶべき人やあると咡(つぶや)きけれども、浪人共の悪意見(あくいけん)に附かせ給ひけるは、秀頼の御運の末…5キロバイト (22,925 語) - 2024年2月5日 (月) 07:57
- ますらたけをを 先に立て 靫取り負ほせ 山川を 岩根さくみて 踏み通り 国求ぎしつつ ちはやぶる 神を言向け まつろはぬ 人をも和し 掃き清め 仕へまつりて 蜻蛉島 大和の国の 橿原の 畝傍の宮に 宮柱 太知り立てて 天の下 知らしめしける 天皇の 天の日継と 継ぎてくる 君の御代御代 隠さはぬ 明き心を すめらへに…214キロバイト (47,875 語) - 2023年9月5日 (火) 15:44
- )には件(くだり)の比(ころ)より日本と書(かき)て送られけるにや。又此国をば秋津州(あきづしま)といふ。神武天皇国のかたちをめぐらしのぞみ給て、「蜻蛉(あきづ)の臀舐(となめ)の如くあるかな。」との給しより、此名ありきとぞ。しかれど、神代(かみよ)に豊秋津根(とよあきづね)と云名あれば、神武にはじ…373キロバイト (76,412 語) - 2023年8月17日 (木) 14:28
- 論」七月號のも拜讀いたしました。その中で、三十五頁の十三行目に、「大阪平野の景色」云々といふところは河内平野ではないかと思ひます。或ひは河内平野の方がよいかと思ひます。あの邊の淀川は河内(現在北河内郡)を流れて居りますから。大變失禮ですが、一寸氣がつきましたので御參考に申し上げる次第です。』として…282キロバイト (57,833 語) - 2021年5月19日 (水) 16:37
- 現はれ、この前後流行する說話文學の一頂點をなしてゐる。次に日記·紀行としては先づ紀貫之の土佐日記があり、女流の日記には藤原兼家のたか すゑ妻が記した蜻蛉日記を始め、和泉式部日記、紫式部日記、菅原孝標の女の更科日記、また讚岐典侍日記等がある。當時男子は主として漢文を以て文章を記したのに對し、女子は自由…681キロバイト (152,736 語) - 2024年1月27日 (土) 18:08