万葉集 (鹿持雅澄訓訂)/巻第三

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巻第三みまきにあたるまき


雑歌くさぐさのうた


天皇すめらみこと雷岳いかつちのをか御遊いでませる時、柿本朝臣人麻呂がよめる歌一首ひとつ

0235 おほきみは神にしませば天雲あまくもいかつちいほりせるかも

     右、或ルマキニ云ク、忍壁皇子オサカベノミコニ献レリ。其ノ歌ニ曰ク、

    おほきみは神にしませば雲がくる雷山に宮敷きいま


天皇の志斐嫗しひのおみなに賜へる御歌おほみうた一首

0236 いなと言へど強ふる志斐のが強語しひかたりこのごろ聞かずてあれ恋ひにけり

志斐嫗がこたまつれる歌一首

0237 いなと言へど語れ語れとらせこそ志斐いはまをせ強語と


長忌寸意吉麻呂ながのいみきおきまろみことのりうけたまはりてよめる歌一首

0238 大宮の内まで聞こゆ網引あびきすと網子あこ調ととのふる海人の呼び声

     右一首。


長皇子の猟路野かりぢぬ遊猟みかりしたまへる時、柿本朝臣人麻呂がよめる歌一首、また短歌みじかうた

0239 やすみしし 我が大王おほきみ 高光る 我が日の皇子の

   馬めて 御狩立たせる 若薦わかこもを 猟路の小野に

   ししこそは い匍ひをろがめ 鶉こそ い匍ひもとほ

   ししじもの い匍ひをろがみ 鶉なす い匍ひもとほ

   かしこみと 仕へまつりて 久かたの あめ見るごとく

   真澄鏡まそかがみ 仰ぎて見れど 春草の いやめづらしき 我が大王かも

反し歌一首

0240 ひさかたの天行く月をつなに刺し我が大王はきぬかさにせり

     或ル本ノ反歌一首

 0241 おほきみは神にしませば真木の立つ荒山中に海を成すかも


弓削皇子ゆげのみこ吉野よしぬいでませる時の御歌一首

0242 たぎの三船の山にゐる雲の常にあらむと我がはなくに

     或ル本ノ歌一首

 0244 み吉野の三船の山に立つ雲の常にあらむと我がはなくに

     右ノ一首ハ、柿本朝臣人麻呂ノ歌集ニ出デタリ。

春日王かすがのおほきみの和へ奉れる歌一首

0243 おほきみは千歳にさむ白雲も三船の山に絶ゆる日あらめや


長田王ながたのおほきみ筑紫つくしに遣はされ水島を渡りたまふ時の歌二首ふたつ

0245 聞きし如まこと貴くくすしくもかむさびますかこれの水島

0246 葦北の野坂の浦ゆ船出して水島に行かむ波立つなゆめ

石川大夫いしかはのまへつきみが和ふる歌一首

0247 沖つ波辺波へなみ立つとも我が背子が御船のとまり波立ためやも

又長田王のよみたまへる歌一首

0248 隼人はやひとの薩摩の瀬戸を雲居なす遠くもあれは今日見つるかも


柿本朝臣人麻呂が覊旅たびの歌八首やつ

0249 御津の崎波をかしこ隠江こもりえの船寄せかねつ野島ぬしまの崎に

0250 玉藻刈る敏馬みぬめを過ぎ夏草の野島の崎に舟近づきぬ

0251 淡路の野島の崎の浜風に妹が結べる紐吹き返す

0252 荒布あらたへの藤江の浦にすずき釣る海人とか見らむ旅行くあれ

0253 稲日野いなびぬも行き過ぎかてに思へれば心恋こほしき加古の島見ゆ

0254 燭火ともしびの明石大門おほとに入らむ日や榜ぎ別れなむ家のあたり見ず

0255 天ざかるひな長道ながちゆ恋ひ来れば明石のより大和島見ゆ

0256 飼飯けひの海の庭よくあらし苅薦の乱れ出づ見ゆ海人の釣船

     一本ニ云ク、

    武庫むこの海の船にはあらしいざりする海人の釣船波のゆ見ゆ


鴨君足人かものきみたりひとが香具山の歌一首、また短歌

0257 天降あもりつく あめの香具山 霞立つ 春に至れば

   松風に 池波立ちて 桜花 木晩このくれ茂み

   沖辺には 鴨妻呼ばひ 辺つに あぢむら騒き

   ももしきの 大宮人の 退まかり出て 遊ぶ船には

   楫棹かぢさをも なくてさぶしも 榜ぐ人なしに

反し歌二首

0258 人榜がず有らくもしるかづきする鴛鴦をし沈鳧たかべと船のに棲む

0259 いつの間も神さびけるか香具山の桙杉の本に苔むすまでに

     或ル本ノ歌ニ云ク

 0260 天降りつく 神の香具山 打ち靡く 春さり来れば

    桜花 木晩茂み 松風に 池波立ち

    辺つ方は あぢ群騒き 沖辺は 鴨妻呼ばひ

    ももしきの 大宮人の 退り出て 榜ぎにし船は

    棹楫さをかぢも なくて寂しも 榜がむとへど


柿本朝臣人麻呂が新田部皇子にひたべのみこに献れる歌一首、また短歌

0261 やすみしし 我が大王 高光る 日の皇子

   敷きす 大殿のに 久方の 天伝あまづたひ来る

   雪じもの 往き通ひつつ いやしきいま

反し歌一首

0262 矢釣やつり山木立も見えず降り乱る雪に騒きて参らくよしも


刑部垂麿おさかべのたりまろが近江国より上来まゐのぼる時よめる歌一首

0263 いたく打ちてな行きそ並べて見ても我が行く志賀にあらなくに


柿本朝臣人麻呂が近江国より上来る時、宇治河うぢかはほとりに至りてよめる歌一首

0264 物部もののふ八十やそ宇治川の網代木あじろきにいさよふ波の行方知らずも


長忌寸奥麻呂が歌一首

0265 苦しくも降り来る雨かかみの崎狭野の渡りに家もあらなくに


柿本朝臣人麻呂が歌一首

0266 淡海あふみ夕波千鳥が鳴けば心もしぬにいにしへ思ほゆ


志貴皇子の御歌一首

0267 むささびは木末こぬれ求むと足引の山の猟師さつをに逢ひにけるかも


長屋王の故郷ふるさとの歌一首

0268 我が背子が古家ふるへの里の明日香には千鳥鳴くなり君待ちかねて


阿倍女郎あべのいらつめ屋部坂やべさかの歌一首

0269 しぬひなば我が袖もちて隠さむを焼けつつかあらむ着ずてしけり


高市連黒人が覊旅たびの歌八首

0270 旅にして物こほしきに山下のあけ赭土船そほぶね沖に榜ぐ見ゆ

0271 作良さくら田へたづ鳴き渡る年魚市潟あゆちがた潮干にけらし鶴鳴き渡る

0272 四極しはつ山打ち越え見れば笠縫かさぬひの島榜ぎ隠る棚無小舟たななしをぶね

0273 磯の崎榜ぎみ行けば近江の八十の水門みなとに鶴さはに鳴く

0274 我が船は比良ひらの湊に榜ぎてむ沖へなさかりさ夜更けにけり

0275 いづくには宿らなむ高島の勝野の原にこの日暮れなば

0276 妹もあれも一つなれかも三河なる二見の道ゆ別れかねつる

     一本、黒人ガ妻ノ答フル歌ニ云ク、

    三河なる二見の道ゆ別れなば我が背もあれも独りかも行かむ

0277 早来ても見てましものを山背やましろの高槻の村散りにけるかも


石川女郎いしかはのいらつめが歌一首

0278 志賀しかの海女は昆布苅り塩焼きいとま無み髪梳くしげ小櫛をくし取りも見なくに


高市連黒人が歌二首

0279 我妹子わぎもこ猪名野ゐなぬは見せつ名次なすぎ山角つぬの松原いつか示さむ

0280 いざ子ども大和へ早く白菅しらすげ真野まぬ榛原はりはら手折たをりて行かむ

黒人がの答ふる歌一首

0281 白菅の真野の榛原往くささ君こそ見らめ真野の榛原


春日蔵首老かすがのくらびとおゆが歌一首

0282 つぬさはふ磐余いはれも過ぎず泊瀬山いつかも越えむ夜は更けにつつ


高市連黒人が歌一首

0283 住吉すみのえ得名津えなつに立ちて見渡せば武庫の泊ゆ出づる船人ふなひと


春日蔵首老が歌一首

0284 焼津辺やきづへが行きしかば駿河なる阿倍の市道いちぢに逢ひし子らはも


丹比真人笠麻呂が、紀伊国に往き、の山を超ゆる時よめる歌一首

0285 栲領巾たくひれの懸けまく欲しき妹の名をこの勢の山に懸けばいかにあらむ

春日蔵首老が即ち和ふる歌一首

0286 よろしなべが背の君が負ひ来にしこの勢の山を妹とは呼ばじ


志賀しがいでませる時、石上いそのかみまへつきみのよみたまへる歌一首

0287 ここにして家やも何処いづく白雲の棚引く山を越えて来にけり


穂積朝臣老ほづみのあそみおゆが歌一首

0288 我が命のまさきくあらば亦も見む志賀の大津に寄する白波


間人宿禰大浦はしひとのすくねおほうら初月みかつきの歌二首

0289 天の原振り放け見ればしら真弓張りて懸けたり夜道は行かむ

0290 倉椅くらはしの山を高みか夜隠よこもりに出で来る月の光ともしき


小田事主をだのことぬしが勢の山の歌一首

0291 真木の葉のしなふ勢の山偲はずてが越え行けば木の葉知りけむ


録兄麻呂ろくのえまろが歌四首よつ

0292 久方のあま探女さぐめが岩船の泊てし高津はせにけるかも

0293 潮干しほひの御津の海女の藁袋くぐつ持ち玉藻苅るらむいざ行きて見む

0294 風をいたみ沖つ白波高からし海人の釣船浜に帰りぬ

0295 住吉すみのえの岸の松原遠つ神我がおほきみ幸行処いでましところ


田口益人大夫たくちのますひとのまへつきみ上野かみつけぬ国司くにのみこともちけらるる時、駿河国浄見埼きよみのさきに至りてよめる歌二首

0296 廬原いほはらの清見が崎の三穂の浦のゆたけき見つつ物ひもなし

0297 昼見れど飽かぬ田子の浦大王のみこと畏み夜見つるかも


辨基べむきが歌一首

0298 真土山夕越え行きて廬前いほさき角太川原すみだがはらに独りかも寝む


大納言おほきものまをすつかさ大伴のまへつきみの歌一首

0299 奥山のすがの葉しぬぎ降る雪のなば惜しけむ雨な降りそね


長屋王の馬を寧樂なら山にとどめてよみたまへる歌二首

0300 佐保過ぎて寧樂の手向たむけに置くぬさは妹を目れず相見しめとそ

0301 岩が根の凝重こごしく山を越えかねてには泣くとも色に出でめやも


中納言なかのものまをすつかさ安倍廣庭あべのひろにはの卿の歌一首

0302 子らが家道やや間遠まとほきをぬば玉の夜渡る月にきほひあへむかも


柿本朝臣人麻呂が筑紫国に下れる時、海路うみつぢにてよめる歌二首

0303 名ぐはしき印南いなみの海の沖つ波千重に隠りぬ大和島根は

0304 大王の遠の朝廷みかどとありかよ島門しまとを見れば神代し思ほゆ


高市連黒人の近江の旧き都の歌一首

0305 かく故に見じと言ふものを楽浪ささなみの旧き都を見せつつもとな


伊勢国にいでませる時、安貴王あきのおほきみのよみたまへる歌一首

0306 伊勢の海の沖つ白波花にもが包みて妹が家苞いへづとにせむ


博通法師はくつうほうしが紀伊国に往きて三穂の石室いはやを見てよめる歌三首

0307 はたすすき久米の若子わくごいましけむ三穂の石室は荒れにけるかも

0308 常磐なす石室は今も在りけれど住みける人そ常なかりける

0309 石室戸いはやとに立てる松の樹を見れば昔の人を相見るごとし


門部王かどべのおほきみひむがしの市の樹を詠みたまへる作歌うた一首

0310 東の市の植木の木垂こだるまで逢はず久しみうべ恋ひにけり


按作村主益人くらつくりのすくりますひと豊前国とよくにのみちのくちよりみやこまゐのぼる時よめる歌一首

0311 梓弓引き豊国の鏡山見ず久ならばこほしけむかも


式部卿のりのつかさのかみ藤原宇合ふぢはらのうまかひの卿に、難波のみやこを改め造らしめたまへる時よめる歌一首

0312 昔こそ難波田舎と言はれけめ今は都と都びにけり


土理宣令とりのせむりやうが歌一首

0313 み吉野のたぎの白波知らねども語りし継げば古思ほゆ


波多朝臣少足はたのあそみをたりが歌一首

0314 小波さざれなみ礒越道いそこせぢなる能登瀬川音のさやけさたぎつ瀬ごとに


暮春之月やよひばかり、芳野の離宮とつみやに幸せる時、中納言大伴の卿のみことのりうけたまはりてよみたまへる歌一首、また短歌 奏上ヲザル歌

0315 み吉野の 吉野の宮は 山柄やまからし 貴くあらし

   川柄かはからし 清けくあらし 天地と 長く久しく

   万代に 変らずあらむ 行幸いでましの宮

反し歌

0316 昔見しきさの小川を今見ればいよよ清けく成りにけるかも


山部宿禰赤人が不盡山ふじのやまてよめる歌一首、また短歌

0317 天地の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴き

   駿河なる 富士の高嶺たかねを 天の原 振り放け見れば

   渡る日の 影も隠ろひ 照る月の 光も見えず

   白雲も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける

   語り継ぎ 言ひ継ぎゆかむ 不盡の高嶺は

反し歌

0318 田子たこの浦ゆ打ちて見れば真白くそ不盡の高嶺に雪は降りける


不盡山を詠める歌一首、また短歌

0319 なまよみの 甲斐の国 打ち寄する 駿河の国と

   此方此方こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる 不盡の高嶺は

   天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も びものぼらず

   燃ゆる火を 雪もちち 降る雪を 火もち消ちつつ

   言ひもかね 名付けも知らに くすしくも います神かも

   石花海せのうみと 名付けてあるも その山の つつめる海ぞ

   不盡川と 人の渡るも その山の 水のたぎちぞ

   日の本の 大和の国の 鎮めとも 座す神かも

   宝とも なれる山かも 駿河なる 不盡の高嶺は 見れど飽かぬかも

反し歌

0320 不盡の嶺に降り置ける雪は六月みなつき十五日もちぬればその夜降りけり

0321 富士の嶺を高み畏み天雲もい行きはばかり棚引くものを

     右ノ一首ハ、高橋連蟲麻呂ノ歌集ノ中ニ出タリ。

     類ヲ以テ此ニ載ス。


山部宿禰赤人が伊豫温泉いよのゆきてよめる歌一首、また短歌

0322 皇神祖すめろきの 神のみことの 敷きす 国のことごと

   湯はしも さはにあれども 島山の 宣しき国と

   凝々こごしかも 伊豫の高嶺の 射狭庭いざにはの 岡に立たして

   歌思ひ こと思はしし み湯のの 木群こむらを見れば

   臣木おみのきも 生ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変らず

   遠き代に 神さびゆかむ 行幸処いでましところ

反し歌

0323 ももしきの大宮人の熟田津にきたづふな乗りしけむ年の知らなく


神岳かみをかに登りて山部宿禰赤人がよめる歌一首、また短歌

0324 三諸みもろの 神名備山かむなびやま

   五百枝いほえさし しじに生ひたる つがの木の いや継ぎ嗣ぎに

   玉葛たまかづら 絶ゆることなく ありつつも 止まず通はむ

   明日香の 旧き都は 山高み 川透白とほしろ

   春の日は 山し見がほし 秋の夜は 川し清けし

   朝雲に たづは乱れ 夕霧に かはづは騒ぐ

   見るごとに のみし泣かゆ 古思へば

反し歌

0325 明日香河川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに


門部王の難波にいまして、漁父あま燭光いざりひを見てよみたまへる歌一首

0326 見渡せば明石の浦に燭す火の穂にぞ出でぬる妹に恋ふらく


或る娘子をとめ等、乾鰒ほしあはびを包めるを、通觀僧つぐわむほうしに贈りて、たはれに咒願かしりを請ふ時、通觀がよめる歌一首

0327 わたつみの沖に持ち行きて放つとも如何うれむぞこれが蘇りなむ


太宰少弐おほみこともちのすなきすけ小野老朝臣をぬのおゆのあそみが歌一首

0328 青丹よし寧樂の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり

防人司佑さきもりのつかさのまつりごとひと大伴四綱よつなが歌二首

0329 やすみしし我がおほきみの敷きせる国の中なる都し思ほゆ

0330 藤波の花は盛りに成りにけり平城ならの都を思ほすや君

かみ大伴の卿の歌五首

0331 が盛りまた変若ちめやもほとほとに寧樂の都を見ずかなりなむ

0332 我が命も常にあらぬか昔見しきさの小川を行きて見むため

0333 浅茅原つばらつばらに物へば故りにしさとし思ほゆるかも

0334 萱草わすれぐさ我が紐に付く香具山の古りにし里を忘れぬがため

0335 我がゆきは久にはあらじいめわだ瀬とは成らずて淵にありこそ

沙弥満誓さみのまむぜいが綿を詠める歌一首

0336 しらぬひ筑紫の綿は身に付けて未だは着ねど暖けく見ゆ

山上臣憶良やまのへのおみおくらが宴よりまかるときの歌一首

0337 憶良らは今は罷らむ子泣くらむの母もを待つらむそ


太宰帥おほみこともちのかみ大伴の卿の酒を讃めたまふ歌十三首とをまりみつ

0338 しるしなき物をはずは一坏ひとつきの濁れる酒を飲むべくあらし

0339 酒の名をひじりと負ほせし古の大き聖の言の宣しさ

0340 古の七のさかしき人たちもりせし物は酒にしあらし

0341 賢しみと物言はむよは酒飲みて酔哭ゑひなきするし勝りたるらし

0342 言はむすべ為むすべ知らに極りて貴き物は酒にしあらし

0343 中々に人とあらずは酒壷さかつぼに成りてしかも酒に染みなむ

0344 あなみにく賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む

0345 あたひなき宝といふとも一坏の濁れる酒にあに勝らめや

0346 夜光る玉といふとも酒飲みて心を遣るに豈かめやも

0347 世間よのなかの遊びの道にあまねきは酔哭するにありぬべからし

0348 今代このよにしたぬしくあらば来生こむよには虫に鳥にもあれは成りなむ

0349 生まるれば遂にも死ぬるものにあれば今生このよなる間は楽しくを有らな

0350 黙然もだ居りて賢しらするは酒飲みて酔泣するになほ及かずけり


沙弥満誓が歌一首

0351 世間よのなかを何に譬へむ朝開き榜ぎにし船の跡なきごとし


若湯座王わかゆゑのおほきみの歌一首

0352 葦辺あしへにはたづ鳴きて湊風寒く吹くらむ津乎つをの崎はも


釋通觀ほうしつぐわむが歌一首

0353 み吉野の高城たかきの山に白雲は行きはばかりて棚引けり見ゆ


日置少老へきのをおゆが歌一首

0354 なはの浦に塩焼くけぶり夕されば行き過ぎかねて山に棚引く


生石村主真人おふしのすくりまひとが歌一首

0355 大汝おほなむぢ少彦名すくなびこないましけむ志都しつ石室いはやは幾代経ぬらむ


上古麻呂かみのふるまろが歌一首

0356 今日もかも明日香の川の夕さらずかはづ鳴く瀬のさやけかるらむ


山部宿禰赤人が歌六首

0357 繩の浦ゆ背向そがひに見ゆる沖つ島榜ぎむ舟は釣しすらしも

0358 武庫の浦を榜ぎ廻む小舟をぶね粟島を背向に見つつともしき小舟

0359 阿倍の島鵜の住む磯に寄する波間なくこのごろ大和し思ほゆ

0360 潮干なば玉藻苅り籠め家の浜苞はまつと乞はば何を示さむ

0361 秋風の寒き朝開あさけ狭野さぬの岡越ゆらむ君に衣貸さましを

0362 雎鳩みさご居る磯廻いそみに生ふる名乗藻なのりその名はらしてよ親は知るとも

     或ル本ノ歌ニ曰ク

 0363 雎鳩居る荒磯に生ふる名乗藻のよし名は告らせ親は知るとも


笠朝臣金村が鹽津しほつ山にてよめる歌二首

0364 大夫ますらを弓末ゆすゑ振り起こし射つる矢を後見む人は語り継ぐがね

0365 鹽津山打ち越え行けばが乗れる馬ぞ躓く家恋ふらしも


角鹿津つぬがのつにて船に乗れる時、笠朝臣金村がよめる歌一首、また短歌みじかうた

0366 越の海の 角鹿の浜ゆ 大舟に 真楫まかぢき下ろし

   勇魚いさな取り 海路うみぢに出でて あべきつつ 我が榜ぎ行けば

   大夫ますらをの 手結たゆひが浦に 海未通女あまをとめ 塩焼くけぶり

   草枕 旅にしあれば 独りして 見るしるし無み

   海神わたつみの 手に巻かしたる 玉たすき 懸けて偲ひつ 大和島根を

反し歌

0367 越の海の手結の浦を旅にして見ればともしみ大和偲ひつ


石上大夫いそのかみのまへつきみが歌一首

0368 大船に真楫まかぢしじ貫き大王の命畏み磯廻するかも

和ふる歌一首

0369 物部もののふおみ壮士をとこは大王のまけまにまに聞くといふものぞ

     右、作者審カナラズ。但シ笠朝臣金村ノ歌集ノ中

     ニ出デタリ。


安倍廣庭の卿の歌一首

0370 小雨降りとのぐもる夜を濡れ湿づと恋ひつつ居りき君待ちがてり


出雲守いづものかみ門部王かどべのおほきみみやこしぬひたまふ歌一首

0371 飫宇おうの海の河原の千鳥が鳴けば我が佐保川さほかはの思ほゆらくに


山部宿禰赤人が春日野かすがぬに登りてよめる歌一首、また短歌

0372 春日はるひを 春日かすがの山の 高座たかくらの 御笠の山に

   朝さらず 雲居たなびき 容鳥かほとりの 間なくしば鳴く

   雲居なす 心いさよひ その鳥の 片恋のみに

   昼はも 日のことごと よるはも のことごと

   立ちて居て 思ひぞがする 逢はぬ子故に

反し歌

0373 高座の三笠の山に鳴く鳥の止めば継がるる恋もするかも


石上乙麻呂朝臣いそのかみのおとまろのあそみの歌一首

0374 雨降らば着なむとへる笠の山人にな着しめ濡れはづとも


湯原王ゆはらのおほきみの芳野にてよみたまへる歌一首

0375 吉野なる夏実なつみの川の川淀に鴨ぞ鳴くなる山影にして


湯原王の宴のときの歌二首

0376 蜻蛉羽あきづはの袖振る妹を玉くしげ奥に思ふを見たまへ我君わぎみ

0377 青山の嶺の白雲朝にに常に見れどもめづらし我君わぎみ


山部宿禰赤人が、おひてたまへる太政大臣おほきまつりごとのおほまへつきみの藤原の家の山池いけを詠める歌一首

0378 昔し旧き堤は年深み池の渚に水草みくさ生ひにけり


大伴坂上郎女おほとものさかのへのいらつめ祭神かみまつりの歌一首、また短歌

0379 久かたの 天の原より し 神の命

   奥山の 賢木さかきの枝に 白紙しらが付く 木綿ゆふ取り付けて

   斎瓮いはひへを 斎ひ掘り据ゑ 竹玉たかたまを しじき垂り

   ししじもの 膝折り伏せ 手弱女たわやめの おすひ取り懸け

   かくだにも あれひなむ 君に逢はぬかも

反し歌

0380 木綿畳ゆふたたみ手に取り持ちてかくだにもあれは祈ひなむ君に逢はぬかも

     右ノ歌ハ、天平五年冬十一月ヲ以テ、大伴ノ氏ノ神

     ニ供ヘ祭ル時、聊カ此歌ヲ作ル。故レ祭神歌ト曰フ。


筑紫娘子つくしをとめ行旅たびゆきひとに贈れる歌一首 娘子、字ヲ兒島ト曰フ

0381 家ふと心進むな風伺かぜまもり好くしていませ荒きその路


筑波岳つくはねに登りて、丹比真人国人たぢひのまひとくにひとがよめる歌一首、また短歌

0382 鶏が鳴く あづまの国に 高山は さはにあれども

   双神ふたかみの 貴き山の 並み立ちの 見が欲し山と

   神代より 人の言ひ継ぎ 国見する 筑波の山を

   冬こもり 時じく時と 見ずて行かば ましてこひしみ

   雪消ゆきけする 山道すらを なづみぞ

反し歌

0383 筑波嶺をよそのみ見つつありかねて雪消の道をなづみるかも


山部宿禰赤人が歌一首

0384 我が屋戸に韓藍からゐ蒔きほし枯れぬれど懲りずて亦も蒔かむとそ


仙柘枝ひじりのつみのえの歌三首

0385 霰降り吉志美きしみたけさがしみと草取りかねて妹が手を取る

     右ノ一首ハ、或ルヒト云ク、吉野ノ人味稲ウマシネ

     ノ柘枝仙媛ニ与フル歌ナリ。

0386 この夕へつみのさ枝の流れやなは打たずて取らずかもあらむ

     右一首。

0387 古に梁打つ人の無かりせばここにもあらまし柘の枝はも

     右ノ一首ハ、若宮年魚麻呂ワカミヤノアユマロガ作。


羇旅たびの歌一首、また短歌

0388 海神わたつみは あやしきものか 淡路島 中に立て置きて

   白波を 伊豫にもとほし 居待月ゐまちつき 明石の門ゆは

   夕されば 潮を満たしめ 明けされば 潮をしむ

   潮騒の 波を恐み 淡路島 磯隠いそがくり居て

   いつしかも この夜の明けむ とさもらふに の寝かてねば

   たぎの 浅野のきぎし 明けぬとし 立ちとよむらし

   いざ子ども あべて榜ぎ出む 庭も静けし

反し歌

0389 島伝ひ敏馬みぬめの崎を榜ぎめば大和こほしく鶴多さはに鳴く

     右ノ歌ハ、若宮年魚麻呂之ヲ誦メリ。但シ作者ヲ

     審ラカニセズ。


譬喩歌たとへうた


紀皇女きのひめみこの御歌一首

0390 輕の池の浦廻うらみもとほる鴨すらも玉藻の上に独り寝なくに


筑紫観世音寺造りの別当かみ沙弥満誓が歌一首

0391 鳥総とぶさ立て足柄山に船木ふなき伐り木に伐りきつあたら船木を


太宰大監おほみこともちのおほきまつりごとひと大伴宿禰百代が梅の歌一首

0392 ぬば玉のその夜の梅を忘れて折らず来にけり思ひしものを


満誓沙弥まむぜいさみが月の歌一首

0393 見えずともたれ恋ひざらめ山の端にいさよふ月をよそに見てしか


金明軍こむのみやうぐむが歌一首

0394 しめ結ひて我が定めてし住吉すみのえの浜の小松は後も我が松


笠郎女かさのいらつめ大伴宿禰家持おほとものすくねやかもちに贈れる歌三首

0395 託馬野つくまぬに生ふる紫草むらさきころもめ未だ着ずして色に出でにけり

0396 陸奥みちのく真野まぬ草原かやはら遠けども面影にして見ゆちふものを

0397 奥山の磐本菅いはもとすげを根深めて結びし心忘れかねつも


藤原朝臣八束やつかが梅の歌二首

0398 妹がに咲きたる梅の何時も何時も成りなむ時に事は定めむ

0399 妹がに咲きたる花の梅の花実にし成りなばかもかくもせむ


大伴宿禰駿河麻呂するがまろが梅の歌一首

0400 梅の花咲きて散りぬと人は言へど我が標結ひし枝ならめやも


大伴坂上郎女が、親族うがらと宴する日、うたへる歌一首

0401 山守やまもりのありける知らにその山に標結ひ立ててゆひの恥しつ

大伴宿禰駿河麻呂が即ち和ふる歌一首

0402 山守はけだしありとも我妹子わぎもこが結ひけむ標を人解かめやも


大伴宿禰家持が同じ坂上さかのへの家の大嬢おほいらつめに贈れる歌一首

0403 朝にに見まく欲しけきその玉を如何にしてかも手ゆれざらむ


娘子をとめが佐伯宿禰赤麿にこたふる贈歌うた一首

0404 ちはやぶる神のやしろし無かりせば春日の野辺に粟蒔かましを

佐伯宿禰赤麿がまた贈れる歌一首

0405 春日野に粟蒔けりせば鹿しし待ちに継ぎて行かましを社し有りとも

娘子がまた報ふる歌一首

0406 は祭る神にはあらず大夫ますらをに憑きたる神ぞよく祭るべき


大伴宿禰駿河麻呂が同じ坂上の家の二嬢おといらつめつまどふ歌一首

0407 春霞はるかすみ春日の里の殖小水葱うゑこなぎ苗なりと言ひしはさしにけむ


大伴宿禰家持が同じ坂上の家の大嬢に贈れる歌一首

0408 石竹なでしこがその花にもが朝旦あさなさな手に取り持ちて恋ひぬ日なけむ


大伴宿禰駿河麻呂が同じ坂上の家の二嬢おといらつめに贈れる歌一首

0409 一日には千重波敷きに思へどもなぞその玉の手に巻き難き


大伴坂上郎女が橘の歌一首

0410 橘を屋戸に植ゑほせ立ちて居て後に悔ゆともしるしあらめやも

大伴宿禰駿河麻呂が和ふる歌一首

0411 我妹子が屋戸の橘いと近く植ゑてし故に成らずは止まじ


市原王いちはらのおほきみの歌一首

0412 いなだき著統きすめる玉は二つ無しかにもかくにも君がまにまに


それの歌二首

0436 人言ひとごとの繁きこの頃玉ならば手に巻き持ちて恋ひざらましを

0437 妹もあれ清御きよみの川の川岸の妹が悔ゆべき心は持たじ


大網公人主おほあみのきみひとぬしが宴にうたへる歌一首

0413 須磨の海人の塩焼衣しほやききぬ藤衣ふぢころも間遠くしあれば未だ着馴れず


大伴宿禰家持が歌一首

0414 足引の岩根こごしみすがの根を引かばかたみと標のみそ結ふ


挽歌かなしみうた


上宮聖徳皇子うへのみやのしやうとこのみこ竹原井たかはらゐ出遊いでませる時、龍田山にみまかれる人をみそなはして悲傷かなしみよみませる御歌一首

0415 家にあらば妹が手かむ草枕旅にやせるこの旅人たびとあはれ


大津皇子の被死つみなはえたまへる時、磐余いはれの池のつつみにて流涕かなしみよみませる御歌一首

0416 つぬさはふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ

     右、藤原宮、朱鳥元年冬十月。


河内王かはちのおほきみ豊前国とよくにのみちのくち鏡山にはふれる時、手持女王たもちのおほきみのよみたまへる歌三首

0417 おほきみ親魄むつたまあへや豊国の鏡の山を宮と定むる

0418 豊国の鏡の山の石戸いはとこもりにけらし待てど来まさぬ

0419 石戸破手力たぢからもがも手弱たわやにしあればすべの知らなく


石田王いはたのおほきみせたまへる時、丹生王にふのおほきみのよみたまへる歌一首、また短歌

0420 なゆ竹の とを寄る皇子 さ丹頬にづらふ 我が大王おほきみ

   隠国こもりくの 初瀬の山に 神さびて いついますと

   玉づさの 人ぞ言ひつる 妖言およづれか が聞きつる

   狂言たはことか が聞きつるも 天地に 悔しきことの

   世間よのなかの 悔しきことは 天雲の そくへの極み

   天地の 至れるまでに 杖つきも つかずも行きて

   夕占ゆふけ問ひ 石卜いしうら以ちて 我が屋戸に 御室みもろを建てて

   枕辺に 斎瓮いはひへを据ゑ 竹玉たかたまを 無間しじき垂り

   木綿ゆふたすき かひなに懸けて あめなる ささらの小野の

   いはすげ 手に取り持ちて 久かたの あまの川原に

   出で立ちて みそぎてましを 高山の いはほの上に いませつるかも

反し歌

0421 逆言およづれ狂言たはこととかも高山の巌の上に君が臥やせる

0422 石上いそのかみ布留ふるの山なる杉群すぎむらの思ひ過ぐべき君にあらなくに


同じ〔石田王卒之〕時、山前王やまくまのおほきみ哀傷かなしみよみたまへる歌一首

0423 つぬさはふ 磐余の道を 朝さらず 行きけむ人の

   思ひつつ 通ひけまくは 霍公鳥ほととぎす 来鳴く五月さつき

   菖蒲あやめぐさ 花橘を 玉に貫き かづらにせむと

   九月ながつきの しぐれの時は 黄葉もみちばを 折り挿頭かざさむと

   くずの いや遠長く 万代に 絶えじと思ひて

   通ひけむ 君を明日よは よそにかも見む

     或ル本ノ反歌二首

 0424 隠国こもりく泊瀬娘子はつせをとめが手に巻ける玉は乱れてありと言はずやも

 0425 川風の寒き長谷はつせを嘆きつつ君が歩くに似る人も逢へや


柿本朝臣人麻呂が香具山にてみまかれるひとを見て悲慟かなしみよめる歌一首

0426 草枕旅の宿りに誰がつまか国忘れたる家待たなくに


田口廣麿がみまかれる時、刑部垂麻呂おさかべのたりまろがよめる歌一首

0427 百足らず八十やそ隈坂くまぢ手向たむけせば過ぎにし人にけだし逢はむかも


土形娘子ひぢかたのをとめを泊瀬山に火葬やきはふれる時、柿本朝臣人麻呂がよめる歌一首

0428 隠国の泊瀬の山の山際やまのまにいさよふ雲は妹にかもあらむ


溺れ死ねる出雲娘子いづもをとめを吉野に火葬やきはふれる時、柿本朝臣人麿がよめる歌二首

0429 山際やまのまゆ出雲の子らは霧なれや吉野の山の嶺にたなびく

0430 八雲さす出雲の子らが黒髪は吉野の川の沖になづさふ


勝鹿かつしか真間娘子ままをとめが墓をとほれる時、山部宿禰赤人がよめる歌一首、また短歌

0431 古に ありけむ人の 倭文幡しつはたの 帯解き交へて

   臥屋ふせや建て 妻問つまどひしけむ 勝鹿の 真間の手兒名てこな

   奥津城おくつきを こことは聞けど 真木の葉や 茂みたるらむ

   松が根や 遠く久しき 言のみも 名のみも我は 忘らえなくに

反し歌

0432 我も見つ人にも告げむ勝鹿の真間の手兒名が奥津城ところ

0433 勝鹿の真間の入江に打ち靡く玉藻苅りけむ手兒名し思ほゆ


和銅四年よとせといふとし辛亥かのとゐ、三穂の浦を過ぐる時、姓名がよめる歌二首

0434 風早かざはやの美保の浦廻の白躑躅しらつつじ見れどもさぶし亡き人思へば

0435 みつみつし久米の若子わかごがいりけむ磯の草根の枯れまく惜しも


神亀じむき五年いつとせといふとし戊辰つちのえたつ、太宰帥大伴の卿の故人すぎにしひと思恋しぬひたまふ歌三首

0438 うつくしき人のきてし敷布しきたへが手枕を纏く人あらめや

     右ノ一首ハ、別去テ数旬ヲ経テ作メル歌。

0439 帰るべき時は来にけり都にて誰が手本たもとをかが枕かむ

0440 都なる荒れたる家に独り寝ば旅にまさりて苦しかるべし

     右ノ二首ハ、京ニ向フ時ニ臨近キテ作メル歌。


〔神亀〕六年むとせといふとし己巳つちのとみ左大臣ひだりのおほまへつきみ長屋王のつみなへ賜へる後、倉橋部女王くらはしべのおほきみのよみたまへる歌一首

0441 大皇おほきみの命畏み大殯おほあらきの時にはあらねど雲隠り


膳部王かしはでべのおほきみ悲傷かなしめる歌一首

0442 世間よのなかは空しきものとあらむとぞこの照る月は満ち欠けしける

     右ノ一首ハ、作者ヨミヒト未詳シラズ


天平てむひやう元年はじめのとし己巳つちのとみ攝津国つのくに班田あがちだ史生ふみひと丈部龍麻呂はせつかべのたつまろ自経死わなきし時、判官まつりごとひと大伴宿禰三中みなかがよめる歌一首、また短歌

0443 天雲の 向伏むかふす国の 武士ますらをと 言はえし人は

   皇祖すめろきの 神の御門に 外重とのへに 立ちさもら

   内重うちのへに 仕へまつり 玉葛 いや遠長く

   おやの名も 継ぎ行くものと 母父おもちちに 妻に子どもに

   語らひて 立ちにし日より 足根たらちねの 母のみこと

   斎瓮いはひへを 前に据ゑ置きて 一手ひとてには 木綿ゆふ取り持ち

   一手には 和細布にきたへまつり 平けく まさきくませと

   天地の 神にみ 如何にあらむ 年月日にか

   躑躅花つつじばな にほへる君が にほ鳥の なづさひ来むと

   立ちて居て 待ちけむ人は おほきみの 命畏み

   押し照る 難波の国に あら玉の 年経るまでに

   白布しろたへの 衣袖ころもて干さず 朝宵に ありつる君は

   いかさまに 思ひませか うつせみの 惜しきこの世を

   露霜の 置きてにけむ 時ならずして

反し歌

0444 昨日こそ君は在りしか思はぬに浜松のの雲に棚引く

0445 いつしかと待つらむ妹に玉づさの言だに告げずにし君かも


〔天平〕二年ふたとせといふとし庚午かのえうま冬十二月しはす太宰帥大伴の卿のみやこに向きて上道みちだちする時によみたまへる歌五首

0446 我妹子が見し鞆之浦とものうら天木香樹むろのきは常世にあれど見し人ぞなき

0447 鞆之浦の磯の杜松むろのき見むごとに相見し妹は忘らえめやも

0448 磯のに根ふ室の木見し人をいかなりと問はば語り告げむか

     右ノ三首ハ、鞆浦ヲ過ル日ニ作メル歌。

0449 妹とし敏馬の崎を帰るさに独りし見れば涙ぐましも

0450 行くさには二人我が見しこの崎を独り過ぐれば心悲しも

     右ノ二首ハ、敏馬埼ヲ過ル日ニ作メル歌。


故郷もとの家に還入かへりて即ちよみたまへる歌三首

0451 人もなき空しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり

0452 妹として二人作りし山斎しま木高こだかく繁くなりにけるかも

0453 我妹子が植ゑし梅の木見るごとに心せつつ涙し流る


〔天平〕三年みとせといふとし辛未かのとひつじ秋七月ふみつき、大納言大伴の卿のうせたまへる時の歌六首むつ

0454 しきやし栄えし君のいましせば昨日も今日もを召さましを

0455 かくのみにありけるものを萩が花咲きてありやと問ひし君はも

0456 君に恋ひいたもすべ無み葦鶴あしたづの哭のみし泣かゆ朝宵にして

0457 遠長く仕へむものと思へりし君しさねば心神こころどもなし

0458 若き子の徘徊たもとほり朝夕に哭のみそが泣く君なしにして

     右の五首いつうたは、資人つかひびと金明軍が犬馬の慕心にへず、

     感緒かなしみべてよめる歌

0459 見れど飽かずいましし君がもみち葉の移りいけば悲しくもあるか

     右の一首ひとうたは、内礼正うちのゐやのかみ縣犬養宿禰人上あがたのいぬかひのすくねひとかみ

     にのりごちて、卿の病を検護せしむ。而して医薬

     験無く、逝く水留まらず。これに因りて悲慟かなし

     て即ち此歌をよめり。


七年ななとせといふとし乙亥きのとのゐ、大伴坂上郎女が尼の理願りぐわむ死去みまかれるを悲嘆かなしみ、よめる歌一首、また短歌

0460 栲綱たくつぬの 新羅しらきの国ゆ 人言ひとごとを 良しと聞かして

   問ひくる 親族うがら兄弟はらがら 無き国に 渡り来まして

   大皇おほきみの 敷きす国に うち日さす 都しみみに

   里家は さはにあれども いかさまに 思ひけめかも

   連れもなき 佐保の山辺に 泣く子なす 慕ひ来まして

   敷布しきたへの 家をも造り あら玉の 年の緒長く

   住まひつつ いまししものを 生まるれば 死ぬちふことに

   のがろえぬ ものにしあれば 恃めりし 人のことごと

   草枕 旅なるほとに 佐保川を 朝川渡り

   春日野を 背向そがひに見つつ 足引の 山辺をさして

   晩闇くらやみと 隠りましぬれ 言はむすべ 為むすべ知らに

   徘徊たもとほり ただ独りして 白布しろたへの 衣袖ころもて干さず

   嘆きつつ が泣く涙 有間山 雲居棚引き 雨に降りきや

反し歌

0461 留めえぬ命にしあれば敷布の家ゆは出でて雲がくりにき

     右、新羅ノ国ノ尼、名ヲ理願ト曰フ。遠ク王徳ヲ感

     ジテ聖朝ニ帰化ス。時ニ大納言大将軍大伴卿ノ家ニ

     寄住シ、既ニ数紀ヲ経タリ。惟ニ天平七年乙亥ヲ以

     テ、忽ニ運病ニ沈ミテ、既ニ泉界ニ趣ク。是ニ大家

     石川命婦、餌薬ノ事ニ依リテ有間温泉ニ往キテ、此

     ノ喪ニ会ハズ。但郎女独リ留リテ屍柩ヲ葬送スルコ

     ト既ニ訖リヌ。仍チ此ノ歌ヲ作ミテ温泉ニ贈入オクル。


十一年ととせまりひととせといふとし己卯つちのとう夏六月みなつき、大伴宿禰家持がみまかれる悲傷かなしみよめる歌一首

0462 今よりは秋風寒く吹きなむを如何でか独り長き夜を寝む

おと大伴宿禰書持ふみもちが即ち和ふる歌一首

0463 長き夜を独りや寝むと君が言へば過ぎにし人の思ほゆらくに

又家持がみぎり瞿麦なでしこの花を見てよめる歌一首

0464 秋さらば見つつ偲へと妹が植ゑし屋戸の石竹なでしこ咲きにけるかも

かはりて後、秋風を悲嘆かなしみて家持がよめる歌一首

0465 うつせみの世は常なしと知るものを秋風寒く偲ひつるかも

又家持がよめる歌一首、また短歌

0466 我が屋戸に 花ぞ咲きたる そを見れど 心もゆかず

   しきやし 妹がありせば 御鴨みかもなす 二人並び居

   手折りても 見せましものを うつせみの 借れる身なれば

   露霜の ぬるがごとく 足引の 山道をさして

   入日なす 隠りにしかば そこふに 胸こそ痛め

   言ひもかね 名づけも知らに 跡も無き 世間よのなかなれば 為むすべもなし

反し歌

0467 時はしもいつもあらむを心痛くい我妹わぎもか若き子置きて

0468 出で行かす道知らませば予め妹を留めむせきも置かましを

0469 妹が見し屋戸に花咲く時は経ぬが泣く涙いまだ干なくに

悲緒かなしみまずてまたよめる歌五首

0470 かくのみにありけるものを妹もあれも千歳のごとく恃みたりけり

0471 家ざかりいます我妹を留みかね山がくりつれ心神こころどもなし

0472 世間し常かくのみとかつ知れど痛き心はしぬひかねつも

0473 佐保山に棚引く霞見るごとに妹を思ひ出泣かぬ日はなし

0474 昔こそよそにも見しか我妹子が奥津城とへばしき佐保山


十六年ととせまりむとせといふとし甲申きのえさる春二月きさらき安積皇子あさかのみこすぎたまへる時、内舎人うちとねり大伴宿禰家持がよめる歌六首

0475 かけまくも あやに畏し 言はまくも ゆゆしきかも

   我がおほきみ 御子のみこと 万代に したまはまし

   大日本おほやまと 久迩くにの都は 打ち靡く 春さりぬれば

   山辺には 花咲きををり 川瀬には 鮎子さばし

   いや日異ひけに 栄ゆる時に 逆言およづれの 狂言たはこととかも

   白布しろたへに 舎人装ひて 和束わづか山 御輿みこし立たして

   久かたの 天知らしぬれ まろび ひづち泣けども 為むすべもなし

反し歌

0476 我がおほきみ天知らさむと思はねばおほにぞ見ける和束杣山わづかそまやま

0477 足引の山さへ光り咲く花の散りぬるごとき我が王かも

     右ノ三首ハ、二月三日ニ作メル歌。


0478 かけまくも あやに畏し 我が王 皇子の命

   物部もののふの 八十伴男やそとものをを 召し集へ あどもひたまひ

   朝猟あさがりに 鹿猪しし踏み起こし 夕猟ゆふがりに 鶉雉とり踏み立て

   大御馬おほみまの 口抑へとめ 御心を し明らめし

   活道いくぢ山 木立のしじに 咲く花も うつろひにけり

   世間よのなかは かくのみならし 大夫ますらをの 心振り起こし

   剣刀つるぎたち 腰に取り佩き 梓弓 ゆき取り負ひて

   天地と いや遠長に 万代に かくしもがもと

   恃めりし 皇子の御門の 五月蝿さばへなす 騒く舎人は

   白栲しろたへに 衣取り着て 常なりし ゑまひ振舞ひ

   いや日異に 変らふ見れば 悲しきろかも

反し歌

0479 しきかも皇子の命のありがよしし活道の道は荒れにけり

0480 大伴の名に負ふゆき帯びて万代にたのみし心いづくか寄せむ

     右ノ三首ハ、三月二十四日ニ作メル歌。


せたる悲傷かなしみ高橋朝臣がよめる歌一首、また短歌

0481 白布しろたへの 袖さし交へて 靡き寝し 我が黒髪の

   ま白髪に 変らむ極み 新世あらたよに 共にあらむと

   玉の緒の 絶えじい妹と 結びてし 言は果たさず

   思へりし 心は遂げず 白布の 手本を別れ

   にきびにし 家ゆも出でて 緑児みどりこの 泣くをも置きて

   朝霧あさきりの 髣髴おほになりつつ 山背やましろの 相楽さがらか山の

   山際やまのまゆ 往き過ぎぬれば 言はむすべ 為むすべ知らに

   我妹子と さ寝し妻屋に 朝庭に 出で立ち偲ひ

   夕べには 入り居嘆かひ 脇はさむ 子の泣くごとに

   男じもの 負ひみうだきみ 朝鳥の のみ泣きつつ

   恋ふれども しるしを無みと 言問はぬ ものにはあれど

   我妹子が 入りにし山を よすかとぞ思ふ

反し歌

0482 うつせみの世のことなればよそに見し山をや今はよすかと思はむ

0483 朝鳥の啼のみし泣かむ我妹子に今また更に逢ふよしを無み

     右ノ三首ハ、七月廿日、高橋朝臣ガ作メル歌。