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  • されたる侍共、長曽我部・西王寺・河野・宇都宮など、中国へ至り安芸の毛利を頼入る所に、毛利頼もしく人数を発し、四国の三好を退治せんとする所に、都の公方義晴将軍此の由聞し召し、御使者を以て三好を呼寄せ、御意ありけるは、中国を引請けて合戦せんこと蟷螂が斧なるべし。早く都へ出で五畿内を執権し可然旨上【…
    177バイト (4,038 語) - 2024年2月3日 (土) 17:24
  • が二男なり。童名美勝丸といふ。則ち教依が家名を受継ぎて、池田十郎兵庫助教正といふなり。扨又池田九郎教依が父を、池田五郎政依というて、南朝に味方し、新田義貞に属したり。古今精兵の手垂の人なり。延元元年五月、湊川合戦の後、義貞と倶に山門に楯籠り、本間孫四郎重氏・相馬次郎左衛門重忠等と倶に、強弓を引きて…
    177バイト (12,011 語) - 2024年2月13日 (火) 16:22
  • 盃を下置かれ、広橋中納言国光に仰付けられ候て、御饗応下され、勾当内侍宣下せられ、禁中諸殿、残らず景虎、拝見せらる。公方義晴公へも拝謁。五月、景虎、越後へ還国の処に、前書の通り、義晴を初め、信州衆武田信玄に討負け、越後へ落ち来り頼む。此故に、初めて、天文廿二年癸丑十一月十九日より、景虎、信玄と対陣、廿七日ま【…
    768バイト (20,470 語) - 2023年11月26日 (日) 18:25
  • 義材公北国落之事 雪タヽキノ事 鳥屋打死之事   足利季世記巻二 〈自永正元年至同七六年十月〉 号舟岡記 政元生害事 澄之最後之事 澄元没落之事 義尹御武勇之事 義晴御誕生之事 蘆屋合戦之事 佐々木定頼ノ事 舟岡山合戦之事 近江ノ九里被誅事 池田高名之事   足利季世記巻三 〈自永正十六年十一月至享禄四年六月〉 号高国記…
    44バイト (53,932 語) - 2024年4月19日 (金) 06:28
  • カ又タ其右ニ出ン是ソ我輩カ股肱腹心タルヘケレト深ク感賞シ給ヒツヽ同十三年六月五日白傘袋并毛氈ノ鞍覆ヲ御免セラレテ帰陣アル其後大永七年十一月十九日公方義晴公ノ御為ニ三好薩摩守長基ト京都ニ戦ヒ終ニ是ヲ打破テ三好カ一族其外阿波勢以下ヲ悉ク攻亡ス又細川高国ト桂川ニテ合戦ノ時モ孝景大ニ勝利ヲ得テ公方ノ御感状ヲ…
    81バイト (9,486 語) - 2024年3月25日 (月) 14:11
  • 負けて、山徒京中へ攻入り、寺々を焼きける時、四条通より上の方残らず焼失して、内裏も炎焼す、此時三好海雲といふ者、京都に威を振ひ、管領細川晴元も、将軍義晴も、皆三好が計らひなりければ、之を征する力なし。依つて内裏より、山科へ下知ありて、此乱を鎮めんと任ぜける。本願寺の候人等、下間を大将として、上の京の…
    4キロバイト (33,938 語) - 2024年2月3日 (土) 11:09
  •  蒼海のありとはしらで苗代の水の底にも蛙なくなり 此一首、叡感ありしと云々。 ○天文十一年壬寅十三歳、為景嫡子道一丸は、弥六郎定景と号す。今年三十三歳になりしが、公方万松院義晴公の一字を申請け晴景と号す。五年、為景討死。晴景家督を継ぐ。然れ共、長尾平六俊景、三条に籠城し、逆心を発し、定実の命に随はず。天文十一年春、平六旗を…
    567バイト (26,586 語) - 2023年12月8日 (金) 14:45
  • 生害すべし。然らずば、急度討手を差遣すべきなりと、師冬畏り候と返事して、其夜落行きけるを追懸け、路次にて討殺しける。其の後、新田の一族兵を起し、武蔵野に於て尊氏と相戦ひ、新田義興・義治、鎌倉へ攻入りける時、基氏防ぎ戦ふと雖も、多勢に無勢叶はずして、鎌倉を退去す。義興・義治、相州河村の城に楯籠りける時…
    3キロバイト (55,944 語) - 2024年2月3日 (土) 11:09
  • 九年五月長尾景長叛㆓上杉顕実㆒囲㆓鉢形城㆒城陥顕実奔㆓于古河㆒景長立㆓憲房㆒為㆓関東管領㆒大永五年夏四月関東管領上杉憲房卒家臣等謀請㆓古河高基子憲寛㆒為㆓憲房後㆒馳㆑使請㆓命于将軍義晴㆒為㆓関東管領㆒ 中古治乱記云此頃武蔵江戸ノ城主ヲ上杉修理大夫朝興ト申ケリ其臣太田謀叛シテ北条氏綱ニ内通ス大永四年正月氏綱ニ馳向テ攻メ戦フ朝興品川へ…
    47バイト (25,785 語) - 2024年4月5日 (金) 22:55
  • 長慶、既に老いて嗣なく、弟十河民部大輔一存が子義継を養うて子とし、三好左京大夫と号す。長慶卒し、義継代るに及びて、松永が威、三好と相伴し。公方万松院義晴公、天文十九庚戌五月四日、江州穴太山中に於て薨じ給ひ、御子光源院義輝公の御代になり、松永、三好義継を勧め、永禄八年五日十九日、御所へ押寄せ之を討ち奉…
    248バイト (20,106 語) - 2023年12月2日 (土) 18:35
  • 文珠の城主は、往昔中納言定家卿の旧館の地なり。船木山といふ。後、小笠原十郎泰綱居住。祐向山といふ。長井勘九郎も是に住す。大垣の城は、足利十二代の将軍義晴公の御下知として、牛谷川を形取り、天文四乙未年、宮川吉左衛門尉、始めて築きて居住す。其後、城主代々なり。織田播磨守・竹越道陳。永禄二未年より氏家卜全…
    3キロバイト (22,427 語) - 2024年2月13日 (火) 15:59
  • きて引去りけり。輒ち此藤孝は、尊氏十二代の後胤、義晴公の四男なり。母は還翠軒義賢息女にて、飯川妙佐の妹なり。万松院義晴公、東山鹿ケ谷に移住し給ひし時、寵せられて懐妊し、男子を儲けさ【 NDLJP:165】せ給ひ、之を後に兵部大輔藤孝とは名付けたり。義晴公の嫡男は義輝公、二男は北山鹿苑院の固嵩、三男は…
    3キロバイト (116,548 語) - 2024年2月3日 (土) 18:43