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三壺聞書/巻之二

 
三壺聞書巻之二 目録
 
御系図 一八
 
オープンアクセス NDLJP:16
 
三壺聞書巻之二
 
 
 
駿河・遠江・参河三ケ国の守護は、尊氏将軍の御時より管領職にて高家の内也。今川了俊在世の頃西国退治として久々武功を積み、其の後三ケ国を領せられ、義元の代に成りて甲州武田信虎の聟に成りて、信玄の為には姉聟也。年々尾張の織田家と取合ひ隙もなし。家臣に戸部新左衛門元忠といふ大功の者あり。尾張国の押へとして、国境笠寺といふ所の城主に今川より被指置て、尾張の敵を押へけり。信長公は此の戸部新左衛門を殊の外邪魔なる者と、心にも御油断更になく、いかにもして彼を亡さんと謀事を廻らされけるが、戸部は能書なりければ、彼が手跡を求め出し、器用なる者に手習をさせ、よく似たる時分、戸部方より信長公へ内通致し、謀叛を起す状をかゝせて、今川の城下へ落し文をなしければ、案の如く拾ひたる者今川殿へ指上ぐる。義元披見ありて大に怒り、扨々にくき戸部が振廻かな、尾張に心を引替る事こそ安からねと、戸部を呼びよせ何の子細もなく打殺し、笠寺の城明城に成りければ、信長御悦び限りなく、人数を催し今川退治に発向せらる。永禄三年五月也。今川方三ケ国の人数打起して、互に大合戦と成る。信長は人数少く、今川は勝に乗りて信長の領分二・三ケ所も打落し、義元機嫌能く桶はざまといふ所にありて日を送り、酒宴などしてゆるひかへたり。信長は武畧の達者にて、多勢に少しも構ひなく、旗本へ取つて懸り、義元の本陣を取巻き、一時に切下し、首を取る事二千五百余。五月十九日夜半頃に今川義元不叶して切腹致され、毛利新介首を取りて信長公へ指上ぐるに、御悦かぎりなし。此の時三河の家康公へ駿河・遠江を進ぜられる。家康公も俄に大名にならせられ、信長公へ無二の忠義を尽されける。其の後伊勢・美濃の一揆共悉く平均ありて御手に入りければ、信長公の御威勢年々に倍して大身に成り給ふ。則ち尾州熱田大明神に御立願の事なれば、追付き御建立ありて善美を尽し、弥神慮に叶はせ給ふと人々申合せける。此の義元合戦の時、前田利家公御年十八歳也。信長公の御内に十阿弥といふ坊主、オープンアクセス NDLJP:17利家公のかうがひを盗取り、既に顕れて御成敗可被成とある所に、信長公御噯有りて御赦免の所、十阿弥図に乗りて出頭を鼻にかけ、利家公を影にて詰るを聞かせられ、矢倉の下にて出合ひ一討に被成ければ、信長公御立腹有りて、御勘当にて蟄居し給ひしは、此の御陣発向の砌也。忍んで御供に出給ひ、一番首を取りて出ださせ給へ共、信長公御詞も懸給はず。田の中へ首を投捨て、懸入りて又一つ取りて出ださせ給へとも、御言葉もなし。利家公討死せんと思召し、又首取りて投捨て駆入り給ひければ、信長公御覧ぜられ、利家討たすなと御意の所に、柴田・青山・丹羽・川尻など打続きかけ入る。其の時利家公又首取りて進まるゝを、信長公是へと御意ありて、其首馬上に取らせ給ひ、扨々甲斐敷働き、日本一の功の者、是を見よと軍兵共に見せ給ふ。利家其の時十八歳、五月十九日辰の刻也。誠に末代迄の面目かなと、諸人浦山敷思ひけるも理りとぞ申しける。
 
 
永禄四年美濃国長井甲斐守・由比下野守両人、森部の城に在りて信長公へ楯をつく。信長公是へ取懸り給へば、城中より取つて出で、死物狂に働く所に、利家公一番に首二つ取りて信長公へ見参せらる。相続き何れも首を取る事夥しかりければ、城中悉く敗軍す。由比が首を恒川久蔵、長井が首を服部平左衛門討つて取る。信長公御機嫌能く引取り給ひ、利家公へ百五十貫の御加増にて、此の時二千三百貫にならせらる。
 
 
永禄六年九月大阪の城へ発向せらる。本願寺といふは、都東山大谷と云ふ所に開山親鸞上人の御廟所あり。此の所に七代存如上人まで大谷にましけるが、八代蓮如上人より大阪に本願寺建立有りて移り給ふ。其後顕如上人の時代に当りて、国々所々に要害を構へ、檀方と号し、公家・武家共に本願寺へたより所々を押領す。信長公安からず思召し、多勢を以て大阪を攻めさせ給ふ。野田福島といふ所に、阿波の修理大夫三好一党一味して旗を上ぐる。城中より下間与四郎と名乗りて勇を振ひ、寄手の野村越中を討取りけなって、城中競ひ懸つて一面に突いて出で、味方敗軍に及ぶ。然る所に前田利家公一人、鑓を構へ踏留つて待ち給へば、城中の人数是に恐れて留る所に、毛利河内・湯浅甚助・中村又兵衛など相続いて鑓を合せ、突伏せ首を取る。是に敵もおくれを取りて引色に成りければ、味方闇打に首を取つて懸る所に、越前の朝倉義景近江の浅井長政申合せ、上方へ切つて登る。比叡山の衆徒も一味するよし飛脚到来しければ、信長驚き給ひ、都を破られては大事也と思召し、大阪を引き取り、坂本へ出向ひ防戦し給へば、敵も信長公の出向ひ給ふを聞きて散々になる。信長公より比叡山へ使者を立て、此方へ一味せば安堵すべしとありけれ共、山法師ども聞入れず。信長公腹立ありて前田・丹羽・柴田に被仰付、朝倉・浅井が人数におし向けて、火花を散らして防がしめ、旗本にて山法師を押へ給へば、朝倉・浅井引退き、山法師共も引きにける。依之翌年九月信長公人数を遣はされ、比叡山根本中堂を初め堂社仏閣悉く焼払ひ、三千余人を追出し撫切にし給へば、ひとへにやけ山とぞ成にける。
 
 
四国の主阿波三好修理大夫先祖は甲斐源氏の嫡流、信濃の小笠原に来て小笠原長清といふ。次男孫三郎長房といふ者、四国の阿波に来り阿波小笠原といふ。尊氏将軍より細川管領に四国を賜はる。其の時小笠原も細川の幕下になり、阿波の三好の里に八代相続して、自然と在名を名乗り三好氏となる。後には細川管領も衰微して、三好は益々繁昌す。然るに一家の内長輝・長則などゝいふ者、八代目の義長と三年戦ひ、長輝・長則百万遍にて切腹す。長輝子息長秀出で、三好頼澄・長基など伊勢の山田和泉の堺にて討取る。長秀の子息長基の子息長慶、又出で威を振ふ。其の子修理大夫若年より仏神を信仰し、荒行して随分の信心者にて、十九歳の時諸願成就し、さらばとて讃岐国へとりかけ、無難に打靡け、又伊予・土佐も討ちしたがへ、程なく四国を取治めける。四国より追出されたる侍共、長曽我部・西王寺・河野・宇都宮など、中国へ至り安芸の毛利を頼入る所に、毛利頼もしく人数を発し、四国の三好を退治せんとする所に、都の公方義晴将軍此の由聞し召し、御使者を以て三好を呼寄せ、御意ありけるは、中国を引請けて合戦せんこと蟷螂が斧なるべし。早く都へ出で五畿内を執権し可然旨上オープンアクセス NDLJP:18意に依りて、都へ出で畿内近国を政道し、君を守護し奉る故、公方の姫君を子息左京大輔に下され、弥々栄華に誇りける。其の後父の修理大夫病死し、子息左京大輔代に成りて、松永弾正・岩成主税助・松山新入斎などゝいふ家老共と申合せ、公方義輝を失ひ奉りて我儘に振廻んと内談をぞしたりける。其の時御父義晴公は御他界也。義輝公の御弟義昭は南都にまします。其の御弟は北山にましますを討殺して、義昭へも討手をぞ懸けにける。永禄八年五月義輝将軍をば、都にて御所へ押寄せ難なく討奉る。奈良にまします義昭公は逃げつ忍びつ落給ひ、若狭の武田大膳は御妹婿なれば、彼を御頼ありけれども小国にて叶ひ難く、越前へ落ちさせ給ひ、朝倉事は先祖義尚将軍より朝倉義高に越前を下し置かれければ、如在も仕間敷所に、栄華に誇り何の不足もなき時分、むづかしくや思ひけん中々よせも付けず。他所を御願あれと申すに付き、是非なく尾張へ落ち給ひ、信長を御頼ありければ、一議にも不及畏り、世に出し可申と謀事を廻らし給ふ所存の程こそ類なけれ。此時より天下将軍ましまさず、一揆の世とぞ申しける。
 
 
永禄十年九月信長公岐阜を御発足ありて、佐々木が方へ使者を立て、義昭公に随ひ御味方申すべきや否と仰遺はさるゝ所に、佐々木請も不付故に、九月廿日先づ箕作山の城を取巻き、佐々木義弼を攻め給ふ。森三左衛門・坂井右近・柴田権六を先手として、佐久間右衛門佐・木下藤吉郎・丹羽五郎左衛門・浅井新八等相続ぎ、箕作山をもみにもんで攻めらるゝ。城中よりも取つて出で防ぎ戦ふ。家康公より松平勘四郎信吉に多勢を添へて、信長公を見継ぎ給ふ。和田山の城も観音寺の城も箕作の城も悉く敗軍して退散す。佐々木父子は三好と堅約して、義昭公を討つべき謀事を廻らせども、信長公の武功に押され、あなた此方にておくれを取る。近江国所々の要害十八ケ所信長公の御手につき、柴田・森・坂井・蜂谷などに城々を預け、佐々・不破・前田其の外歴々御供にて、義昭公を都清水寺へ入れ奉り、信長公は東福寺に御座ありて、菅谷九右衛門に政事仰付けらる。此の箕作山の合戦の時、前田利家公を信長公より御使者として、先手の者共へ被仰遣けるは、強く人数を討死せぬ様に仕るべし、急に攻むべからずとの御事也。然る所に城中より、城の大手の門を開き、どつと切つて出づるに、利家公一番に鑓を合せ首を取り給ふ。此の事聚楽にて太閤も被仰出、比類なき働きにてありけると御物語ありしとかや。
 
 
同年九月廿八日信長公人数を引率し、勝龍寺の城岩成主税助を攻め給ひけるに、降参して立退く。摂津国芥河の城細川六郎も、三好日向守をも取巻き給ひけるに、散々に成つて引退く。池田の城主筑後守も降参し、松永弾正も城を明けて降参す。斯の如く五畿内悉く信長公の御手に属し、夫々忠功に依つて城々を預け置かせらる。同年十一月信長公の御姪を養女に被成、甲州武田信玄の嫡子勝頼に嫁娶せられ、信玄の娘を信長の嫡子信忠へ嫁娶せられ、甲州と尾張と和睦ありしなり。是れ偏に家康公の六ケ敷思召しての謀事也。又家康公も信長公を気遣に思召し、姫君を家康公の惣領秀康へ御嫁娶にて、岡崎の城へ御輿入あり。御夫婦御年九歳にて、御同年の御時也。
 
 
永禄十一年十月十五日義昭公六条本国寺へ入らせられ、信長公は清水へ入り給ふ。十八日には義昭公征夷大将軍の宣旨を御頂戴ありて、御悦び限りなく、室町に御所を建て室町殿と仰ぎ奉る也。将軍は信長の万事武略の墓行く事を感ぜられ、御褒美比類なかりし也。夫より信長公の御内にて、武功の人々の母衣を極め、方々の大将に指向けらるゝに、織田越前・前田又左衛門・飯尾隠岐・福富平左衛門・原田備中・黒田治右衛門・毛利河内・野村三重郎・猪子内匠、赤母衣也。佐々内蔵介・毛利新左衛門・河尻与兵衛・生駒庄助・水野帯刀・津田左馬助・蜂谷兵庫・中川八郎右衛門・中嶋主水・松岡九郎三郎、是等は黒母衣也。合せて十九人と定められ、足軽大将を両方へ御預けありて、方々へ遣されけり。
 
 
徳川三河守家康公の御先祖は、新田四郎忠綱の末統新田太郎康重の末孫、徳川次郎三郎清康と申し奉る。鎌倉将軍以後三河国を領せらる。天文四年十一月尾張国森山の城を討ち取らんと、人数を率し城を取巻き給ふ。然るに家老の阿部大蔵惣領に弥七郎といふ者俄に乱心して、十二月五日オープンアクセス NDLJP:19村正の刀を以て清康公を討ち奉るを、植村新六郎在り合せて弥七郎を討ち留る。徳川の人数は詮方なく岡崎の居城へ引き取り、三歳に成り給ふ若君仙千代丸君を守立て是ある所に、百日も立たぬ内に尾張国森山の城主と織田弾正殿と申合せ、岡崎へ取りかけ徳川を亡さんと、八千余騎にて押寄せたり。岡崎の侍共大久保新八郎・同勘四郎・同弥三郎・植村新六郎・磯谷出来之助・林藤五郎・成瀬又太郎・八国生甚六・大原左近右衛門等一千余騎にて、伊田の郷へ打出で討死と心得たり。尾張勢は二手に分れ打つて懸り、難儀なる折節、徳川の御先祖親忠の御菩提所山中の大樹寺登誉上人是を聞き、亡者を送る旗に厭離穢土欣求浄土といふ経文を書きたるのぼりを押立て、出家・俗人百五拾人計色げさ・色衣を身にまとひ、仏具などを頭にかぶり、具足・甲の様に見せて遠巻に後詰せられければ、尾張の人数是を見て、すは後巻のありけるぞ、此の陣引けよといふ儘に、矢作川を打渡り尾張国へ引退く。夫より仙千代丸殿御運開かせ給ひ、御成人ありて松平蔵人大輔広忠と申し奉る。三河国刈谷の城主水野和泉守が娘を御嫁娶ありて、竹千代丸殿御出生あり。七歳の御時御父蔵人殿御病死ありて、三河一国散々になる。駿河の今川義元より三河を押領して、竹千代殿を今川へ引取り養育して置きけるが、尾張の信長公より人質を乞ひ給ふ故、今川其の時竹千代殿を人質に遣さる。信長公竹千代殿を請取りて和睦被成、今川へ竹千代殿を返し給へば、今川殿も竹千代君をよきに介抱まして、遠江の浜松城へ入れ置き給へば、御代々の者共参り仕へ奉る。其の時分御年十二歳の御時也。今川殿の家人と成りて勤めさせ給ひしが、本領なれば三河一国の主と成り、徳川三河守家康と名乗り給ひ、後には信長公と一味ありて今川を亡し、三ケ国の主にぞならせらる。扨御小旗の御紋に右の経文を書付け給ふ事、蔵人殿よりの吉例也。後には替へさせ給ふと也。扨家康公の御母君は、いまだ御若年にて後家にならせ給ふ故、久松佐渡守に再縁ありて、松平源三郎殿を御出生あり。此の人に四人の御子まします。松平豊前守・同因幡守・同隠岐守・同主計頭也。隠岐守子息を松平越中守と申して、伊勢の桑名に在城也。何茂御一家の御事也。
 
 

    徳川次郎三郎清康┐
   ┌────────┘
   └松平蔵人大輔広忠┐
   ┌────────┘
   └従一位右大臣征夷大将軍家康┐
 ┌───────────────┘
 │┌三河守准三位秀康───────────────┐
 │├─上総守元忠                 │
 └┼内大臣征夷将軍秀忠 太閤より秀の字を被進┐     │
  ├─尾張大納言義直         │     │
  ├─紀伊大納言頼宣         │     │
  ├─水戸中納言頼房         │     │
  └─女子浅野但馬守室 安芸守殿母君也 但蒲生飛騨守後家也 │
 ┌──────────────────┘     │
 │┌─征夷将軍家光────────────┐   │
 │├─駿河大納言忠長           │   │
 │├─保科肥後守正之 弾正養子       │   │
 └┼─女子秀頼公室 天樹院様        │   │
  ├─女子越前宰相一伯忠直室       │   │
  ├─女子女院の御所           │   │
  ├─女子小松中納言利常室 天徳院様    │   │
  └─女子松平新太郎室 本多中務娘     │   │
 ┌────────────────────┘   │
 │┌─女子尾張中納言室 千代姫様          │
 │├─女子加賀筑前守室 清泰院様 水戸中納言御娘    │
 └┼─女子松平安芸守室 於刀様 利常公御娘       │
  ├右大臣征夷大将軍家綱             │
  ├─甲斐宰相綱重 左近大夫徳川虎松       │
  └─舘林宰相綱吉                │
  ┌───────────────────────┘
  │┌─宰相一伯忠直 越後高田仙千代丸父
  │├─伊予守光通 越前侍従
  └┼─出羽守綱隆 出雲侍従
   ├─大和守有矩 姫路侍従
   └─但馬守秀高┐ 大野侍従
   ┌──────┘
オープンアクセス NDLJP:20   └─若狭守富明

家康公の嫡子三河殿御病死故、次男秀忠公へ天下を御譲りありける。三河守越前一国丹羽五郎左衛門長秀跡を領せられ、御子数多まして、越前所々にて分領あり。惣領一伯殿悪行に付き、豊後国萩原へ配流被仰付、御子息仙千代殿を越後の高田へ被遣、次男伊予守殿は越後高田上総殿の後にましますを、越前へ引越し給ふ。越前の所替は寛永二年乙丑の年の事也。金沢より御馳走大かたならず、記すにおよばず。