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越後軍記

 

越後軍記

 
 
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解題
 
 
越後軍記 十二巻
 
本書は、上杉謙信一代の武功を記したるものなり。謙信名は景虎。長尾氏なり。関東管領上杉憲政の譲を受けて上杉氏を称す。内容は謙信の素性より筆を起し、謙信幼少時代に於ける挙動、或は家臣の成敗、或は軍中に於ける作法、或は甲州・信州等に於ける合戦、関東管領上杉憲政より管領職并に上杉氏を譲らるゝ事、剃髪して謙信と称する事、武田信玄と合戦、将軍義輝の使来る事、小田原北条氏に間者を遣す事、信州河中島出馬、小田原北条攻、永禄四年上洛、其の他軍法評議、河中島合戦并軍法決談、同勝負論、山根城攻、長尾弾正入道成敗、さては領国の政道諸士休息の事、将軍義輝の凶報来る事、信玄・氏康数度の合戦、謙信北条氏と和睦、氏康の七男三郎を養子とする事、信玄病死、謙信病死、養子景勝家を続ぎ武田オープンアクセス NDLJP:5勝頼の妹を妻として両家懇親を結ぶ事、景勝、豊臣秀吉の命により奥州会津に移り百二十万石を領する事、是より更に門葉繁栄すといふに筆をさしおきたり。本書作者詳ならず。元禄十五年白雲子といふ者の序文あり。其の文によれば、上杉氏の遺臣の手に成れるを、更に不足を補ひて完成したる由を記せり。然して所所に作者が評論を加へ、読者をして本文の意を了解せしめたり。

本書元禄十五年版を採収す。

 

  大正四年十二月 黑川眞道 識

 
 
 
目次
 
 
上杉謙信長尾為景上杉房義を討つ謙信の世系坂東の八平氏上杉氏の来由関東上杉氏の始祖長尾氏の祖上杉氏両家に分る景虎の武勇為景戦死景虎の幼時
 
景虎の廻国修業景虎叡山に登る景虎、宇佐神良勝に文武の大道を聞く宇佐神良勝、景虎の臣となる長尾の忠臣、景虎に帰国を乞ふ景虎帰国景虎逆臣を退治す
 
頸実検の作法村上義清景虎の幕下となる景虎の素志
 
景虎、海平に着陣信玄海平に着陣上杉、武田合戦景虎帰国景虎再び出陣景虎帰城景虎、越中の国境に出陣景虎帰国景虎再び海平に出陣景虎帰国景虎、信玄と合戦
 
上杉憲政管領を景虎に譲る景虎剃髪して謙信と号す謙信信玄合戦義輝、使を謙信に遣す関東公方滅亡
 
正景謀叛正景溺死上杉朝興病死扇谷の上杉家断絶氏綱卒去川越の夜軍関八州北条の手に帰す謙信河中島出陣信玄和平の使を謙信に遺す再び河中島出陣上杉武田和平に就いての両説
 
謙信小田原を攻む関八州の諸将謙信に従ふ氏康、信玄に援を求む鶴岡八幡宮勧請謙信、公方義輝に謁す
 
河中島の合戦車懸の軍法河中島戦の評論
 
北条上杉合戦謙信の軍術謙信政道に心を傾く
 
宇佐神良勝病死三好松永義輝を弑す謙信石倉の砦を陥る北条上杉合戦謙信の智謀上杉北条和睦の内談
 
上杉北条和議調ふ北条氏康加勢を謙信に求む北条再び加勢を上杉に乞ふ氏政父氏康の死を謙信に告ぐ信玄氏政と和平
 
信玄病死信玄の遺言謙信の任俠勝頼滅亡能州上杉の領国となる謙信、飛騨を征服長野城陥る謙信病死謙信死去に就きての一説養子兄弟合戦政虎殺さる

 
 
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越後軍記
 
 
 
范蠡曰、兵者凶器也、戦者逆徳也。雖然、当大乱之世、而刑以防姦者、不斯器者也。本朝戦国之熾也。甲府有武田信玄、越国有上杉謙信、相州有北条氏康、尾陽有織田信長。是謂戦国之四大将矣。紀其氏系戦闘者、有甲軍鑑・五代記・信長記等若干巻、行於世也。独闕然於上杉氏者、予恒憾焉。于玆去歳之秋、於京洛一牢士。其祖先嘗仕上杉氏勇功、而出其深秘之軍記。予一閱之、則上杉氏一世之闘記也。至矣尽矣。強索胆写之、猶正其余、補足、聚為十二巻、名曰越後軍記矣。剞劂氏累乞梓。不已応其需而已。

  元禄十五次壬午春三月上浣 旅客 白雲子書

 
 
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越後軍記 巻之一
 
 
上杉景虎入道謙信素性の事
 
上杉謙信謙信、初めは長尾弾正少弼景虎、後上杉輝虎と改め、剃髪して謙信と号す。父は長尾六郎為景、後剃髪して道七と称す。北越後の国主たり。博学秀才にして七道に通達す。仍つて道七と称すとかや。就中敷島の道に長じて、数々褒貶の詠歌を作れり。或時、百首の和歌を詠じて、之を禁裡に奉る。巻頭の歌に曰、

   蒼海のありとはしらで苗代の水の底にも蛙鳴くなり

と、名歌の聞えあり。況や武道に於てをや。其兵を用ふるときんば、孫呉にも劣らざるべし。長尾為景上杉房義を討つ誠に文武兼備へたる良将と謂つべし。永正丙寅の年、管領上杉房義、行跡不義にして、政道正しからざるに依つて、為景之を討亡せり。是に依つて、武威益〻盛にぞなりにける。

伝に曰、謙信の世系謙信、先祖は平氏にて、桓武天皇の苗裔、鎮守府の将軍平良兼の後胤、長尾信濃守為景の次男なり。坂東の八平氏先祖良兼、子孫多くして、分れて八流となる。所謂坂東の八平氏是なり。鎌倉権五郎景政は、其の嫡流なり。同帝八代の後胤、大剛の勇士にて、十六歳の時、源の義家に属して奥州に発向し、武衡・家衡兄弟の朝敵を攻め、抜群の働し、天下に其の高名隠れなし。武衡は、天武天皇の後胤、清原武則が嫡子なり。永保年中、陸奥守義家、奥州へ入部す。武衡異儀に及ばず、相従ふと雖も、其の弟家衡、出羽国にありて出仕せず、我意を振ふ。義家、出羽へ入らんとしけるに、家衡堅く防ぎて入れず。義家是非なくして、一先づ奥州に帰る。時に武衡、之を聞きて、奥州より羽州に赴き、家衡と一手になりて、金沢の城に楯籠る。義家、大に怒つて、金沢の城を七重八畳に取囲んで攻め動かす。此の戦に、鎌倉権五郎景政、粉骨を尽す。寛治五年十一月十四日の夜、武衡・家衡、遂に叶はずして、本城に火を放つて落行く。武衡は水練に達して、池中に隠れしを捜し出し、生捕オープンアクセス NDLJP:14にして首を切る。家衡は人夫に交り、紛れ落ちけるを、追懸け討つてけり。是れ偏に、景政軍功に依つてなり。源頼朝卿の寵臣景時も、八平氏の一流にて、桓武天皇の後胤、平良兼の末孫、梶原平三と号す。治承年中、石橋山の合戦の時、頼朝に忠義あり。依つて近臣となる。寿永三年、摂州一谷の戦場に進んで高名す。加之歌人にて秀歌多し。然りと雖も、頼朝の寵臣たる権威に誇つて、源義経と軍法の諍論し、忽ち不快となり、其の遺恨を含んで讒言し、終に判官を亡せり。建久二年正月十五日、景時所司となる。此の時和田義盛、侍所の別当に補せらる。景時内々此の職を羨み望みしかば、同じく三年、義盛服暇ふくかの次を窺ひ、梶原、只一日其の職を借りて、永く返さず。和田義盛、大に憤ると雖も、権威の強を恐れて、敢ていはずして、空しく年月を送りける。景時、押して侍所の別当と称し、非礼奢侈の行跡を、大名・御家人等之を悪んで、諸大名六十三人、一同に連署を奉りて、景時が無罪の諸士を讒し失ひし暴逆を訴ふ。仍つて不日に、梶原一家鎌倉を追放せられ、正治元年、相州一宮の館に引退き、同じく二年、景時京都を志し、一家主従三十余騎にて、駿州清見が関に至る。其の折柄、諸士的矢射ける其中を、馬上にて馳せ通る。的場の侍等怒つて、切つて蒐りしかば、景時運尽き、嫡子源太景季・次男平次景高父子三人、一所に逃げ、山中に入りて自殺す。梶原が事、諸書に載せ、滅期も様々の説ありと雖も、事繁き故に略し、其の大概を記するは、謙信先祖なればなり。正統は権五郎景政が孫景弘、始めて長尾と称す。其の子定景、鎌倉の管領に仕へて、子孫代々相州に住す。就中定景、為景より其の威高く、鎌倉の長臣となつて、天文十一年、為景越中にて討死の後、次男平三景虎、其の後を相続す。時に十四歳なり。景虎、武勇智謀万人に超え、本領越後の外、上野及び佐渡国を手に入れ、越中・能登・加賀を討従へけり。

 
上杉の家系上杉氏謙信続ぐ事
 
上杉氏は藤原なり。上杉氏の来由大織冠十八代の後胤、修理大夫重房領知、丹波国上杉庄なり。依つて氏とす。後嵯峨院第一皇子宗尊親王を、征夷将軍に任じ給ひ、建長四年三月、オープンアクセス NDLJP:15鎌倉へ下向まします御時、勧修寺修理大夫重房、供奉の臣なり。重房、已に足利治部大輔頼之を婿として、足利尊氏卿の縁類たりしが、相州に留り、終に東国の住人となり、上杉左衛門尉と称す。関東上杉氏の始祖之を関東上杉氏の始祖とす。重房嫡男掃部頭頼重・其嫡子兵庫頭憲房・其子安房守憲顕相続いで、伊豆・上野・越後三箇国を領して、武威栄なり。此時、関東の管領職に補任せらる。其嫡男兵庫頭憲将・舎弟兵部少輔能憲に管領職を譲れり。能憲、弟安房守憲方に、又管領職を継がしめ、鎌倉山の内に住せり。其嫡安房守憲定・其次大全長基・其次右衛門佐氏憲・其次安房守憲実継ぎて、右京亮憲忠・其次民部大輔顕定・従四位下式部大輔、〈上杉朝定子、実は古河政氏子なり〉之を山の内殿と号す。上杉ふ。朝定の子従五位下修理大夫定正、鎌倉扇子谷あふぎがやつに住す。此両上杉中絶して、数年相戦顕定は、永正七年二月、越後に於て滅亡す。定正の男子憲正代に至りて、北条氏康と数〻相戦ひ、勝利を失ひ越後へ敗北し、力なく、長尾平三景虎〈謙信なり〉を頼み、上杉の名字并に管領職を譲りて、北条家退治の約を誓ふと雖も、素意を達せず。是に依つて、上杉の正統断絶したりけり。
 
長尾氏繁栄来由の事謙信本卦
 
長尾氏の祖長尾氏は、人皇五十代桓武天皇三代、高望王五世、村岡小五郎忠通鎮守府将軍〈平致経が子〉

四代、大庭景宗弟長尾次郎景弘を、長尾氏の祖とす、大庭三郎景親が伯父なり。景親は、大庭景宗が子にして、素は左馬頭源義朝の郎等なりけるが、平治の一乱に、源氏滅亡の後、平家に属して、治承年中に頼朝義兵を挙げられし時、敵となつて大に戦ひ、景親終に打負け誅せらる。此の時、一族武威既に衰へて、三代将軍の後、北条九代を過ぎ、足利尊氏公の治世に当つて、関東の管領職を、基氏に補任す。

伝に曰、基氏は、清和源氏足利尊氏卿の三男従三位左馬頭を、左兵衛督に任ず、義詮将軍の舎弟なり。然るに観応年中、義詮鎌倉より上洛の以後、尊氏の下知として、基氏鎌倉の管領となる。時に高播磨守師冬・上杉民部大輔憲顕両士を、其執事となす。斯くて尊氏と直義〈尊氏の舎弟なり〉不快なり。是は高師直より事起りけるに依つて、基氏之を憤り、師冬を誅せんと思ひ給ひ、憲顕と密談あつて、憲顕が子上杉左オープンアクセス NDLJP:16衛門に内通し、上野に於て謀叛を起さしめ、高師冬を討手に命ぜらる。是は師冬を途中にて、討たん為めの方便なり。然りと雖も、師冬堅く辞退して曰、某憲顕へ対し、其の子を討つことなり難し。憲顕向ひなば、親の事なれば、自ら帰伏すべしといつて、敢て進まず。基氏計策相違してければ、案じ煩ひ、憲顕と又計つて、師冬がいふに任せて、討手を憲顕に命ぜらる。上杉畏つて、軍粧華やかに出立ち、鎌倉を打立つて、上野に下りしが、兼ての計略なりしかば、頓て左衛門と一味し城に入りて、要害厳しく構へて楯籠り、事むづかしくぞ見せにける。基氏偽つて大に驚き、延引せば大事ならんと、基氏自ら進発して、高師冬を先手とし、途中に至つて相図の狼烟を上げければ、上杉父子、城より出でて急ぎ馳せ来り、降参と呼ばはりけり。時に基氏、師冬が一族三戸七郎といふ者を、傍近く召寄せ、忽ち殺害し、師冬が方へ使を以て、汝年来の逆心、其の罪許し難し。三戸七郎は只今誅せり。汝も早く生害すべし。然らずば、急度討手を差遣すべきなりと、師冬畏り候と返事して、其夜落行きけるを追懸け、路次にて討殺しける。其の後、新田の一族兵を起し、武蔵野に於て尊氏と相戦ひ、新田義興・義治、鎌倉へ攻入りける時、基氏防ぎ戦ふと雖も、多勢に無勢叶はずして、鎌倉を退去す。義興・義治、相州河村の城に楯籠りける時に、基氏軍兵を差遣し、之を攻むると雖も、義興武勇の将にて、勝利を得ざりしかば、基氏昼夜に謀を運らし、畠山道誓と相議して、遂に義興を殺す。然りと雖も、義宗・義治等東国にありて、蜂起する事数多度なり。之に依つて、多年挑み戦ふ。其の後、新田の一族次第に衰へ、義宗・義治越後へ蟄居せり。斯くて前の北条高時が次男時行、此方彼方と流浪しけるを基氏呼出し、伊豆国に於て所領を給ふ。時行大に悦び、其の後、度々の軍に忠功を励しけり。執事畠山道誓は、南方退治の為め、東国の諸勢を引具して上洛せし所に、在陣長々にて、諸士困窮に及び、本国へ帰去する者多し。道誓怒つて帰陣の後、彼の帰国せし軍士の所領を、悉く没収す。各歎き訴へしかども、畠山更に聞入れず。之に依つて、管領基氏へ各愁訴して曰、向後道誓鎌倉の執事たるに於ては、御下知に従ふまじと、大勢一同に言上す。基氏聞届け、道誓へ使者を以て、汝、先頃南方退治の発向、事の素意オープンアクセス NDLJP:17は、仁木義長を討たんとの巧なり。其の隠謀已に露顕す。其の上関東の諸士、罪なき輩の所知を押領する条、基氏に対して逆心不忠の至なり。速に此地を立去るべし。さなきに於ては、討手を差遣し誅伐あらんとなり。是に依つて、道誓是非なく鎌倉を退き去つて、伊豆の修禅寺に楯籠りしかば、基氏軍兵を差向け、攻め動かすと雖も、寄手討負けて引退く。基氏大に怒り、東八箇国の勢を催し、再び大軍を以つて攻めければ、道誓叶はずして逃去つて、山城・大和の辺に至り病死す。芳賀の入道禅可は、宇都宮が長臣たりしが、基氏の執事上杉憲顕と不和にして、私に合戦し、加之基氏にも背きければ、基氏憤り、宇都宮へ出馬せらる。禅可が子伊賀守・駿河守等が軍兵、武蔵野に出張して大に戦ふ。基氏勇み進んで駈破り、駿河守を自身に切殺し給へば、其勢に恐れ、芳賀が兵大に敗れて、右往左往に逃げ散ず。基氏直に宇都宮を退治せんと発向の所に、氏綱急ぎ馳せ来つて、某、全く禅可に同意仕らず候旨、神に誓うて謝しければ、基氏鎌倉へ帰陣す。貞治六年四月、左馬頭基氏卒す。行年廿八歳。法名瑞泉寺と称す。

管領基氏の執事上杉安房守憲顕より、上杉家、威を振ふ。此の時長尾氏を、上杉家の長臣とす。是に依つて、長尾左衛門入道賢昌、上杉家の執権として、其の威関八州にさかんなり。其の頃関東の管領家断絶す。賢昌之を歎き、京都先の公方持氏朝臣の末子永寿王成氏、故あつて信濃国に隠蟄し給ふと聞きて、賢昌急ぎ京都に上り、今関東に管領絶えて、八州治まり難く候条、願はくは成氏公の過失御免を蒙り申したき旨、言上しければ、公方恩免の御判を給はり、則ち成氏公を招請して、絶えたるを継ぎ、廃れたるを興さしむ。斯る仁政の徳に依つて、長尾氏威勢重く士民崇敬す。是より相継ぎて後、上杉氏両家に分る上杉氏関八州に武威を振ひ、繁栄して既に両家に分れけり。長尾氏は其権職として、関東静謐に治まる所に、扇谷あふぎがやつの定正家臣、長尾左近将監嫡子左衛門尉と、次男尾張守確執の遺恨起り、二裂になつて、兄弟の軍止む時なし。此の故に、山内の顕定・扇谷の定正の両上杉も、亦合戦に及び、関東既に擾乱の世とぞなりにける。斯る所に、山内顕定の家臣、長尾左衛門尉子息四郎右衛門尉謀叛を企て、扇谷の定正を討たんと欲して、多勢を以て攻め戦ふ。定正叶はずして敗走し、武州オープンアクセス NDLJP:18鉢形の城に引籠り、屢〻合戦す。時に越後国の土民等、一揆蜂起して国乱る。越州は、山内顕定の分国なりければ、長尾左衛門尉定景嫡子為景父子発向して、逆徒を討つて平均に治めけり。翌年山内顕定、越後に赴き給ふ所に、正良等再び蜂起し、雨溝あまみぞといふ所に於て、顕定討たれ給ふ。是に依つて、長尾氏越後を討ち治め、一国の太守となり。景虎の武勇定景・為景より威光日に益し、武勇近国に振ふ。殊に以て、三代の景虎、智謀豪傑の大将にて、終に殿おくるゝことなし。是より上杉家の武威衰へり。長尾兄弟の確執より事起り、上杉両家の廃衰とぞなりける。此の潰に乗じて、北条氏綱・同氏康、上杉の領国武蔵・相模を攻め傾く。天文十五年四月廿日、上杉憲正、武州川越に於て、北条氏康と相戦ひ、大に打負けて越後に敗北し、上杉家は断えて、長尾家の繁栄とぞなりにける。

伝に曰、享禄三庚寅上杉謙信公誕生。〈初めは長尾景虎、後公方義輝公より、輝の字を給はりて、上杉輝虎と号す。〉本卦履、六三、易に曰、履の心は礼なり。人常に履む所なり。小畜より出でたり。物蓄ふる時は、礼を以て和順す。故に次に履を以てす。其の礼に叶ふ時は吉なり。背く時は危く、虎の尾を履むが如し。兌を下とし、乾を上とし、上下尊卑の義正しき故に、履むといふ、礼といはんが為めなり。○六三の辞に云、眇能視、跛能履。履虎尾人凶。武人為于大君。是れ其の慎みの深きをいふ。見る事明かならず、故にすがめといひ、其の履む所正しからず、故にあしなへといふ。心は其才、既に不足にして、居事も亦宜しからず、故に虎の尾を履むといふ。不義を以て不礼を行ふ。故に虎に咥はるゝが如し。是れ凶なり。武暴の人にして、人の上に立ちて、其の心を恣にする儀なり。此の如き時は、必ず其の家を失ひ、其の身を傷る。深く慎むの儀なり。

 
長尾為景、戦場に於て卒去の事
 
永正三年丙寅、管領上杉房義、越中の国に在住し、行跡不義にして、政道正しからざるに依つて、為景之を討亡せり。故に舎兄上杉顕定、之を憤り、永正六年己巳七月廿八日、軍兵を引率して武州を打立ち、越中に発向し、為景を攻め動かす事頻なり。オープンアクセス NDLJP:19為景勝利なくして、越中の内西浜といふ所へ引退き、要害を構へ陣営を堅うして、暫く時節を窺へり。是に於て顕定、先づ国府に打入りて、房義の政法を改めて、賞罰を行ふと雖も、国人更に順服せずして、翌年庚午の四月に、国中一揆蜂起し、大に乱れしかば、顕定防ぐに堪へで、終に信州と越中の境に退き去つて、長桑原に屯す。然るに同六月廿日、高梨摂津守戦死せり。長尾為景は、常に忍の者を出し置き、窺ひ見せしめけるが、追々に帰り来つて、斯くと告げたりける。為景聞きて、既に今時を得たりと大に喜び、軍勢を催し打つて出でければ、越中一揆の士大将共、過半打ち従へ、或は降参して味方に属し、武威日に盛に大に興り、信州へ打つて入らんとす。其の鋒先比類なし。爰に信濃国の猛将頼平打つて出で、屢〻相戦ふと雖も、毎度打負け引退きけり。時に上杉房義の子相模守房正、父の怨敵なりければ、越中に起り、鬱憤の旗を揚げ大に戦ふ。為景防戦して、是れ亦勝利を得たりき。然るに為景、此の軍に流矢中り痛手なりしかば終に卒す。為景戦死長男家を続ぐと雖も、愚将にして、国郡の政道も叶はず、且つ敵に対して軍すべき器量もあらざれば、老臣・大臣等驕つて、上をないがしろにし、君臣の礼儀も疎に、剰へ逆心を含み、国家を傾けんと謀る族もありけり。況や隣国より幕下に属する諸士に於てをや。各心を変じて敵となり、誠に長尾の家、危急存亡の端なり。景虎の幼時次男は享禄三年庚寅に生れたり。幼名猿松と称す。〈是れ謙信なり。〉児たりし時の遊戯、仮初のあそびも、異様なる事を好み、ひとゝなるに及んでは、短気にして情剛く、大胆にして何事にも恐れず、家臣等の諫言などは、曽て用ひ給はず。其の行跡直人たゞびとにあらねば、旧臣等皆之を悪み疎んじて、主人の君達の如くには敬はざりけり。
 
景虎八歳の時、家臣等誹り出す事
 
天正六年、景虎八歳になり給ひ、弥〻強暴にして、益〻気随なりければ、国の大臣等諫言を加ふと雖も、敢て許容せられざりけり。仍つて諸臣相議して、関の山といふ所に移しけり。〈従者数十人なり。〉景虎遂に拒み出され、其所に住居し、或時米山の虚空蔵へ参詣、菩薩を拝し了つて、山上より四方を見下し、我れ再び国に帰つて、逆臣等を討亡さん時、陣を設くるの地、必ず此山にあらんといへり。従士舌を振つて肝を消す。翌年オープンアクセス NDLJP:20景虎九歳にして、大臣等を欺き計つて、遂に国に帰る事を得たり。

伝に曰、少年の時、持余したる児、成人して良将となりし例、異国・本朝に是れ多し。近くは織田信長公、十三の歳、寺へ上せしに、中々手をば習はずして、万づ行儀悪しく、手習朋友の食を奪ひ取つて、我れ食はじなど、種々の悪事を日にせられけり。師匠も手に余り、傍の人も見て、是れ何の用に立つまじ。弾正忠の子にてはあるまじなんど、いひ合へりしが、終に天下の主将となり給へり。

 
越後軍記巻之一
 
 
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越後軍記 巻之二
 
 
景虎廻国修行国を治むる道の事
 
天文十一壬寅年、景虎十三歳になり給ふ。性質天性と発明にして、智勇万人に超過せり。是に依つて、父早く逝去したりし事を歎き、且つ国の大臣等、逆心を懐き貪欲のみにて、不義無道の有様なりければ、程なく国家を失はん事を愁ひて、我何とぞし、逆臣等を誅罰し、先祖の国を持ち家名を興さんは、是れ第一の孝ならんと、昼夜工夫を巡らし給ふ。或時宣ひけるは、我れ、父為景公に早く離るゝと雖も、父の恩に依つて安座せり。凡そ一州を治むる者、一代の中に、仕出の武士はさもあるまじ。親に国郡を譲り得る者は、一切の苦を知らざる故に、万事の善悪を知るまじ、善悪を知らざれば、何事も悪しかるべしとて、頓て大臣等にいへらく、予、父の恩沢に依つオープンアクセス NDLJP:21て、保養豊饒に暮せり。故に苦労といふ事を知らず。されば今我れ思立ち、亡父菩提の為めに出家の志あつて、廻国修行せんとするなり。景虎の廻国修業汝等宜しく兄君を輔佐して、国家を安寧に治め保つべし。舎兄若し不才にして、国を治むる器量なく、輔翼し難きに於ては、汝等の中にして、国の主となるべしと、偽つて宣へば、大臣等聞きて、内には之を悦ぶと雖も、外には先づ相留めける。然れども景虎、敢て聞き入れずして、遂に国を出去り給ひけり。大臣等心中に謂へらく、実に此の人を国の大守とせば、我等が身の上に於て、其の罪遁れ難き所に、是れ幸なるかな、自己に国を去り給ふ事、我々武運の強き所なりと、大に悦びつゝ、強ひて之を諫言せざりき。斯くて景虎は、行脚の僧をいざなひて、奥州・出羽を経歴し、関東及び諸方を廻国し、人情を探り知り、国々の風俗を見聞し、嶮難の地、或は城取の要害を巡見して図し給へり。景虎従者に示していはく、吾れ一世の間に、武名を天下に顕し、上洛せずんばあるべからず。然る時は、先づ北陸道を討ち従へ、能登・加賀・越中・越前を以て、吾に忠ある剛臣等の領国となし、全く京都の路を融通して障碍なからしめ、畿内の擾乱を服従させ、平均に治め、公方を守護し奉り、秋津洲の外までも、掌握に帰せしめんと欲す。故に越中・加賀・能登を一見して、今、朝倉左衛門尉義景

〈義景は、孝徳天皇四十六代の後胤、朝倉孝景が子越前の太守左衛門佐と号す。天正元年八月、織田信長と合戦し打負け、一乗が谷に逃げ隠る。家臣朝倉式部景鏡、回忠して義景を弑し降参す〉が城府を、委しくうかゞひ見ん為めに、越前に赴くなりとて、阿波賀あはかといふ所に至りぬ。朝倉義景、何とかして聞きたりけん、老臣朝倉次郎左衛門尉を以て、使者として差遣し、景虎にいはしめて曰、当地へ御来儀の由承り及び候、明朝予が茅屋に御入りあつて、麁茶召上がらるゝに於ては、本望の至り、何事か是に如かんといへり。景虎聞きて、やゝ思惟し、従士に謂つていはく、思ふに是れ朝倉が忍の者、越後にありて、我れ国を出去る事を、告げ知らすものならん。然る上は、当国に来つて、地形を知るの謀益なし。明朝早旦に此所を立ち去らんには如かじと、頓て使者に対面し、義景公明朝召寄せられ、御茶給はるべき段、喜悦斜ならず候。必ず参候致し、礼謝を述ぶべき旨、宜しく頼み存ずると宣ふ。使者立帰つて、返事を告げけるを、朝倉一々つくと聞きて、此の人翌の未明に、此の地を立去らんと欲す。正に是れ詐計の返答なり。我れ則ち此の人に先立ちて、途中に出向はんとて、翌日暁天よオープンアクセス NDLJP:22り出で、道筋の村里に至り相待ちてけり。案の如く、景虎其所に来れり。義景即ち立迎へ、相遇して其の志を宣ぶ。景虎いはく、予が愚意甚だ恥づるに堪へたり。公の智慮浅からざりし事、感心猶余りありと宣ふ。義景旅席を設け、いまし酒肴を進めて以て饗応せらる。景虎辞するに能はずして、是迄御出で、芳志謝するに詞なしと、酒盃献酬の礼終れば、景虎叡山に登る別を乞ひて立去り給ひぬ。夫より近江路を経て比叡山に登り、景虎暫く玆に止住す。時に高良神かうらしんの遠苗、宇佐神うさじ駿河守良勝といふ英士、久しく関東の管領に仕へしが、闇将たる故に、予め危乱きらんあらん事を察して、身を退け生命を全うし、良将の寄遇を待つて、其の本意を達せんと欲し、是も亦天台山に登り、所縁の坊に姑く蟄居す。景虎、宇佐神良勝に文武の大道を聞く景虎之を聞きて、三顧して良勝に因み、常に相遇して、当世治乱の事、及び武将たる身の心胸・行跡等を問ひ給ふ。時に良勝、景虎の智勇ある性質を観察して、良勝が家に相伝せる神武の大道を授け、且つ演説して曰、夫れ文武両道の根元は、仁と義との二つより出でたり。天下国家を保つ者は、文武を専にすべし。文道を以て天下を治むるは王道なり。武道を以て国家を治むるは覇道なり。故に君臣共に練れる時は、是れ泰平の基なり。上下共に文武に暗くして驕を極め、人欲恣にして貨財を貪り、衣服冠帯美にして、以て身を飾り、淫乱を楽む者は、是れ亡国のしるしなり。故に曰、兵は武を以てうゑきとし、文を以てたねとし、武を以て表とし、文を以て裏とす。上天の時を知り、下地の利を知り、中人の和を知り、君臣の礼を謹み、上下の義を節にし、俗を順へ民に教へ、士を綏んずるに道を以てし、之を理するに義を以てし、之を動かすに礼を以てし、之を撫するに仁を以てするは文なり。命を受けては親を忘れ、陣に臨んでは身を忘れ、進み死するを栄とし、退き生くるをはぢとし、賞罰を信にし智謀を広くし、法令を明にして威を天下に振ふは武なり。文を以て利害を明かにして、安危を弁ふる所なり。武は以て強敵を犯し、攻守を勤むる所なり。此の二つのものを審にすれば、能く勝敗を知る。故に孔子曰、有文事者必有武備。有武事者必有文備と、誠に文と武と、其の名異なりと雖も、其の理一つなり。世を治むるに、政の正しきを文とし、乱世に征罰の正しきを武とす。将たるはいふに及ばず、士としては、文武の本を正すべし。其の本を正さんと欲せば、能く仁義をオープンアクセス NDLJP:23守り、忠孝を先とし、弓馬の道を習練して、合戦兵術の利を心に懸け、二六時中に軍事を習ひ、心を励して、父祖の名を汚すべからず。此の如くに心得て、衆悪を戒め、小善をも勧め、功ある者を賞し、敵する者を罰するを武士といふ。武道に志す者、勇なくんばあるべからず。上は義信を以て能く備へ、下は勇忠を以て仕ふべし。君として、能く徳を明かにすれば、天下の人帰服す。能く帰服する時は、四海の内敵なくして、治めざるに自然と無為なり。古の聖君、国家を治め給ふ事此の如し。将たる人、之を守りて、暫くの間も、心を妄に置くべからず。能く心上に敬を守り是非を正し、士卒を愛して善悪を知るべし。然れば、人には一つの理といふものあり。是れ中和の道なり。又軍術の骨髄なり。此理といふは、己が天に得る所の性善なり。天にありては​春夏秋冬​​元亨利貞​​ ​、人にありては仁義礼智、聖愚ともに分たずと雖も、聖人は私欲に覆はれずして、其の性のまゝにす。故に尭舜を称して、性善の証迹とす。五常の道正しき時は、邪路に入る事なし。弓馬の家に生れ来つて、合戦兵術の理忘るべからず。強ひて乱世ばかりに限るべからず。治まれる世に手練あるべし。天下に政を行ひ、国郡に命令を下す主君良将はいふに及ばず。一家を斉ふる士たる者まで、奇虚実の道理を会得し、臨機応変の妙意を考へ、心をして尽くることなきの境に置かずんば、何ぞ未戦の機に勝つことあらんや。古今の軍法、和漢共に品々変れりと雖も、内には敵味方の虚実を考へ、外には奇正の備を明かにして、其の臨機応変に随つて、雌雄を決するより宜しきはなし。軍を起すに、始・中・終の心持あり。味方の人和を以て始とし、地利を考ふるを以て中とし、天の時節を量るを以て終とす。君として仁徳あれば、国人死生を一つにして、危きにも変せず。険阻なる城地堅固なる要害は、敵攻むる事能はず。寒暑・時制・孤虚・旺相の宜しきに叶ふ時は、天のわざはひある事なし。凡そ戦の道は、上古よりなくんばあるべからず。天竺仏在世に於て、波斯匿王と釈氏との軍あり。漢土にては、三皇五帝の時、兵器起り、日本神代には、日神・素盞鳴尊御兄弟の合戦、度々に及べり。況や人皇に於てをや。聖君ましまさず、仁政民に施す事なければ、兵乱なきこと能はず。主将たる人、身を終るまで、此道を忘るゝ事なかれ。されば易にも、君子安而不危、存而不亡、治而不乱。是オープンアクセス NDLJP:24以身安而国家可保といへり。人は死生命ある事を知るべし。最も死と生とは、天より賦して命の定まれる所なり。唯理に依つて行ふべし。理といふは、近くは当然の是非を分つ所なり。喩へば禍を見て避けずして、是に中るは己が愚なり。天より賦するにあらず。又禍を見て行はざるも又愚あり。命ありといつて、天に任すべからず。聖人己に、知命者、不于巌牆之下と宣へり。且つ又戦場に向ひ、戦ふべき理に当らば速に戦ひ、戦ふまじき理に当らば暫く止むべし、勝つべき利を見て、却つて負くるは、謀の足らざるなり。負くべきに於て、却つて勝利を得るは、敵の過なり。天運は極まれりと雖も、敵味方の謀、足ると足らざるとに依つて、幸と不幸とあり。是に依つて、運と機との心得あるべし。運といふは五運なり。木・火・土・金・水の五行、一年・一日・一夜の中、次第して運動するなり。天地陰陽の運より、万物皆運に順ふ。機といふは六気なり。寒・暑・燥・湿・風・火は、三陰・三陽に応じ、かはる移ること、自然の気なり。春・夏・秋・冬は天地の運なり。寒・暑・暖・冷の自然に替るは、造化の機なり。天地の運は、定まれりと雖も、戦の道には、機を貴しとすべし。運は天にありといへば、戦を慎むの義とし、凡そ兵道は戦ふべき利に当つて、全く利を得る事は、定まれる運なり。謀不足にして、勝利を失ふ事は、兵機の変なり。勝つべからざるに、却つて勝利を得る事は、謀の幸に当るなり。人なすべき事をせずして、勝敗を天運に任するは、愚将の所為なり。是の故に、孔子、子路を戒むるに、謀を好んでなさん者なりといへり。されば古今ともに、強敵を亡し国を治むる事は、唯勇力のみにあらず、兼て智謀あつて、未戦の機を知るにあるべし。然りと雖も、天の運、却つて人の運に如かざる事あり。仮令ば古の聖君、天下を治むるに、厚く仁政を施し、義を専にして民服し、楽み上下に及んで正しき時も、天災ありて洪水起り、旱魃して諸人苦しむ事あり。又悪王世に出でて、天下を治むるに、威あつて位を得、寿命も長穏なる事あり。是れ天運と人運と、相かなはざるなり。されども聖王の時運に応じて、天下を治むる事は多く、悪王の運に乗じて、天下を保つ事は稀なりき。古今稀なるを以て、常に当つる事なかれ。たとひ使天災ありといふとも、聖君天下を治めて、仁政を厚くし、徳沢民を潤さば、至善の徳士ならん。仍つて後世に残り、子孫を伝ふる事、人オープンアクセス NDLJP:25運の全き所なり。悪王の世を治むるに、天災なきことあれども、国家治まらず、逆政民に及ぼし、衆之を恨み、後世に悪名を残し、卑俗之を唱ふ。人運の全からざるなり。武略を思ふ士、天運を恃まず、能く人運を恃むべきものなり。是等の理を考へ、疑惑を起さず、正路に入る事専要なり。凡そ兵書の多き事、漢の張良より以来、百八十家中にも、三略・六韜を以て、王者の師として、皆是れ太公が兵法なり。然るを黄石公三略といふ事は、前漢の張子房、下邳の地上にして、老翁黄石公に授りたるを以て、黄石公三略といへり。黄石公は、周の史官なり。石公、此の三略を記録したるにあらず。六韜は漢書の芸文志に、太公が書二百三十七篇ありといへり。今の六韜は、二百三十七篇の中より、肝要とする所を抜萃して、六韜六巻六十篇とするものならん。然るに七署の次第、孫子・呉子・司馬法の後についづる事は、孫呉の後に、此書を得て、唐の李靖より始めて事起れり。兵は凶器と雖も、聖人文武並び用ふ。孔子夾谷の会を思ふべし。我れ戦へば勝つと宣へり。本朝伝来の兵法多しといへども、大江家に用ふる所の訓閱集、武智麿の家記、聖徳太子の軍旅本紀、義経軍歌、尊氏十巻書、正成智命抄、義貞・正成七書を論じたる知本抄、赤松家の探淵抄・武鏡録等、是れ皆本朝の兵法・軍術、肝要を論じたる書なり。見ずんばあるべからず。然りと雖も、太公は兵者の一なりといふ呂東来兵を論じて曰、三代の天下を得ることは、仁の一字に過ぐべからず。是れ秘法なりといへり。是を以て悟入すべしと、申しければ、景虎大に悦んで曰、願はくは予が軍師として、相共に事を謀らんと請ふ。良勝感激して辞して曰、公の性質を見奉るに、誠に天の縦にせる雄武なり。何を以てか教ふることあらん。宇佐神良勝、景虎の臣となる我れ豈師たるに当らんや。自今以後、相従つて以て臣たらんのみと謂つて、始めて君臣の義を結び、何卒越後の国主と為さんと思へり。爾来忠謀を尽し軍事を勤めて、夙夜に怠ることなし。斯くて越後の国には、大臣等弥〻主君を蔑にし、縦に国政を執行ふと雖も、愚将にて之を乱す事を知らずましませば、臣互に威を争ひ、群臣和せずして二裂になり、国既に乱れんとす。是に依つて、憤を含む諸臣等相談じ、此上は景虎公を迎へ奉り、長尾の忠臣、景虎に帰国を乞ふ主君と仰いで、国家の擾乱を鎮めんと欲する者、一味同心す。就中忠義を存ずる武士四五輩、上洛して叡山に登り、景虎に拝謁して曰、冀はオープンアクセス NDLJP:26くは御出家の御志を止められ、早く御帰国あつて、御先祖の国を治め、家名を続ぎ給はんこそ、遠くは先祖、近くは亡父公への孝行、御出家には百倍なるべし、御国今已に乱れんとして、士民薄氷を履める思をなせり。御帰国に於ては、某等無二の忠節を尽し候はん。且つ御帰国を願ふ諸士、二心なく忠義を励すべき旨、一味同心の連判仕候なりとて、証状を差出し、再三言上しければ、景虎、兼てより斯くあるべしと、思量せられしに違はざりければ、諸臣に対面して曰、各申す所至極せり。然らば我れ国に帰つて後、仮令非道を行ふとも、其の命に違背すべからざるの旨、霊社の神文を以て、いふに於ては、国に帰るべしといへり。参謁の臣共承りて、甚だ悦び、急ぎ神文を捧げて、其の命を承りたり。景虎帰国是に依つて、景虎駿河守良勝を相具し、本国に帰り給ひけり。

 
景虎逆臣退治の事
 
天文十二癸卯年、景虎十四歳になり給ふ。景虎逆臣を退治す或る時良勝を召して曰、国家を擾乱する者に於ては、仮令兄一族たりといへども追出すべし。況んや旧臣として、逆心を企つる者、豈之を誅伐せざらんやと宣ひ、即ち神文を捧ぐる郎従に命じて、軍兵を相催しければ、逆臣を悪む義士等馳集り、一千余の士卒を相従へ、米山に登り、虚空蔵堂を本陣とし、戦兵は箭鏃を揃へ、岩石・大木を楯とし、旌旗を山嵐に翻して、寄する敵を待ち居たり。逆臣等之を聞きて、一所に会合し、勢の属かぬ其の先に、討果さんと相議して、軍兵を聚め都合二千余人を引率し、米山に押寄せ、大将の少年なるを侮つて、何の軍法思惟もなく、我先にと攻め登り、功名せんとぞ進みける。景虎の従卒山の案内を能く知りたり。坂の難所へ懸る所を見澄し、散々に射たりければ、寄手しどろになりて見えけるを、究竟の兵数十人、鋒先を並べ突いてかゝりければ、一同に崩れ落ちて、先陣已に敗軍し、一戦に利を失ふ。景虎の軍兵勝に乗つて追撃たんとす。景虎制して曰、我れ今睡り来れりと、暫時昼寝せられ、既に目覚めて、合を下して宣はく、時刻今なり、敵を追討つべしと、下知頻りなり。斯くて逆臣等の士卒、先登一戦に打負けたるを無念に思ひつゝ、二陣進んで前の恥を雪がんと、曳々声を出し、坂オープンアクセス NDLJP:27中まで登りし所に、良勝を先として、猛勇の武者山のかさより切つて懸り、突き伏せ薙ぎ倒しければ寄手の軍兵、嶮岨なる細路に懸つて、進退自由ならざれば、反し合せて戦ふべき手段もなく、千丈の谷へ突き落され、生死のさかひ知らずして、幾許そくばく討たれにけり。元来不義の軍なりければ、残兵蹈止まる者もなく、四角八方へ迯げ失せにけり。

評に曰、合戦の最中に、大将の昼睡ひるねは、不沙汰油断の様に思ひける所に、景虎能く地形を知り給ふが故に、敵の嶮岨なる所へ押登り、谷底へ追落さるべき時刻を待つて、昼寝し給ふ事、誠に浅からざりし智慮なりと、後に感心して、士卒皆行末頼もしく思ひつゝ、其後は弥〻下知を守り、忠戦を励ましければ、敵方の従士、我も我もと降参して、味方次第に多勢になりければ、夫より逆臣等の城郭を取詰め討果し、或は山野に戦うて誅戮し、始終五年の間に、ことく逆臣を討滅しけら十四歳の初陣に、勝利を得てより諸人恐をなし、国家平均に治まり、先祖の国、既に絶えなんとせしを興し給ふ。児童の身として、斯くの如き大義をなす事、古今未曽有の良将、是れ天より与ふる英武雄功なるべし。

 
越後軍記巻之二
 
 
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越後軍記 巻之三
 
 
景虎、頸実検の法式を問ふ事
 
斯くて景虎、米山の初陣に打勝つて、良勝を召され、頸実検を執行ひ、諸士の戦功を賞すべし。然るに、吾れ幼稚にて父に離れ、且つ逆臣等に妨げられて、流浪の身となりしかば、未だ頸実検を見聞せず、宜しく執行ふべしと宣へば、良勝畏つて、古代よりの法式を演説したりけり。

頸実検の作法、頸対面と申すは、敵の大将貴人高位の頸を見給ふ。之を対面といへり。其の時の礼式は、真の礼なり。大将の出立ちは、下に大口、且つ直垂・甲冑を帯し、征矢を負ひ、弓に鋒矢を持ち添へ、太刀・刀を佩き、床机に腰を懸け、幕の内に居給ふなり。但し此時に限りて、幕を鋒矢形に打つなり。大将の左の方に弓矢、但し弓は勝軍木、矢は真鳥羽なり。右の方にはた、大鼓は左なり。能き武士撥を取つて、二三度打つべし。一番二つ、次に三つ、三度目に四つなり。螺は右の方声を出さず、手に持ちて居るべし。或は送貝を吹くなり。旗は御旗奉行、旗指はたさしを引付けて、御旗に手を懸け伺候す。其の外前後左右に、諸の物頭・物奉行、御一族諸士、鎧鉢巻し、大童になりて、太刀を二三寸抜きくつろげ、鎗を直し、左の膝を折しき、右の膝を立て、唯今一戦に及ぶ時の体にて列居すべし。

、実検とは、諸の物頭奉行等、総じて甲冑を帯する騎兵の頸を見給ふをいふなり。歩立の士・葉武者の頸を双べ置き、見給ふを見知けんちといふなり。〈頸実検とは、総名と知るべし。〉

、大将実検の作法は、南天の御手水太布の御手拭、床机に腰を懸け、右の手を太刀の柄に懸け、少し抜きくつろげ、敵に対する心持にして御覧あるべし。大将旄を持ち、旄の間より、左の眼尻にて、頸を片顔を白眼むやうに見給ふべし。扨酒を呑み終りて、勝鬨を執行ふなり。

、頸披露人の作法は、鎧を着し小手を差し、甲を着せず、其の頸を洗ひ髪を水引かぬオープンアクセス NDLJP:29もとゆひにて結び、其の結目を後ろにす。扨生絹すゞしの絹二幅四方にして、頸を包み両の鬢より合せ、頂にて結ぶなり。扨供饗にすゑ、持ちて出で、左の膝をつき、右の足を蹈みながし、右の手にて頸の髪を取り、左の手にて供饗を持ち差上げ、右の片顔を見参に入れ奉り、名字・官名を申上げ、暫くあつて、頸を取つて、右の方へ退き退散すべし。但し大将は南面、頸は西面なり。

、披露の時、敵将の頸ならば、頸の名字・官名をいひ、討捕る者の名字名を後に申上ぐる、其外の頸実検は、討捕る者の名字名を名乗り、後に頸の名字を申上ぐる、其の頸の名字を知らずんば、何となりとも、名字を付けて披露あるべし。名字なき頸は、実検に入れぬ者なり。坊主首は下輩たりとも、頸の法名を先へ名乗りて、討ちたる者の名字を、後に申上ぐべし。坊主頸は紙を四つ折にして居ゑ、左右の耳に大指を差入れ、切口と居物とを手に持抱へて、実検に入れ奉るなり。総じて居物之れなき時は、何れの頸をも畳紙に居うべきなり。又討取る頸を、自身披露する時は、頸の名字を名乗り、我が名は申上げざるなり。然れども外の頸をも、披露する事あらば、我が名字をも名乗る事なり。

、居頸居物、上輩は供饗、中輩は足付、下輩はかしなげ或は山折敷なり。但し切目の方ふちを放し、頸の面を角の方へ向くべきなり。

、大将の頸対面の時は、味方の大将と敵将の頸の間に、五行の文字・かなふの文字を、紙に大文字に書きて、竹柱を二本立て、縄を張りて挟むべし。

、実検の前、頸の左の方に我が手を当て、三度づるを、頸を化粧するといふなり。

、頸を洗ふには、首を北向にして、酒を以て洗ひ、ゑふ油を面に塗る事あり。梟首する時も斯の如くする事あり。

、戦場にて直に頸披露する事あり。其の時は、冑の𩋙しころを畳み揚げ、左にて持ちて、左の膝を立て、右の膝を突き、右の手にて冑の吹返を抱へ、左の膝に載せて、主君に右の片顔を見せ奉るなり。

、頸実検は中輩なり。大将の御出立ち、甲冑を帯し、刀・脇差常の如し。太刀は持たすべし。床机に腰を懸け、左右の武士、諸具等の作法は、対面の式法と相同じ。

オープンアクセス NDLJP:30、披露人出立ちの作法は、大将甲冑を帯し、六具をなしたる時は、披露人、鎧に弓・小手・鉢巻なり。大将小具足ばかりの時は素肌なり。披露の次第、対面と同前、右の片顔を実検に入れ奉る。頸の名字を申上げ、慎んで大将の御顔を見る事なかれ。頸を久しく置かず、早く取つて頸に目を附けて、逃ぐるやうに足早に、左へ廻りて退くべし。

、実検の時、午の歳の人を、大将と頸との間に立てしめ、村重籐の弓を持たせ、頸の左右に山鳥羽の鳴鏑箭を二筋立て、夫より四尺程去つて張弓を置き、弓より一丈去つて大将居給ふなり。城中門内にては敷居越、野中にて右の如く張弓を置くか、或は幕越に御覧あるべし。幕の物見より御覧ある時は、破軍星はぐんじやうの物見より御覧あるなり。

、頸数十以上は七つ、百以上は十五実検あるべし。残る頸は並べ置いて見知たるべし。然といへども、物頭・物奉行、其の外名高き士の頸は、幾つなりとも実検ある事なり。時宜に依るべし。

見知けんちといふは、下輩の頸なり。頸数多き時は、幕の外に西向に頸を並べ置き、北より南へ馬にて三度乗廻し、馬上より御覧あるなり。或は又、幕越に御覧の事もあるべし。

、見知の時は、大将小具足ばかりにて、さいを持つべし。披露人は素肌にて幕際に居す。其の外諸士列座、諸具、見知終るまで、備を乱るべからず。右対面・実検・見知相済み、勝鬨を執行ふなり。

、勝鬨執行ふ次第、先づ戦ひ勝ちたる先備を後へくり、左右の脇備を前へくり、後備を左右へ配り備を堅め、方円何れにても、八行の陣を作り、大将中央に握奇陣を堅め、陣後に於て、頸帳を調へ、其の後、床机に座し、左の方太刀・団扇、右の方に弓・矢、弓は勝軍木にて之を作り矢は真鳥羽の常の矢なり。弓も時により、常の弓を用ふる例あり。其の外の次第、前に記す。御酌両人〈銚子・提子なり〉割紙・もとゆひにて髪を結ふなり。是れ故実なり。四度入りの土器にて、四度づゝ加へて十六度なり。肴は討ちて勝ち悦ぶと食す。搗栗かちぐり・昆布。〉其の後、大将栄々えいと三度唱ふ。諸軍士王と声を揚ぐるなり。オープンアクセス NDLJP:31勝鬨揚ぐる前、軍監鼓のばちを取つて三度打つ、二三四なり。貝の役人貝を吹立つる事あり。是れ軍神を送る貝なり。時に大将南天の手水太布の手拭なり。何れも名ある武士の役なり。

、実検の時、軍門に人を改むる役人を置くべし。頸対面の時は、尚以て相改め、猥に人を入るゝ事なかれ。猥に人を入れて禍ありし例、古来多きことなり。堅く慎むべし。

、頸実検に、内外の替りあり。内とは本丸と二の丸の間に、物見矢倉を建つ。是は四方をかう子にして、何方をも見はらし、人衆くばりををす知する所なり。大将爰に於て、実検し給ふなり。外とは、野原にて実検ある事なり。人数の備様・儀式等内外相同じ。

、母衣武者を討取りては、母衣の第二幅を取つて四つに折り、三重を頸に敷き、一重を頸に懸け、帝釈の緒を以つて結ぶなり。実検に入るゝ時は、頸を右の方に置き取出し、面に懸けたる母衣絹を下し、扨常の如く実検に入るべし。居物は供饗なり。其者の母衣は、子孫に伝ふべきなり。古へは右の母衣絹に、大将感状を書き、名判を居ゑ給はりたる例あり。若し又討ちたる者、母衣武者なれば、其母衣に大将、其の軍功を記して給はる事もあり。何れにても大きなる武士の規模なり。

、初頸にて吉凶を考ふる事、五眼の習ひあり。右眼・左眼・天眼・地眼・中眼なり。右眼といふは、玉右へ附く、是れ退くなり。左眼は左へ附く、進むなり。天眼は上へ附く、恐るゝなり。地眼は下へ附く、味方を手下に見下すなり。中眼は上下左右なし。是は敵味方等分、後はあつかひになるべし。右の通りを能く見て、勝負を考ふべきなり。

、一日の戦に、首一つ取りたるを一つ首といつて不吉なり。実検に入るべからず。其頸をば、直に祭つて納むべし。若し又、実検に入れずして叶はざる時は、実検の次第あり。先づ髪を二取に結び、逆にわけてあさがほの楊枝を削りて二つのわげに差し、扨て衣にて面を包み、電反てんへんにて結び、弓矢を隔てゝ実検に入るゝなり。大将は扇を三間か四間開いて、其間より卒度見給ふなり。

オープンアクセス NDLJP:32、野心の頸といふ事あり。目を開き口をあき、舌を出し面赤く、すさまじき体あるを、野心頸といふなり。左様の頸は実検に入れず。此の如き頸をも、一つ首同前にして祭るべし。若し已むを得ず、其頸実検に入るゝ時は、頸の相を作り直して、実検に入るべし。

、頸塚は一尺二寸四方、高さも同前なり。野陣にて三品の居物なき時は、幕の外に頸塚をつき、披露する事なり。

、頸台八寸四方なり。高さも同前、是れ又三品の居物なき時は用ふるなり。之を頸机ともいふなり。

、首桶の事、高さ不定なり。大方一尺二三寸ばかり然るべし。又わたりの広さ八九寸たるべし。輪は二所なり。古流には桶の木を四十八本にしたる由、当流は数不定。蓋は押込蓋なり。上に綴目あり。若し曲物ならば左前に合すべし。右の桶に書附する事、蓋の上に、真中に卐字を書き、右の方に誰の頸、誰討ち取る、鎗下或は太刀下と書き、左の方に月日を書くべし。桶に入れ頸に札附くべからず。蓋の板、立板になるやうに書附をすべし。頸の面、蓋のとぢ目の方へ向はすべし。白布を二幅四方にして、桶の上を包み、射捨の木ほうを一筋上にさして送るべし。是は頸送る時の事なり。桶に入れても動かざるやうに、下に輪をすゑて入るべし。

、遠路より桶に入れ送る時、夏ならば別して念を入れ、朱を以て能く詰め、酒を以て漬すべし。此時は、桶も少し大きにすべし。頸損ぜざるやうにして送るべし。若し頸損じたれば、何れの頸とも見分けがたき者なり。源義経の首、高館より酒に漬して、鎌倉へ送りけるに、ちと御顔損じければ、御前の衆中色々僉議ありける由、鎌倉の日記に見えたり。

、頸札の事、大将の頸札は桑なり。其外は何木にても苦しからず。長さ五寸に横二寸、是は大将分の首札なり。諸士の頸札は四寸に横一寸八分、歩者素肌者の頸には、三寸六分にして附くべし。札の頸は劔先、下は片そぎなり。苧縄にて附くる。

、桶に入れたる頸渡しやうの事、右の如く認めたる頸を持参し、奏者に対して蓋を開き、何某の頸何某討取ると名乗り、又元の如く蓋をして、左の手を上にして、面をオープンアクセス NDLJP:33我が前になして相渡すべし。但し桶に名書ある時は、名書の字頭を向になして下に置き口上をいひ、蓋を取つて首を見せて、又蓋をして前の如く相渡すなり。

、同請取やう、先づ竹の幕串をこしらへ幕を打ち、天の幅に物見をあけ、此より持来るを見て、幕より出で、一礼して請取り、桶の上に差来る矢を、中より切折つて捨つべし。請取る者も相渡す者と同じく、左の手を上にし、面を我が前になす。返事は時の様子に依るべし。敵軍へ送るも同前、但し少しは心持替るべし。

、桶に入れざる頭、請取渡の事、頸を畳紙にすゑ持ち出で、左のびんを請取る者の方になして右に置き、一礼して口上をいひ、扨左にて髻を取り、右にて頤を持ち、頸の面を我が前になして相渡すなり。請取る者も一礼して、口上を聞き届け、左の手を上にし、面を我が前になして請取り、下に置きて一礼するなり。

、頸を梟首せる事、俗に之を獄門にかくるといふ。上輩・中輩・下輩の三段あり。或は公家将軍総べて上輩の頸を懸くるとき、柱は栗。横木はねぶの木、高さ地より九尺三重、中輩は七尺二重、下輩は六尺一重、頸台に居うる時は、真中に五寸の釘を打ちて首を差す、見前三尺ばかり、上輩の時は上の一重に、大将の頸をかけ、下二重には相共に討死したる士の首を、段々に懸くるなり。

、中輩の頸は、梨の木首台、五寸四方なり。下輩の頸は実検に入れず、竹柱、横木は栴檀なり、台なし。

、敵の大将を討取りては、其所に埋め或は墓をつき、標石を建てゝ祭る事軍礼なり。墓をつくには三段につくべし。下段は六尺四方、高さ二尺五寸、中段は五尺、高さ二尺、上段は四尺四方、高さ一尺五寸、三段以上六尺なり。上に標石を建つべし。

、頸供養する事は、三十三取る時は、供養をして塚を築くべし。

、敵の死骸を敵方へ送る事あり。大将の頸など持ち来る時、行逢ふ事あらば下馬すべし。妻手を通さず、我が弓手を通すべし。

、敵の頸を取りて、からげる事あらば、其敵、箙を負ひたらば、箙の上帯を以てからげ、取附に附くべきなり。箙負はずんば、鎧のくりじめの緒にて、からげ附くべきなり。

オープンアクセス NDLJP:34御尋に依つて、大旨申上候。然りと雖も、家に依り時に随つて、其の品種々ありと見えたり。右の法式を以つて、時の宜しきに随ふべきなり。

 
村上義清、景虎を頼む事
 
天文十六年丁未、景虎十八歳になり給ふ。十四の夏より以来五年の間に、逆臣等を悉く討滅し、国中平均に治りぬ。其の年八月廿八日、信州更科の城主村上義清、武田大膳大夫晴信〈甲斐信玄〉と数度の戦に打負け、武力竭き牢落の身となつて、村上義清景虎の幕下となる越後に来り景虎に対して曰、我が父祖より以来、公の父祖と互に武威を争ふ事年久し。然るに今其恥辱を顧みず、降参を請ふこと別事にあらず。某、十箇年以前より、武田大膳大夫晴信と合戦を取結び、屢〻戦ふといへども、未だ勝負を決せざる所に、同月二日信玄大軍を率して、信州佐久郡志賀城主笠原新三郎を退治せんと押寄せ、稲麻竹葦の如く取詰め、一揉に攻め崩さんとす。城中防ぎ戦ふといへども、勇鋭に砕かれて叶ひがたく見えければ、忽ち使者を出し降参を請ひしかば、信玄其の意に任せ軍を止む。新三郎同日降礼を勤め、信玄直に甲府に引入るの由聞きしかば、此の労に乗つて押寄せ、十死一生の苦戦を励し、村上・武田の家運を決せんと相議して、譜代の家従及び郷民等引具し、同月廿四日、信州上田原まで出陣せし所に、信玄遮つて、早く其所に押来り、合戦を挑まんとす。味方案に相違して、軍卒大いに驚き、猶予を凝らす所に、信玄が先手板垣駿河守信形、ひたと打寄せ、弓・鉄炮を交へ、曳々声を出し攻め戦ふ。之に依つて、味方既に揉崩されんと見えしかば、某一陣に蒐出で、采配おつ取り、士卒に下知して曰、今日の合戦十死一生と、兼ねて思ひ定むる事なれば、敵仮令百万の勢を以つて、攻め働くといへども、此場を去つて、再び誰に面を向くべきぞ。夫古語にも、生而自一期栄、死而不万代名といへり。如之弓矢取る身の慣ひ、軍に出づる日、其の妻を忘れ、境を越えて其親を離れ、刃を取つて、其身を忘るるは、武士たる者の本意なりと、大音声に訇りければ、此一言に義を守り勇を励し、又備を立て直し、面も振らず一同に突いて懸る。其中に、尾張国の住人上条織部と名乗つて、黒革緘の鎧を着、白綾たゝんで鉢巻し、鹿毛の馬に白鞍置きたるに、ゆらりとオープンアクセス NDLJP:35乗り、一番に進み出で、敵の先手の大将板垣駿河守信形、太く逞しき馬に金覆輪の鞍置かせ、其の身軽げに打乗り、一陣に控へたりしを目に懸け、無二無三に駈入り、信形に渡し合ひ、互に鎗おつ取り延べ突いて懸る。織部は其頃、天下無双の鎗の達人なりしかば、透さず馬上より突き落し、続いて飛下り、おこしも立てず、首搔切つて味方の陣に引返す。然る所に、信玄旗本の荒手を入れ替へ、鼓・貝を鳴し、急に押寄せ、某が馬印を目に懸け切つて懸る、是こそ望む所なれと、千変万化に馳廻り、鋒先より火を散らし、相戦ふといへども、大軍に揉立てられ、敗軍の旗を絞り、無念ながらも引立てられ、進退此に究り、行方定めぬ海士小船、梶なきまゝに折足ほだされて、何れ寄る辺の樹下もなし。今足下の軍門に来降し、公の庇蔭を憑むなり。願はくは公の武威を以つて、再び更科葛尾の城に帰住せしめば、一生の厚恩何事か之に如かんといへり。景虎一々つくと聞きて曰、景虎の素志義清の憤り察するに、言語の外に余あるべし。故に予が所存を談ずるなり。然れば我が父為景、越中に於て戦死す。其の後逆臣等あつて国家を傾けんとす。之に依つて、国既に危亡に及べり。幸に某、漸くひとゝなつて五年の間にして、咸く討滅し、国家をやすんたもてり。今是よりは、亡父孝養の為に、先づ越中を討ち従へ、能登・加賀・越前を手に入れ、其の後、関東八州・海東七州を幕下に服せしめ、京師に上つて、公方に謁見して、一度天下の権柄を取つて、武名を四海に顕さんと欲す。是れ我が素意なり。然れども義清の心底を察するに、敢て之を黙止がたし。姑く北陸道への発軍を止めて、武田晴信に対して一戦を遂ぐべしといへり。義清之を聞いて、喜悦の余り感涙を催せり。景虎曰、我れ多年甲州に限らず、諸国に間者を入れ置き、国政治乱・軍の勝負を聞けり。義清は晴信と累年合戦ありければ、晴信が戦術・軍法詳に見聞あらん。悉しく演説し給へ。義清答へて曰、凡そ晴信が軍術は、譬へば漏船に乗つて、風波を凌ぐが如し。大に慎みあつて、以つて卒爾に戦はずといへり。景虎の曰、彼は正兵なり。我が奇兵を以つて、偏強に進み馳せて、之を討たんに如くはなしといへり。斯くて群臣を召して、議して曰、吾れ亡父の為に、越中を征伐せんと欲するの所に、村上義清幕下に降り、吾を頼む事切にして敢て黙止がたし。仍つて越州の出陣をさしおき、晴信に対し、一戦を励まさんと思ふなり。然れば越中征伐の儀を、暫オープンアクセス NDLJP:36く止むる事、不孝に似たりといへども、我れ熟々慮るに、義清は智謀足らざれども、勇強人に超えければ、彼を葛尾に帰城せしめば、其の後吾が先鋒として、美濃・尾張・参河・遠江の諸将を旗下に属せしめん事、開国の基こゝにあり。然則しかるときんば、子孫の父祖に孝ある事、是より大なる者あらんやといへり。群臣等承つて対ふる事なく、唯謹んで感ずるばかりなり。
 
越後軍記巻之三
 
 
オープンアクセス NDLJP:36
 
越後軍記 巻之四
 
 
景虎、甲州発向軍令の事海平うんのたひら対陣の事
 

斯くて景虎、老臣及び物頭奉行等を召集め、合戦の評議せらる。各其の命を承る。群臣退去の後、良勝を召して軍法を決定せしめ、令を下して曰、当十月八日・九日・十日、此三日の中、信州海平に出陣すべし。家中の将士、其の用意致すべき旨、陣触ある。此の時戦兵八千、雑兵是に応ず。今度始めて軍令を出せる条に曰、

一、推行于他邦、則雖山野之一宿、不陣者也。故荷糧負鍋、而可要軍食不_乏。並熟食設雖帰陣、上下共不之事。

一、入敵地之中令、則不妄放火乱妨。於何地亦可令下。採薪芻牧亦同前之事。

オープンアクセス NDLJP:37一、行逢嶮難之地、則暫止立前後之備、令道、而後可推行也。於船渡与_橋者、不列妄渡之事。

 此外法令者、皆如常定相守者也。

陣触の通り、既に十月八日に至つて、先備出陣す。九日に景虎出馬なり。十日雑兵小荷駄発足せり。直に信州の境内に入りて、晴信に相従ふ諸将の領地をば、悉く放火し乱妨す。未だ従服せざる武士の領内をば、異儀なく味方となさしめて、同十九日信州海平に着陣し給ひ、景虎、海平に着陣諸将物頭を召集めて、軍の備立を評議して、其の後宇佐神良勝に密事を談じ、軍令決定す。今度の駄馬奉行は、本城越前守・同息清七郎とに命じて曰、駄馬の備は、旗本より五六町退いて立て、陣気を揚ぐべしといへり。一番備は、長尾正景〈景虎の姉婿なり〉と土倉両人相勤むべし。且つ命じて曰、一手限の合戦は、我が家の法なり。進むとも退くとも、他の列士が力を合すべからず。二番の備は、柿崎和泉守・直江山城守兼続・大関飛騨守・柴田道寿・芋川播磨守・安田上総介等なり。此の六人に命じて曰、先備の戦士軍を敗りて後、一同に進み懸りて乱戦すべし。我れ其の時、晴信が旗本に駆入りて、急に進んで討たん。三番備は旗本なり。甘糟近江守と上田とに命じて曰、我れ既に進み懸るとも、汝等共に聊も進むべからず、唯備を堅め敵の進み来るを待つて、速かに戦ふべしといへり。四番備は村上義清、其の手勢に、高梨・清野・窪田等と合せて百五十余騎、其の外梶右馬允・色部一学、是等に命じて曰、敵若し横間よこあひより襲ひ来らば、汝等奇道より之を撃つべし。今度の殿後しんがりは長尾正景に命ぜらる。正景若し討死せば柿崎代るべし。柿崎も亦討死せば、柴田之を勤むべしと、厳重に下知し給ひけり。斯くて武田大膳大夫入道信玄の忍の者、密に聞きて、早速告知らせければ、信玄曰、抑我が祖父陸奥守信綱、父左京大夫信虎より以来、累世当国の守護として、今川五郎修理大夫氏親・北条相模守氏綱・越前朝倉左金吾孝景・信川小笠原大膳長時、隣国にあり。

断に曰、今川氏親は源義家の後胤、今川伊予守貞世入道して了俊と号す。文武の達者、尊氏・義詮・義満三代の将軍に歴仕して、忠功を励し、応安四年九州の探題職となり、其の威高し。了俊より八代の末孫、今川五郎修理大夫氏親と号す。歌人オープンアクセス NDLJP:38なり。了俊より以来、駿河の国主にて、武威昌なり。又北条氏綱は、小松内大臣重盛公十七代の後胤、北条早雲子正五位下左京大夫相模守と称す。武道の達者なり。小田原に城郭を構へ、隣国を斬従へ、関八州をも猶打靡けんとして、武威を振へり、又朝倉孝景は、孝徳天皇四十六代の後胤、朝倉左衛門尉と号す。斯波家累代の家臣日下氏なり。武功数あり。越前を領す。義景が父なり。又小笠原長時は、新羅義光十四代の後、胤、小笠原長基子大膳大夫長時、武道の達者、信州の人なり。

武勇を争ふといへども、毎度此方より取懸り、敵に致すことはあり。未だ吾を犯す強敵は之れなし。然るに彼の景虎は、若年より軍道に心を寄せ、旦夕七書に眼を晒し、加之上杉の家臣、竹内宿禰の苗流、宇佐神駿河守良勝に因んで、元朝伝来の軍伝を授り、千変万化の兵術を練磨し、近くは河内の中将楠先生正成の軍配を尋ね、凡そ兵道に於ては、摩利支尊天の再誕かと恐るゝ由、伝へ聞けり。然りといへども、今度甲斐信濃の両国、予が分国をも恐れず、押来る敵を見ながら、争でか怺ふべき。今頃このごろ威を本朝に震ひ、勢海外に響く信玄が強猛を以つて、渠が血気の鋒先を砕かん事、手裡にありと訇り勇んで、舎弟仁科五郎・内藤修理進・秋山伯耆・駒井右京進を先備として打立ち、各門出の祝儀を刷ひ、一勢々々引分け、備を堅固にし列伍を乱さず、軍令を守りつゝ、信玄海平に着陣勇み進んで押す程に、同十八日には海平に馳着きぬ。暫く人馬の息を休め、遠見・野中の番を居ゑ置き、篝を焚き屯し、夜の明るを待ちたりける。頃しも陽月の事なれば、夜寒になりて、冬の夜の萩吹きすさむ枯端の月、夜半の嵐に霜おきて、五更の天も白々と、鶏鳴暁を告げしかば、軍食を設け、卯の刻より人数を繰出しける。景虎旅陣にも、暁天より軍粧を調へ、是も亦卯の刻より諸勢を出し、両陣互に巳の時より矢軍始れり。上杉、武田合戦少時しばらくして先備の軍長共、手に手に鉛を提げ、而も振らず頭を傾けて、捜々声を揚げ一足も退かず、次第々々に進み懸る。是に依つて、敵軍戦はずして二町半余引退きぬ。時に正景勝に乗り勇み進んで、大采配を振挙げ、馬に鞭打つて既に之を駈敗らんとす。景虎此の形勢を見て、良勝を引具し、早速先陣へ馳行き、鐘を鳴らし下知して、急に人数を引取り給ふ。正景怒つて曰、勝軍に臨んで引取り給ふは心得ね。良勝答へて曰、敵の前備は負色ありといへども、後陣を見るに、各備オープンアクセス NDLJP:39を守りて堅固にせり。今日の合戦黄昏に及ばずんば、勝負を決すべからず。然るに今、北雲を見るに雨をねやせり。且つ宵闇なり。是を以つて、早く引取つて、陣営を結ばんには如かじといふ。是に依つて、正景怒気を止めて、殿後となつて、徐々と引取りけり。此合戦、午の下刻に始まり申の上刻に終つて、各陣営に入りにける。其の夜、景虎諸将を集め、軍評議ありける所に、正景・柿崎進み出でゝ曰、明日一戦を遂げらるるに於ては、必定勝利を得んといふ。景虎、宇佐神に問ひ給ふ。良勝答へて曰、熟〻晴信の備立を見るに、公の勇驍当る所、必ず破るゝ事を知つて、専ら不敗の備を為して、当り戦はん事を欲せず。故に一旦之を討破るとも、全く勝利を得べからず。唯幾度も対陣あつて、彼が守る所を失ひ、其の怠る所を見て、急に撃つて一戦にして、全勝を取らんには如かじ。景虎帰国故に先づ小戦して、後を謀るの手段を知るべしといへり。景虎之を聞きて、尤可なりとして、同廿三日に帰国せり。

 
信州小県対陣の事
 
天文十七年戊申、景虎十九歳、信州表に発向せんといつて、先づ諸将老臣を召集めて、軍評定あつて、景虎再び出陣然る後良勝と密事を謀り、軍事を決定し、五月十四日先備出陣し、十五日景虎発馬にて、十六日雑兵後勢発足す。戦兵八千余騎、雑兵是に応ず。斯くて同月廿三日着陣す。先備は甘糟近江守・安田上総介・春日並に千本鎗の強卒なり。千本鎗とは越後の郷士なり。此等に命じて曰、陣を結んで陣を張る事なかれ。敵進み来らば、唯退き戦うて、先陣の後陣となる術を守るべし。二の備は旗本なり。川田豊前守・上田等に命じて曰、先備の既に戦はんとするを見ば、脇道より進み馳せて、先陣となるべし。三の備は尽く散乱して、一手限に合戦を励むべし。又長尾小四郎に命じて曰、汝は中の備の間より四五町引退いて、備を立て、始終進まず退かずして、遠陣の勢を張るべし。又村上義清に命じて曰、其の手勢一与ひとくみの遊軍となつて、催促の下知を待つて加勢せらるべしと、諸将の手分法令を定め、総軍龍行の陣を作つて戦を待つ。時に村上義清進み出でゝ曰、武田晴信が陣形を一々窺ひ見るに、其の形勢、公の鋒先・太刀風に甚だ恐れて、当り戦はん力量無きこと、疑ふ所なく相見えオープンアクセス NDLJP:40たり。然るときんば、向後信州表の発馬御無用なり。唯願くは此度、某に先駆を許容あらば、敵陣に蒐入り、晴信と組打し、勝負を一戦に決し、日来の無念を散ぜんといふ。景虎聞いて、此の事如何と、宇佐神に問ひ給ふ。良勝が曰、去年より以来武田家の軍粧を計り見るに、尋常の人にあらず、最も義清の智慮及ぶ所にあらずといふ。是に依つて、景虎も亦義清の所望を許し給はず。只戦を挑んで待つといへども、晴信も亦陣営を堅く守りて敢て戦はず。徒に対陣して数日を送る。景虎帰城仍つて景虎は七月五日帰城し給ひける。

伝に曰、天文十七年戊申五月七日、晴信甲府を立ち、信州伊奈へ発向し、保科持の砦を二三郭打破り、高任が城へ攻詰め相働くの由、景虎の忍の者、告知らせければ、景虎頓て、軍勢を率して小県郡へ発馬し、戸石に陣取り給ふを、武田の物見註進に依つて、晴信早々和田峠打越え、長窪より内山へ出で、是の所に陣し、景虎、晴信と十三日対陣あり。一日二日に一度づゝ筑摩川を渡り、敵の先勢進み来る。味方の先手足軽を出し、互に攻合ひけるが、景虎思慮して、十六日辰の刻に、陣を引払ひ給ふ。是は敵兵退くと見て、勝に乗り追懸けなば、定めて備さだち乱れん。其の旗色を見て取つて返し、一戦すべき為めなり。晴信、此の形勢を見て流石の名将なりければ、敵の引くは方便なりと覚つて、味方に下知して追はせず、備を堅固にして控へたり。是に依つて、大合戦はなかりけり。信州小県対陣といふは是なり。

 
景虎、越中の国境迄発軍の事戦はずして帰陣の事
 
景虎、越中の国境に出陣天文十七年八月廿一日、景虎、越中表へ攻入らんと欲して、軍粧頻りなり。斯くて越中の諸大将、此の軍立を聞きて、各約盟を堅く結んで、景虎国へ入りなば、四方より一同に打出で、引裹んで一人も漏さず討取らんと、己々が居城に楯籠り、要害稠しくして、景虎遅しと待居たり。越後の先陣、越中の国境へ入りて、後陣を待揃へ居て、敵の軍謀を聞き、急ぎ大将景虎へ註進したりける。景虎、敵国の籌策をくはしく聞きて、群臣を集め、軍談ありし所に、臣等曰、越中に於ては、先づ神保安芸守・椎名肥前守大敵なり。此の両人が城郭へ押詰め攻取るべし。然る時は、其の勢に恐れつオープンアクセス NDLJP:41つ、外の小敵は戦はずして、皆降参すべしと、僉言せんげんしたりけり。時に景虎聞きて、是れ甚だ不可なり。仮令小敵たりとも、四方より蜂起して、牒じ合せ襲来る時は、吾れ又兵士を分けて、之を支へ防がずんばあるべからず。然らば我が戦兵八千ありといへども、四方に分散する時は、残兵僅に四五千ならんのみ。之を兵法に、大手の小手といつて、大に悪めり、我れ暫く思惟するに、今度は一先づ、彼等に弱気を示し、敵の心を驕らせて、其の驕怠の機を察し、以つて之を撃たん事、案の内なりといつて、九月三日に、景虎帰国早速引払つて帰国し給へり。同年十月五日、近習の者七人に聞者役もんしやゝくを言附け、三人は甲州へ遣し、四人は越中・能登・加賀に往かしむ。聞者役は忍の者、或は目附・横目といへる類なり。是に依つて、国主の政道、群臣の行跡、庶民の風俗に至るまで、日々に註進せしかば、国々の善悪を具に知り給へり。

伝に曰、景虎、越中へ出陣すといへども、戦はずして引退きしは、思慮深きが故なり。武田晴信も信州河中島へ出馬にて、村上義清旗下の諸士・降参の衆の采地・在郷を、大方放火し、又は苅田などさせ、此方へ出向はずして、十月十日甲府へ打入れける。景虎も寒国なれば帰陣せられけり。

 
信州海平へ再び出張の事
 
天文十八年己酉、景虎二十歳なり。当春漸く雪も消えしかば、信州表に発向あらんと、景虎再び海平に出陣軍議評定一決して、四月廿一日・廿二日に、諸軍勢段々出馬して、五月朔日に海平に着陣せり。軍兵・備等、法令去年の如し。武田晴信も、四月廿五日に諏訪を打立ち、小室へ押着き、海平にて互に出向ひ、五月朔日より五日対陣なり。翌日六日景虎、使者を武田晴信陣所へ差遣して曰、我れ村上義清の為に、度々信州へ出張して、数〻対陣すといへども、未だ一戦の勝負を決せられず候ひき。願はくは他国の諸将に向つて、武威を振るはるゝ如く、吾に対しても亦勇戦を励さるべし。吾が武勇といふとも、他の諸将に異ならんや。明日は是非一戦の勝負を期す。必ず常を守る事なかれとなり。又一説に、我等信州へ罷出づる事は、自身の欲を以ては、罷出でず候。村上義清を本地に返し申たしとの儀にて候。是れ御同心なく候はゞ、我等と有無の一オープンアクセス NDLJP:42戦なさるべし。勝利は互の手柄次第と云々。晴信返事に曰、其の方村上義清に頼まれ、本地へ村上を仕付けらるべき為の信州へ出陣は、一入心操こゝろばせやさしく、晴信も存知候。我も人も敵味方となり、勝負終つて牢々いたす事、昔が今に至るまで、ある習にて候。景虎の志は、是れ尤に候へども、村上本意の事、晴信在世の内はなるまじく候。左なくば有無の合戦とある事、是も尤に候へども、晴信は村上を本地へ返さぬを、我等の働に仕候。左あつて合戦と思はれば、其の方より一戦を始めらるべく候。若し又日本国中に於て、誰人にてもあれ、我等が本国甲州の内へ、手を入れらるゝに於ては、其の時晴信懸つて、有無の合戦仕るなりとの返事を、六日に聞きて、七日・八日まで、景虎八千の軍勢を以て備を立て、一戦を待ちたる形勢に見せ、又十日の朝、使者を以つて、兎角御一戦なさるまじと相見え候の間、某は越中か能登の国を心がけて候といつて、景虎帰国其の日の午の刻に陣を引払ひ、夫より越中に赴き給ひ、六七月の間、越中境に屯し、少々合戦して弱気を出し、佯つて逃げ、敵に驕らしめつゝ、早々帰国なり。
 
景虎、信州佐久郡に於て合戦の事対陣の時黒雲出づる事
 
天文十九年庚戌、景虎廿一歳、例年の如く、信州表へ進発し給ふ。戦兵七千雑兵是に応ず。五月朔日先備出陣す。二日景虎出馬なり。次に駄馬・雑兵発足して、同じき十日佐久郡に陣を取りける。晴信は同三月十一日午の刻に、甲府を打立ち、上野松井田の城へ押寄せられし所に、小笠原長時、木曽と組合ひ、下諏訪より打出で、所々に放火し、諏訪こぢやうの要害を打破らんと、相議するの由、晴信聞きて、上野表を引取り、三月廿一日に諏訪へ発向せらるゝを、木曽・小笠原聞きて、頓て引退きけり。晴信は四月六日、桔梗原へ出張の所に、松本・木曽両方より、敵の勢兵出で向ふ。是に依つて、木曽を能くおさへおき、小笠原と勝負を決せんと議定せらるゝ所に、目附の者馳来つて告げて曰、越州の景虎、五月朔日に出馬し、今度は地蔵峠を越し、佐久の郡までも襲ひ入るべき陣触の由、沙汰致すなりと、晴信聞くよりも〔〈脱アルカ〉〕木曽・松本の両敵をオープンアクセス NDLJP:43打捨て、佐久の郡へ軍を移し、景虎に向はれける。斯くて五月十日申の刻に、景虎使者を以つて、明十一日一戦に及び候なりと、晴信最も心得申すと返答にて、備を定め、十一日卯の刻に打出でらる。右の手は飯富、左は小山田備中、中は真田弾正、何れも信州先方衆を組合せ、三手ながら鋒矢の備なり。旗本の前は典厩・穴山等、此の備立はせいと見えたり。右は浅利・馬場・内藤・日向大和、左は諸住・甘利・勝沼・小曽等の八頭を鴈行に備へたり。後備は郡内の小山田・栗原、此二頭は旗本と、一手の如く組合せ、はうやうに、原加賀守、是もはうやうに立てゝ、遥の跡に控へたり、扨て景虎は、万の人数を一手の如くに組合せ、一の先の二の手に旗本を立てゝ進み、既に合戦始りけり。景虎、信玄と合戦時に丸き様なる黒雲、晴信の旗本の上より、景虎の旗本の上へおほひ懸り、然も景虎の総人数の上にて、彼の雲吹き散りたり。景虎、之を見て、采配を取りて、早早、勢を引揚げ、旗本の備を一番に引入れ給ひけり。天文十六未の秋より、戌の五月まで四年の間に、晴信と対陣に及ぶといへども、此時初めて合戦ありけり。晴信の総軍勢は、其日の未の刻まで備を立て、合戦を持つて、申の刻に陣屋へ引入れらる。景虎十二日の暁天に、陣を払つて越中に赴き給ひける。陣所を立つ時、晴信へ使者を以つて、越中が能愛へ発問仕るの旨、立文たてふみを差遣し、早々景虎追き其返事にも村上殿を本地へ帰し入れらるべしとの儀、思ひ止まり給へ。然る時は、其方と晴信と合戦はなきものをとの、返札なりとかや。

伝に曰、景虎未だ長沼辺に居給ふ時、晴信の目附の者、註進せしに依つて、直に是へ押向ひ、猿が馬場へ着陣し、ふかしの通を取切つて、旗本を定めらる。景虎は善光寺山へ押上り対陣せらる。武田勢桑原より押出し、段々に備を立つるを見て、景虎も犀川を打渡り備を立て、既に合戦に及ぶに、景虎衆人の機を転じ、又は武田の備の色を見ん為め、黒雲にことよせ、人数を引揚げ給ふ。誠に奇妙の良将なり。夫より越中に赴き給ふ所に、国中諸将の内、二三頭も景虎へ志を通じ、随順の士あり。然るに敵方一味の諸将相議して、景虎へ一味の輩を、先づ打取らんとひしめきける。是に依つて、右内通の諸士より、後詰を頼み越しければ、景虎一言の返事にも及ばず、早速堺川を引退き給ふと斉しく、越中の諸士共、此方へ一味の武士の館へオープンアクセス NDLJP:44押寄せ。剰へ堺川おさへの勢まで引取り、彼の城々を攻め動かす事頻り景虎此の旨を聞き給ふと、則ち一騎がけして馳せ給ふに、幸堺川に圧はなし。心易く打渡り、思の儘に、後詰あつて、寄手等追散らし、勝利を得給ふ。誠に景虎一言の返事なく、早々堺川を引取り給ふは、智慮深き故なり。若し敵方へ後詰の返事聞えなば、路を遮り或は伏兵などを置き、後詰の妨とならんと、敵の心を察し、或は重く或は軽く、転変し給ふ智謀の程を感心し、恐れぬものはなかりけり。

 
越後軍記巻之四
 
 
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越後軍記 巻之五
 
 
景虎、川田豊前守を越中へ差遣す事
 
天文十九年七月、越中より目附の者帰り来つて、頃彼このごろの国にて、取沙汰致すを承はるに、神保安芸守・椎名、其の外の諸将等、先月の軍に小利を得るに奢つて、皆謂へらく、景虎重ねて、此の表へ出勢せば、全く勝利を得んこと、掌を握るが如しといへり。然れども土肥・土屋・游佐等は、相共に謂へらく、景虎の智勇近世稀なる名将なり。近年当国へ出張の形勢を見るに、誠に尋常ならず、弱きに似て弱からず、強きに似て強からず、是れ皆良将の用ふる所なり。早く密事を以つて、降参せば可ならんといふの風聞なり。景虎之を聞いて、則ち川田豊前守に命じて、汝は急ぎ越中に赴き、諸将の吾が旗下に属せんと欲する輩をば、潜に語らひ、堅く盟誓して来るべしと、川オープンアクセス NDLJP:45田畏つて、早々越中へ行きたりける。斯くて景虎の目附、甲府より飛札を以つて、晴信九月十四日の未の刻に陣触あつて、次の十五日巳の刻に甲府を打立ち、小笠原長時を退治の為め、出陣の由、沙汰せりと告げたり。景虎聞きて、又信州海平へ出張なり。晴信之を聞きて、長時退治の軍勢を引返し、法福寺口を打捨て、景虎に向ひ、九月廿八日より十月十日迄対陣ありしが、翌十一日卯の刻に、景虎軍勢引入れ、寒国なれば帰国せられける。

伝に曰、武田晴信、小笠原長時を退治の為め、信州佐久へ進発し、それより浦野峠を打越え、法福寺迄取詰めける。長時も早々ひな倉峠を打越し、自身采配を取つて、無二無三に戦ふ。是に依つて、武田の先手二三町退きける。甘利左衛門、此の形勢を見て、備を詰めけるが、崩るゝ味方に入り替つて、斬つて懸り押返す。敗軍の先衆も之を見て、備々を押直し、甘利が左右より、入れ違へ討つて懸りける。是に依つて、長時敗北す。然る所に、景虎海平へ出張の旨、斥候の者告げ来りけるに依つて、晴信は鼠宿辺に支へたり。又景虎は榊へ引取り、旗本を定め対陣せり。先手の戦士少々攻合せりあひあつて後、敵の旗本と景虎の旗本と、押合せ合戦と議して、景虎の先衆は、北条柴田・柿崎和泉・甘糟近江守等なり。武田にも老功の勇士、一の手にてありしが、景虎の様子を見て、三の手の小備の、然も若き衆を一の手になし、初めの一の手を二三となしけるを、景虎見て、敵の心を察し給ひ、早々旗本を引入れらる。景虎の先衆に、村上義清・長尾正景加はり、以上八頭跡に残り、榊の切所にて後殿し、些敗軍の様にして引取りける。景虎・晴信両将の軍術、龍吟ずれば雲起り、虎嘯けば風生ずるの意気、誠に機に随ひ受用し、手に任せて拈じ来るの威風あり。謂つべし良将なりと云々。

 
関東の管領上杉憲政越後に来る事景虎に管領職を譲らるゝ事
 
天文二十辛亥年景虎廿二歳、二月中旬川田豊前守、越中より帰り来りて、言上して曰、土肥・土屋・游佐以下の諸将、味方に随順して、二心あるべからざるの旨、堅く誓諾せオープンアクセス NDLJP:46り。此の上は急ぎ御出馬あるべし。然らば神保・椎名等も定めて、降参致すべし。若し又然らずんば、土肥・土屋・游佐等に仰付けられ、之を退治あるべきかといへり。此の外に密事どもあり。同年三月上旬、甲斐国より景虎の目附の者帰り来りて、言上して曰、吾れ潜に聞く、晴信は公に対して、合戦を挑む事を一大事とせられ、老臣の軍功ある諸将、及び軍に狎れたる者共を集めて、夜軍の評議区々なりといふ。又紀州高野山より妙法坊心陽といへる僧、甲府に来つて、近習の寵臣市川七郎右衛門尉といふ者を憑んで、晴信に謁し、虎の巻といふ軍配の書を献ず。晴信即ち、之を伝授して秘蔵とせられ、いまし心陽に信濃の中に於て、二箇所寺領を寄附せらるといへり。景虎之を聞きて笑つて宣はく、夫れ虎の巻は、劒術の日取・方取の書なり。軍術に於て、用ふるに足らずと謂つて、乃ち宇野を召して問うて曰、汝が天官軍配の書の中に、虎の巻ありや、其理は如何。宇野答へて曰、虎の巻は劒術の要たりといへども、是れ又愚者を使はんが為めに用ひたり。事に達したる者の信ずる事にあらず。総じて天官の事、軍術に於て無益なり。良将は時に当つて宜しきを用ふ。愚将は常に是に拘はつて、人和時宜を要とする事を知らず。実に察せずんばあるべからずといへり。景虎之を聞きて、此の理最も可なりと、感心し給ひき。同年関東の管領上杉山内憲政、越後に来り入りて、景虎に対謁して謂つて曰、我れ積年、逆徒北条氏康を征伐せんと欲して、屢〻合戦に及べり。然るに今、却つて利を失ひ、勇力既に竭き、十計且つ絶えたり。上杉憲政管領を景虎に譲る今より我が姓名及び管領職を、永く貴方に譲り与へ、吾は上野に隠居すべし。速に北条を退治して、関八州を平均せしめ、管領職を継がるべしとなり。景虎答へて曰、貴命最も拠なし。敢て奉承せざらんや。然れば則ち来陽よりは、他事を差置きて、小田原表に進発し、北条氏康・氏政を追討し、公の憤激を散ずべしと諾盟す。是に於て、北条丹後守に命じて、汝は窃に上州平井に往いて、暫く其の地に居止せしめ、氏康が政道・行跡、且つ国風を見聞して、委細に註進すべしといへり。北条、命を蒙り、即ち上州に赴きける。同年越中の士に降参の者あり。彼に密議して、同四月三日越中境に出馬して少々攻合せりあひの働あつて、六月に帰国なり。
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景虎剃髪の事沙沙門天信仰の事
 
天文廿一年壬子正月十五日、景虎諸臣を召集めて謂へらく、我れ剃髪の志あり。如何すべき。群臣承つて、敢て答ふる者なし。景虎の奥意を知らざれば、各々敬んで黙止す。景虎剃髪して謙信と号す乃ち剃髪あつて謙信と号し給ふ。廿三歳なり。武田晴信も去年二月十二日、法体にて大僧正信玄と称す。卅一歳なり。名将は何れも風儀相同じ。其の後、春日山の艮に当つて、昆沙門天を安置して、朝夕に丹誠を抽んで、祈誓に曰、吾一度天下の乱逆を鎮め、四海一統に平均せしめんと欲す。若し此の願望叶ふべからずんば、頓に死を賜はれと、精心に祈り給ふ。是よりして魚肉を禁ず。況や女色に於てをや。色欲は若年より犯す事なしとかや。
 
上杉謙信、武田信玄と合戦の事謙信東上野へ出張の事
 
天文廿一年暮春に、謙信又信州表に発向し給ふ。軍令は前年海平へ出張の備に、相同じ。先備は長尾正景なり。手勢一千余騎及び与力の戦兵二百有余引率し、三月十二日地蔵峠を打越え、武田勢に向つて一戦す。謙信信玄合戦時に謙信下知して曰、正景が軍勢を、峠の半腹迄引退け、武田勢を誘うて偽り引登せ、峠近く引寄せて後、高き所より逆落しに追崩すべしとなり。然るを正景、下知に従はずして、肯て退かず。故に謙信怒つて、正景を捨てゝ、峠より五六町退き去つて、遥に其の形勢を窺へり。武田勢是に気を得て、進み来り急に攻懸る。正景万死一生の勇猛を励し、力戦すといへども、遂に利を失うて敗北せり。一説に此軍は、謙信地蔵峠を越しかね、此時の先手謙信の姉婿長尾正景三千の備を跡に置き、謙信八千の人数を引越し、正景へ軍使を以つて、一戦致され退かれ候への由なり。正景怒つて、若き人に訓へらるゝに及ばずといつて、退く所へ、武田方の侍大将飯富兵部・小山田備中、郡内の小山田左兵衛・真田一徳斎・葦田下野・栗原左衛門佐等、正景の跡に附いて進み来る。正景、地蔵峠に懸る体にして、三千の人数を一手に作り、大返といふ物に取つて返し、切つて懸り、武田オープンアクセス NDLJP:48勢を追立て斬崩し、競ひ懸つて散々に討取る。甲州の小山田古備中討死す。武田方此の形勢を見て、旗本の前備甘利左衛門尉・馬場民部・内藤修理、此の三手駆来つて、追返し相戦ふ。此の時、正景の手勢幾許討死す。甲府の先手の中、真田一徳斎取つて返し、正景控へられし真中へ一文字に討つて蒐り、正景の前の備を斬崩しける。是に依つて、大勢討たれしかば、正景終に敗軍し、二三騎にて漸々峠を越し退かれける。正景は姉婿といへども、討死もあれかしと思はるゝ故か、右の如し。甲州勢雑兵共に三百七十一人討取り、味方雑兵共に七百十三人討死せり。信州常田合戦是なり。一場にて二度の合戦の内信玄先手は負け、旗本は勝ちたり。

伝に曰、前亥の霜月、武田持へ謙信働き給ふ事、小笠原長時より、頼み給ふに依つて、前の年より其の試みあつて、当子の三月二日、謙信出陣にて、同じき八日の早朝に、常田辺の在々を焼き給ふ。然るに六日の辰の刻に、越後境より目附の者馳せ来て、謙信、国境へ出張の旨告げにける。信玄、此の働あるべき事を、已に前の年より積りつゝ、越後境へ段々に、斥候・目附を付置きし故、追々の註進に依つて、其の日に甲府を打立ち、長沢通を一騎駆にて押来られし所に、謙信、小室の押を先刻引取り候との註進を、野沢のあなたにて、信玄聞きて、扨は謙信退散疑ひなしと思慮あり。一人急ぎ、八日の子の刻に、常田辺へ押着き、本文の如きの合戦あり。謙信兼ねての積より、信玄一両日も早かりしかば、其の拍子違ひ、事急にして、其の夜寅の上刻に、城伊庵を以つて、正景へ本文の如きの使を立て、早々峠を引越し、須坂まで凡そ十里ばかりの道を、引取り給ふ。一戦して後人数を集め、引退きがたき地形を、謙信能く弁へ、正景に怒気を附けて、早々引き入り給ふ。誠に賢き大将なり。如何なる剛強の将といふとも、自然に積り違ひにて、斯く難所に懸り、敵の名将にくひ留められ、大事の退口には、右の如きの法を用ひずんば、中中なりがたき儀なり。正景も亦諸士を捨てゝ引退く意味、君臣同風、強将の下に溺兵なしとかや。

謙信、翌日又一戦を励まさんと欲して、宇佐神良勝及び長臣等と、相共に議して曰、昨日の合戦は、君臣和合せざるが故に、殆んど危難に遇へり。無事に引取りしは是オープンアクセス NDLJP:49れ幸なり。然るに今日又、一戦に及ばゝ、必定正景、昨日の敗走を怒つて、令を犯し法を破つて、軍法乱れ、大に利を失はん事、掌を指すが如し。只明一日対陣し、同十五日に引取りて、此地より直に東上野に出張すべしと、ありし時、北条丹後守進み出でゝ言上して曰、去年より某、平井まい〔厩イ〕ばしにありて、関東の風聞を承はるに、上野箕輪城主長野信濃守以下の諸将、君の為めに忠心を傾け、節義を尽さんと欲する輩過半あり。其の外、管領憲政家来の士共は、大小なにとなく君の譜代の士の如く、皆一統して君の入御を相待つといへり。加之武州岩附の城主太田美濃守入道三楽、無二の志を以て、既に其情を内通せられたりと、巨細に申しける。謙信之を聞きて宣ふは、其の如くに之れあらば、一両年の内には、関八州を服従せしめ、北条氏康を退治せんこと、掌握の内にありと謂つて、喜悦斜ならず。是より又五月中旬に、越中表へ発向し、神保・椎名等に対し、足軽軍少々して軽く引取り、六月廿八日帰国し、同九月下旬に、能登の国主畠山修理大夫義則へ、使者を以つて告げて謂へらく、予が亡父為景在世の時は、幕下に属せらるゝ事歴然たり。今も亦先例の如く服従あるべし。若し又然らずんば、越中を平治の後、速に一戦を遂げんと言ひ送りける。

伝に曰、義則は八幡太郎義家十三代の後胤、畠山満慶の長男、修理大夫義忠の嫡子、二郎治部大輔義有の息男、二郎修理大夫義統、始めて能登の国を領す。其の子修理大夫義則と号す。終には謙信の幕下に属す。

 
公方義輝公より両使越後に下向の事
 
天文廿二年癸巳、謙信廿四歳なり。姉婿長尾七郎蔵人義景、正景と改む。謙信父為景と四従弟なり。然るに逆心を企つる由風聞あり。謙信之を聞いて、実否を糺さんがため、姑く他国へ出陣を止められける。扨居城春日山の要害を修造し、堀を深くし、四壁を堅く繕はせなどし、先づ奥越・庄内・佐渡の一揆等おさへのためとして、甘糟近江守・本城山城守重長・大関・隅田・春日・黒金等に命じて将たらしむ。各命を蒙り、士卒を率ゐて、義輝、使を謙信に遣す三月十三日発向す。斯くて将軍家義輝公より、一色淡路守・杉原兵庫頭、両使として越後に下向ある。謙信辱なく拝謁せらる。上使公方の鈞命を宣べて曰、オープンアクセス NDLJP:50相州小田原の氏康、近来猥りに武威を振ひ、北条氏を自ら称して、関東の管領上杉憲政を襲ひ侵し、終に国を追ひ失ひ、既に今浪落の身とならしむる事、罪積甚だ軽からず。誠に御沙汰あるべしと、思召し立たせ給ひしかども、当時乱世に及んで、諸国の御家人等召に応ぜず。只面々の分国を掠められざるの謀に屈するのみ。且つ又、永享年中関東の公方左兵衛督持氏、勅命に背いて誅戮せらる。然るを其の子孫あつて、左典厩晴氏といふ者を取立て、己が女を以て娶はせ、之を公方と号し仰ぐの由、王上に住んで天威をも憚らず、上を蔑にし、雅意に任せて、答なき国人を追放し、無道の政道天何ぞ之を容さゞらんや。然るを優恕し置かば、坂東の擾乱止むべからず。今謙信に非んば、誰か之を誅罰せん、委曲両使口上に演説すべしとの、上意なりといへり。謙信謹んで承り、両使に対して曰、管領上杉憲政、北条氏康が為めに戦敗れて、既に国家を失へり。其の家臣会我兵庫助、憲政を諫めて曰、此上は謙信を頼みて、上杉家の重代天国の太刀並に系図等を譲り、憲政は上野一国を、領地として隠居し、余国は悉く謙信が支配として、氏康を退治し鬱憤を散じ給へといへり。憲政、之を聞いて、最も可なりとし、則ち予に因んで、其旨趣を懇に伸べぬ。然りと雖も、我れ将軍家の公命を承らずして、争でか私に之を受くべけんや。先づ氏康を追討して後、上洛を遂げ、厳命を賜はつて然る後、管領職たるべしと、内々覚悟仕る所に、幸に今関八州の諸将、なにとなく過半随順せり。然れば二三年の中に、北条一家を退治して上洛仕り、公方を拝し奉らんと欲するのみ。此の趣宜しく上聞に達し給ふべし。兼ねて又、鎌倉の公方廃絶してより、関八州の諸士等、上を畏れ憚る所なき故に、法度を守らずして、放埓の輩、多く地迫合絶えずして、是より事大に起り、擾乱に及び候ひき。冀はくは、将軍家より寛仁大度の器量を択び給ひて、鎌倉に下し、廃跡を継がしめ給はゞ、関東平治すべきか。是誠に謙信が欲する所なり。此の旨、両御使相心得られ、御序を以つて、御前宜しく奏達に預り候はゞ、本望たるべしとなり。饗応善尽し美尽せり。両使三日逗留あつて帰京せられける。義輝公へ御馬二疋、並に越後布三百端、両使へ白銀五十枚宛、越後布二十端宛贈られけり。

伝に曰、関東の公方は、源尊氏公九代の後胤、正四位下足利左馬頭晴氏と号す。下オープンアクセス NDLJP:51野国古河の城に住居せり。上杉憲政と一味して、北条氏康と合戦し、天文年中に晴氏終に滅亡す。按ずるに、尊氏の次男左馬頭基氏朝臣、始めて鎌倉の管領となり、関東公方滅亡左兵衛督持氏まで四代相続して相州に住し、管領或は公方と称す。然るに持氏、永享年中滅亡す。其の末子足利右少将成氏、下野国古河に住す。成氏の長子左馬頭政氏、其嫡子高基朝臣、之を熊野御堂殿といふ。高基の嫡子は則ち晴氏なり。此の四代を古河の公方と号す。四代の後、鎌倉には公方なし。依つて家臣上杉兵部少輔房顕、押して関東の総管領となる。其の子相模守顕定、相続して政務を行ふ。上杉の嫡流は、代々鎌倉の山の内へ住居す。憲実が流是なり。其の庶流は同所扇谷に住す。之を両上杉といふ。此の外、諸国の間に上杉家繁流す。鎌倉の公方家は、持氏にて断絶し。古河の公方は、晴氏に至つて絶えたり。末々に喜連川と称するは、古河の御所成行の末流なり。

 
越後軍記巻之五
 
 
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越後軍記 巻之六
 
 
長尾正景隠謀溺死の事
 
正景謀叛天文廿二年長尾正景が隠謀弥〻露顕す。是に依つて、誅せんと欲して、謙信召すといへども、正景之を暁りて病と称して、敢て参候せざりける。彼が館へ押寄せ打果すは、易き事なりといへども、国家騒乱せん事を厭ひ、且つ又、他国の聞えを憚り、何卒穏便にして失はんと、謙信深く智謀を運らし、正景が常に好む所を、尋ね問ひ給ふに、正景は暑夏極熱の節、船を池水に泛べて、納涼の興を相催すことを楽むの由伝へ聞きて、窃に水練に達したる水主を召して、汝は予が命を背き出でたりと偽りて、急ぎ正景が館に往き、我れ正景を誅戮せんと計るの由を、告知らすべし。然る時は、返忠の者なりと賞美して、汝を彼が船頭に為すべし。其の時船底に穴を穿つて、オープンアクセス NDLJP:52正景が船遊びせん時、必ず池水に沈むべしと、言附けられける。船頭畏つて領掌し、急ぎ正景が屋敷に往いて、件の計を誠しやかに演べて、弁舌に任せて儻偶たばかりける。正景聞きて大に喜び、謙信思慮の通りに、船頭にぞしたりける。其の後、正景病中鬱気を散ぜん為なりと披露して、美女数多誘引し、船遊に出でゝ、夜陰に及んで国を立退かんと、心中に思ひしが、件の船頭返忠の者なれば、頼もしく思ひて、夜に入りて首尾を見計らひ、小舟に乗移るべし。其の時汝心得て、我乗りし舟に在りて、人知らざるやうに、早く渚の方に押着くべしと囁きける。水主多き某の中に、件の者に知らせける武運の程こそ拙けれ。彼の船頭承りて、心底には是れ天の与へと、悦んで謹んで領掌す。正景溺死是に依つて、船頭思の儘に計り、正景、終に水中に溺死せり。
 
謙信、小田原へ間者を入れ置かるゝ事北条家より諸寺の鐘を押取る事
 
同年五月中旬に、謙信近習の士の発明なる者を択んで、相州小田原へ差遣し、国風・政道、且つ大将氏康が心底・行跡、諸臣等の風儀、城郭の要害、諸事の形勢を、委しく見聞し、両人の中、一人帰つて告知らすべしと命ぜらる。是に依つて、両人の者小田原に赴き、在宿の間、様々に身を宴して聞届け、九月下旬に越後に帰り、主君に謂つて曰、北条家に忠勇武功の臣等数輩之れあり。就中松田尾張守といふ臣は、輔翼として民を撫で政を正しうし、軍徳厚く智謀深く、忠義衆に超えしかば、軍用等常に貯へて、敢て懈る事なく、軍卒を練調して忠健の志、暫くも忘るゝ事なければ、氏康も万事の評議、松田と決談し、群臣の第一として、氏康の長臣たり。このごろ松田、諸方の寺庵より、鐘を取寄せて、朝暮に之を鋳鎔して、鉄炮の玉にしたりける。然る所に、鎌倉の内にありける或小寺の鐘を取らんとす。住僧甚だ之を歎き悲み、色々に詫びけれども叶わず、力に及ばざれば、彼の僧、別を悲み鐘を抱き、人にものいふ如く、涙を流して曰、我れ年来二六時中、手を触れずといふ事なし。自今以後、手を触るゝ事あるべからず。我れ此の鐘に於ては、残念尽きずと声を揚げ、是が永き別れなりと、喚き叫んで、泣く立分れぬ。怪しいかな此の鐘、既に小田原に至つて、鋳鎔さんとせオープンアクセス NDLJP:53し所に、鐘より水烟を吹出して、炭火消滅し敢て鎔けざりけり。猶数箇度に及ぶと雖も、度毎に水烟出で、終に鎔けざりき。人皆、僧の執心怨懐なりと、奇異の思をなす所に、老いたる鋳物師が曰、斯の如き事、古例益々多し。牛馬の糞を。炭火中に入るゝ時は、水烟止んで鍛涌くものなりといふに任せて、其通りに糞を入れければ、炭火熾にして鐘忽ち湯になりけり。斯る事もあることにこそ。扨又、城下の盲人に、情の強き意地を立て、異相なる者あり。氏康、之を聞きて喜び呼出し、咄の者にぞせられける。然るに其の盲人、常の者よりも柔和にして、意地を立て情強なる事更になし。氏康の曰、汝意地強き異相なる者と聞きて召出せり。然るに尋常の人よりも、猶和順なる事不審なり。時に盲目対へて曰、君意地強き性あつて、之を好めり。然るを好心に叶ひ意地強きは、却つて和順といふものなり。意地強きを嫌ふに、意地弱きも亦和順に非ずやといへり。氏康、甚だ興を催せりと承り候といへり。謙信之を聞きて曰、氏康は奇兵を好めり。我れ亦、正兵を以て戦はんといへり。

伝に曰、氏康は平重盛十八代の後胤、北条氏綱が嫡子、左京大夫正五位下相模守と号す。長氏入道早雲が孫なり。享禄元年鎌倉扇が谷の上杉朝興、武州小沢原へ出張して、小田原へ押寄せんと議す。氏綱之を聞きて、其の身は小田原の城に、要害稠しく楯籠り居て、嫡男氏康を大将として発向せしむ。時に氏康十六歳なり。朝興と数〻戦ひ、北条家勝利を得たり。其の後、天文六年四月上杉朝興、武州川越の城に於て病んで死す。其の子朝定、父の遺言に依つて、軍勢を催し、北条家を亡さんと謀る由、上杉朝興病死小田原へ聞えければ、氏綱・氏康父子、早速川越へ出陣し、頻に攻懸け、透間をあらせず揉立てしかば、朝定怺へずして松山の城へ引退く。此の戦に、朝定が叔父朝成生捕られ、軍利を失ふ。氏康直に松山を攻屠る。朝定又敗北す。北条家、川越の城を乗取つて、家の子北条綱成を城代とせり。翌年七月、山の内上杉憲政と扇が谷上杉朝定と和睦し、両将大軍を催し、川越の城へ押寄する。扇谷の上杉家断絶氏綱・氏康之を聞きて精兵八千をすぐつて馳向ひ、両上杉の陣へ夜戦し大に攻破る。其の時朝定終に討死して、扇が谷の上杉家是より断絶せり。憲政は敗走して、上野国平井の城へ引退きけり。川越の夜軍といふは是なり。其のオープンアクセス NDLJP:54頃、古河の御所晴氏の一族源義明、房州の里見義弘を語らひ、大勢を催し、下総の国府の台へ出張す。氏綱・氏康二万余騎にて馳向ひ、合戦に打勝ちければ、義明は討死しけり。氏綱卒去義弘力及ばずして引退く。同十年氏綱卒去す。氏康相続して、伊豆・相模・武蔵を領す。同じき十四年、上杉憲政武州へ発向す、其の時も川越には、北条綱成籠城せり。憲政は関東八州の軍兵を催し、其の勢八万余騎にて押寄せ、城外を十重・二十重に取巻き攻めけれども、綱成些も騒がず、防ぎければ城堅固なり。北条氏康、之を聞いて明年四月、後詰の為め川越に出張して、憲政が軍中へ駈入り力戦す。川越の夜軍憲政大きに敗軍し、上野国へ引退く。之を川越の夜軍ともいへり。同二十年氏康、上州平井に発陣し、憲政の居城を攻落す。是に依つて、越後へ逃げ行き、長尾景虎を頼んで、北条を退治せんと欲して、上杉の氏姓・管領職を景虎に譲れり。関八州北条の手に帰す是より関東の両上杉歿落して、八州悉く氏康の手に属す。斯くて永禄三年三月、長尾景虎関東の管領職と名乗つて、八箇国の諸将を語らひ大軍を起し、相州小田原近くまで発向すといへども、城を攻むるに及ばず。氏康も出張せざれば合戦はなかりけり。景虎囲を解いて帰国す。然りと雖も、此の後北条家と和睦し、氏康の末子三郎を、景虎の養子とす。此の故に氏康と信玄弥〻不快なり。

 
信州在々所々放火の事
 
天文廿三年甲寅謙信廿五歳、群臣を召して相議して曰、数年信州表に発陣すといへども、未だ放火乱妨せず。是に依つて、信州の敵将等敢て苦難に及ばず。今度は多勢を以て、国中に入り乱れ、焼き働き驚かさば、難儀に及び、返忠の輩出で来らんといへり。諸臣御最と同じて、戦兵一万三千余騎、雑兵是に応ず。即ち五月廿七日先備出陣し、同廿八日謙信出馬にて、後陣雑兵発足し、同六月十日河中島清野に着陣あつて、諸卒を手分し、在々所々馳入り、放火乱妨して、同十二日に虚空蔵山に取登つて、鼠宿・布下・和田を放火しける。案の如く、敵方の諸士難儀して、味方へ心を通ずる輩多かりぬ。此所に五日滞留して、同十八日に東上野に出張し、夫より越中に押往き、椎名・神保等と対陣し、少々挑み戦うて、八月二日帰城なり。
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信州河中島へ出馬の事
 
謙信河中島出陣天文廿四年乙卯謙信廿六歳四月五日、信州河中島に出馬す。信玄、此の由を聞きて、屋子原の捕出には、栗原左兵衛に足軽大将多田淡路を差副へて、木曽義昌を抑へ、信玄は同六日に、屋子原を立ちて謙信に向ふ。謙信五日対陣ありて引取り、同十日関東上野の国へ発向し、北条氏康の領内に入りて、氏康と対陣し、日々夜々足軽攻合し、数月に及んで引取り、又是より越中表に出張して、椎名・神保・遊佐・土肥・土屋等と合戦し武威を振ひ、九月十日に帰国せり。此の年改元あつて、弘治元年になる。翌年丙辰謙信廿七歳、弘治二年四月十日、信州表に発向し、夫より六月三日関東に出張して、氏康と対陣して帰城し、同年十月三日、太田備中守入道三楽を先鋒として、上州表に出馬す。北条氏康も亦出でゝ対陣し、時々挑み戦ふ。時に天寒く冬風烈しく、寒風肌に徹り、雪吹するどに告げ来れば、越後勢北道の雪を熟れつゝ、早々引入りけり。
 
謙信、信玄と和睦調はざる事
 
弘治三年丁巳、謙信廿八歳なり。其の年の四月三日、信州表に出張し、同十二日河中島に着陣す。信玄和平の使を謙信に遺す時に信玄対陣あつて、両使を以て、和睦あるべき旨を告げ来る。謙信返答に曰、我れ信玄公に対し遺恨更になし。唯村上義清が為めに、累年信州表に出張すといへども、未だ雌雄を決せず、衆を苦しめ兵を労するのみ、是れ義清が為めにする所なり。近年又上杉憲政の為め、小田原表に出張して、北条氏康と一戦の勝負を決せんと欲す。且つ亡父の旧敵たるに依つて、越中表に発馬して、椎名・神保を斬戮せんと欲す。故に従兵諸士の疲労勝げていふべからず。然るに今、公と和平の儀素より予が願ふ所なり。今年は互に引取つて、来陽必ず信越の境に臨んで、一度対顔せん事を期すといつて、同五月廿三日に、双方旅陣を引払つて、甲越へこそ打入りける。同年七月下旬に、甲府に忍び居たる間者、越後に帰つて言上して曰、今度信玄和平を乞はるゝの意趣は、去臘将軍家より両使として、北条氏康を退治せしむべしオープンアクセス NDLJP:56との厳命を蒙れり。是に依つて、先づ氏康を退治せんと欲して、姑く和平を請ふといへり。又一説には、君の武威日々に盛に、猛勇夜々に振ひ給ふに依つて、武田家行末衰敗せん事を、予め慮つての和睦ならんと沙汰せりと、謙信熟々聞きて、暫く思惟して曰、両説分明ならず、油断すべからずといへり。同年上州沼田へ発向して、北条氏康に対陣す。両陣の間嶮難の地なる故に、双方只矢軍・足軽攻合せりあひのみにして、数日を送れり。同九月上旬に帰城なり。此年改元あり。
 
謙信、信州表へ出馬西川の渡に於て雑兵溺死の事
 
再び河中島出陣永禄元年戊午謙信廿九歳、三月中旬信州表に出馬あり。時に西川の渡、雪水にて甚だ漲り来つて、雑兵百六七十余人溺死す。是に依つて、早々越国へ引取り給ふ。同年四月二日、信州表に又出張して、今回は武田信玄と和平あるべしとの風聞あり。人民之を聞きて甚だ悦喜す。然れども其儀なく、筑摩川の辺に百余日対陣して、七月上旬に帰国し給へり。

上杉謙信、武田信玄と和平の儀両説あり。上杉武田和平に就いての両説謙信より和を乞はれたりと、信玄方にはいふなり。既に甲陽軍記等に見えたり。然れども上杉家の記録には、信玄より和平を乞はれ、則ち甲府に忍びてありし間者、信玄の和睦を請はれたる意趣を聞きて立帰り、謙信へ註進したりと、右に記する如くなり。故に信玄方の儀を左に記するなり。

永禄元戊午年二月、越後景虎入道謙信より、信玄へ手を入れられ、景虎、信玄に対し少しも仔細は之なく候。村上義清に頼まれての儀これまでなり。所詮信玄と面談申し無事に仕り、我等は越中・能登・加賀を討取り、父為景への奉公に致し、扨は上杉憲政を東上野平井へ帰参なさるゝ様にと存ずるに、信玄と取合候へば、何事も成就致さず候間、筑摩川を隔てゝ諸礼仕り、以来は兎も角もと申越さるゝに付、其年五月十五日に、信玄、景虎と無事の儀、越後・信濃各悦び候事限なし。扨五月十五日に、両大将対面の時、筑摩川を隔てゝ、両方の川のはたに牀机を置き、両大将ながら馬に乗り、牀机の際にて馬より下り、互に供の者五人づゝにて、あたりにオープンアクセス NDLJP:57人を払つてと定め、其の如くにて両大将、既に川端まで乗寄せ、両将下りんとし給ふ時、景虎は手軽き大将なれば、信玄に手遅く見られじとや思はれけん、早速馬より下りて、牀机に腰を懸け給ふ。信玄。そこにて馬氈ばせんを直すふりをして、馬の上に於て苦しからぬ。景虎馬に乗られよと、申されける間、景虎、大いに腹を立て、頓て馬に乗戻り、信玄へ使を立て、我等の家は、桓武天皇の後胤、鎌倉次郎景弘より以来、代々鎌倉の御所に御身近く仕へ、夫より数十代続き来て、今為景・景虎と申候。既に我等一家の流れ梶原平三景時は、是も鎌倉の権五郎景政より、代々続き来る故か、右大将頼朝公富士の巻狩の時分も、梶原は御所の次、其次に武田といふ事歴然たり。其の上八年以来は、上杉になり管領職を請取つて候と、謙信申し越さる。信玄使者の口上を聞きて、即ち返事に曰、梶原は頼朝の取立の被官なり。武田は公方の御相伴なり。時に至りて出頭なれば、何様の賤しき者も、君辺へ近附く事、昔が今に至る迄珍しからず候。それが家の系図にはなりがたき儀なり。又管領職の事、上杉憲政侍の忠不忠も知らず、譜代・旧功・新参・本参の穿鑿もなく、民百姓の困窮も知らず、むたと所領を取りせたげ、物ごと逆に執行ふ。人罰を以て天道に放たれ、氏康に負けて、嫡子龍若まで捨てゝ、越後へ逃入る。名利の尽きたる管領を譲られて、景虎の管領と申さるゝは、一段若気なり。殊更信玄に慮外せられたりと、腹を立てらるゝ、是れ亦景虎無分別なり。信玄は緩怠するとは努々思はず候。只有様の会釈なれば、堪忍の二字を分別せられよとの返事に附き、謙信大方ならず無興して、又取合を起し、五月より閏六月半迄、七十余日対陣なり。其の後は景虎退散故、信玄も七月十一日甲府へ帰陣なり。

伝に曰、右の如くにて無事調はずして後、謙信は川田山に陣を張り、信玄は高畑山に陣を取つて、以上七十日余対陣し、先手筑摩川を渡つて、折々一手切の攻合あり。斯くて謙信より使を以て、兎角長陣詮なき事なり。勝負を付けられ候へ。左あらば、其の方より川を越され候はんや。又此の方より越し申すべくやとの儀なり。信玄返事に、合戦望みならば、明日其の方より川を越され候へとあつて、夜中より前の渡に備を立て待ち給ふ。謙信も夜中に打立ち、彼の渡をば越さずしオープンアクセス NDLJP:58て、東道十五里下長沼村山の渡を打越し、山根の村々武田方へなりたるを、焼き給ふといへども、武田の備堅固なるを見届け、猶二十里ばかり押込み、小市の先まで焼立てさせ、早々引入り給ふとなり。右両将和平の時、出合の地は牛島の渡り四五町大室の方なりといへり。然れども此の川の流数十里なれば、両将対陣の場所知る人稀なり。

永禄二己未年謙信三十歳、三月十一日信州に出馬あつて、同廿一日に河中島へ着陣し、之に旅陣を結んで、四月三日直に越中国に出張して、椎名・神保と和平せられ、同六月九日に帰国なり。是は北条氏康を攻亡すべきが故なり。北条は大敵なり。大敵前にあり。されば小敵を事とすべからずと思はるゝ故なり。同じき七月上旬に、関東より間者帰り来て言上して曰、関八州の諸将大小となく、君の御馬を出されんを相待ちて、氏康を退治すべしといへる由、風聞ありといふ。謙信之を聞いて、時既に至れり。来春は速に小田原表に発馬して、氏康を退治すべしといへり。折節其の頃客星現ず。謙信、宇佐神良勝を召して、客星出現の奇怪を問へり。良勝答へて曰、凡そ客星の変気は、出現の方角に就いて、其の吉凶を占へり。然るに今此星、越国の方に出でゝ相州に当れり。是れ北条氏の凶事なりといふ。謙信聞きて曰、大概占家は我が吉をいふ事を好んで、凶をいふ事を悪めり。天時不地利、且不人和と宣へり。

 
越後軍記巻之六
 
 
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越後軍記 巻之七
 
 
相州小田原攻関八州の諸将相従ふ事鶴岡八幡宮社参の事
 
謙信小田原を攻む永禄三年庚申謙信卅一歳、三月中旬相州小田原表へ発向なり。軍兵八千余騎雑兵是に応ぜり。関八州の諸将謙信に従ふ時に関八州の諸将、謙信の大量英機の勇徳に畏れて、草の風に偃すが如し。且つ八州の外に、管領憲政に志を通ずる諸邦の侍数輩、馳加はりける。是に依つて、一箭をも発せず、一刃をもまじへずして、謙信の旗下に属する軍兵、凡そ八九万余騎に及べり。斯くて先備、既に相州大磯の辺に着陣すれば、後陣は藤沢・田村・大鏡・八幡の間に支へたり。総大将謙信は高麗山の麓に、陣営を結び給ふ。先鋒一番備、太田備中入道三楽は、小磯に陣せり。時に謙信常に所持の朱采配を捨てゝ、大根の折懸じるしを操つて、諸陣に馳廻り、下知せられけるは、皆一同に鯨波を揚げて、先づ敵の気を奪ひ、而して後に、螺の音を聞きて進み駆くべしと、合を下せり。是に依つて、諸軍一同に鬨を作つて、既に攻討たんとす。小田原の軍卒、此の勢を見て、一戦にも及ばずして皆敗北す。先備の歩卒等、弓・鉄炮を相交へ逃ぐるを追つて、小田原の城下蓮池の辺迄、追討にしたりけり。此時謙信の武徳勇猛なる事、四夷八荒に盈ちて、日本国中の諸大将を以て戦ふとも、謙信一人の鋒先に、聊も当るべからずとぞ見えにける。其の後鎌倉山内に在住して、京都より近衛殿下の公達を迎へ下して、公方と称し、之を仰ぎ、謙信は管領職にありて国柄を執り、非道横悪の暴逆を糺明して、中直の政道をぞ行ひける。

伝に曰、北条氏康、謙信の出馬大軍の企を聞きて、永禄三年二月朔日に、甲府へ使者を遣して曰、越後の謙信、去冬上野の平井へ罷出で、太田三楽が弁舌を以て、関八州の諸大将を語らひ、悉く謙信の旗下に属せしむるの由、聞え候に付、氏康も古河の公方と申合せ候へども、更に止めず、実やらん、都より近衛殿を申下し、公オープンアクセス NDLJP:60方と名付け、氏康を亡さんと、計るの由に候。氏康、信玄に援を求む此の儀実に募り申さば、公の加勢を頼み入るの由なり。信玄、聞いて如何にも心得申すとの返事なり。同二月十三日に、又使札を以つて、謙信近日小田原表へ攻入り申す由に候。兼ねて御約束申す通り、弥〻御加勢下され候はゞ、千万忝く存ずべく候となり。是に依つて、甲府より足軽大将初鹿源五郎、並に青沼助兵衛を加勢として、小田原へ来れり。初鹿源五郎、其の年廿七歳なりといへども、十六歳より武辺度々の誉ありて、感状六つ迄取つたる、弓箭に一入かしこければ、歩足軽三十人の大将なり。青沼助兵衛も馬乗り十六騎・歩足軽三十人持ちたる大将なり。扨謙信は、関八州の総大将、大小合せて七十六備、此の人数九万六千人、謙信譜代衆一万七千と、都合十一万三千の着到にて、氏康の居城へ押詰め、先手の備は大磯・小磯に屯し、後備・脇備は藤沢・八幡、或は田村・大上・厚木なんどといふ所に、旅陣を張り、尺寸の地も軍兵ならずといふ事なし。謙信は古今に稀なる強将にてありければ、先備の次に何時も陣し給ふ。故に此の度も、高麗寺山の麓、山下といふ所に陣を居ゑ給ふ。一番の先鋒太田三楽陣所小磯より、旗本の陣場山下まで、僅十八町あり。此の時謙信の威勢、関東はいふに及ばず、奥北国・海道七箇国までも須臾に聞え、謙信の武勇、実に日本に双ぶ方なき誉と、上下共に讚めざるはなかりけり。武田信玄は、北条氏康の為に、永禄三年二月十八日に甲府を立つて、信州と上野の境、笛吹峠の此方に出張せられけり。斯くて謙信は、同三月中旬に、小田原へ押詰め、既に蓮池まで乱入りしに、心も知らぬ関東士大将衆に、少も気遣ひなく甲を脱ぎ、白き布の手巾を以つて、柱包かづらづゝみといふのに頭を包み、朱采配を執つて、諸手へ乗入れと上知し給ふは、人を、生きたる虫ほどにも思ひ給はぬ謙信の形勢を見て、関東の大将等舌を振つて恐れけり。其の後謙信、鎌倉の鶴岡八幡宮へ社参ありし時、近衛殿を都より申下し、公方に作立て、謙信は山の内より、大石・小幡・長尾・白倉四輩の侍大将を、手近く召連れけり。中にも上野国鷹巣の城主小幡三河守に、太刀を持たせ、謙信管領職となりて、東廿三箇国に威勢を振ふ。今肩を双ぶる人更になし。斯の如くにては、往々都までも渇仰あつて、四海掌握に帰せんとぞいひあへる。其の仔細は、先オープンアクセス NDLJP:61づ歳は卅一にて血気盛んなり。家は代々長尾氏にて、大国の越後一国を持来り、近年は東上野を添へて知行し、殊に武勇の家なれば戦術に功ある家臣等、謙信をもどく程なる千騎・二百騎の侍大将三十余ありければ、謙信関東の管領になつて諸将を随へ、十万騎の総大将たらば、三箇年の内には、日本の主将と仰がれ給ふべき事疑なし。天晴果報なる大将かなと、諸人思ひ居たる所に、社参の帰りに、忍の城主成田下総守といふ五百騎の大将畏り居たりしが、他の衆中より頭ちと高きとて、謙信大に嗔り、持ちたる扇にて、成田が顔を二つまで打ち給ふ。成田赤面して旅宿に戻り、熟々思ひけるは、我も五百騎の大将にて、地攻合ぢぜりあひの戦などには、千騎の士を下知する身として、謙信、取立の士・足軽同意の仕方致す事、口惜しき次第、無念といふも猶余りありとて、謙信に暇乞なく居城に帰りける。上杉家に属せられし幕下の諸将、此の体を見て、悉く引払つて退きしかば、謙信の手勢一万七千の人数さへ猥りになり、小荷駄を地の百姓にとられ、或は小者・中間を打殺し、大に敗軍にて上野の平井まで、やう引取り給ふ。流石の謙信なればこそ恙なかりけり。平井に八日まで逗留あつて、鎌倉にて背きたる上杉家の諸将を、太田三楽及び憲政公、就中近衛殿御取持にて、右の衆中過半謙信へ引付けられ、大方其の才覚首尾調つて、則ち公方を供奉して、八月上旬に謙信越後へ帰陣なり。

同年四月十五日、謙信、鶴岡八幡宮に社参せらる。其時上杉憲政の老臣大石・白倉・長尾因幡守・小幡等従仕し、八州の諸将を率ゐて神前に伺候す。越後譜代の士は皆甲冑を帯して、辻小路を警固す。鶴岡八幡宮勧請抑此の八幡宮と申し奉るは、後冷泉院の御宇、鎮守府将軍兼伊予守源朝臣頼義、勅を承はつて、安倍の貞任征伐の為に、東国に下向ありし時、懇祈の旨あつて、康平六年秋八月、密に石清水の八幡宮を勧請し、宮所を鎌倉の由井の郷に建立あり。其の後頼義の長男陸奥守源朝臣義家修理を加へ、治承三年小林の郷に遷宮して、右大将源頼朝崇敬浅からず、平氏の凶悪を退治し、国衛垂跡の恵は、近く軍士の勝利を施与し給ふ、有難かりし神慮なり。斯りける所に、如何はしたりけん、武州忍の城主成田下総守氏長、神前に於て警固の武士と口論せり。謙信之を聞いて、大に怒つて我れたま諸方の積悪を鎮めて、社参せしむる所に狼籍の至オープンアクセス NDLJP:62り、其の罪甚だ軽からずと宣ふ。成田下総守〈成田刑部少輔氏国が長子なり〉大に畏れて虚病し、己が館に帰りぬ。謙信之を誅せんと欲すと雖も、今度初めて八幡宮社参なるが故に、宥免して罪せず。是に依つて、関東の諸将離散する者多かりける。謙信翌日上州平井に帰つて、暫く逗留し本国に帰陣なり。

 
謙信上洛の事
 
永禄四年、謙信上洛せんと欲して、先づ二月上旬に、武田信玄へ使者を遣して曰、謙信都へ上り、公方義輝公へ御礼申上候。但し某留主の内、此方の持分へ働き給はゞ、上洛を思ひとゞまり申すべきなり。公方への儀私事にあらず候へば、信玄も公方へ対し奉られ、我が留守へ働きなされざるは、本意なりとの口上なり。信玄聞きて、尤も其方上洛の留主中は、持分の領地へ手遣ひ申すまじとの返事なり。謙信、此の堅約し給ふ奥意は、堅約を以つて信玄を圧へ、太田三楽斎を小田原へ心易く働かせ、北条氏康を鎮めん為めの智謀なり。扨三月に至つて上洛備の人数定めあり。先に五百二つ合せて千人、旗本三十六備、跡五百二つ合せて千、以上五千人率ゐて上洛せられ、謙信、公方義輝に謁す同六月廿八日京着し、七月七日に公方義輝公へ対謁す。奏者細川兵部大輔源朝臣藤孝なり、献上物御太刀一腰・〈吉光〉御馬一疋馬代金三十枚、母公慶寿院殿へ、有明いうめいの蠟燭五百挺・白絹三百端・白銀百枚、一乗院殿鹿苑院殿へ進物同前なり。公方上意に、北条氏康退治の為め粉骨を尽され、未だ其休暇のひまあるまじくの所、早速の上洛感悦の至浅からず。自今以後、関東の管領職にあつて、有道順理の政を施し、権柄を執つて、非義邪欲の族を懲して、廉直の徳政を専と致すべしと、辱くも御諱の輝の字を給はつて、管領上杉弾正少輔藤原朝臣輝虎と称せられ、且つ網代の輿を免許あり、並に文の裏書御許しありければ、輝虎謹んで拝戴し奉つて曰、某、一生の中に無道の国を攻め傾け、天下の諸侯をして京師に参観させしめ、尊氏卿の御治世の如く、四海七道悉く一統に、主将の掌握の中にあらしめんと欲す。是れ我が素懐なりといへり。公方聞召され御感斜ならざりけり。当時乱世たるに依つて、早々御暇を給はりけり。時に輝虎、細川兵部大輔藤孝朝臣を以つて、密々に言上せられけるオープンアクセス NDLJP:63は、唯今三好修理大夫長慶が行跡を察するに、逆心の企ある事顕然たり。某、幸、上洛せり。願はくは厳命を蒙つて、速に三好長慶・同筑前守義賢・同左京大夫義継・同彦次郎長治等を討亡さんと云へり。公方聞召され、三好長慶一族等が逆意未だ露顕せず。糺明の上発覚するに於ては、重ねて命ぜらるべしと宣へり。輝虎、今に災害おこらんと思ひしかども、強ひて言上せば、彼を讒するに似たる故に、重ねて諫め奉らず、同月廿五日、北陸道を経て帰国し給へり。

三好修理大夫源朝臣長慶は、新羅三郎義光の後胤三好長基入道海雲子、正五位上筑前守修理大夫と号す。三好長輝入道希雲が孫なり。父長基入道泉州に於て、管領細川晴元が為めに殺害せらる。是に依つて、長慶阿波国より上り京都を攻む。天文十八年三月、長慶が一族三好宗三と、長慶摂州の領地に付き静論に及ぶ。管領晴元、宗三を贔屓す。依つて長慶怒つて宗三を討たんと、摂州中島の居城を囲み攻めけるに、宗三敗軍して摂州江波の城へ引退く。管領晴元は三宅の城に籠つて宗三に加勢す。江州佐々木義賢は、管領晴元に加勢の為め、三万余騎を率ゐて洛中に陣を取る。宗三是に力を得て、江波の城を出で江口に陣を張る。長慶事ともせず、急に攻立てければ、忽ち戦ひ負け、宗三遂に討死す。長慶進んで三宅の城を攻めけるに、晴元防ぎかね京へ逃げ上る。佐々木義賢も長慶が武威に恐れ、江州へ帰陣す。将軍家も晴元と同じく、江州坂本へ落ち給ふ。長慶入洛して京中を巡見し、其の身は摂州に帰つて、家臣松永弾正久秀を京都の留守居とす。同十九年晴元、江州坂本の近辺に、城を構へて防戦の備をなす。同十一月長慶、摂州より上洛し、軍勢を大津松本に進めて、晴元が家人を討破る。翌年七月晴元が家人、相国寺を城に構へ居る。長慶押寄せて又討破る。斯の如く数度の軍に、長慶勝利を得しかば、武威益〻高し。同廿一年正月、将軍義輝卿坂本より帰洛し給ふ。細川晴元は剃髪して洛外に隠蟄す。時に長慶、前の管領細川高国が子氏綱を、取立てゝ管領とす。明年義輝卿の仰に依つて、晴元赦免せられて帰京す。長慶之を怒つて、摂州より二万の軍勢を引率して入洛しければ、義輝も晴元も丹波へ落行き、日数を経て和睦調ひ、義輝卿・晴元又帰京せり。永禄元年晴元、又長慶及びオープンアクセス NDLJP:64其臣松永弾正久秀と不快にして、義輝卿並に晴元江州に没落せられ、佐々木が軍兵を借りて、程なく坂本より打立ち、京北の白河にして、松永と合戦に及びしが、又和平の儀あつて義輝帰洛し給ふ。晴元をば長慶が方へ囚へて、摂州芥川に押籠め置きけるが、年を経て病死す。斯くて長慶河州飯盛山に城を構へて居住し、畿内・南海の武権を執る。永禄七年長慶が子義長、松永弾正久秀が為めに、密に毒害せらる。故に長慶含弟十河一存そがうかづまさが子を養子として、左京大夫義継と号す。其の後長慶病死して、義継家督を受く。是より松永久秀縦に逆威を振ひ、義継を勧めて謀叛を起さしめ、五月十九日松永久秀先手として、不意に御所へ押寄せ、火を放ちしかば、防ぐに堪へで、将軍自殺し給ふ。其の後天下を奪はんとせしが、信長公の為めに滅亡す。同豊前守義賢は、三好入道希雲が子、法名実休と号す。三好長慶伯父なり。泉州に於て、天文元年細川晴元が為めに、父筑前守長基入道海雲討死す。義賢入道実休も亦、永禄三年三月五日泉州に於て討死す。三好彦次郎は、三好義長が孫河内守長治と号す。天文五年泉州の境に於て死す。右の如く、三好氏奥意に逆心ありしを、輝虎未発に察して、公方へ諫め奉りけれども、許容ましまさずして、義輝公、三好氏が為めに遂に自殺し給ふなり。

 
謙信軍法評議の事
 
永禄四年辛酉輝虎三十二歳、正月十五日諸老臣を召して宣はく、吾れ多年信州表に出陣すといへども、信玄我と戦はん事を欲せず。其の陣形を堅くして、唯守る事を専用とし、更に変ずる事なし。如何してか彼と戦ひ勝利を得る事あらんや。例年の如く、其の謀計を紙面に記して、日を追つて捧ぐべしとなり。群臣命を奉りて、皆退出しけり。其の後、甲府に附置きける間者、帰つて言上して曰、信州先方の士の内に、信玄に対して逆意を含める者あり。故に糺明せんと欲せられ、河中島に至つて、露顕の輩、先づ悉く誅戮せられけり。是に依つて、先鋒の士等狐疑を生じ、或は罪せられし者の一族、又は懇意なりつる傍輩等、二心を懐く者多くして、信州の中不和なりと聞えり。加之去る六月、信玄和利が岳に発向して、小城を攻むるに、多くオープンアクセス NDLJP:65士卒を亡し、力戦して漸く攻抜くの由、風聞ありと云へり。謙信聞き給ひて、翌日諸臣を召して宣はく、三軍の禍は人の狐疑するに過ぎたるはなし。是れ一つなり。兵法に曰、乗労と云へり。是れ二つなり。急に信州表へ出馬すべし。諸臣の計策を記し、呈進すべしと命ぜられけり。

伝に曰、謙信上洛のあとにて、太田三楽斎、上杉憲政公を大将とし、前申の年、謙信へ和談の諸将を語らひ、凡そ二万の軍兵を以て、相州坂匂まで押寄する。安房の里見・正木大膳は、北条方佐倉の城主千葉を押詰めける。又里見の家老板倉に、正木左近差添ひて、相州金沢を乗捕る。或は武州の忍・川越へは、上野衆に越後衆少々相副ひ押詰めける。是に依つて、北条氏康大に難儀に及び、今川氏真を以つて、武田信玄へ頼み越さるゝは、信玄、此節越後表へ働き給はれとなり。然といへども、謙信と旁の約束を、今更変じがたしとありて、二度までは承引なかりけり。三度目にわりなく頼み給ふにより、此の上は是非に及ばずといつて、先立つて武藤甚右衛門を高坂方へ差遣し、陣触をなさしめ、信玄も三月十七日に、河中島へ出馬にて、国境まで打つて出で、夫より高坂に命じて、越後太田切まで手遣ひあり。其の後、信州先方に、仁科・海野・高坂三人成敗し、〈此の高坂に、春日弾正に名字をくれたる高坂なり、〉六月信州和利が岳の城を攻落し、近辺巡見して河中島に在陣なり。是に依つて、方々の上杉方悉く退散して、小田原堅固なり。北条父子喜悦斜ならずとぞ聞えし。

 
越後軍記巻之七
 
 
オープンアクセス NDLJP:66
 
越後軍記 巻之八
 
 
河中島合戦軍法決談の事
 
斯くて越後の老臣等、軍法の計策を差上げける。謙信披覧あつて、宇佐神良勝に命じて、策の上・中・下を分たしむ。其の後、謙信三等の軍策を見て、此の度は、吾れ下等の計を用ひん。其の故は、上等の策は、信玄既に知つて設けて待つ所なり。其の知つて相待つに出合せば、豈何ぞ勝利を得んや。中等の策は年々の手段なり。下等の策は信玄が不意に当つて、万死一生の合戦なり。今我れ之を用ひて勝負を決せんのみ。然れば則ち、先づ高坂弾正が在住しける海津の城を蹈越えて、西条山に陣を張り、城を囲むが如くにして之を攻めず、信玄が後詰を待つべし。深く敵地に攻入る事なれば、縦ひ我が軍敗乱に及ぶといへども、散走すべからず。又越後へ引取るとも、敗北と思ふべからず。兵法に曰、帰師勿遏といへり。又信玄、西条山へ寄来りて攻むるに於ては、彼が陣形常々の守を失ふべし。其の時、我れ無二の一戦を遂げて、勝負を決すべし。又は信玄、海津の城へ入りなば、我れ急に攻詰め、力戦して、無二に討入り乗取るべし。或は信玄河中島に陣を張り、越後の通路を遮る時は、我れ雨の宮の渡を越さずして、直に西条山より海津の城へ取懸け、一時攻にして是非城へ乗入り、信玄が寄来たるを相待つて、勝負を決せん。兎角此の度の行は、信玄我れと一戦を遂ぐる様にとのみ。是れ吾願なりと宣ひて、八月下旬に、西条山に陣を取り給ふ。是に依つて、信州河中島より飛脚を遣し、謙信、海津の向ひなる妻女山に陣を取つて候なり。是非に海津の城を攻落さんとあつて、其の勢一万三千計なりと、告げければ、信玄後詰として、同月十八日に甲府を立つて、同廿四日に河中島に着陣し、河中島の合戦謙信の陣所妻女山の此方、雨の宮の渡を取切り、陣を取つて、越後の通路を塞ぎ止められける。越後の軍兵は、喩へば袋へ入れて口を縮めたるが如くなる様に思ひて、愁ふるといへども、大将謙信は、少しも驚きたる気色もなく、六オープンアクセス NDLJP:67日対陣なり。時に信玄、廿九日に広瀬の渡を渉つて、海津の城へ入られける。謙信此の体を見て、九月九日の晩景に及んで、諸将を召して曰、信玄は明日必ず一戦を遂げんと欲すと見えたり。今夜子の刻以前に、雨の宮の渡を越えて、河中島に陣を取つて、信玄が諸軍勢妻女山へ馳向ふを見て、脇より速に信玄が旗本へ突き懸り、其の不意を討つべし。諸卒潜に押渡り、敵に覚られざるやうに計らふべしと、命ぜられしかば、宇佐神良勝承はつて下知して曰、早く熟食を調へて、各陣屋の火を減じ捨て、篝火を残し、人々に枚を啣ませ〈[#「啣」は底本では「口+缷」(U+2F844)]〉ものいはせずして寂々しづと、子の上刻より繰出し、子の下刻に河中島に到着す。雑兵に至るまで、其の下知を守つて静まりつゝ、轡の鳴るにまで気を付け、一人も残らず来着す。則ち寅の時に至つて備を立つ。戦兵八千余騎、前備の大将は柿崎和泉守二千余騎七手組、次は総大将謙信一千余騎五手組、内近習衆四百余騎、後備の大将は甘糟近江守二千五百余騎六手組、直江山城守一千五百余騎八手組、次は小荷駄奉行雑兵駄馬なり。備を立替へて、一手限ひとてぎりの陣法にて、明くれば九月十日〈或は九日とある書もあり、誤れり〉卯の上刻に、謙信察し給ふ如く、信玄海津の城を出で、筑摩川の辺に陣を取り、善光寺の道筋を遮り、越後の往還を塞げり。然るに謙信の諸軍勢不意に出で、信玄の旗本へ懸りける。信玄の先鋒は、猶西条山に懸つて之を知らず。時に日出霧晴るれば、謙信忽然として、信玄の近辺に軍列を備へて、徐々と進めり。信玄の旗本、之を見て驚きあへり。信玄、浦野といふ弓箭功者の士に命じてうかゞはしむ。浦野急ぎ看得して立帰り、馬前に跪いて曰、謙信は退き候なりと、信玄流石の名将なりければ、頓て察し。謙信程の者が宵より川を越して、其所にて夜を明し、何とて空しく引取るべくや、其の退きやうは如何にと問ひ給ふ。浦野答へて、謙信我が味方の備を廻りてたてきり、幾度も此の如く候て、犀川の方へ赴き候といふ。車懸の軍法信玄聞きて鳴呼浦野とも覚えぬ事を申す者かな。それは車懸といつて、幾まはり目に旗本と、敵の旗本と打合ひて一戦する時の軍法なり。謙信は今日を限りと見えたりとあつて、急に備を立て直し、既に両陣の先備進みける。互に勝劣を争ひ力戦す。時に謙信、大根の折懸印を伏せて、窃に脇路より信玄の旗本へ駆入り、敵将義信が旗本五十騎雑兵四百余の備を追散し、信玄の旗本へ無二無三に切オープンアクセス NDLJP:68つて懸り、敵味方三千六七百の人数入り乱れ、突いつ突かれつ、切っつ切られつ、互に具足の綿嚙を取合ひ、組んで落つるもあり。頸を取つて立上れば、其の頸は我が主なり。遁すまじと名乗つて、鎗を以つて突き伏せるを見ては、又其の者を切倒し、主を助くる間もなく、親の討たるゝも知らず、苦戦しける所に、信玄牀机に腰を懇け、下知して居られけるを、謙信馬上なれば見付け給ひ、一文字に乗寄せ三刀切る。信玄は牀机より立つて、軍配団扇にて受けながしける所へ、大剛の兵二十騎ばかり駆けふさがり、敵味方の知らざる様に、信玄を引包み、近付く者を切払ふ。其の中に原大隅といふ信玄の中間頭、青貝の柄の持鎗を以つて、信玄に切付けたる月毛の馬に乗り、萠黄の段子の胴肩衣着たる武者を突き外しければ、具足の綿嚙かけて打付けけり。馬のさんづをしたゝかに打つ。打たれて馬驚き立つて駆出しけり。胴肩衣に白き手拭にて、頭を包みたる武者は、謙信なりとぞ。後に見れば、信玄の団扇に、八刀きず跡ありとかや。謙信斯くの如く烈しき軍し、左右七八町の間を突崩し、究竟の士大将を数多討取り給ふ所に、西条山へ向ひし甲州先手の諸将、旗本に軍ありと、聞きて引返し、追々に馳加はりける。是に依つて、甲州勢、力を得て、信玄の旗本暫く蹈止まれり。此の戦、謙信予めより計り給ふ如く、信玄に会して、一度太刀打し、勝負を決し馳通るべしとの軍術なり。故に甘糟近江守が備を以つて、大将の本陣と定め、謙信は後陣を先陣となして、敵の不意を討つの兵術なり。合戦以後謙信、味方の諸将に語つて曰、敵の旗本の内に、笠の如くなる甲を着、手に団扇を持ち、牀机に踞する武者あり。是れ信玄ならんと駆寄せて、馬上より三刀つゞけて打ちければ、牀机より立上らんとする所を、又二刀続け打ちし時、笠の甲の端に当つて牀机の上に落つる。其時我が乗りたる馬、太刀音に驚いて駆出でたり。時に後を顧れば、信玄が旗本の勢、味方の甘糟近江守・直江山城守が備に向つて入乱れて相戦ひ、広瀬川へ引退きけり。後に彼の牀机に居たる武者を問へば、其れ信玄なりと云へり。実に運つよき武将かな。其の時、鎗を持ちたらば、只一突に打果すべきに、馬上より太刀にて打ちたる故、思ふ儘ならざりき。初めは甲州勢、越後路の通路を塞いで、味方を討取らんと謀りしかども、却つて甲州の老臣・武功の名士九の頭悉く敗軍し、オープンアクセス NDLJP:69筑摩広瀬の渡まで追懸け、追打に過半討取り、太郎義信を打退け、典厩の備に稠しく乱入り突崩し、忽ち典既を討取る。諸住豊後守、敵の旗本足軽大将山本勘介入道道鬼・初鹿源五郎を討取る。其外或は討たれ、或は痛手を負ひ敗走す、信玄も腕に二箇所、太郎義信も二箇所疵を蒙り、此の軍甲州の負けといへり。されども信玄は、始め牀机を立てたる場を、少しも退かず、是程の大崩に、其場所に居られしは流石の名将なればこそと、敵ながらも感じける。味方は名高き士一人も討たれず。唯途に迷へる雑兵共少々討たれたる計なり。此の時、甘糟近江守、西川の辺に三日陣を張つて、雑卒を集め勢を揃へて帰る。謙信も三日善光寺に逗留あつて、使者を信玄へ遣して曰、今度の合戦に於ては、有無の勝負を決せんと欲する所に、其志を果さず。是に依つて、此の地に在陣して、本国に帰らず、近日再会して一戦を決せんとなり。信玄返答に曰、先づ今度は互に引去つて、軍士の労を休め、明年に及んで対陣すべしと云へり。斯くて謙信は善光寺にあつて、即ち戦士の軍功を論じ、時刻過さず功状賞禄を与へられ、静に帰国し給ひけり。

伝に曰、当春謙信上洛の前、信玄へ使者を以つて、留守の間、甲州より働き給はざるに於ては、京都公方の御機嫌伺の為め、上洛致すべしと存候。然れども断を承引之なくば、上洛を思ひ止まるべしと、是に依つて、信玄返事に、働くまじと云へり。然るに堅約を変じ、高坂が方へ武藤甚右衛門を遣し、先立つて陣触をさせ、信玄も三月中旬に河中島へ出馬し、国境まで打出で、夫より高坂弾正に命じ、越後の太田切まで手遣させ、殊に和利が岳を攻落すなど、旁以つて、謙信怒つて京都より下着せば、人馬の足を休め、定めて此度は、有無の合戦と究め出馬すべしとありて、備の試み軍法評議の上、八月中旬より出陣あり。同十四日に、海津を巡見し直に押通り、妻女山へ押登り陣取り給ひ、如何様にも、謙信無二の働きすべしと思慮あつて、孫子の旌と名附けつゝ、孫子の四句を書きたる小馬印を持たせ、謙信出馬の註進、八月十六日河中島よりの一左右に依つて、同十八日卯の刻に、甲府を発馬にて、小室通りより上田へ着き、越後勢の様子を弥〻聞合せ、夫より浦野へ押出し、廿四日に猿が馬場の北茶磨ちやうす山へ押上り、二里計ありし雨の宮の渡オープンアクセス NDLJP:70を、目の下に見下して陣を取り、備の位を見せしめ、又は敵の情を窺ひ察し、海津へ入りて、朔日より九日まで対陣し、敵を討つべき軍議の外他事なし。然るに謙信名将なりければ、海津の人気を見て、甲州戦兵の働を察して、不意に攻詰め合戦すべき軍策をなし給ふ。斯くて信玄は山本勘介に命じて曰、馬場民部と両人軍談して、明日の合戦備を定めよといへり。時に山本畏つて申しけるは、味方二万の人数を一万二千、謙信の陣所妻女山へ押懸け、明日卯の刻に合戦を始め、越後勢勝つても負けても、川を越し退き候はん。其の時、御旗本組二の勢兵を以て、跡先より押はさみて討取り申す様にと、決談し備定り、妻女山へ馳向ふ諸将は、高坂弾正・飯富兵部・馬場民部・小山田備中・甘利左衛門・真田一徳斎・相木・葦田・下野郡内小山田弥三郎・小幡尾張守、此十頭なり。旗本組の諸将は、中備へ飯富三郎兵衛、左は典厩・穴山、右は内藤修理・諸住豊後、旗本の脇備、左は原隼人佐・逍遥軒、右は太郎義信・望月、〈義信の右なり〉旗本の後備は、跡部大炊・今福善九郎・浅利式部、以上十二備にて、旗本共に都合八千なり。其夜七寅の刻に打立ち、広瀬を越して備を立て、敵の退くを見て、一戦を始めよとの軍法なれば、先手旗本の戦士兵糧のしたゝめせる人気を、妻女山に於て謙信見給ひ、老臣・諸大将・物頭残らず召寄せて曰、十五年以前より信玄と合戦を始めたり。其の年信玄二十七歳、我れ十八歳の時より、数度の取合に、信玄が備へ違ふ事なくして、終には信玄に軍場を取られ、皆是れ後れの様なり。明日は是非の合戦と覚えたり。然るに今度、敵の武略には、人数を二手に分け、此の陣場へ押懸けて戦を始め、我が旗本川を越し、引退く所を、半分の人数を以つて討取るべしとの軍議は、鏡に写つる如くに見えたり。然れば某も、其の上の手を計つて、今宵潜に川を打渡り、其所にて夜をあかし、日出でば即時に、懸つて合戦を始め、敵の先手引返さゞる前に、武田勢を切崩し、信玄旗本と我旗本と合戦を始め、互に入乱れ戦の最中に、横合に懸つて、信玄と組んで落ち、刺違ふるか首尾により無事にするか何れに明日は、二つに一つの合戦なりといつて、重代の物具・名劒をいて、九月九日亥の刻の末に、妻女山を打立つて、雨の宮の渡を越し、向へ陣を移さるゝに、一万三千の人数なりといへども、音もせざるは、軍勢一人オープンアクセス NDLJP:71に三人前の食事を調へさせ置きたる軍策故に、人馬のはみ物を調へざれば、火を焼く色見えず、殊更其の暁天霧深うして、武田の斥候知る事なし。加之。地形の様子見切りにくき所なり。妻女山といふは、北西向東の方は急なりと雖も、人数自由に登り安く、峠に細道あつて、越後の軍勢昼夜廻り番しげくして、斥候近付きがたければ、信玄の先手一万余の戦兵寅の刻に妻女山へ向けられ、旗本も八千の人数同時に広瀬の渡を越し、十四五町押出し、備を定むる時に至つて、川端に附置きし斥候の士、一里余の跡を馳来て告げければ、早や寅の下刻なりけり。素より敵千変万化ありといふとも、皆山本勘介が積りの内を出でざれば、由〔〈山カ〉〕本乗廻つて、弥〻備々の法を定むる所に、其次の物見室賀大和入道が詞に依つて、猶々敵の備を悟り、信繁・穴山信連諫言を入れ、勝軍等の旌を義信の馬前に立て、信玄の前には孫子の旗一流立つるなり。打込の合戦大事の時、良将必ず用ふる秘法なり。是は旌を入替ふるといふなり。謙信は強将なりしかば、対揚の人数の時だに危き合戦なるに、此の度は味方八千に、謙信一万三千の勢兵なりと聞ゆれば、縦ひ軍に勝つといふとも、討死数多之れあるべしと、思はぬ者は無かりけり。既に卯の下刻に、謙信の先備一手切に合戦を始む。信玄の先手内藤・山県渡合ひ、火花を散して相戦ふ。村上・須田・安田三備合せて二千の人数を以て、八百の人数にて備へ居られし典厩の陣へ、無体に打つて蒐り、切れども突けども事ともせず乗入れ乗入れ懸りければ、典厩を始めとして一足も退かず、苦戦して討死を遂げたり。典厩の従卒、主の討死を見て過半義死せり。扨二の備の謙信は、武田の旗本の右備に、信玄の旗見えければ、無二無三に斬崩し、太郎義信と大刀打し、〈此時義信手疵を負ふ、〉信玄にて之なしと思ひつゝ、取つて返し、信玄の備へ打つて懸り、既に信玄に切懸り三刀まで切り給ふといへども、終に恙なくして討たれ給はず、謙信の馬驚いて退かれける。信玄の腕に薄手二箇所負ひ危き働なり。最も信玄の持鎗奉行今福・安西等、能く鎗を配つて守護す。其の外目附・使番の二十人衆、持鑓を取つて防ぎける。就中土屋平八・真田源五・曽根孫次郎・加藤弥五郎・三枝善八等の小姓、手鎗をおつ取りて働きけり。殊に隠居の老臣七八人、一様の出立にて、色々の紋尽の羽織に腰差オープンアクセス NDLJP:72の軍配団を抜き、皆手々に持ち、信玄と共に牀机に腰を懸け並び居られ、信玄も緋緘の鎧白地に、金銀の桐の紋わり菱繁く付けたる羽織に、皆鎖の上へ白綾のかづら包みなれば、七八人一様にて、何れを信玄と見分けがたかりき。是に依つて、謙信も卒爾の働きならざりける。信玄とだに知りたらば、飛び懸つて刺違へんものをといはれける。其の内に謙信の馬、太刀音に驚き走り出で、落馬し給ひ、乗替に乗り、広瀬の渡際にて、又義信と大刀打あり。夫より右へ川に付きて、乗行き給ひし時は、三騎にて牛島の渡を乗越し、高梨へかゝり退き給ふ。甲州の臣釣閑斎、放生月毛を拾ふ事、此時なりとかや。〈謙信の名馬なり。〉

 
河中島合戦勝負評論の事
 
信州河中島の軍、古より評論ある事なり。武田方には信玄の勝といひ、上杉方には謙信の勝と云ふ。河中島戦の評論先づ信玄勝つといふは、謙信は戦場を引去り、和田喜兵衛といふ者、彼是主従三騎にて、高梨山に懸つて、越後へ敗北なりと沙汰せり。信玄は戦地を去らず、場をふまへたるは是れ勝ちなり。昔日源九郎義経、平家と対陣し、合戦の時、矢島に於て、僅に七騎になりしに、戦場を去らず、日暮れてかゞり火を焼きて夜を明す。平家は二百余騎にて、其の場を去り、船に取乗り引きければ、軍は源氏の勝と称す。古今負軍に戦場をふまゆる事、之れなき故に勝なりといへり。加之越後の軍勢を雑兵共に討取り、其の数三千百十七の頸帳を以つて、其の日申の刻に、勝鬨を執行ひ軍神に献ず。第一堅固の地を見立て、前後へ備を配り、物見・遠見を段々にかけ、敵方を能く見切つて幕打廻し、大将牀机に座し、団扇か采配を持つて、天地の妙体になりて、頸を見給ふ軍礼なり。此の時太刀をば馬場民部、弓箭をば信州先方の侍室賀持つなり。其の外規式法の如し。頸実検の法式、一々第三の巻に、秘事委細記す。故に爰に略す。此の外甲州方のいへらく、勝の証拠には、信玄此の合戦前に、信州伊奈の成就院と云ふ祈願寺へ、此の合戦勝利の祈念を頼み給ふ。是に依つて、此の合戦の次の月十月の末に、成就院より信玄へ使僧あり。仍つて信玄、其の返書を遣されける。本書所持の人あり。則ち書写して左に記す。
オープンアクセス NDLJP:73

 追而有立願之旨、黄金三両別而令奉納候。

恒例使僧候。殊本尊像巻数・扇子・松原等、并綾一端送給候。祝着に候。仍今度越後衆至于信州出張之処、乗向遂一戦勝利、敵三千余人討捕候。誠衆怨悉退散眼前に候歟。仍当年奉寄附伊奈郡面木郷御入部珍重候。此外万疋之地、只今雖渡進、于今市川・野尻両城残党楯籠様に候。定雪消者、可退散候歟。其砌名所書立、態可進入候。恐々謹言。

  十月晦日  信玄黒書

        成就院

又上杉方に勝といふは、信玄は魚鱗に備へて、中・左・右三備、次に旗本の先備、信玄の左右に脇備あり。都合六備なりしを悉く切崩し、信玄の旗本へ討入りたるは大に勝なり。加之信玄に打つてかゝり、手疵を負はせ、太郎義信と太刀打し、是も亦手を負はせ、其の外典厩を討捕り、及び武田の諸臣歴々を多く討ちけり。就中天下に隠れなき山本勘介といふ武功の名臣討死したるが負の証拠なり。昔より軍配者の立派たてはに、軍負なる時は、討死するが法なり。永禄十二年、筑前国にて大友義統と毛利元就、立花に於て相戦ふ。時に大友敗軍す。其の軍配士那須野軍兵衛、取つて返し一騎討死せり。謙信は一備も敗られず。其の上武田勢敗軍を追討に、五千人余討取りける。凡そ勝軍に、大将討死なきものなり。然れば全く謙信の勝なり。謙信戦場を去つて、高梨山に懸るは、勝ちて甲の緒をむるといへる譬の心なり。家臣松本大学佐へ贈られける感状に曰、

去十日於信州河中島、武田晴信遂一戦之刻、粉骨無比類候。殊親類被官等牛飼者、数多為働数千騎討捕得大利畢。年来達本望、是亦名誉之至、此忠節輝虎世世中不忘却。弥〻相嗜忠信事簡要候。謹言。

  九月十三日  輝虎書判

        松本大学佐殿

去月信州河中島合戦之砌、敵方板垣三郎一千余手痛相働候処、長尾修理亮其方、以両備即時斬崩悉討捕之、誠抽諸手抜群之軍功不浅者也。弥〻不忠義オープンアクセス NDLJP:74功名状、仍如件。

  永禄辛酉十一月二日  輝虎書判

            青河十郎殿

右感状の本書、所持の方之あるに依つて、証拠の為め之を記す。此の外数通之れあるべし。此の感状を以つて、弁察する時は、全く上杉家の勝なり。然りと雖も、前に記する信玄の返書をる時は、又武田家の勝なり。故に太閤秀吉公、此の勝負を評して曰、卯の刻より辰の下刻までは謙信勝ち、巳の刻よりは信玄勝なり。然れば双方に勝負共にあり。始終を評論せば、畢竟互角の合戦といふものなりと宣ふ書あり。宜なるかな。世上流布の書には之なきなり。

 
越後軍記巻之八
 
 
オープンアクセス NDLJP:74
 
越後軍記 巻之九
 
 
謙信松山へ後詰山根城攻取る事
 
斯くて河中島より帰国の後、同年十月、謙信近習の勇士四百五十騎引具して、信州越後の境に出馬し、路を作らせ橋など修理を加へ、田畠耕作等の仕置あつて、帰城し給ふ。翌永禄五年壬戌の三月上旬に、太田三楽支配の城主、上杉憲政の庶子上杉憲勝、〈後友貞と改む、〉武州松山の城を守りし所に、北条上杉合戦北条氏康・氏政父子、之を攻取らんといつて、同年正月上旬に、相州小田原より甲州武田信玄へ使者を以つて曰、当春松山の城を攻討たんと欲するの所に、太田三楽定めて後詰すべし。夫に就いて、上杉謙信を頼み候はゞ、大軍たるべく候条、信玄公御出馬を仰ぎ奉ると、余儀なく頼み越さるるに依つて、信玄是非なく、同年二月廿八日に、甲府を発馬せられける。北条父子オープンアクセス NDLJP:75大に喜んで、三月上旬に武田・北条両家の勢、都合四万六千余騎にて、武州松山の城を七重八畳に打囲み、昼夜の際もなく攻動かす。是に依つて、太田三楽斎後詰も叶はず、急ぎ越後へ飛札を以つて、右の趣註進し、援兵を乞ひけり。謙信之を聞きて、則ち軍兵八千余騎を引率し、越後を打立ち、上野国厩橋に着陣せられける所に、松山の城、謙信の発馬二日以前に、城を開いて去る。謙信大に怒つて、太田備中入道三楽を召寄せ、甚だ責めて、既に手打にもすべき気色にて、刀の柄に手を懸け、斯く某を後詰とありて呼出し、斯程に臆病なる士に、城を預け置き、謙信に恥辱を蒙らせんとの事ならば、只今其の方を打果し候はんと、大の眼に角を立て礑と睨んで申されしは、身の毛もよだつばかりなり。三楽も兼て斯くあるべしと覚悟して、憲勝が子同弟二人を引出し、是等を人質に取置き候。其の上に城に籠置く人数・兵糧・玉薬・弓箭・鉄炮・新まで、悉く書き記し差上げて曰、憲勝儀、不甲斐なき怯弱の者と存ぜずして、城代と致せし事、偏に是れ某が過にてこそ候へと、謹んで恐謝せられける。時に謙信、両人の人質の頭の髪を、左の手にて一つに握り引寄せ、右の手に刀を抜き、けさがけに切つて、二人を四つに討ちはなし捨て、三楽も既にあぶなく見えしが、少時あつて問うて曰、北条氏康が支配の山の根の城へは、是より行程何里ありや、三楽対へて曰、一日に往還仕る地にて候といへり。其の時謙信、機嫌をなほし盃を出し、一つひかへて三楽を呼出し、盃をさして向後中を直り候といつて、是より直に山の根の城を攻取るべし。扨今度氏康と信玄が戦兵何程かある。両旗ならば、凡そ五万か四万はあるべしといへり。三楽承つて曰、氏康・氏政父子信玄も嫡子太郎義信を相具し、大将と見えし分、五人か六人にて大軍に候と申上げらる。謙信嘲笑つて曰、信玄・氏康はさもあれ。二人の子共づれは、義信にもせよ、氏政とても、謙信が刀のむねうちにし、一刀にも足らぬ輩なり。内々某が覚悟には、大軍に味方も多勢にて、合戦しては勝つて、さのみ手柄になりがたし。負けても恥ならず。是に依りて、此度も人数を残し、僅か八千ばかり引率せりといひて、則ち刀根川二本木の渡を越し、船橋に至つて、先づ使者を以つて、北条・武田の両将へいひ遣されしは、今度松山の後詰の為め出馬致す所に、未だ厩橋に至らざる以前、両旗の大軍を以オープンアクセス NDLJP:76て攻囲まれ、憲勝叶はず落城せしめ、残念の至心外に候。然れば落城の以後、厩橋へ着陣いたす事、後れたる後詰と思召さるべしと、面目なく候。去乍ら謙信、是まで出馬いたし、空しく退かん事、氏康公・信玄公に対し、却つて武道の慮外に相似たり。然れば是より明日、氏康公の領分山の根の城を攻崩し、今度の残心を散ぜんと欲す。無用と思召さば、北条・武田両家として妨げられ候へ。其の時城を巻解まきほぐして駈向ひ、謙信有無の勝負を決すべし。恐らくは、北条・武田の大軍を以ても、支へ留められん事、思も寄らずと、悪体にくていなる口上にて、明卯の刻に罷立つと、使者に命じて、翌朝に刀根川二本木の船橋を渡り、橋の綱を悉く斬流して渡をたやし、氏康・信玄陣所のの前を近く蹈越えて、山の根の城へ猛虎の山を𦐂けるが如く、堂々と押詰めけり。船橋を斬流せしは、韓信が背水の術計に相同じ。謙信の軍術謙信は天性武道に賢き性質なるに、少年より軍道に心を寄せ、和漢の軍書に眼を晒し、殊には上杉の家臣、竹内宿禰の苗流宇佐神駿河守良勝に因んで、元朝伝来の軍術を授り、千変万化の兵術を練磨し、近くは吾が朝河内の中将楠先生正成の軍配を尋ね探り、凡そ兵道に於ては、摩利支尊天の再誕ならん。斯くて山の根の城下へ着陣し、此時の軍大将荻田主馬丞を召して曰、此の城攻は、先陣・後陣一同に攻登り、一刻に乗取るべし。少しも猶予する事なかれ。主馬丞承つて諸卒に下知して、四方八面より押寄せ、射れども打てども事ともせず、討たれて倒るゝ者を足伝にして、一枚楯を脇にはさんで、逆茂木を引き退け、昼夜の差別もなく、曳々声を出し攻上る。其の声天に響き地を震つて夥しく、九天も砕けて地に落ち、坤軸は裂けて海となり、只今天地滅却せるかと荒涼すさまじかりし形勢なり。去る程に、城中にも、迚も遁れぬ所なりと、弓・鉄炮を以て爰を先途と防ぎければ、雨の芭蕉を打つに異ならず。身命を惜まず防戦すといへども、寄手は大勢にて、荒手を入替へ息をもつがせず揉み破り、一日半夜に攻崩し、老若男女籠りたる程の者、残さず三千余、なで斬にし、心地よしと勝鬨を揚げ、次の日はもとの路を帰り又敵の両将へ使者を以て、山の根の要害即時に蹈崩し、今明日中に凱陣せしむるなり。遺恨に思はれば一戦を遂ぐべしとなり。時に信玄の陣に、押大鼓を打つて進み来る体なり。味方の諸勢、之を見て物具堅め馳向はんとす。謙オープンアクセス NDLJP:77信令して曰、是れ信玄が進み来るには非ず、退き去るなり。聊か騒乱すべからず、甲冑を脱ぎ馬の鞍をおろし、人馬共に心静に休息すべしといへり。言葉の如く五六町進み来て、果して退き去りぬ。其の時、味方の諸軍士はいふに及ばず。老臣等に至るまで大に感心して曰、是れ何を以て察し給ふや、奇なるかな妙なるかな。良将の敵を計ること、其の情鏡にうつるが如く違ふこと更になしと、各恐歎して舌をふるふ。謙信聞きて曰、是れ別に奇妙なる事にあらず、当然の理なり。眼前に山の根の城を攻動すを見て、後巻すること能はず。然るに今何ぞ進み来らんや。只是れ退口の懸色といふものなり。諸将之を弁察せざらんやと宣ひて、徐々と帰国せられける。誠に古今に稀なる名将なり。

伝に曰、松山落城せしは、甲府勢の先手甘利左衛門が同心頭に、米倉丹後守といふ合戦に、度々場を蹈み功者なる武士、天文廿一年、信州苅屋原の城攻の時、寄口にて、能き工夫を仕出し、竹を束ねて立置き、城近く攻寄りては、又跡の竹を崩して、くりよりにしたりける。是に依つて、城の塀・矢倉より放ちかくる鉄炮、矢先を防ぎしかば、諸手に勝れて功名せり。此の松山の城攻の時、米倉が仕出したる武略を、甲州勢悉く学び、竹ばかりにも限らず、杙・柱までもからげ束ねて、城近く付寄せけり。夫より竹束と名付けたり。此の時まで、世上に竹束といふことを、知らざりけり。鉄炮は永正七年より始まれり。此の竹束にて、寄手の人数手負少く、是に依つて城弱り、是非なく城を明けて敗走し、松山の城、早速北条の手に入り、謙信の後詰、後手になりて怒られけるなり。夫より直に、山の根の城へ向はれし時、氏康・信玄陣所の前を、徐々と押通り給ふ器量、天晴健勝なる武将なり。且つ勇力のみにもあらず、智力も勝れたる大将なり。此の時、謙信切懸り給はゞ、先づ本敵は北条氏康なれば合戦あらん。然らば謙信か氏康か、何れ勝負あるべし。其の労れたる所へ、信玄の荒手切つてかゝり給はゞ、謙信の敗軍疑ひなし。此の理を弁察して、両将へは懸り給はざるなり。然りといへども、流石の謙信遥々出馬し、何の手にもあはずし空しく引退かんも、氏康・信玄を恐れたるに似たり。依是北条持の要害を、一刻に屠り捨て、北条・武田の両家へ、使者に広言吐いて遣オープンアクセス NDLJP:78し、何のあぶなげもなく、心静に帰陣せられける。謙信退かれて後、氏康・信玄に向ひて、一合戦あるべきものをといつて、信玄の心を引見られける。信玄は其の理明らかなる故に、頓作の答話に、北条・武田両家を以つて、若き謙信に勝つて、恥なりといへり。実意にはあらざるなり。此の時謙信は三十二歳、信玄は四十二、氏康は四十八歳なり。扨山の根の城攻め、急に揉崩し給ひしは、延引に及ばゞ、氏康・信玄後巻もあらんかとの遠慮なりとかや。

 
長尾弾正入道成敗の事
 
斯くて謙信、心の儘に働き、帰陣の節、厩橋の城主長尾弾正入道謙忠、今度山の根の城攻に案内者として、三楽同前に参陣せざる儀は、罪科軽からずと、大に怒つて、謙忠を召出し、刀を抜いて詞をかけ、放ち打に成敗あつて、其の家中の者共迄、雑兵かけて二千ばかりを殺されし形勢は、鬼か謙信かと、万人恐伏せざるはなかりけり。扨城の跡には、北城丹後守を以て城代とし、政令堅く命じつゝ守らしめ、太田三楽斎には、暇を給はつて、武州へかへされ、謙信帰国せられける。
 
謙信領国の政道諸士休息の事
 
永禄六癸亥年、新王に立帰れば、軒端の梅も雪間に綻び、谷の鶯声珍らかに、春立つ今日といふ折しも、都鄙・遠境・上下・万民浮立ちて、目出たき有様なり。然りといへども、天下穏かならず。四国・中国には、尼子修理大夫晴久・毛利右馬頭元就、九州に大内多々良義隆・大友新太郎義統・島津修理大夫義久等、互に境目を争ひ、郡郷を攻取らんと欲して、弓箭の隙もなし。東海・北陸には、織田上総介信長・今川駿河守義元・武田大膳大夫晴信・浅井備前守長政・土岐美濃守芸頼・斎藤山城守秀龍入道道三・畠山修理大夫義則・里見左馬頭義高・得川家・北条左京大夫氏政等、分国に威を振つて、合戦止む時なし。五畿内とても、管領等、将軍家を軽んじ、我が威を立てんと欲して、三好・細川、輒もすれば鋒楯に及び、一日も安き心中なく、貴賤薄氷を履むが如く思へり。其の頃、越後の国主上杉輝虎入道謙信三十四歳なり。英雄の名将にて、若年オープンアクセス NDLJP:79より数度の軍に、一度も不覚をとらず。謙信政道に心を傾く春日山に在城して武威盛んなり。今年正月十五日、諸老臣を召して、今明年は暫く、他国の出陣を止め、士卒を休息せしめ、且つ領国の政道を専らにし、万民を撫育して、軍用に乏しからざらん事を、要とすべしと思へり。其の故は、今天下戦国の世となつて、東西南北擾乱す。然れば民は国の本なり。先づ持国を豊にすべしといへり。老臣、各貴命を承つて、是れ誠に国家武運長久の基なりと、恐感して退出せり。

断に曰、雲州尼子修理大夫晴久は、塩治判官高貞の末孫、尼子左衛門尉高久より、故あつて尼子と号す。修理大夫晴久迄、代々武勇の将なり。○毛利右馬頭元就は、平城天皇の後胤、因幡守大江の広元が末葉、正四位下右馬頭陸奥守右少将等に転任す。安芸国高田郡吉田の領地は、先祖毛利修理亮時親、軍功に依つて、始めて地頭職となり、父備中守弘元に至るまで、九代連続して保てり。然るに弘元の嫡男、備中守興元早世して、二男少輔太郎元就将に家督たらんとす。時に舎弟少輔次郎元綱・同上総介就勝等、家督を論争し、家中已に三分に裂けて擾乱せんとす。依是高千貫の領地を配分して、元就は僅に、田治比村七十五貫の地を領して、猿掛山に城郭を築き、是に住せり。元来元就、智徳英勇自然と備り、竹田元繁・山名宮内少輔等を追落し、同国吉田郡山を居城として、三千貫の地を領す。安芸に武田の一族ありて、吉田郡山へ押寄せけるに則ち元就出向ひ、一戦に追散らし、武田敗北す。是より武威昌にして、隣郡近里の武士、多く元就に属す。雲州の国主尼子伊予守義久は、元就と親み交りしが、義久の家督尼子修理大夫晴久の代に至つて、元就と不快になり、攻滅さんと企て、人数を催す由、聞えければ、元就頓て大内義隆に因んで志を通ず。尼子晴久之を聞き、数万の兵士を引率して、吉田郡山へ押寄せ、急に攻討たんと勇み進む。元就度々相戦ひ勝利を得たり。天文二十年九月、大内義隆の家臣陶尾張入道全姜、逆心して主人義隆を攻む。遂に叶はずして、自害の節、義隆遺状を認め、元就へ送り、偏に陶全姜を討亡し、我が無念をはらし給はれとなり。依是元就其の遺状を、禁裡に捧げければ、即時に逆臣誅伐の綸旨下りしかば、陶全姜を討亡しけり。其の賞として、中国七箇国の国司職になし下され、オープンアクセス NDLJP:80正四位の少将に叙任せらる。永禄三年正月廿八日、二条の御所に於て、錦の直衣を下さる。前代未聞の事共なり。依是周防長門も平均しければ、備中・備後の武士も、其威に恐れて帰服す。其後元就は、尼子退治のため、出雲へ発向しければ、嫡男隆元を周防に残し置き、豊後大友が押とする所に、将軍家より和睦すべきの旨ありて、毛利・大友の両家無事になりければ、元就は出雲に至つて、尼子が居城富田を攻め、其外諸方の合戦に、毎度利を得たり。次男吉川元春・三男隆景も、粉骨を尽し、前後七年の合戦に、尼子勢衰へて、晴久兄弟遂に降参し、出雲国元就の手に入りければ、因幡・伯耆・石見・隠岐の国士も随順し、播州の武士も少々附従ふ。四国に於て、河野と宇都宮と合戦の時、元就は河野に加勢し打崩し、宇都宮降参す。且つ又、大内輝広豊後より来つて毛利と戦ひけるが、毎度勝利を失ひ終に自害す。依是元就の威勢、次第に強くなりて、安芸・周防・長門・備中・備後・因幡・伯耆・出雲・隠岐・石見十箇国の大守たり。されば善人の栄ゆるは、春園の草木にたとへ、悪人の減ずるは刀をとぐ石の如し。日々に虧くると故人のいへるが如し。次に大内多々良義隆は、琳聖太子の後胤、大内従三位多々良義興が長男、太宰大弐と号す。当家代々武威昌にして、七箇国を領し、別に唐船八十余艘の貢物を受くる事、年々闕くる事なし。義隆の代に至つて、家門益々栄えけり。然るに、其の執権陶尾張守晴賢入道全姜、逆心に依つて、義隆叶はず、天文二十年九月一日自害す。従二位権大納言行年六十五。○大友義統は、藤原の後胤実は源頼朝の苗裔、従三位大友左衛門督入道宗麟の嫡子、大友新太郎義統といへり。宰相に任ず。故ありて、慶長五年流罪なり。○島津義久は、右大将源頼朝卿の後裔、修理大夫義久、法名龍伯と号す。年来武威九州に振ひ、其の名高く連続して家門繁栄せり。○織田信長は、桓武天皇三十代、平相国清盛公より廿一世の末孫、尾州の住織田弾正忠信秀の次男なり。天文三年誕生す。小名吉法師といふ、同十五年元服し、自ら信長と名乗り、同十八年父信秀卒す。信長其の家督を続ぐ。時に廿六歳上総介と自称す。若年より四十九歳迄、諸方に於て合戦し、皆勝利を得て軍功莫大なり。仍つて天正三年内大臣に任ず。同十年六月二日、家臣明智謀叛し不意に討つ。故に自オープンアクセス NDLJP:81殺す。諸書に詳かなるに依つて省略す。○今川義元は、清和天皇の後胤、源義家の苗裔、今川伊予守貞世法名了俊と号す。文武の達人なり。今川氏の祖とす。代々駿河国を領し、駿河守義元に至つて、信長と戦負け、夫より次第に武威衰へ、義元子上総介氏真、信田信玄の為めに自害す。○武田晴信は、新羅三郎義光廿七代の後胤、源信虎の嫡子、武田大膳大夫晴信、法名信玄と号す。先祖義光、甲州に住居せしより数代当国に住す。義光の曽孫太郎信義、始めて武田と称す。之を甲斐源氏といふ。信玄は智謀古今類なき名将なり。故に軍功伝記等諸書に顕はせり。仍て焉に略す。○浅井備前守長政は、大織冠の後胤、江州浅井下野守久政の男新九郎といふ。後備前守に任ず。浅井氏の元祖政重より、六代の末孫なり。長政武勇勝れ、江北に威を振ふ。天正元年小谷山の戦に於て、信長の為めに生害す。○土岐芸頼は、清和天皇の後胤土岐と称す。濃州の住人なり。天正年中に屢軍功あり。○斎藤道三は、藤原利仁の後胤、斎藤山城守秀龍と号す。後剃髪して道三と称す。天正の頃、武功の誉あり。○畠山義則は、桓武天皇の後胤なり。先祖畠山重忠、源頼朝卿に従ひ、毎度先手を承はり、永く源家に忠を尽し、関八州に比類なき勇士なり。就中寿永三年木曽義仲追討の時、義経に属して攻上り、宇治川を渡す中流にして馬倒る。重忠弓杖をつき、下り立たんとするに、水深く逆浪高し、然れども事ともせず、水中を凌いで、向ふの岸に近づく。時に大串次郎後より来りしが、水に溺れんとしければ、重忠の佩ける大刀の小尻に取付きしを、重忠かい摑み、岸の上へ投上げ、重忠続いて陸に上り、敵の侍大将長瀬の判官代を討取り、高名を顕しけり。時に十九歳、同年三月義経に従ひ、一の谷鵯越を落す。諸士皆馬より下りて難所を凌ぐ。重忠馬の労れん事を思ひ、物具の上に馬を負ひて、岩上を伝下る。其の勇力、殆んど凡人の及ぶ所に非ず。其の後数度の高名、天下に隠なし。義則は畠山遠江守義純を祖とす。義純の母は、右の重忠の後家なり。本名足利、母方の姓を継いで源氏となる。其末孫繁栄して関東の執事となり。或は奥州の探題となるもあり。殊に畠山基国入道徳元は、応永の頃、京都の三管領の其一なり。其孫持国〈入道徳本〉管領職にありて、威風万国に振ふ。依是、一族所々に分オープンアクセス NDLJP:82れて、末流合戦に及び、家衰へり。○里見義高は、源姓なり。新田大炊介義重の三男里見太郎義俊を祖とす。一家門葉戦功多し。義高は八代の孫なり。○得川、徳川ともあり。姓名具に記するに恐あり。○北条氏政は、北条早雲四代の後胤、平氏康が嫡子正五位下左京大夫と号す。関八州は氏政に従ひ、武威益々高し。天正十八年太閤秀吉の為に自害す。

 
越後軍記巻之九
 
 
オープンアクセス NDLJP:82
 
越後軍記 巻之十
 
 
宇佐神駿河守病死の事賞罰を行ふ事
 
同年十月下旬、宇佐神駿河守病床に臥して、医療更に験なく、次第に重りしかば、謙信驚き給ひ、諸社に祈り、諸寺の貴僧大法・秘法を修せられしかども、命運の期来つて、同十一月廿日行年六十一歳にして終に卒去せり。宇佐神良勝病死謙信未だ童形の時より、軍師となり忠臣となつて、暫も君辺を離れず。内には慈悲深く、外には智勇を励まし、諸士及び国民を憐み、人心廉直に邪慾を戒め、軍場に臨んでは、当機の変術・智謀・計略の深きこと、恐らくは楠先生にも劣らざりければ、謙信水魚の思をなし、万事密議を評談ありしかば、謙信の歎はいふに及ばず。諸臣上下に至るまで力を落し、惜まざるは無かりけり。斯くて其の翌年、謙信三十五歳なり。此の年諸士の戦功を論じて、其の甲オープンアクセス NDLJP:83乙を決定し賞罰を行ひ、以つて国家平治の徳要を下し、諸士・歩卒等に至るまで撫助し、人和の法を以つて、国家を堅固に治め給へり。
 
三好氏逆心に依つて、義輝公を弑し奉るの旨、京都より告げ来る事
 
永禄八年乙丑五月廿二日、京都より飛札到来す。謙信何事やあらんと、恠しく思ひ、急ぎ披閱し給ふ所に、細川兵部大輔藤孝・上野中務少輔清宣両臣より、当月十九日三好義継〈長慶が養子なり〉・同筑前守義賢、並に三好家の臣松永弾正少弼久秀・岩成主税助等逆心して、三好松永義輝を弑す将軍義輝公を弑し奉る。依是京師及び五畿内、大に騒乱して兵革起り、貴賤尊卑東に走り西に迷ひ、近辺の山林渓谷にげ隠れ、洛中・洛外闘諍のちまたとなりける由を告ぐるとなり。謙信手を拍ちて驚歎して曰、さればこそ先年上洛して拝謁せし時、兵部大輔藤孝を以つて、密に言上する所是なり。悔しいかな、我が諫議を用ひ給はず、今不道暴虐の臣三好家・松永等が為に、害に遭ひ給ふことよと、歎涙を催せり。其の後諸臣を召して、当時叛逆三好一族、及び党類を、誰か誅伐すべけんや。汝等が所存を聞かんと宣ふ。列座の老臣口を噤んで、対ふる事なければ、満座の臣等猶以て閉口し、首を垂れて居たりけり。時に謙信宣はく、熟々思ふに、武田信玄と我とにあるのみ。然りといへども、両人共に遠国に住し、行程数百歩ありければ、其の退治延引に及ぶべし。只是れ京師近き勇将等追討せしむるならん。其の中にも織田信長、之を滅さんのみ。

伝に曰、義輝卿は、源尊氏公八代の後胤、公方義晴卿の嫡子、母は近衛関白藤原尚通公の娘慶寿院といへり。天文五年三月十日義輝誕生、始めは義藤と号す。同十五年従五位下に叙す。同十二月十九日元服して、征夷大将軍に任ず。同廿二年八月三好長慶大軍を率して上洛す。将軍都を落ち去る。永禄元年公方勝軍山の城に移る。同三年五月長尾景虎上洛して、公方に拝謁す。義輝公御諱の字を給はつて、景虎を輝虎と改む。同八年三好義継逆心し、松永・岩成等、同五月十九日俄に御所を取囲み急に攻む。義輝公自ら長刀を取つて、逆敵を防ぎ給ふといへども、オープンアクセス NDLJP:84寄手御館に火を放つて、揉立てければ、御所の兵小勢といひ、不意に起りし敵なりしかば、防ぐに堪へで終に自殺し給ふ。従一位左近衛大将源義輝卿、春秋三十歳、贈左大臣光源院殿と号す。

 
信玄方の砦石倉を攻落す事
 
同年六月信玄、越中へ発向の旨、甲府に忍び居ける間者告げければ、謙信聞届け、頓て二万余の勢を以て、同六月下旬に上野国へ打出で、謙信石倉の砦を陥る武田の砦石倉へ押寄せ、打囲んで急に攻め給ふ。城兵防ぎ戦ふといへども、寄手は多勢、殊に強将の聞えありつる謙信、自ら向ひ給ふなり。城中は小勢といひ、其の上信玄留守にて、後詰の頼もなければ、守禦の力尽きて、大戸・長根城を開いて、箕輪の城へ引退く。謙信勝鬨を揚げ、城外所々巡見して、北条丹後守が甥荒尾甚六郎を城代として入置き、帰陣し給へり。

伝に曰、謙信、石倉の砦を攻取り給ふは、深き心入ありてなり。一つには飛騨・越中半国づゝ越後につゞきてある所を、信玄取切り給ふに依つて、此の働を妨げん為めなり。二つには謙信持の厩橋の城の押に、川を一つ隔て、信玄持の和田の城より構へたる砦にて、厩橋より程近ければなり。三には来年は、和田の城を攻崩すべき下心ありてなり。四には信玄留守の内なれば、後詰の気遣もなく、急に乗取り給ふといへり。

 
謙信上州和田の城を囲まるゝ事国国の逆心に依つて帰国の事
 
永禄九年丙寅謙信卅七歳、七月下旬に上州へ発馬し、和田の城を攻崩さんと、多勢を以て四方より討囲み、玉箭を両籠の如く打懸け、軍を棚際へ押詰め、道茂木を引退け一揉み揉んで、塀下迄攻寄せける。城中の兵共爰を破られじと、互に言葉を懸合はせ防ぎ戦ふと雖も、寄手荒手を入替へ、透間なく攻立てければ、城兵精力已に尽果て、危き所に、越後より早馬来つて、家臣長尾帯刀、逆心を起し隠謀を企つる事、甚だ以つて急なりと註進す。謙信聞いて驚き、和田の城を巻解ぐし、早々帰国し給へり。オープンアクセス NDLJP:85之和田の城兵は、万死を出でゝ一生を得るの思をなし、城の要害を修補し、弥〻堅固に守りける。信玄飛騨にありて此由を聞き、上野の石倉へ直に取懸けられければ、上州の諸士相従ひ、先手となつて押寄する。時に信玄曰、今度謙信和田の城を巻解ぐし、帰国すといへば、何の気遣も之れなし。然れども思ふ仔細之れありといひて、一時攻と定め、総乗の法を用ひ、唯二時計りに乗破り、城代荒尾甚六を始め、千余人討取り、和田の諸士を入置かれける。此の城攻急に攻落せしは、謙信方の後詰やあらん。又は謙信謀計のため、和田を引取りし事もやとの遠慮なり。或は武威を振はんため、且つ和田攻の返報、彼是を以て、此の働きありといへり。

伝に曰、和田を早々引取り給ふこと奥意あり。謙信、日頃の格を違へ、そら働きして、弱々と引退き、信玄にをごりを附置き、不図河中島へ出馬して、有無の一戦すべき方便に、逆心の註進に事寄せて、弱気を見せ給ふ。甲府方の諸士沙汰せるは、謙信、和田の城を攻詰め、既に落城と見ゆる所に、信玄の旗本横山十郎兵衛といふ足軽大将を、加勢として籠置きしに、此十郎兵衛、我が同心の足軽はいふに及ばず、城内の士卒等を、能く下知し、城の役所々々の手配り宜しくして、我が身は櫓に上り、日来に習ひ得たる鉄炮の上手が、謙信の旗本を見定め、美き武者を多く打落す。中にも謙信の御座をなほす侍を打殺し、其の外腹臣・寵臣等痛手を負ひ、謙信も度々危く見えし故、早々城を巻解ぐしつゝ、退散せられけるといふとも、信玄は明将なれば、謙信の奥儀を悟りて、和田の合戦終るや否や、馬場氏に縄張させて、普請ありしは、今度の働振を察しての事なり。謙信は深き謀あつて、敵に知られじと、外の事に思はせ、弱々と引退き給へば、信玄は其の意旨を悟りて、弥〻要害を堅固にせり。龍吟ずれば雲起り、虎嘯けば風生ず。明将は千里同風にして、愚将の及ぶ所にあらざるなり。

 
北条氏康上州厩橋城へ寄せらるゝ事謙信防戦の軍令触知らす事
 
永禄十年丁卯、謙信暫く上州の厩橋の城に居して、軍慮を運らし給ふ時に、北条氏オープンアクセス NDLJP:86康・同氏政父子、並に従臣松田尾張入道・同左馬助大道寺駿河守・遠山豊前守・波賀伊予守・山角上野守・福島伊賀守・山角紀伊守・依田大膳亮・南条山城守等、北条上杉合戦都合三万余騎とぞ聞えける。次に加勢として、武田信玄出馬せらる。相伴ふ輩には、馬場美濃守・内藤修理亮・土屋右衛門尉・横山備中守・金丸伊賀守等二万余騎、両旗の軍勢合せて五万六千余騎、大旗・小旗数十流、家々の馬印小嵐にひらめかし、思々の甲冑、朝日にかゞやかし押寄せ、同十月八日より稲麻竹葦の如くに打囲んで、大手・搦手揉合せ攻轟かす事、雷霆に異ならず。然りといへども、城中少しも痿痺ひるまず。大将は剛強の謙信なり。相従ふ士卒、大将に劣らざる兵共多く籠りければ、命を塵芥よりも軽く、名を金石よりも重くし、我れ劣らじと防ぎ戦ひければ、寄手多勢なりといへども、攻倦んでぞ見えにける。謙信の智謀既に十一日に至つて、勝負決せざれば、同月中旬に引退かんとせしを、城兵見て跡を慕ひ、追討にして功名を励さんといふ儘に、勇み進んで、已に城外へ打つて出でんとす。此の時に、謙信堅く制止して曰、必ず之を慕ひ追ふべからず。今敵の情察しがたし。若し伏兵の設け、之れあらば、味方却つて軍利を失ふべし。只城中より一同に、凱歌声ときのこゑを掲げ、貝を吹き鐘を鳴らし押夫蒙を打つて、只今迄為う、出づるが如くの勢を為すべし。然る時は、大軍驚き騒いで、利根川の渡に臨まば、水底に溺死する者多からん。是れ誠に戦はずして、敵を屈するの軍術なり。堅く城戸を閉して、兵を出すことなかれと、役所の頭奉行へ下知し給へば、畏つて制令の如く行ひける。案の如く、寄せ手の軍兵等引しほの事なれば、城中の鼓・貝・ときのこゑに驚きて、只今後より大勢追来るぞと、心得て足を乱し、我れ先にと引取りける所に、折節利根川の辺にては、後より土風烈しく吹いて、目口も開かざれば、後を顧みる事能はずして、偏に敵の追来るとばかり思ひしかば、利根川へ我れ劣らじと懸込み、大勢の武者共、淵瀬の考もなく、川中にて揉合ひける程に、水心も知らざる士卒、或は流れ又は味方の鋒刀に貫かれ、手を負ひて流に溺死する者、幾千といふ数を知らず。されば城兵は手を下さず、骨を砕かずして、多くの敵を亡すこと、大将の軍術・武徳の厚き故なりと、各感悦せり。

伝に曰、同年暮秋のころほひ、北条氏康・氏政父子、謙信を滅さんと、軍慮を運らして、オープンアクセス NDLJP:87九月九日先づ、甲府へ使者を差遣し、信玄を頼み申さるゝ口上に曰、越後の謙信、和田を引取りし以後、上州厩橋の城に住して、此方より関東の仕置致すを妨げ、其の上、方々へてだてあるべしとの風聞せり。依是諸方の勢の帰伏せざる以前に、追討せんと欲す。然れば、貴公の御出馬を希ひ、両旗を以て、謙信を退治致度候、御点頭仰ぐ所なりと、信玄委細聞き届け、一々思慮あつて、其の意に任すべしとの返事なりければ、北条父子大に喜びて、弥〻軍粧頻なり。斯くて諸勢牒じ合せ、同九月十八日辰の刻に、信玄甲府を打立ち、上野へ発向あつて、同廿八日に北条父子に対面あり。六七日軍談の上、氏康三万五千、信玄二万合せて五万五千余の人数を以て、謙信の仮に入城せられし厩橋の城へ、同十月六日の卯の刻より、前に押寄せ、城下の町を焼払ひ、其の勢に、城の門際まで押込み、直に其の場を引退かれしに、其の時に限り、から風いたく吹いて、利根川を渡す時は、諸人の目口もあかれず、前後更に弁へず。此の形勢を、謙信の士大将・物頭等、武功ある人々見て、五六千一同に軍兵を出し、氏康も信玄も討取るべきは、此の時にて候と、諫めけれども、謙信如何思はれけん。城兵一人も出さゞる事、謙信十四歳より合戦しそめ、其の年卅八歳迄、数度の戦、廿五年の間に、此時程、慎まれたる事はなしと、信玄の侍大将衆評判に、其の時利根川半分渡る節、謙信の人数三千ばかり追懸けなば、甲州勢は大半討たれ、悪くしなし申さば、信玄公も討死なされ候はん。其の故は、大風敵の方より吹きかゝり、殊に放火の烟に、土風まじりにて、手本・足本更に見え分かざるなり。敵出でざる故に、恙なく引取りたると、甲州の諸卒上下共に取沙汰なり。謙信方にも弓箭に功者なる勇士、数多ありしかば、右の如くに諫めけれども、謙信更に用ひられざるは、大に下心ありての事、凡人の量りがたき所なり。果して翌年、北条家と和睦なれば、之にて心胸を弁察すべし。且つ又、軍兵を出したらんには、北条当敵なれば、返し合せて合戦あるべし。其の時一旦勝ちたりとも、荒手の甲州勢へ替り、味方の労れたるに乗じて、勇戦の働疑なし。然る時は、一生の大望も、無にならん事を慮り給ふなり。又信玄は、北条父子に頼まれ、拠なく加勢とし、出馬せられしかば戦を好まず。年来信玄は、謙信方より仕懸けての合戦の時も、防戦のオープンアクセス NDLJP:88備全うして、進み戦ふ事を好まず。謙信と数度出合ありといへども、いつも対陣のみなり。況んや此の度は、加勢の事なれば対陣し、北条と謙信との勢力を見て、頓て引退かれける。唯頼まれたる義理一通の出陣なり。扨北条家は、謙信籠城の近辺を焼払ひ、既に城門際迄押込みたるは、八年以前庚申の年、氏康の居城小田原の蓮池まで、謙信に押込まれたる返報なりといひて、再び押寄せ勝負を決せんともせず、退散して大合戦はなかりけり。

 
謙信、北条氏康と和睦内談の事養子方便の事
 
永禄十一年戊辰、謙信卅九歳の春、熟〻思ひ給ふは、数国を平治せしめん事、先づ北条氏康と和議を調へずんば、佐渡・庄内、或は加賀・越中能登などへ、発向の儀心許なし。左ありとても、此方より手を入れなば、降参同意にて無念の至なりと、老臣等に密談ありければ、近臣・寵臣承つて、謹んで申しけるは、仰せ御尤に候。内々臣等も存候は、村上殿・上杉殿の両家に頼まれ給ひて、手前の事を差置かれ、剛敵の信玄・大敵の氏康と取合ひ給ふ。君既に当年卅九歳にならせ給ふ間、今よりは北条・武田と和睦の儀、御一段の御才慮と存候。上杉北条和睦の内談其に就き北条は、幸なる内縁之れあり。此方の弱みなき様にはからせ見候はんと、言上しければ、謙信喜悦限なし。仍つて内縁の者に、宜しく相談じ、賄賂して頼みける。其の後、北条氏康の七男、三郎殿の母儀松の局方へいはせけるは、北条殿の御家督は、氏政公総領にて御座せば、継がせ候ふべし。然れば三郎殿は、舎兄氏政公の幕下とならせ、家臣とひとしく、氏政公の下知に従ひ給ふべし。其に就いて、実に目出度事の候は、越後の国主謙信公、当年卅九にならせ給ひしが、御家督を継がせ給ふ御子息なし。依是三郎殿を御養子に望み給ふといふとも、近年まで武威を争ひ給ふなれば、今更に和議の便、之れなしとあつて、君臣共に歎き給ふのみ、何卒此方より御平和の儀は、なりがたき事にて候やらんと、四方山の咄まじりに語りける。松の局つく聞きて、其の方の申さるゝ通り、三郎殿の為めには、立身といふものなり。且つ又、君の御為めにも、悪しき事にて侍らねば、何卒御機嫌を伺ひ申上ぐべし。それまでは必ず、隠密に致されよと、種々のオープンアクセス NDLJP:89饗応どもして帰されける。内縁の女房、嬉しくて急ぎ立帰り、右の件々委細に言上しければ、謙信大に喜び給ひ、褒美として金子並呉服等給はり、重ねて他言無用と堅く申付けられける。斯くて松の局は、氏康の前に出で、謙信和睦あらば、則ち三郎殿を養子に望まれ候旨、具に告聞かせける。氏康手を拍つて曰、時節到来せり。我れ亦謙信と和睦の望あり。其の故は武田信玄は、織田信長嫡子城之介が内室に、信玄の息女七歳になりしを所望して、緑結已に相調ひ、織田・武田縁者の因深く、別けて入魂致すの由を聞けり。然れば当家の儀、行末覚束なき所あり。依是謙信と和睦せんと欲すといへども、謙信の胸奥計りがたく延引に及べり。此の上は、近日和平の取結を催すべしとあつて、嫡子氏政を始め、老臣等を召して内談ありしに、何れも承り、是れ御当家長穏の基なりと、賀し申しける。
 
越後軍記巻之十
 
 
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越後軍記 巻之十一
 
 
謙信・氏康和睦相調ふ事前氏康の七男三郎越後に来る事
 
上杉北条和議調ふ同年六月、氏康、謙信と和議相調ひ、氏康の七男三郎と申すを、人質の為に越後に越さるべしとありければ、謙信聞き給ひ、御心底感悦致候。それまでもなし。則ち某、養子仕るべしとあつて、申請け、北条三郎十七歳にて、謙信の養子となりて、越後に来らる。家士遠山左衛門尉・山中民部大輔両人輔佐の臣として、其の外諸士従僕等百人ばかり相供して、越州に入来す。謙信喜んで迎へ取り、則ち謙信の幼年の実名を譲りて景虎と号す。後政虎と改む。斯くの如く、両家急に無事相調ふる事は、北条氏康駿河国を押領すべき下心ある故なり。如何となれば、駿府へ取懸けられば信玄オープンアクセス NDLJP:90妨げられん事必せり。其の時、謙信を頼んで、おさへさせんとの儀、又謙信は上方上洛の大望叶はざればなり。依是其後武田信玄とも和平せしめんと、甲府の長遠寺を招き寄せ、謙信対謁あつて、種々の饗応数献の上、謙信いはく、貴僧の国主信玄公と数年合戦に及ぶといへども、我身に対し更に遺恨なし。村上義清に頼まれ、武士の道遁れがたく、対陣に及んでは互に武威を振へり。向後は交を結び、無事たらんと欲す。此の旨、宜しく国主へ達せられなば、本懐の至、他事なしと、時に長遠寺委細承り届け候。立帰り御演説の通り、慇に相達し候はんと、甲府に帰り、国主の前に出で、謙信の口上始終の次第、具に披露せられける。信玄つく聞きて、其の返事を申渡されける。謙信若気の故か、分別今まで遅はれり。去ながら、此の上とても、少き事を気にかけられ、無事破れなば、世上の笑草となりて、如何に候間、和睦致してよりは、信玄は違ふ事候はず。謙信公よく分別を究められ、信玄は年もよりたると思はれ、人質など差越し、二心なく入魂せらるゝに付ては、信玄も、亦疎意あるまじとの口上にて、長遠寺に差添へ、信州岩村田の法興和尚とて、禅宗洞家の智識と、両僧を以つて返事なり。謙信之を聞き給ひ、無興なる体にて、信玄は無事調はざる以前よりも、謙信を幕下の者同前に申さるゝ事に、口惜しき次第なりといつて、和議の挨拶きれ果て、僧達は不首尾にて、すごと帰られけり。

評に曰、武田・北条と無事なければ、謙信上方の望み叶はざるに依つて、信玄と和議を望み給ふ。信玄其の奥意を察して、無事調はざるやうに、返事之れあり、是れ又信玄の下心ありてなり。其の故は、信玄も一両年の内に、上洛あるべしとの望にて、兼ねてより諸方の要害・砦を丈夫に普請あり。密々に上方発向の備定め、内試ないならしありしとかや。故に織田信長と信玄水魚の因なりと、諸人の取沙汰に及ぶ程にありけれども、内心より出でたる入魂なきに依り、終には申の極月和睦破れて、其の後は、合戦数度に及び、信玄逝去後、武田家亡びたり。信長も実の慇にては更になし、公方義昭公を供奉し都へ上り、其の威を借つて、後には義昭公を追倒し、京五畿内を手に入れ、終には天下の主将たらんと欲すといへども、信玄に妨げられん事を思惟して、予めより信玄を重んじ礼を厚くし、其の上、重縁を結び、是に事寄オープンアクセス NDLJP:91せ、夥しき音物際限もなく送りつゝ、他念なくこそ見えにけれ。就中永禄十三午三月、信玄、駿州田中に逗留の間に、佐々権左衛門といふ士を使者として、唐のかしら二十毛氈三百枚・猩々皮の笠、是は四年以前、公方義昭公を都へ御供申し、征夷将軍に備へ奉りたる目出たき吉縁のよき笠にて候間、送り進じ候なりと披露す。信玄口上の趣を聞きて、信長の使者罷居る所にて、土屋平八郎といふ士に、件の笠をとらせて曰、信長の武辺にあやかれとなり。使者不首尾にて当惑せり。唐のかしらは、奥近習衆に鬮取にせよと、言付けられける。信長、斯様の有様を聞きても、気の付かざる体にて、威勢の付く迄、暫く時を待たれけり。謙信、氏康との和睦も、互に奥意ありてなり。其の節の武将達、何れも下心ありて、当分の因にて、皆偽りなりければ、頓て敵味方となりて、闘諍止む時なかりけり。氏康の七男三郎、謙信養子の前、今川氏真の取扱にて、武田義信の養弟となり。其の時は、武田三郎といへり。駿河へも一年人質に行かれしとかや。其の頃の養子、又は縁結も、内意は人質の為めなり。実儀はなかりけり。此の養子の事、或説に曰、永禄十三年午三月、謙信持の富田大中寺に於て、北条氏康一家謙信へ礼を致さる。兼ねての約束の通り、七番目十七歳の三郎といふを、人質として渡されしに謙信の曰、争でか氏康の御子息を、人質とは憚りなれば、養子に申請け、我れ死後には、跡を二つに分け、喜平次と三郎へ譲り申すべしとあつて、謙信の若名景虎となづけられける。此の人大方ならざる美男にて、時世の人、歌に作りて歌うたるなり。謙信悦べりとかや。

斯くて能州の住畠山修理大夫義則の末子、八歳の時、越後に来れり。謙信も亦養子とす。謙信姉婿の子にて甥なり。童名喜平次と号す。長じて後、上杉弾正大弼藤原朝臣景勝と称す。百万石の大守会津中納言といふは是なり。

 
北条氏康・氏政より加勢を越後に頼まるゝ事謙信出馬なき事
 
永禄十二年己巳七月中旬に、小田原より両使到来して、氏康・氏政父子の口上を宣べオープンアクセス NDLJP:92て曰、武田信玄既に和平を破つて、小田原表へ働き入るの由、専ら沙汰せり。依是忍の者を差遣し、様子を伺はしむる所に、決然たるに依つて、去る四月中旬に、武田持の深沢へ、氏政三万八千の士卒を以て、城の近辺迄押込み、田畠を蹈荒し、所々放火して武田と手切す。此の故に信玄怒つて、近日出馬すといへり。然る間、公発向し給ひて、厩橋の城に屯あるべきか、然らずんば、信州表へ出陣あつて、信玄が出軍を妨げ給はんや。北条氏康加勢を謙信に求む両様何れにても頼み存ずる段、謹んで申上げけり。謙信、両使に対謁して宣ふは、未だ北条・武田の鋒先勝劣如何か知らざる所なり。一戦の勝負を見ずんば、加勢すべからず。仮令加勢すといふとも、公の指揮に従はゞ、信玄が思ふ所も無念なりといへり。其の砌、北条家の武威、関東に振へる故、此の如く返答せられける。
 
北条氏康・氏政再び加勢を頼まるゝ事謙信出馬の事
 
永禄十三年六月中旬に、氏康・氏政より、使者両人来つて言上して日、武田信玄当年は、上州箕輪へ大軍にて出張あるの由、間者告知せり。衆口同音に言触す如くなり。北条再び加勢を上杉に乞ふ然る間、今度は是非に於て、御加勢頼入るの由を演ぶ。依是謙信固辞する事能はずして、謙信、沼田へ出馬にて、又長沼へ陣替し給ふ。信玄は河中島へ出陣にて、五月末より六月の上旬まで在陣なり。謙信も亦厩橋へ出陣なり。依是信玄、上野の箕輪へ出馬せらる。謙信は東上野の勢を相添へ二万余人、北条氏政三万八千、合せて六万に及びける大軍なり。北条の先陣松山へ押出す。時に信玄の勢二万五千にて打つて出でらる。謙信の先手厩橋より打つて出で、足軽迫合あり。既に対陣に及び合戦始まるべき所に、謙信謂へらく、氏政公と某両旗を以て、信玄に勝ちて手柄にあらず、負けては末代までの恥辱なりとて、早々帰国し給ふ故、氏政も引取りけり。謙信、武田・北条の色を見積り、宜き作意を以て、北条の前を繕ひ、両将引入り給へば、大合戦はなかりけり。此の時、氏康は病中にて出馬なく、氏政計り武蔵の秩父迄出馬にて、先手の軍兵松山へ押懸りしが、前の如くの首尾にて引退きけり。斯くて今年十一月、改元あつて元亀元年になる。

オープンアクセス NDLJP:93伝に曰、永禄十三年八月、信玄、伊豆の韮山へ出陣あり。在々所々へ乱入り放火せらる。仍つて、北修家の諸将打つて出で、先手は三島の上迄つゞき、箱根に陣を備へ、三島より上の山は、陣所ならずといふ事なし。此の時も、氏康病中にて出馬なく、子息氏政三万八千の人数を以て、山中に陣を居ゑ、様子見合せられけり。信玄は総軍兵を韮山筋へ出し、苅田働させ、其身は旗本ばかりにて、小田原の軍勢押の為め、三島に陣を取り、先手小山田兵衛尉・馬場美濃二頭は、北条家の総人数を左に見、はつねを登りて、箱根の宿へ押込みけるを、北条家の先手打つて出で、合戦数刻にて互に功名し、日も西山に傾けば、難所の場所たるに依つて、早々引取りける。其の後信玄、甲府へ帰陣ありて、夫より直に九月下旬に、三万八千の勢を引率して、越後の太田切まで、出馬にて焼働し、即時に河中島へ引入られける。斯くて謙信は、同十月に厩橋へ出張し給ふ。信玄之を聞きて、河中島より直に上野の箕輪へ陣替あつて、上野原といふ所にて、謙信の先手と信玄の先手と合戦あり。一両度迫合ひける所に、北条氏康の病気重き旨聞いて、謙信早々帰国し給ふなり。

 
公方義昭公より上使の事
 
元亀二辛未年九月上旬、公方義昭公より上使として、松原道友・尼子兵庫頭、越後に下向あつて、上意の旨を演べて曰、近年織田上総介信長、己が英勇にほこりて、公命を畏れず、放逸の行跡、甚だ法に過ぎたり。前代未聞の暴逆なり。謙信にあらずして、誰か能く路厭せん。速に逆臣信長を追討せらるゝに於ては、本懐の至是に過ぎざるものなりと、謙信即ち両使に対謁して曰、尾州織田信長を刑戮致すべきの厳旨、謹んで之を奉承す。委曲両使送達あるべきなり。此の事深く隠密なるが故に、翌日上使上洛し給ふなり。
 
北条氏康の逝去、越後へ告げ来る事謙信養子三郎景虎小田原に往く事
 
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氏政父氏康の死を謙信に告ぐ元亀元年十月三日、北条氏政より急使越後に来つて氏氏の口上を演べて曰、父氏康十月三日卒去、愁傷不過是候となり。謙信歎息し給ひて、急ぎ養子三郎景虎を小田原へ差遣さる。数日を経て帰国せり。斯くて北条氏政は、謙信と内意を通じて、武田信玄へ霜月上旬の頃より和を乞ひ、無事ならんと種々頼みける。時に信玄の家臣老若ともに申しけるは、北条家と和睦の儀は、必らず御無用にてこそ候へ。其の故は、氏政の領国大国共を御手に入れられば、御領国を合せて十箇国に及び候。小田原を押潰し候事は、あまり隙入り申すまじく候。当冬より御出陣にて候はゞ、手間を取る分にて来春までには落着致すべく覚え候。其の上にて、北条家持分の城々等御仕置、又は多賀谷・宇都宮・安房の諸将は、氏康に仕詰められ、内々より御当家へ御音信之ありければ、異儀なく御旗下に参らるべし。佐竹は唯今御不通なれども、御書の日付と名書の争にて、小事の儀なれば、北条家御退治の上は、是れ亦別儀あるまじく候。若し又、楯をつかるゝといふとも、三年の内には御従へあるべく候。さりながら佐竹事は、以後の儀と思召され、小田原近辺へ御働き、北条家の領分御仕置の儀、来未の三月頃には、大方隙を明けられ候べし。然る上は、越後の謙信とても、手を差し申さるまじく候間、氏政と和議の段御止まり、手切の御返答あつて、急に小田原へ勢を向けられ、只管北条退治の御軍慮候へかしと、一同に諫め申しける。信玄一一聞きて曰、各が異見尤も至極せり。然りと雖も、三年以前辰の年、板坂法印我が脈を診て、大事の煩ひ出づべしといへり。誠に申せし如く、次第に気力衰へ、心地よき事稀なり。斯様に之れあらば、信玄が在世も十年はあるまじく覚ゆるなり。然れば人は一代名は末代なり。勿論北条家を押潰すこと手間どるまじ。其の仔細は、去年小田原へ押詰め、近辺を焼払ひ、其の外みませ合戦に打勝ち、数箇所の城を攻取りしに、氏康存生の時だにも防ぐ事能はず。況や今死去なれば、何の苦労もあるまじ。然りといへども、仕置等に来年中はかゝるべし。其の外に又、人数あてがひ、万事の吟味それに見繕ひなどする間に、気色悪くなりては、何の望も叶ふべからず。未だ健かなる内に、遠州・参河・美濃・尾張へ発向して、存命の間に、天下の主将となつて、都に旗を立て、仏法・王法・神道を専らにし、且つ諸侍の作法を定め、政務を正しオープンアクセス NDLJP:95くして、万民を撫育せんと欲するの願望なり。然る時に、小田原に押の人数を置かず。却つて氏政より人質を取り、少々人数を出ださせて、甲州勢の三万余を率し、都を心がけ打つて出でば、定めて参州勢支へ止めんとすべし。其の時、無二無三に打つてかゝり、押崩し追失ひなば、都までの間に我に手ざす者一人もあるまじ。其仔細は、織田信長先年江州箕作の城を攻落せし故に、公方義昭公を都へ供奉し、再び征夷大将軍と称す。彼の箕作の合戦に、信長勝利を得たるは、自力にて更になし。参州大守の家臣松平伊豆守といふ勇将、抜群の働を以つて攻落すといへり。又金ヶ崎より北近江浅井備前守に気遣し、退口みだりに岐阜へ、味方を捨てゝ帰りたる時、参河太守若狭国へ働き、胴勢の信長に捨てられしに、参河勢五千の人数を以て、ちつともあぶなげなく引取りける時、参州の旗本に、内藤四郎左衛門といふ士、三手の矢を以て、後を慕ひ来る若狭のよき武者を、六人射殺したりと聞く。又去る六月廿八日に、江州姉川に於て、合戦の時、浅井備前守が三千の軍勢に、信長三万五千の士卒切立てられ、十五町程逃げたるに、参河勢五千にて、浅井備前が胴勢一万五千の越前朝倉義景を切崩せしに依つて、備前が勢も崩れたり。然れば信長、勝利を得たるは、参州勢働の強き故なり。左なくしては、信長の軍勢立直す事なりがたくして、姉川合戦は織田家の負なるべしと、美濃・近江の侍共書付を以つて告知らせり。且つ又信長、我と縁者になり、我を馳走致す事も、皆以つて偽なり。我と無事をつくり、年中には定つて七度の使を越し、其の外に三度・四度・十度にあまりて、過分の音信し、他事なき入魂の体は、信濃より出で、美濃・尾張を取らるまじき為ぞかし。我には老功の敵、或は東国育ちの強敵と戦はせ、其の手間の入る内に、我が身は、上方の柔弱なる諸将を追討し、五畿内を手に入れ、信玄が歳のよるを待つ内にも、参河・遠州、信玄が国にならぬやうにと思慮して、関東筋一番の武道強き参州の大守に入魂し、常に信玄を倒す旨の内談致し、何時にても加勢せしめんと諫め勧むといふ儀を、信長へ降参の士共より、神文を以つて、申越し候間、是非に於て信長と、一両年の内に、手切をせんとあつて、信玄氏政と和平小宰相を小田原へ差遣し、氏政と和議せらる。北条家の悦大方ならず。明る五月、弥〻上方発向の軍粧頻にて、上下勇みあへり。氏政之を聞きて、舎オープンアクセス NDLJP:96弟北条助五郎・同助四郎両人を、甲州郡内まで差越し、和睦の礼謝を相演べ、次に上方御出馬の砌は御供仕り、一方の御役承り候はんとぞ申されける。斯くて此の催を越後の間者早々告知らせけり。謙信聞きて、我れ他年の願望を空しくし、信玄に先を越されては、生きたる甲斐更になし。人力の及ばざるをば、仏神に祈る事、古今其のしるしありとて、常に信仰し給ひし毘沙門堂へ参籠あり。一七日断食し給ひ、祈願に曰、我れ一生の間に都へ上り、五幾内を治め、天下に旗を立てんと欲する所に、甲斐の信玄、我に先立つて、上方発向の催頻なりと聞ゆ。仰願はくは、信玄が上洛叶はざる様にとのみ他事なし。此の祈願相叶はずば、謙信が命を縮め給へと、肝胆をくだき、丹誠に祈り給へば、不思議や七日満ずる暁天に、真前の庭樹折るゝ音しけり。謙信聞きて怪しく思ひ、立出でゝ見給へば、樒の木風も吹かざるに、甲州の方へ指したる枝折れて、其枝の葉は皆落ちてあり。謙信之を見て、祈願成就なりと、益々歓喜し、敬んで拝謝し、下向の節彼の檣の木の下へ立寄り、徘徊し給ふ所に、又樒の葉三枚零ちて、謙信の肩に止まりける。時に謙信心中に謂へらく是れ不吉のつげなり。且つ某が上洛も達せざるなりと、悟り給へば、甚だ愁ふる色あつて、帰城し給ふ。近習の諸士、其の意を知らざれば、かく大儀の行法、何の障碍もなく、満散の所に、斯く不快の御有様、心許なき事なりと咡きあへり。

 
越後軍記巻之十一
 
 
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越後軍記 巻之十二
 
 
参州岡崎城主より使者到来の事
 
元亀三年壬申閏正月廿八日、参州岡崎の城主より、両使を以て、以来入魂致すべきの旨、誓紙を持参し、頼み入るの口上、慇懃に演ぶ。進物に太刀一腰・馬代として黄金十枚・唐の頭二頭なり。謙信対謁して曰、来示の如く、疎意に存ずまじく候。自今以後は、互に固く親昵の因をなすべき儀、帰りて申さるべしと、返礼並につきげの馬一疋送られける。謙信、家臣に謂へらく、程遠き謙信を頼むとある事、我が武威の強き故なりと、大に悦び給ひけり。
 
謙信信州へ出陣の事
 
同年四月廿八日、謙信、信州河中島へ馬を出し給ふといぶとも、在々を此度は、焼き給はざりき。時に伊奈の四郎勝頼、之を聞きて、夜を日に継いで馳せつき、謙信一万余の人数に、千人に足らざる人数にて備を立て、対陣に及びし所に、謙信之を見て、無類の若者かなと、其志をやさしといつて、早々引きて帰城なり。同年十月に信玄、越後の明光山といふ所まで、出陣なりといふとも、謙信構はずして、出馬なかりしかば、信玄父子も引去りける。

伝に曰、四郎勝頼と見て、やさしの若者と誉めて、引退き給ひしは、軍の習。万一少しにても、おくれをとりなば、若輩の勝頼といひ、我よりも少人数なれば、謙信今迄の高名、虚しくなるのみかは。以来の軍、仕悪くきものなるを、思慮し給ひて、子共連を相手にしては、大人気なしといふ心を含ませ、誉めて引取り給ひしは、厚き軍智なりとかや。之を詞の采配といふなり。一説に、勝頼大軍なりし故、若し軍勝利なく、負色になり引去らば、大に恥辱なりと、軍慮をめぐらし、弁舌を以て、詞の采配をつかひ、合戦し給はず。其後、信玄越後の太田切明光山まで、押来りし時、オープンアクセス NDLJP:98謙信出陣し給はざりしは、十月の事なる故に、次第に雪深くなるに依つてなり。若し敵勝に乗つて、奥深く入りなば、雪に会うて、進退途を失はん事を慮りて防戦し給はざりけり。信玄も流石の明将なれば、寒国より出でがたき事を、察しての働きならん。

 
武田信玄病死の旨越後へ告ぐる事
 
天正元年癸酉四月の下旬に、越後の間者、甲府より急ぎ帰つて、言上して曰、信玄病死当四月十二日信玄病死せらる。然れども、深く隠密なるに依つて、甲府の上下共に、静謐に候なり。其の節、謙信朝飯を食し居給ひしが、之を聞きて、箸を抛つて落涙し、暫く愁歎の色ありといへり。其後、諸臣を召して、今年は他国への出陣を止め、軍卒の身労休めしむべしと、各承はつて退出せり。同年柿崎和泉守誅せらる。人其の罪を知る事なし。

伝に曰、信玄の先祖は、新羅三郎義光甲州に住せしより、累世当国に居住す。義光の曽孫太郎信義、始めて武田と称号す。是より世々、甲斐源氏といへり。信義の子孫分流して、諸国に住すといへども、嫡流は本国甲斐に住せり。其の後裔武田大膳大夫信虎の嫡子、武田大膳大夫晴信、法名信玄徳栄軒法性院と称す。十六歳の初陣に、平賀源心を討取りしより、一生の戦功、智謀、天下に隠なく、千英万雄のみかは、弘才にして歌道にも長じ、秀逸の詠数多あり。誠に文武兼備の良将なりしに、信玄の遺言命期来つて天正元癸酉四月十二日に、病気重りければ、一家の衆中、並に譜代の侍大将衆、其の外、要害を持ちたる諸士、悉く召寄せられ、死後の軍法、様々の掟共遺言あり。命終らば具足を着せ、諏訪の海に沈め、今より三年目、亥の四月十二日に弔の儀式執行ふべし。それ迄は病気と披露し、深く隠密すべし。此儀を思ふに依つて、五年以前より、此煩大事と思ひ、白紙八百枚余に判をすゑ置きたりと、厚長櫃より出させ各へ渡し、諸方より書札到来せば、返書此の紙に書くべし。信玄煩なれども、未だ存生と聞きたらば、他国より当家の持分へ、手を懸くる者あるまじ。其の国取るべしとは思寄らず。自国を信玄に取られぬ様に、用心致すばかオープンアクセス NDLJP:99りならん。我れ死したるを隠して、三年の間に国家を鎮め候へ。跡の儀は、四郎が子信勝十六歳の時、家督に究むるなり。其間は、陣代を四郎勝頼務むべし。但し当家の旗は持たすべからず。我が孫子の旗・将軍地蔵の旅・八幡大菩薩の拠旗こはた、何れも出す事一切無用なり。太郎信勝家督の上、初陣の時より、孫子の旗ばかり残し、何れも家の旗を出すべきなり。勝頼はいつもの如く、大文字の拠旗にて出づべし。勝頼が指物法華経の母衣をば、典厩に譲るべし。諏訪法性の甲は、勝頼着して後、信勝に譲り候へ。典厩・穴山両人を頼入り候間、四郎を屋形の如く敬ひて呉れられよ。勝頼が子信勝、当年七歳にて幼少たりといへども、信玄が如くに思はれ、成長致候やうに頼むなり。次に勝頼軍配の取様は、謙信と和議を調へ、其上にて頼むとだにいはゞ、引く武士にて之れなし。殊更四郎若き者なれば、猛き謙信なる故に、大人気なく思ひて、敵対はすまじきぞ。却つて此方の扶となるべし。必ず勝頼は、謙信を執して頼むと申すべし。左様に致して、少しも苦しからざる謙信なり。其外今の武士共は、皆表裡を専らとして、弱きを捨て、強きに従ふなり。我れ死したりと聞かば、氏政も定めて、人質を捨てぶり致すべし。各其の心得仕り候へ。当代に武士道を立つる大将は、謙信一人なり。是と一味せば、北条・織田・参州勢、三将一度に襲ひ来るとも、此方勝利疑ひなし。勝頼、他国へ出で、卒爾の働き致すべからず。万づ思案・工夫・遠慮、信玄が十双倍気遣致すべし。斯く慎む上に、敵其方を侮づり、無理なる働を仕るとも、暫く堪忍し、甲斐の国までも入立てゝ後合戦を遂ぐると存ぜば、大きなる勝になるべく候間、三年の間、深く慎みた候へといひて。行年五十三にして、朝の露と消えられけるとかや。

 
越後より武田勝頼へ使者の事
 
天正二年甲戌正月下旬に謙信両使を以て、武田四郎勝頼へ言遣されしは、我れ信玄と十五六箇年、屢対陣に及び、雌雄を争ふといへども、終に勝負を決せざる所に、去冬逝去なりとも、又は大病なりとも聞けり。惜むべきかな英雄の将、今より勇武を争ふ者なし。故に甲冑を脱ぎ、弓矢を裹み、以て軍事を絶たんと欲すといふとも、近オープンアクセス NDLJP:100来尾州織田信長、暴悪にして武強に傲り、公方義昭公を蔑にして、畿内に武威を振ひ、洛外を襲ふの由、制せずんばあるべからず。来陽は我れ越前表より、速に討つて上り候はん間、貴所又、東海道より押上られ、尾州に至つて、両旗を合せ、平信長を退治せんと云々。一説に甲州の住、長遠寺といふ一向宗の僧を招き寄せ謙信謂へらく、来春に至らば、遠州・参州・美濃へ勝頼公出馬候べし。謙信は越前を経て尾州に至り、両旗を以つて、信長を裏表より、攻滅し申すべしとなり。彼の僧、委細承つて立帰り、勝頼へ言上す。勝頼聞いて曰、近き頃まで、当家の大敵なる謙信と申合せ、信長を攻めん事、当家の鋒先衰へたるに似たり。且つ又、隣国の諸将、我を侮り笑はんのみといつて、返答にも及ばざりけり。謙信の任俠是に依つて、謙信立腹して曰、我れ何ぞ勝頼が武威を借りて、上洛せんと欲せんや。信玄死後なるに、信長を敵にうけ、便なく思はんと哀憐の心を以つて、いひ送りしなり。謙信、他の武将の如き者ならば、年来武威を争ふ信玄死したりと聞かば、是れ幸と悦んで、即時に押懸け、蹈潰すべけれども、我は然らず。却つて労りて、武田が領地へ出馬する事なし。然るに其の志情を感せざるは、人を知らざる勝頼闇将なり。後必ず、織田信長が為に、国家を亡されんと宣ひしが、勝頼滅亡果して天正十年三月十一日、信長の為に、勝頼卅七歳、法曹司十六歳にて討死なり。相供の軍には、小山田式部丞・米山内膳正・安部加賀守・温井常陸守・小原丹後守・土屋右衛門尉・安西平左衛門尉等四十三人、一同に切腹して、名を後世に留めり。

伝に曰、謙信、勝頼に上洛を勧められしは、奥意ありての事なり。本文の趣は、謙信詞に出し給へる一通なり。心胸の一通は謀計なり。勝頼、謙信の差図に任せ、東海道を上洛あらば、辺州・参州の間にて、参州勢支へ留めんとして、合戦あるべし。然らば加勢として、織田信長必ず出馬たらん。其の間に謙信、北国路より上洛し、洛外五畿内の弱将等を追討し、参内を遂げて、公方義昭公の先手として、信長を追伐せんとの儀なり。然りといへども、勝頼承引なかりしかば、此望も達せざりき。勝頼、謙信の心意を慮つて、承引せざるには非ず。若き血気の勇に任せ、父信玄の遺言をも打捨て、謙信と一味せざる故、早く亡べり。惜いかな。時節とオープンアクセス NDLJP:101はいひながら、武田信玄まで廿七代の居住、甲府の屋形、勝頼の代に至つて、永く滅却せり。

 
能登国の武士等逆心の事国主畠山義則討死の事
 
同年能州の守護、畠山修理大夫源朝臣義則の幕下の諸将、神保安芸守・長九郎左衛門尉・温井備前守・三宅備後守・平式部丞以下、逆心を企て、己々が城郭に楯籠りければ、在々の野武士等馳集つて、義則急難の旨、飛脚を以て、越後へ援兵を乞はれける。此義則は、謙信の姉婿なれば其子喜平次景勝は、謙信の甥なるに依つて、越後に来り居れり。謙信即ち喜平次を大将として、軍兵一千余騎を相添へ、兵船百余艘に取乗せて、能州指して急ぎける所に、俄に大風吹き落ちて、波浪山の崩るゝが如く、水主・揖取胆を消し、周章てふためくと雖も、猶風しづまらざれば、漸々巌間に碇を懸けて、暫く波難を凌ぎける。時移りければ、海上ちと穏かになりにけり。さらば船を出せとて、爰を先途と急ぎけれども、着岸三日以前に、義則軍敗れて、逆走の為に終に討たれけり。加勢の大将喜平次景勝、獅子奮迅の怒をなし、直に城下に押詰め、実父の敵なれば一人も漏すなと、自ら鑓を提げ、突けども切れども事ともせず、無二無三に攻寄せ、逆徒等悉く討平げしかば、能州上杉の領国となる能州自ら謙信の領国となり、即ち上杉喜平次景勝をして、当国を守らしむ。
 
出軍の評議謙信出馬なき事
 
天正三年乙亥、謙信四十六歳正月五日、群臣と相共に、当春の軍事評議し給ふ所に、老臣みな曰、信玄逝去の以後、勝頼所々の合戦に勝利を得られしに依つて、其武勇を恐れ、甲府持の城へは、手を懸けざるなど、諸将の批判せん所もあれば、先づ武田四郎勝頼が領分信濃国を平治し給ひて、夫より飛騨・越中の内、武田が幕下に属する郡県の諸士を、討従へ給ふべしと諫めける。謙信聞きて、まうす所尤なり。然りといへども、勝頼最前は軍に利ありしが、去年より織田信長、参州勢に対陣して、今年は是非に、勝負の一戦を遂ぐべきの由を聞けり。然れば我れ、今彼が領地へ出勢せば、弱きオープンアクセス NDLJP:102時を窺ひて、働くに似て、大人気なしと宣ひて、暫く出陣を止められける。
 
越後より飛騨国を攻取る事越中表出馬の事
 
天正四丙子年、飛騨半国程の将、ひらゆ越前守〈一説に、白屋越前といふ〉嫡子監物は、謙信の幕下たりしが、越後へ使者を以て、告げて曰、同国江馬常陸守・同息右馬允は、甲州武田の旗下にて、輒もすれば、国中を乱さんとするの間、御退治あるべく候か。然らば御先手として、某馳向ひ追討せしむべし。御勢を給はり候へと乞ふ。謙信聞きて宣はく、信玄死後、武田の分国を討取らんと欲せば、仮令甲州たりとも、豈是れ難からんや。然れども我敢て、出馬せざる意旨は、若輩なる勝頼を、侮るに似たる事を、恥づればなり。殊更長篠の合戦に打負け、武威の衰へたるを見て、信玄の時はならねども、打果したるなど、世上の沙汰に乗りては、今迄の武勇皆無になり、合戦に勝ちたる甲斐なければ、信濃・上野へは構ふまじ。飛騨・越中の儀は、勝頼唯今の形勢にては、捨つるにて是あらん。次第に遠州口へ出づる事もなりがたからん。遠州・参州・濃州の城共、大方信長参河の大守に攻取りたりと聞えり。斯くては飛騨・越中も、終には信長に服従すべし。然れば今、此方へ取候はんとて、即ち柴田・色部両人に命じて、三千余人の大将たらしめ、越前守に加勢として差遣し、江馬常陸を討取り、謙信、飛騨を征服飛州を平治して、今度の忠功に、越前守をして守護たらしむ。同年謙信、越中表に出馬し給ひ、椎名等を退治して、川田豊前守に命じて、国の政を正さしめ、之を守らしむ。夫より直に加賀国に、陣を移して、一揆の張本少々討取り、乱入焼働して帰国し給へり。
 
賀州長野落城の事信長の後詰退散の事
 
天正五丁丑年三月下旬に、謙信、加賀国松任表に発向して、長野が城郭を七重八畳に取巻いて、弓・鉄炮を以て、絶間もなく攻詰めければ、城兵防ぎかねて見えけるを、謙信下知して、此の時猶予する事なかれ。皆一同に乗れと、宣へば、早雄の若武者共、我れ先にと進み、討たれし者を足伝にし、曳々声を出し、逆茂木引崩し、塀下に着きにける。城中爰を破られじと、防ぎしかども、寄手は大勢を、入替へ攻めければ、オープンアクセス NDLJP:103甲の丸にぞつぼみける。時に織田信長、四万八千の軍兵を引率して、後詰の為に出陣せらる。謙信の斥候帰つて、之を告げける故、其夜総攻にし給ひければ、信長未だ着陣せざる前に落城す。長野城陥る長野を始め従兵の首級を、城外に獄門に梟け給ひけり。翌日信長後詰の先陣来着し、落城の有様を見て、一戦に及ばず引退かんとす。越後勢、後を慕ひ支へ止めんと欲し、一里先の林の陰に、伏兵を三所に置き、相待つ所に、後詰の軍兵、其夜に引退きけるを、追蒐け討ちとめんと、鬨を作りかけ、慕ひ行きける所に、件の伏兵、三方より起つて、遮り止めんとす。後詰の軍兵、驚いて敗北す、越後勢思の儘に、敵を欺いて数多討取りけり。謙信の武威、朝日の如く輝き、近年益〻盛なり。同年九月中旬、謙信、使者を織田信長へ遣して、来年三月中旬、越後を打立ち、越前表に於て、一戦の勝負を以て、其の雌雄を決せんと云々。信長返答に曰、此の方聊も相敵する事を欲せず、唯降和の意なるのみと、無事をつくろへり。

伝に曰、甲府の高坂弾正、このごろの形勢を見て、当家斯の次第に衰へては、滅亡遠からずと工夫して、勝頼に諫言せしは、上杉謙信へ降和を乞ひ、偏に頼入るの旨、宣ひなば、謙信否とは申さるまじ。則ち信玄公の御遺言といひ、旁以て御尤かと存候。然るべき人に命ぜられ、是非共に謙信の旗下として、降礼を勤め給へかし。是れ家治まるべきの方便なり。其いはれは、只今の謙信、武威高大にして、信玄公御在世の時と等しく、謙信向ひ給ふ先々、疫病はやり、士卒等大半物の役に立たず。只生きたる摩利支天かと存ぜられ候。是に依つて信長も、信玄公御他界の年より、謙信を執して、一年に七度づゝ礼儀を正し、当家へ致されたる如く、夥しき贈物にて、使者を遣し、其の上、信長の家士佐々権左衛門を、越後に詰めさせ、謙信の機嫌を伺はしめ、敬ひ申さるゝと聞え候。然れば御家長久の術、是に過ぎたる事あらじと、譬を引き理を尽して演説しけれども、運の竭きたる験にや、勝頼承引なかりけり。

 
京都出勢の陣触珍怪の事
 
同年十月中旬、謙信、老臣・寵臣・物頭・諸奉行を召して、来年越前表へ、発向の軍評定あオープンアクセス NDLJP:104つて、陣法・軍令決定あり。幕下の諸将の国々、佐渡・飛駅・越中・加賀・能登・羽州庄内・上州東郡・在国の越後、以下八箇国の諸将等、残らず来年三月に、一左右次第出勢仕るべき旨、触れ知らしめ、我れ越前路より押登り、信長を追却して上洛せしめ、天下に旗を立てんと欲すと、軍装頻なりき。斯くて明年正月に至つて、謙信の姉君善道院殿に、奇異の珍怪ありけり。其の長、纔に四五寸に足らざる程の人形、小き馬に打乗つて、毎夜炉中より出現して、彼方此方と徘徊す。人近寄つて、之を見んとすれば、忽ち失せ去りぬ。又春日山毘沙門堂の辺に、頭髪逆に生ひたる人、髪を以て顔を掩ひ、夜な夜な出でゝ、人を追脳す。是に行逢ふ者、胆を消し気を失ふ者多し。是れ柿崎和泉守が亡魂なりといへり。
 
謙信病死の事
 
天正六戊寅年三月九日、謙信厠に往いて、俄に腹痛起り、日を追つて病重りければ、兄弟の養子及び、一家門葉・諸老臣・近臣はいふに及ばず。城中・城外の諸士寄集つて、湯薬・鍼石・灸治の医療を、尽すといふとも、耆婆・扁鵠が医術の伝も徒らに、諸寺・諸社の祈願空しく、殊に謙信は、真言宗に帰依し給ひて、常に密法を修し、肉食・女色を断じ、行法疎ならざりし人なれば、祈願寺の高僧・貴僧、大法を修し、昼夜怠らず、護摩の煙は堂外に横はり、肝胆を摧き、丹誠に祈り給ひけれども、験は更になかりけり。其の上謙信、若年より信心ありし毘沙門の守本尊へ、備へ奉りし供物の内、洗米黒色に変じければ、僧俗共に、是れ不吉の奇瑞なるべしと、力を落しける所に、謙信病死果して同十三日に身心悩乱して、元気次第に衰へ、天運の極所四十九歳の春秋を一期として、遂に薨逝し給ふ。人間の一生は、実に風前の孤灯、栄耀も亦草頭の露消えやすき世の習、惜むべし歎くべし。存生にては如何なる剛強の敵も、挫ぐに難しとせざりしかども、無常の殺鬼は遁るゝに拠なし。末世類なき賢将なれば、一度天下国家の政道たらんとのみ。昼夜其志を砕き、朝昏其思を費し給ふ。是れ乃武将たる者の亀鑑なり。其仁恵は、広く四海に覆ひ、其廉譲は、普く一天に渉りて、武徳を施し、万民非道の積悪を戒め、好曲邪智の族を退け、文武兼備の臣を招き、聖賢の示教を慕ひ、大量英機オープンアクセス NDLJP:105の明徳、八荒に輝き、遠近の勇士、其家風を仰ぎ、招かざるに来りし親疎の大臣・諸士、永き別離の悲み涙に沈みつゝ、泪々なく尊骸を春日山の艮に、松栢茂りたる岡の清地に納め奉り、孤墳一堆の主とぞなりにける。行年四十九。上杉輝虎〈法名〉不識院謙信と号す。辞世に曰く、

   四十九年夢中酔  一生栄耀一盃酒

謙信死去に就きての一説一説に、織田信長を追討あるべしとあつて、前年より評定なれば、大軍を引率し、既に越後を発馬し給ひしが、三月十三日の夜、旅館に於て、頓死せられけるとなり。故に遺言なかりしかば、養子兄弟、家督を論諍して合戦ありと云々。

 
謙信の養子兄弟鋒楯の事
 
養子兄弟合戦去る程に、北条家よりの養子上杉三郎景虎、後政虎と改む。越州春日山の城の二の郭に居り、又謙信の甥上杉喜平次景勝をも猶子として、同三の丸にあり。然るに景勝、謙信の卒去と等しく、本丸に𦐂かけ登り、二の郭に居られし三郎政虎を、目の下に見下し、鉄炮を打ちかけ急に攻めければ、防ぐに堪へで、大場口へ走り出で、合戦に及びしが、不意に起りし事なれば、少勢といひ、其上大半生肌にて、弓・鉄炮に射麻木すくめられ、一戦に打負け敗走す。上杉の家臣北条丹後守・荻田主馬助等、政虎を援けて、信州善光寺に楯籠るといへども、是も亦叶はず討死す。政虎終に、甲府に落往きて、武田勝頼を頼み、姉婿なれば暫く蟄居せられける。斯くて景勝は謀を運し、勝頼の近臣長坂長閑・跡部大炊介に賄賂し、謙信上洛の用意として、貯へ置かれし数万両の黄金を贈り頼まれける。素より此両人は、非道不義の者なりしかば、邪欲に耽り、密に景勝に一味し、勝頼へ内々申しけるは、上杉景勝公、御当家を御頼み候は、政虎公を失ひ給はらば、以来御一味たるべしと、神文を以て仰越され候。只今の節に、政虎公を御贔屓候はゞ、信長へ一味あつて、忽ち当家の敵となり給はん事疑なし。然らば由由しき御大事なるべし。頼まるゝこそ幸なれ。御承引候はゞ、其以後は、御入魂になり給ふべきぞ。然らば信長も、聊爾に取懸け申すまじなど諫めける。勝頼は何事も、此両人の申す事を、宜しく思はれければ、緑族の因も忘れ、其れ如何様とも、計らオープンアクセス NDLJP:106ひ候へと、政虎殺さるあるに依つて、長坂長閑・跡部大炊介両人が才覚にて、政虎を密に殺害したりけり。不便なりし有様なり。其の頃、落書に曰、

   無常やな国を寂滅する事は越後のかねの諸行なりけり

狂歌の如く、武田の家も程なく滅びけり。

 
景勝国家を治む武田勝頼妹入輿の事
 
天正七年己卯三月迄に、政虎へ志を通じ、又は去年一戦の時一味し、当家へ敵対せし士共、在々所々に、隠れ忍びて居たりしを捜出し、悉く誅戮し、其の外親族等糺明を遂げ、罪の軽きは、其品に依つて、領国を追放し給ひけり。景勝に従伏せし諸臣、及び下僕等に至るまで、戦功忠義に依つて、其の品々を糺し、感状且つ加禄を与へ、不識院謙信の制法を乱らず、中直の徳行を施し、城外の町人・領国の百姓等を慈憐し、政道正しければ、旧臣・上下共に、入道謙信公の再来し給ふかと、甚だ悦び、景勝の命を承伏して、私曲横悪を致さず、偏に水魚の思をなしにける。同八月景勝、上杉弾正少弼と称す。此の時廿五歳なり。英勇・智謀人に越えしかば、武威近国に振ひ、春日山に在城し、国境に要害を構へ、堅く守禦の備をなし、軍慮聊も由断なかりける。斯くて、甲府の弓箭ぞ次第に衰へければ、旧臣相議して、勝頼の妹姫を、上杉景勝に嫁せしめ、縁結の交之れある時は、当家行末然るべしと、決談の上、越後へ取組みける。景勝も、去年大切の無心頼まれし事なれば、異議なくして相調ひ、同九月入輿なりけり。其後大閤秀吉公の命に依つて、景勝奥州の会津に移り、百二十万石を領し、門葉繁栄せり。
 
越後軍記巻之十二大尾
 
 

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