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第六十課 告 白
365▲告白とは何でありますか
▲告白は赦を受ける爲に己が罪を司祭に云顯す事であります。
告白
は告解とも白狀とも云はれる。
[下段]
赦を受ける爲
とあれば告白は唯の物語ではない、赦して戴く目的を以て為る白狀である。
己が罪
とあれば他人の罪でなく、自分で犯した罪だけ白狀すれば足る、例へば彼が然う云ったから私は斯うしたとか云ふやうな事は無用である。其で若し三百七十二の問に云はれる通り、罪を犯すに相手のあった事を云はねばならぬ時は、其相手が誰であるか言ってはならぬ、其名を言ってはならぬ。
司祭に言顯す
は司祭のみが人の罪を赦す權があるからである。
(註)告白を聞く司祭を聽罪師と云ふ。
366◯何故告白が要りますか
△告白は、イエズス、キリストの御定に因る、即ち告白に依らなくては、司祭は罪を赦すべきや否やを知る事が出來ぬからであります。
イエズスは殊更に告白せよと仰しゃった事はないけれども三百四十六の問に云はれた通り、イエズスは弟子等に罪を赦す計りでなく、之を止める即ち赦さぬ權も與(:与)へ給ふたから、司
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祭は何を赦し何を止むべきかを見分けるに、他人の訴を待たず、本人の眞実な告白を聽く外に知る道はない、夫で
告白の要るのはイエズス、キリストの御定に因る
と云はねばならぬ。
367◯小罪をも告白せねばなりませぬか
△小罪は告白せずとも可い、然れど之を告白すれば安全で益があります。
小罪は告白せずとも可い。
小罪では天主に對する熱心を失ふのでないから瑕にならぬ。夫で告白に限らず、熱心を振はすやうにさへすれば、種々の方法を以て赦される。例へば眞に悔改め、反對の行を爲し、三百の問の註に云はれた「準秘蹟」を熱心に用ゐるは赦される道になる。其で小罪は告白しなくても可い。併し
告白すれば安全
である、小罪か大罪か明白しない時は、告白の外に安心する道はない。叉小罪をも告白すれば、司祭から適當の意見や指導を受けるから之を改めるに恩寵を
[下段]
蒙むる等の益がある。
(註)小罪ばかりを告白する時若し之を痛悔しないなら、告白が無駄になる恐があるから斯る場合には既に赦を蒙って居る罪でも痛悔を新にして恩寵を蒙むる爲に之を告白に加へるが可い。之は度々悔悛の秘跡に近づく人の取る方法である。
368●罪の度數を忘れた時は如何せねばなりませぬか
▲罪の度數を忘れた時は、一箇月或は一週間に凡そ幾度犯したと云はねばなりませぬ。然し大罪で、幾度犯したと確に覺えぬ場合には只度々と云ふ計りでは足らぬ、凡の數を云ふか、叉は司祭が算り得るやうに一月或は一週間或は一日に割付けて凡何遍犯したと云ふべきである。
369●何の通に告白せねばなりませぬか
▲罪を遺漏なく、眞実に、明瞭に告白せねばなりませぬ。其で告白の特質は三ある。是が揃はぬ時は本當の告白にならぬ。
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370●遺漏なく告白するとは何でありますか
▲遺漏なく告白するとは犯した大罪と其數とを悉く言顯す事であります。
遺漏なく
とは大罪を一でも隱す事なく、覺えて居るだけ殘らず言顯す事である。茲に大罪とは洗禮の後犯して居るのに、未だ告白せず赦されて居ない大罪、叉大罪であるまいかと思しき罪を云ふ事である。
告白に當っては只私は大罪を犯しましたと云ふ計りでは足らず、何う云ふ大罪であるか、例へば、主日祝日にはミサ聖祭を怠った事、相當(:当)の譯(:訳)なく許なしに働いた事、人の物を盗み、或は妄に押置き、或は害した事など罪の種類を云ふ筈である。其數とは幾度犯したかを言顯す事である。
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[下段]
眞實
とは誠に、眞實に、僞なくと云ふ事。
天主の御前に認めた儘
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374●告白の時大罪を一つでも隱せば如何
▲大罪を一でも隱せば他の全ての罪迄赦されないで、其上瀆聖の大罪を重ねます。
大罪一つでも
故意と隠すと其告白は無効に成る。
其上、瀆聖の大罪を犯す。夫で罪の赦を蒙むるが爲には再び其告白を爲直し、大罪を隱したと云ふ罪も告白せねばならぬ。
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若し以前より然う云ふ事があったならば、其時から致した告白を皆為直し、叉其通り告白した事は何遍、其儘に告白せねば決して罪は赦されぬ、告白を為直す事或は生涯若くは或時代からの罪を取纏めて告白する事を「總告白」と云ふ。罪を隱した爲に爲直さねばならぬ時は總告白が必要である。特別の修行に身を委ねる時、例へば品級を秘蹟を受けるか修道院に入るか修道誓願を立てるかする時、或は毎年の黙想會の時等には總告白は非常に益に成るものである。然りながら小心の爲に無駄な心遣ばかりする人には斯樣な總告白は無用有害となるから、先づ聽罪師の意見を聽くがよい。
(註)大罪を隱さうかと思ふ時は、宜しく次の事を事を心静かに考へよ。
第一、聽罪師は靈魂の醫者で必ず癒す道を有って居る。然し癒して貰ふ爲には云難い病氣でも明かに知らせねばならぬ。之は靈魂の病に付ても同樣で、靈的醫者たる聽罪師に言難い罪でも罪でも正直に白狀しなければ癒して貰へない、正直に明
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に白狀すれば、疑なく癒る筈。第二、一時の耻かしさの爲に罪を隱しては益罪は重って益云難くなり、益耻かしくなる。第三、其罪を有體(体)に白狀しないならば永遠の亡びとなる事を考へよ。第四、罪を犯したのは耻に違ないが、之を眞に悔み、且白狀して赦されるやうにするのは却て譽になる。第五、告白に於て司祭に白狀する事は、決して他に洩れる氣遣がない。第六、罪の相手でも有のまゝに白狀し難い時は、相手をも自分をも自分をも知らぬ聽罪師を選んでも差支はない。
375●告白に於て大罪を忘れた時は如何せねばなりませぬか
▲忘れた大罪は次の告白に言顯さねばなりませぬ。
天主に能く祈って出來るだけ眞面目に糺明した時、罪を思出せないか、或は思出して之を告白すると定めて居たのに、不圖言落した場合ならば、狼狽るには及ばぬ、外の罪と共に赦されたと思うて、次の告白に言顯す覺悟で居れば足る。然し若糺明の前に祈禱もせず、天主の御助も願はず、糺明を粗末にした爲に言ひ殘したらのなら、恐らく告白は無効となり、三百
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七十四の問に云はれた通りに爲直さねならぬ事がらう。
376●明瞭に告白するとは何でありますか
▲明瞭に告白するは司祭の了解り易いやうに罪を言顯す事であります。
罪を告白するは、司祭が之を辨(弁)へて相当(當)の處分を爲す爲であるから、故意と罪を解らぬやうにすれば、司祭を欺き殆ど罪を隱すのと同樣になる。故に耻しくても天主は吾罪も吾心の底迄も、有るがまゝに見、知り盡し居給ふ事を考へて罪を赦して戴く爲には其名代たる聽罪師が明に解かるやうに言ひ表さねばならぬ。然れば故意と司祭の司祭の解かるやうに言ひ表さねばならぬ。然れば故意と司祭の司祭の解り兼ねる云方を用ゐたり、或は司祭に氣付かれない爲に些細な罪の間に大罪を挾めて言ったりしては天主より赦されないやうにするのと同様である。
377●告白場に至って如何しますか
▲跪いて十字架の記號を爲しながら「聖父と聖子と聖靈との御名によりて。アーメン」と續いて我罪を犯せしによって、靈父の掩祝を希ふ「全能の天主、終生童貞なる聖マリア、
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大天使聖ミカエル、洗者聖ヨハネ、使徒聖ペトロ、聖パウロ、諸聖人及び靈父に向ひて告白し奉る、
此處で此前何時告白したか、罪を赦されたか、償を果したかを告げ、夫から犯した罪を告白します。
跪いて
告白するのは自ら、罪と認めて謙遜の印になる。
罪を犯せしにより
との言を眞面目に云って、自分は罪人なることを辨(弁)へて恥入り謙りつゝ天主の御哀憐を願ふべきである。
(カトリックが凄く正しかったことを認めるので、今日はこの辺で次の日以降に書きたいと思います。)