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第五十九課 痛 悔(二)
358●眞の痛悔には幾種ありますか
▲眞の痛悔に二種あります、完全な痛悔と不完全な痛悔とであります。
痛悔に二種あります
とは兼て述べた如く眞実、一般、超性的であるかないかとの譯(:訳)によって異ふのではない、其だけ揃はぬならば本當(:当)の痛悔と云はれぬ。其異ふ所は二つ、即ち痛悔する譯(:訳)は其結果が著しく異ふ事である。
359●完全な痛悔とは何でありますか
▲完全な痛悔は天主を深く愛する所から、聖意に逆った譯(:訳)を以て一心に罪を悔み嫌ふ事であります。
完全
即ち全くして欠けたる所なき
痛悔
は己を忘れて專ら天主を思ひ且深く愛し奉る所から、自分は罪を犯したので、棄てられても地獄へ遣られても当然であると諦めるが、併し限なく愛すべき御父に背き、此上なき恩人を棄て御心に逆ったことが悔しい、イエズス様が私の爲に斯まで苦み給ふたの
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に御傷を無駄にし罪を犯した毎に新に唾し釘を打込んだのは眞に申譯(:訳)がない私こそ惡かった、悔しさに胸も張裂けんばかりである。私こそ如何な罸にも当るべきものであるが、嗚呼何卒其罪だけは赦して戴きたい、今後は如何な事でも致したいと、一心に願ふ事である。
360●不完全な痛悔とは何でありますか
▲不完全な痛悔は只罪は憎いとか或は罰を招くから之を悔む事である。例へば天主に背いた事よりも、自分が天國に往かれず、地獄に往くべきを主に悲むやうな事である。
不完全
とは全からぬとの意味で、之も前に云った通り、心からでもあり、一般叉超性的でもある、卽ち天主を愛する心はありながら、天主を思ふよりは己を思ひ、自分の損害に成る事を專ら悔しく思ふのである。嗚呼罪は憎い、吾靈魂は罪故に汚れ傷いて仕舞った天主を見奉る事は出来ず終なき幸福は受けられなくなり其反對に彼の憎々しい惡魔と大罪人と共に終なき火に焼かれるとは實に悔しい。かへすゞゝゝも殘
[下段]
念である。嗚呼憐深き天主、我を憐み吾罪を赦し給ひて地獄を免れしめ、天國に入らしめ給へ等と思って、幾干か天主を愛する心は表すけれども、天主に背いた事よりは自分が損害を受ける事を主に悔むのが不完全の痛悔である。
(註)之を見れば完全な痛悔と不完全な痛悔との異ふのは、先づ痛悔する訳による。例へて云へば、若者三人親から勘當(:当)を受けて互に悔話をして一人は斯う云ふ、嗚呼私の勘當(:当)を受けたのは決して無理でない、私こそ無理な事をしたのだから此罰は當然で、未だ足らぬ位に思ふ、私は本当に惡かった、仕方がない、併し耐らぬのは愛深きお父さんお母さんを悲しませた事である、眞に惡かった、其代に如何な罰を受けてもよいが、何うかして父母を喜ばせるやうなりたいものだと。又一人は、私は結構な家督を喪ったので殘念、今まで立派な家にあって、安樂に暮したのに、今は行先もなくして流浪せねばならぬ、之が悔しくて耐らぬと。又一人は、今まで道樂したり、酒を飮んだにするのに親の金を盗んで十分であったのに、斯う勘當(:当)を受けては一厘も有たず、何とも仕方がない。
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之が殘念で堪らぬと、此三人の痛悔は如何かと云ふに、初の一人は完全な痛悔であって、己を思はず父母のみを思ひ、父母が之を聞いたら、親心から前の事は忘れ去って喜んで赦して再度吾家に入らせるに相違ない。二番目のは親を餘り思はず、己の損害を悔む計りで不完全の痛悔に当る。三番目のは痛悔にならぬ。
361●完全な痛悔の効果は如何
▲完全な痛悔では秘蹟を待たず罪を赦されます。
秘蹟を待たず
とは秘蹟を受けぬでもよいと云ふ事ではない。天主を專ら愛し奉る心ある以上、其で出來次第是非洗禮や悔悛の秘蹟を授からねばならぬ。併し罪は秘蹟を待たず、即ち洗禮の前或は告白して司祭より赦される前から、天主より赦され、其儘に死んだなら天國に往かれる、唯其赦された印がないから秘蹟が要る。
(註)此道理を知って、三百年前の日本信者の間に「コンチ
[下段]
リサンの略」とて完全痛悔と題する書物が残された、信者は大抵之を暗記して、告白が出來なければ、別に大罪を赦される道、即ち救靈の道が無いから、心から痛悔を起し、其祈禱を幾度となく誦へて居ったが、祈祷文二百八十頁に載せて在るのは之を現代文に直したものである。
362●不完全な痛悔でも秘蹟を待たず罪を赦されますか
▲不完全な痛悔では洗禮或は悔悛の秘蹟に依らねければ大罪は赦されません。
不完全の痛悔
ばかりでは罪は直に赦されぬ、唯悔悛や洗禮を以て初めて赦される。洗禮や悔悛の秘蹟の出來ぬ時に罪を赦される道は完全なる痛悔に限ることを忘れてはならぬ、故に司祭不在の時は臨終の人に之を勸めるは何より肝要である。
363●痛悔に伴はねばならぬものは何でありますか
▲心を改めて罪と其便とを防ぎ、悪しき習慣を矯正す決心が痛悔に伴はねばなりませぬ。
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痛悔に伴ふ
とは痛悔と共になければならぬとの意味。
心を改めて
とは改心して、心を入替ると云ふ事。之はイエズス、キリストの仰の通り何より大事な要件である。
罪と其便とを防ぎ。
罪を防ぐとは罪を罷めて、是非犯さぬやうにする事である。例へば不和の間柄では仲直を爲し、邪淫の關係や、惡しき交際を斷ち、盗物を返し、加へた害を償ひ、傷けた名譽を補ふ心がなければ痛悔は真実ではない。併し罪を罷めるには是非罪の便を防ぎ、悪しき習慣を矯正す堅い決心が要る。
罪の便
とは罪に誘ふ機會である。例へば或処へ行き、或人と交際ひ、或事を爲る時は罪に陷るやうになれば、其を罪の機會と云ふ。遠き機會までも防がねばならぬなら、機會だらけの世の中に迚も居られまい、之に負けぬ堅き決心が要るだけである。併し誰にしても、自分では勝ち得ない機会なら、出来る限り遠ざからねばならぬ。逃げてこそ之に勝
[下段]
つ。眞の痛悔には然う云ふ便迄も防がうとの堅き決心が要るが、若し如何して避ける事の出來ぬ場合には、兜の緒を締めて気丈夫に抵抗する大覚悟が要る。
悪しき習慣を矯正す。
例へば親に従はぬ習慣、盗む習慣、邪淫の習慣、酒に醉ふ等の習慣を斷然止めるとの大決心と實行とがなければならぬ、然もなければ、唯雨漏の水を拭ふだけに止って、屋根を直さぬならば、雨毎に降込むと同様、假令痛悔はしても、矢張、前と同じ罪に陥る。
364◯何故心を改める事は痛悔に伴はねばなりませぬか
▲何程罪を悔んでも、以後犯さぬとの堅い決心がなければ、眞の痛悔にならぬからであります。
實際に罪を悔み嫌ふなら、必ず犯さぬやうにする筈である、
其
堅い決心がなければ、
口だけ、心算だけの痛悔に止って、心からの痛悔とは云はれぬ。試みに思へ子女が親に向って、私はお父さんやお母さんに從はなかった事は殘念に思ひますが、併し今から背きませぬとは言はないで、只何
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うぞ赦して下さいと云ふばかりでは、幾干親心でも赦してやる心にはならぬ。一旦決心したと云って後で、叉々罪に陷るのは、或は決心が弱いか、或は之を實行するやうに努力しないからではなからうか。
(註)堅い決心の程度を量るのは、(一)改めるに精出す事、(二)罪の機會を防ぐ事(三)以前の罪に陷らぬやうに習慣を矯正す事の如何によって極る。自分には果して堅い決心があるか知りたければ、良心に問ふて、私は愈よ今まで気に掛った此罪彼罪を、何んな困難があっても犯さぬとの覺悟であるが、叉其罪を防ぐに彼是を爲て置かねばならぬ、例へば習慣を正す事と、便を防ぐべき方法が解って居るならば之を實行する覺悟であるかと、眞面目に糺して見れば智れる。