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第五十八課 痛 悔(一)
352●罪を赦される為に最も必要な事は何でありますか
▲最も必要な事は痛悔と心を改める事であります。
最も必要
とは是非なくてはならぬ事で従て他の何事よりも大事な事を云ふ、例令罪を告白しても司祭は赦を与へても、痛悔なしには如何な小さな罪でも赦されず、終油の秘跡を受けても、一旦愈よ痛悔した上でなければ罪は赦されぬ。之に反して病気怪我等の為に白状が出来ぬ時でも痛悔さへあれば赦を得られぬ事はない。斯く痛悔なき時は告白も司祭の赦も役に立たぬ、却って痛悔一つで他の事は補はれるから痛悔は最も必要と云はれる訳である。
[下段]
心を改める
とはイエズス、キリストが「改心せぬならば皆亡びるぞ」と度々仰っしゃた改心、即ち心を入替へる事である。
353●痛悔とは何でありますか
▲痛悔は己が罪を一心に悲み嫌ひ、今から之を犯さぬと決心する事であります。
痛悔
の字は痛く悔むと云ふ意味で、俗に云ふ後悔即ち後悔とは異ふ、唯悔むのみではなく、心から悔む事である。原語はContritio (コンチリサン) と云って、心砕かれるとの意味である。即ち罪を以て固った心が微塵に砕かれるとの意味である。然て痛悔は二の事を含む、即ち既往を思っては是までの罪を真に悔み嫌ふ事で、之を決心と云ふ。此二事が揃はぬならば痛悔にはならぬ。
354●上面ばかりで罪を悔んで足りますか
△足りませぬ、心の底から罪を悲み嫌ひ、之を犯した事を真実に口惜く思はねばなりませぬ。
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上面ばかり
とは外部、表向、口ばかりでと云ふ事であるが、是で足らぬ事は申す迄もない。心の底から起るのでなければ本当の痛悔ではない、假令涙を流したからとて証拠には成らぬ、実際最愛の天主に背いたのが悲しい、実に残念であると思って心を入替へる決心がなければ、本当の痛悔でない、「痛悔は真実なるべし」と云はれるのは其事である。
355●犯した大罪を一つでも悔まぬ時は如何
▲大罪一つも赦されませぬ。
一つでも、
とあるは例へば十ある中に一は殊更に楽しかったので、其だけは悔み嫌ひ得ず残念と云はれぬと云ふ様な事である。大罪は其一々が天主を棄て、イエズス、キリストを更に十字架に釘け奉り、地獄の罸を招く。故に大罪は一々の上に痛悔が及ばなくてはならぬ。痛悔の及ばぬ大罪は一として赦されぬ。又一でも痛悔しない大罪があっては他の総ての大罪も赦されない。此故に「痛悔は一般なるべし」と云はれるのである。
[下段]
(註)大罪を一づゝに就いて痛悔を起さぬでも可い、唯犯したのを残らず痛悔する筈である。大罪なくして小罪ばかりある時は、其小罪の一に就いてなりとも痛悔がないならば悔悛の秘跡は無功になる。然うならぬ為には痛悔する以前の罪でも告白に載せるが可い。
356●世間の罰或は損害耻辱等に因って罪を悲めば赦されるに足りますか
▲其では足らず信仰上の理由を以て痛悔せねばなりませぬ。
世間の罰。
例へば打たれた。勘当を受けた、罰金を取られた、懲役をさせられたと云ふやうな事で、世間で罸せられても、尚天主に背いたので来世に罰せられる事は免れぬ。
耻辱
とは耻しめられる事で、例へば面目を失った、裁判で劣けた、新聞紙上に耻を晒された等の事である。
損害、
例へば道楽や酒の為に病気を起した、身代を潰した、位階や役目を奪はれた等の事である。
世間の罰、耻辱、損害等は国家の法律、又は社会の制裁に背
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いた為に決った事であって、是で世間の手前に罪が消えるにしても、天主に背いた罪は中々消えず、其訳を以て悔んでも天主より赦されるに足らぬ、公教要理に其な痛悔は超自然でないとあるのは其訳である。信仰に因る地獄煉獄来世の罰は殊更に罪を避けさす為に天主より定められたるものなれば之を怖れて悔むには超自然的痛悔と云はれる。
357●如何な理由を以て罪を痛悔せねばなりませぬか
▲第一、罪を以て最も愛すべき聖父に背き、又イエズス、キリストを十字架に釘付けて死に至らしめた理由。第二、終なき幸を失ひ、終なき苦を受ける理由等を以て痛悔せねばならぬ。
痛悔を起すに先ず心から祈って次のやうな事を考へるが可い
第一、
最も愛すべき聖父に背いた。
天主は万物を造り且主宰り給ふに皆其命令通を立派に守って居る。
人間ばかり之に背き、私も天主より造られて、有った丈の物は天主より戴かぬものはない、髪毛一本も勝手にならず、生
[下段]
存らへるのも全く御恵による外はない、斯も愛すべく感謝すべく順ふべき御父に今まで背き奉った事は、如何にも反逆と忘恩と厚かましさの沙汰ではないか。嗚呼天の父君罪は何程憎み嫌ふべきものかを我に覚らせ給へと返すゞゝゝ願はねばならぬ。
叉イエズス、キリストを十字架に釘付けて死に至らしめた理由。
十字架を手に取って或は下に平伏して、イエズス様の是に磔けられて苦み給ふのを心の目を開いて見ながら思ひ観よ十字架に掛り給ふのはそも何方であるか、誰の為に斯な酷い目に遇はされ給ふのか、御苦は何程であるか、是を一々思遣って、私は罪を犯す度毎に其敵の仲間に入り、イエズス様を構はず無斬に鞭ち、御顔に唾し、茨を冠せ、十字架を重くならせて、途中で倒し、御手足に釘を打込み、御血を流させ奉るのではないか。夫で御足下に平伏し、恥入り、嘆き、心からの吾罪の御赦を願ひ、聖母マリアの御取次を求めて「嗚呼聖母よ、十字架に釘けられ給へる御子の傷を我心に深貫かせ給へ」と祈るが可い。
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第二、
終なき幸を失ひ。
私は罪を犯したから、天主を見奉る事が出来なくなる、即ちイエズス、キリストの御苦御血を以て儲けられた天国の幸福を得る事が出来なくなる。
思へば罪は如何にも憎み嫌ひ
悲むべきものではないか。
終なき苦を受ける理由。
私は罪の為に天主より棄てられて、イエズス、キリストを苦しめた悪党、世界の大罪人、悪魔と共に終なく苦む筈であるが、イエズス、キリストは地獄の苦は火であると仰しゃって居る。我等は指先を一分間も火の中に置く事は耐らぬのに、終なく火の中に苦むとは何と恐ろしい事であろう、然し自ら罪を以て天主を棄て奉るから、天主より棄てられるのも当然で、私こそ悪かった、本当に恐ろしくも亦残念である。如何あっても赦して戴いて、是からは罪を犯さぬと決心すべきであらう。
等
とあるは、出来る限り種々の方面から罪の憎み嫌ふべき事を考へて、是非痛悔の心を起さねばならぬとの意味である。