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第五十七課 悔悛の秘蹟
悔悛
とは悔改めると云ふ字で重に三の事を斥す(一)唯悔改める事、或は(二)悔悛徳即ち罪を悔改める事を常に思込んで頻に之を償ひ、罪の機会を避け謙遜苦行等を甘んずるに心
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を傾ける徳を斥す、或は(三)悔悛の秘蹟を指す語である。
345●悔悛の秘蹟とは何でありますか
▲悔悛の秘蹟とは司祭が天主の代理者として洗禮後の罪を赦す秘蹟であります。
司祭
とは品級の秘蹟を授かって使徒等の後を継ぐ聖職者を云ふ
天主の代理者として
とは天主の外に罪を赦し得る者なきは申すまでもないけれども、天主が見え給はぬから見ゆる代理者を地上に置き彼が人の罪を赦せば天主も赦し給ふとの忝なき御約束がある。此御言葉に由て天主は其代理者たる司祭を用ひて人の罪を赦し給ふのである。併し司祭は人の罪を赦す權利はあっても己の罪を自ら赦す事は出来ない、赦される爲には自分も悔悛の秘跡を受けねばならぬ。
洗禮後の罪
とは洗禮を受けてから犯した罪との意味で洗禮の前の罪は洗禮を以て赦され悔悛の秘跡に關らぬ訳である。
赦す
と云へば常に赦されると或は慰めて云ひ、或は
[下段]
宣告するばかりでない、司祭は天主の代理者として罪を本当に赦すのである。
秘跡である。
秘跡の要する三要件即ち罪人側では罪を罷めるとの微があり、尚イエズス、キリストの御定によるもので、罪の赦なる聖寵を施すを以て秘跡たるに相違ない。
(註)悔悛の秘跡は洗禮の次に最も必要なるものである。大罪を犯した上では救靈の道がないから悔悛の秘蹟は救靈の第二の要策である。
346◯司祭に罪を赦す權力を与へたのは誰でありますか
△イエズス、キリストであります。即ち「汝等誰の罪を釈すとも其罪釋(釈)されん、誰の罪を留めるとも其罪留められん」と(ヨ ハ ネ二十。二三)曰うて、使徒及び其相続者に此權力を与へ給ふたのであります。
イエズス癱瘋者に向ひ「汝の罪赦さる」と仰しゃった時、敵等は呟いて、冒瀆の言を吐く者よ、神の外に罪を赦し得る者があるかと云ったが、道理である。若し司祭が自分の力で罪
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を赦すと云ったら、冒瀆である。併し司祭が悔悛の秘蹟に由て人に罪の赦を与ふるのは全くイエズス、キリストの明かな御言によって權力を授けられて居るからである。イエズスは豫て弟子等に向ひ「凡て汝等が地上にて繫ぐ所は天にても繫がるべし、又凡て汝等が地上にて釋(釈)く所は天にても釋(釈)かるべし」と(マ テ オ十八。十八)の御約束があった上に、ヨハネ聖福音書二十章十九節によって見れば、御復活の当日イエズス弟子等に現れて「父の我を遣し給ひし如く我も汝等を遣す」と仰しゃって息吹掛け給ふたが其は特別に何かを与へるとの微であった而して仰しゃるには
「聖霊を受けよ汝等誰の罪を釋(釈)すとも其罪釋(釈)されん、誰の罪を留めるとも其罪留められん」
と。
此言を以てイエズスが十二使徒及び其相続者に聖霊の御力によって人の罪を赦すの權を与へ給ふたと公教會では堅く信じて居る。即ち人の罪を赦せば其罪赦されようとの確な御約束であるが併し又「誰の罪を留めるにも其罪を留められん」と
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あれば、留めるは赦すの反対ゆえ、若し地上に於て汝等が赦さぬ罪ならば天に於ても赦されないとの意味は明かであって、司祭に留められた時は別に赦される道のない事は之で知られる。
(註)新教徒で云ふ如く唯罪人の慰に成る計りでなく、イエズス、キリストが御父より遣された其使命即ち人を罪より救出す事を世の終まで続かせる思召であれば、有名無実でなく実際に赦される事は疑ふべからざる事である。
347●悔悛の秘跡を以て罪を赦される為に幾つの事が要りますか
▲五の事が要ります。第一祈禱と糺明、第二痛悔、第三告白、第四罪の赦、第五償であります。
其で告白さへすれば罪は赦されると思っては間違である。此処に並べた五の事が揃はなければ罪は赦されぬ。
348●告白する前に何を祈らねばなりませぬか
▲善く糺明と痛悔と告白を爲し、罪を赦される事を
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祈らねばなりませぬ。
告白するに先って、何より必要なのは祈禱である。然し祈禱とは決った文句を口先で唱へる計りでなく、罪人は天主より棄てられて了ふ筈であれば、己が罪を後悔して父の足下に平伏して、背きたる罪の赦を願ふ放蕩息子の如く、天主御前に平伏して心から祈らねばならぬ。何を祈るべきかと云ふに
第一、
善く糺明する事。
掃除した家には塵は無さゝうに見へても、雨戸の穴からでも太陽の光が差せば、其中に恐しいほど沢山な塵が飛んで居るではないか、我心も其通り、罪がなささうに思っても若し聖寵に照されるならば、恐しいほどの罪のある事が分って來。
是ぞ善く糺明の出来る爲に天主の御光に照される事を祈らねばならぬ譯(訳)である。
第二、善く
痛悔
する事。唯の後悔では罪は赦されず、又本当の痛悔は中々注文通に行かぬ、殊に今まで犯し慣れた罪は、
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何うして俄に眞に憎み嫌ひ、必ず之を避けるとの決心が出來ようか。是こそ心を照し強めるのは恩寵による事で、心を入替へる惠を熱心に祈らねばならぬ訳である。
第三、善く、
告白
する事。即ち恐怖や面目の爲に罪を隱したがる心を押へ、之が此世に於ける吾最後の告白と思って罪を有るがまゝに白狀する力を祈る事である。
第四、
罪を赦される事を祈らねばならぬ。
我は罪故に天主より棄てられるものならば、今度は改心し恩寵の助力によって吾爲すべき事を爲遂げ、全き赦を戴かれるやうに祈る事であるが、是皆恩寵によらねば出来ぬ事ゆえ、祈禱が第一に要る譯(訳)である。
349●罪の糺明とは何でありますか
▲罪の糺明とは何う云ふ罪を犯したかと委しく考出す事であります
糺明
とは、人は犯した大罪を殘らず告白すべき義務があるから、糺明して之を探さねばならぬ、故に先づ天主の光に輝される樣祈ってから眞面目に考を廻らして、何う云ふ罪を犯
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したかと考出すやうにすべきである。
350●何に付いて糺明する筈でありますか
▲天主の十誡、教会の六つの律令、七の罪源、各々の職務に付いて、思、望、言、行、怠によって犯した罪を探出さねばなりませぬ。
なるだけ
天主の十誡、教会の律令
を一々繰返して、何を命ずるか何を禁ずるかと思出し、其に背いた事はないかと考へる。
七の罪源。
殊に自分が格別に傾向を有って居るものを調べ、之に就いて罪を犯した事はないかと糺明する。
各々の職務。
例へば親たるものは子女に付き、子女は親に対し、主人は目下の取扱に付き、下男下女は主人等に對する務方に付き、商人は賣買、職人は仕事、教師は教授に付て、罪を犯した事はないかと考へる。其が為に自分が行った処、交際った人、致した仕事等を思出し、遂げた業ばかりでなく、怠った事、云ったり聞いたりした話、思や望を以て犯
[下段]
した罪を思出し自分は今死に瀕して居る者だと云ふ考を以て眞実に糺明する。
(註)糺明は尚前々の告白に付いて始めるが可い、即ち前の度は、糺明を粗末にした為に大罪を云落した事はないか、本当に痛悔して居ったか、愈よ心を改める堅き決心があったか、罪を隠した事はないか等に付いて、糺明し若も其な事があったなら、總告白を以て為直さなければならぬ。
立派な糺明は告白の前一寸ばかりでは出來かねるが、毎晩して置けば、告白の時には難なく出來る。熱心な人は怒めて毎日幾度も己に省み糺明して始終改めるやうに心掛けるものであるが。之は徳に進むに余程助となる方法である。
351●罪の度數を糺明せねばなりませぬか
▲然り、切て大罪の度數を糺明せねばなりませぬ。
罪の度數
とは同じ罪を幾度犯したか、或は一旦罪を斷念した後に又々行掛ったのは何遍であったかと云ふ事である。
大罪は悉く告白せねばならぬから、其だけ糺明も必要であ
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る。例へば日曜のミサ聖祭を怠った事何遍、毎年の告白聖体拝領を怠った事、大斎小斎を破った事、偸盗邪淫の業、思、望が何遍あったかと糺明するやうにせねばならぬ。