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第五十六課 聖體(体)拜領
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335●聖體(体)は必ず拜領する筈でありますか
▲然り、イエズス、キリスト曰く「若し人の子の肉を食せず其血を飮まずば汝等の中に生命なし」と(ヨ ハ ネ六。五四)
拜領
とは、恭しく戴くと云ふ事である。
人の子
とは(第六十二の問)の註に云はれた通り、之はイエズス、キリストは人間でありながら人間を超越した事を仰しゃる時に御自分を斥して用ひ給ふた御言である。今御自分の御血肉を飮食させる御話ゆゑ、斯く御自分を名け給ふたのである。
汝等の中に生命なし
とは、天主の子たる生命を斥す言で、若し聖體(体)を戴かなければ長く惡魔や邪欲に劣けず、天主の子らしく生活する事出來ぬとの意味である。
(註)大昔から天主に物を供へた後で、天主との一致を表わす徴として其供物を引下げて飮食するのは通例であったが、聖體(体)拜領も其である。聖體(体)の秘跡はイエズス、キリストと一致する為に定められたのであるから、之を望まぬならば長く天主の良い子たる状態に止まり得ない。
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然て二百十七の問の註に云はれた如く、聖體(体)拜領は年に一度では不十分である、霊魂の養であるから常食の如く度々戴くのが本当である。其で普通の信者でも、或はミサ聖祭に与る度事にミサ聖祭の効果を潤沢に蒙る為、或は心を入替へ熱心に務め得る為に一般信者が毎日でも聖体拝領する事は聖会が深く望み勧めて居る所である。
336●聖體(体)拜領の効果は何でありますか
▲適当の準備を以て聖体を拜領する者は、イエズス、キリストと一致し、聖寵を増し、邪欲に勝つ力を得、終なき生命に至る恩恵を蒙るのであります。
適当の準備を以て聖体を拝領する者
とは最も注意すべき所である即ち聖体拝領さへすれば足ると云ふ訳ではない。準備なくてはイエズス、キリストに対して無礼侮辱に成る計りか拝領する人にも効果少く、尚之が癖に成れば却て損に成る。適当の準備こそ大事である。準備をよくすればするほど、第一、
イエズス、キリストと夫
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丈け親密に一致する、
即ちイエズス、キリストが食物のやうに我々に浸込み給うて全く一ものに成る。然し我がイエズス、キリストを同化するのではなくて、我々がイエズス、キリストに同化せしめられるのである。
第二、聖體(体)は聖寵を与へるのではない。之を授るには既に聖寵を有たねばならぬ、唯聖寵を増す、即ち益す心を清め、尚々天主の御心に叶はせるのである。
第三、
邪欲に勝つ力を得る。
食物が敵と戦ふ力を与へる如く、聖體(体)拝領は何より惡魔や邪欲に打勝つ力を与へる故、邪欲に勝ちたいと思ふなら適当の準備を以て屢聖體(体)拝領を爲るより功能のある道はない。
第四、
終なき生命に至る恩惠を蒙る。
イエズス、キリストの御言に
「我肉を食し我血を飮む人は永遠の生命を有つ、
而して我終の日に之を復活させよう」と(ヨハネ六。五五)、叉「此パンを食する人は永遠に活くべし」(ヨハネ六。五九)とあるから明である。
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337●聖體(体)を拜領するに最も準備は何でありますか
▲聖體(体)を拜領するに最も必要な準備は大罪の気掛のない事と善意を有つ事とであります。
聖體(体)拜領の準備は二種ある、即ち何よりも大切にして是非なければならぬ準備と、あってほしい、あるほどよい準備とである、
何よりも大切にして必要な準備は
二点に極る、
大罪の気掛のない事と善意を有つ事である
が、次に之を説明する。
338●大罪をもって聖體(体)を拜領すれば如何
▲大罪をもって聖體(体)を拝領すれば拜領すれば瀆聖の甚しい罪になる。
大罪をもって
とは未だ赦されて居ぬ大罪の気掛がありながらとの意味である。
瀆聖の罪になる
とは百四十三の問の通りである。
其罪
甚しい
と云はれるは聖パウロのコリント前書十一章二十七節の言による、曰く「誰にもあれ相應しからずして此
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パンを食し或は主の杯を飮む人は主の御體(体)と御血とを犯す」と。云はゞ謀反の弟子ユダが接吻を以てイエズスを、敵の手に渡したと同樣に成る。
(註)小罪を以て聖体拜領すれば瀆聖には成らぬけれども之を痛悔もせず改める決心もなき時は、拜領の効果は自然と少い。殊に屢聖體(体)拜領する人々が小罪をも憎み嫌うて、之を避けるやうに努めるのは、聖體(体)拜領の効果を潤沢ならしむるに余程大事である。
339●大罪あらば聖體(体)を拜領する前に如何せねばなりませぬか
▲聖體(体)を拜領する前に、是非悔悛の秘跡を以て其大罪の赦を受けねばなりませぬ。
假令他の秘跡を受けるには完全なる痛悔を以て大罪の赦を得るやうにすれば足らぬ事なきも、聖體(体)拜領には足らず。是聖パウロの殊更の御諭による。コリント前書十一章二十八、九に曰く「然れば人は己を試し、然して後彼パンを食し杯を飮むべし、其は相應しからずして飮食する人は主の御體(体)を弁(辨)へず己が宣告を飮食するものなればなり」と。己が宣告を飮食
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するとは、イエズス、キリストを蔑視し、其罪の爲に自ら地獄に処せられるべき宣告を呑込むが如きものである。との意味である茲に己を試すとは、己に省みて糺明すべき事、叉聖体拝領を妨げる大罪あらば、相当に心を清むべき事であるが、教會法の第八百五十六条に斯うある、「如何なる人でも大罪の気掛ある時は、如何ほど痛悔して居ると思っても、先づ前に秘蹟的告白を為た上でなければ、聖体拜領に赴いてはならぬ、必要に迫って告白を聽く司祭なき時に限って、完全痛悔を起すべきものである」と。
340◯善意を有って聖體(体)を拜領するとは何でありますか
△聖体拜領は世間体や人目からの訳でなく、眞實にイエズス、キリストと一致して、一層能く務めたいとの心から拜領する事である。詳しく言へば
世間体の訳でなく、
例へば善人と見られる爲譽められる爲、人の気に入る爲、或は誰でも拜領するから面目の爲等の故でなく。
イエズス、キリストと同心に成る為、
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即ちイエズス、キリストの嫌ひ給ふ事を我も嫌ひ、好み給ふ事を我も好みたいと思ひ其実行に実力する事である。之イエズス、キリストは我等の身に染込み給ふて、全く我等を御自分と同樣な心を有ち、御自分と同樣に專ら行はせたいとの思召だからである。