第五十五課 ミサ聖祭
329●ミサ聖祭とは何でありますか
▲ミサ聖祭とは司祭がパンと葡萄酒とをイエズス、キリストの御體(体)と御血とに変化させ、之を犠牲として天主に獻げる祭でありま
[下段]
す。
ミサ
と云ふ言は羅甸語であって、素は送返すとの意味であった。其譯(訳)は祈禱終って貴い犠牲を初める時に至れば、未だ洗禮を受けて居ない人々には散會を告げる相図の言であった。之が自然と聖祭の名になったのである。
ミサ聖祭中には祈禱もあり、儀式もあるけれ共、そればかりではない、之を祭とか聖祭とか云って居るけれども常に云ふ祭、例へば神仏の祭、午後の祭等とは全く異ふ。ミサ聖祭は実際の犠牲を獻げるのであるから寧ろ犠牲Sacrificiumと云ふべきである。
ミサ聖祭を獻げるには資格ある人即ち
司祭
が要る、司祭は如何するかと云へば、品級の受けた權力により(第四百五の問)、イエズス、キリストの御定の通り(三百二十六の問)
パンと葡萄酒とをイエズス、キリストの御體(体)と御血とに変化させる。
而して之を
犠牲(生きた献物)として天主に献げる。
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其変化と献とが即ちミサ聖祭の犠牲である。
330◯イエズス、キリストが身を十字架の上で献げ給ふたのとミサ聖祭で獻げ給ふたのとは異ひますか
△献方は異へどもその實體(体)に於いては全く同じ犠牲であります。
献方が異ふ
とは献げる仕方が異ふ事でも次の問に詳しく説明する。
同じ犠牲である
とは十字架の上でもミサ聖祭に於てでも(一)同じ奉獻主即ちイエズス、キリストが(二)同じ献物即ち御自分を(三)同じ御方即ち御父に(四)同じ目的を以て(第三百三十二の問に見える通り)献げ給ふからである。
(註)ミサ聖祭に於ては十字架上の献の姿であり続である。姿とは十字架上に献げ給ふたものをミサ聖祭に於て絶間なく献げ續け、キリストの死の御目的を世の終まで續かせて、
[下段]
其功力に寄頼む人々に之を適用するからである。然し十字架上の功力がミサ聖祭に由て殖えるのではないが之を蒙る人は殖える。それは例へて云へば十字架は水源、ミサ聖祭に於ての水道を以て方々の人に何時までも届けられる様なものである。
331◯献方は異ふとは如何
△十字架の上ではイエズス、キリストは苦み血を流し死して、自ら身を獻げ給ふたが、ミサ聖祭では苦まず血を流さず死なず、司祭の手を以て身を獻げ給ふと云ふことであります。
其で架げる方法の重なる異は四ある。
第一、十字架上では
イエズス、キリスト苦み
給うたけれども、御復活以来更に苦む事は出来ぬから、ミサ聖祭では苦み給はない。
第二、十字架上では
御血を流し
給ふたけれどもミサ聖祭では之も出來ず、然りながら御血既に流されたが如く、御
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傷より流出るのを祭爵で受けたやうに見える。
第三、十字架上に實際
死し
給うたけれど、之も今は出來ず、併しミサ聖祭に於ても死物の下に在て動かず、死色で死したやうに見え、殊に御體(体)と御血は別々に分れ即ち死を思はせる。これをミサ聖祭に於てキリストの神秘的死と云ふ。
第四、十字架上では直接に御自身を
獻げ給ふたが、
ミサ聖祭では司祭の手を以て獻げ給ふ。但し見えるものは唯假の司祭であって本司祭は取りも直さずイエズス、キリストである。
332●何の爲にミサ聖祭を献げますか
▲ミサ聖祭を献げるのは天主を禮(礼)拜し、感謝し、罪を贖ひ、御恩惠を求める爲であります。
何の爲
と云へば、ミサの目的であって四あるが、矢張御托身即ち天主の御子が人と爲り給ふた御目的と同じもので、ミサ聖祭を以て尚々明に遂げられるものである。
第一、
天主を禮(礼)拜する爲。
イエズス、キリストは
[下段]
世に降っても天主たる事を隠し給ふたけれ共、聖體(体)の秘跡の中にあっては人たる事までも御父の御前に此上なく謙り御稜威に応じ、人間の礼拝の不足を補ひ給ふ。
第二、
感謝する爲。
人間は天主の無数の御恩を忘勝であるから、イエズス御自ら返礼し給ふ。其で聖體(体)の秘蹟を定め給ふ時、殊更に感謝し給ふたのである。
第三、
罪を贖ふ爲。
罪は之を償はれぬ限り罰は免かれない、キリストは人の罪の贖として、苦み且死に給ふたが、罪は尚日々に犯されるから日々人の罪を贖ふ為に神秘的死を以て御身を犠牲に献げ給ふ。
第四、
御恩惠を求める爲。
人は何を求むべきかさへ知らず、尚罪人であれば其願は聽入れられる値打なきばかりでなく却て棄てられる筈なので、キリストは人間の代となって求め給ふ。然りながらキリストは天主にて在せば我等の爲に祈り給ふとは云はれない。寧ろ我等の祈禱を引受けて之
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を叶はせ給ふと云ふべきである。
(註)ミサ聖祭は人間の不足を補ふ爲に行はれるものなれば其目的を遂げたい時はミサ聖祭に与るに勝る道はないと覺らねばならぬ、之イエズス、キリストと共に之を務めるからである。其で殊更に天主を禮(礼)拜したい、或は御恩を謝したい、或は御恩惠を求めたい、小罪の赦を願ひたいと思へば、ミサ聖祭に与るが最も宜い、小罪の赦を戴くにミサ聖祭は殊更功能のあるものである。現代では一秒毎に四の奉獻が行はれ従てキリストは絶間なくミサ聖祭を以て此四の目的を遂げ、御父に対する務を尽し、人間の不足を補ひ給ふ。由て、我々は何時であっても主に心を合せ霊的にミサ聖祭に与かる事が出來る。實に有難い次第である。
333●誰の為にミサ聖祭を献げますか
▲此世の人の為にもミサ聖祭を献げます。
此世の人
とは、現に生きて居る人であって、信者は勿論、
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罪人や未信者の爲にも其改心を求め叉は迷信に成らぬ目的の爲にも献げる事が出來る。
煉獄の霊魂、
死んで愈よ天國或は地獄に行って居るまいと思はれる人々を云ふ。然れば聖人の爲にミサ聖祭を要せず、叉救靈の覺束ない異教人、異端者、破門者、自殺者等の爲に公然にミサ聖祭は献げられぬ。信者の死亡人の爲、殊に公教會でミサ聖祭を献げるは葬式の日、及び死後或は葬式後三日目、七日目、三十日目、叉年忌である。此時死人のミサ聖祭に特別の祈禱がある。
334●何の通にミサ聖祭に與(与)らねばなりませんか
▲ミサ聖祭の時は尊敬と信仰とを尽し、イエズス、キリストの御苦難御死去を思出し、祭壇に降臨し給ふイエズス、キリストを謹んで礼拝せねばなりませぬ。
尊敬を盡(尽)す
とは恭しく謹慎の態度を保つ事である。
信仰を盡(尽)す
とは信仰の眼を開いて現に十字架に磔けられて身を獻げ給ふイエズス、キリストを眺め奉り、無心に
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救世の玄義を黙想することである。
御苦難御死去を思出す
とは、ミサ聖祭の時御苦難御死去の狀態が祭壇の上に繰返されるから、其功徳を戴くやうに心掛ける事である。イエズス、キリストは實際に祭壇に天降り給ふから、決して無礼を為さず、一心に
禮(礼)拜
して頼み奉らねばならぬ。然もなければ却てイエズス、キリストの御親切を蔑にする事と成る。
(註)ミサ聖祭の時に何より大切な心掛へはイエズス、キリストの犠牲に合せて、身も心も叉働苦悲心配をも皆共に犠牲として獻げ、能く堪へ、能く務める事を祈り、益す勵(励)む心を起す事である。一週に日曜一日でもミサ聖祭に与れば、一週間の苦労を快く獻げ、犯した小罪の赦を願ひ、靈魂は新鮮な力を受け生変った如くになり次の週間を能く務める力を蒙むる。