公教要理説明/03-09

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だい五十五くゎ ミサ聖祭せいさい

329●ミサ聖祭せいさいとはなにでありますか

▲ミサ聖祭せいさいとは司祭しさいがパンと葡萄酒ぶどうしゅとをイエズス、キリスト御體(体)おんからだ御血おんちとに変化へんくゎさせ、これ犠牲いけにへとして天主てんしゅさゝげるまつりでありま

[下段]

す。

ミサ

ことば羅甸語ラテンごであって、もと送返おくりかへすとの意味いみであった。其譯(訳)そのわけ祈禱終いのりおはってとうと犠牲いけにへはじめるときいたれば、いま洗禮せんれいけてない人々ひとゞゝには散會さんかいげる相図あいづことばであった。これ自然しぜん聖祭せいさいになったのである。

ミサ聖祭中せいさいちうには祈禱いのりもあり、儀式ぎしきもあるけれども、そればかりではない、これまつりとか聖祭せいさいとかってるけれどもつねまつりたとへば神仏かみほとけまつり午後ごゞ祭等まつりなどとはまったちがふ。ミサ聖祭せいさい実際じっさい犠牲ぎせいさゝげるのであるからむし犠牲ぎせいSacrificiumとふべきである。

ミサ聖祭せいさいさゝげるには資格しかくある人即ひとすなは

司祭しさい

る、司祭しさい如何どうするかとへば、品級ひんきふけた權力けんりょくにより(だい四百五のとひ)、イエズス、キリスト御定おんさだめとほり(三百二十六のとひ

パンと葡萄酒ぶどうしゅとをイエズス、キリスト御體(体)おんからだ御血おんちとに変化へんくゎさせる。

さうしてこれ

犠牲いけにへきた献物さゝげもの)として天主てんしゅさゝげる。

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其変化そのへんくゎさゝげとがすなはちミサ聖祭せいさい犠牲ぎせいである。

330◯イエズス、キリストを十字架じかうへさゝたまふたのとミサ聖祭せいさいさゝたまふたのとはちがひますか

献方さゝげかたちがへどもその實體(体)じつたいいてはまったおな犠牲いけにへであります。

献方さゝげかたちが

とはさゝげる仕方しかたちがことでもつぎとひくはしく説明せつめいする。

おな犠牲いけにへである

とは十字架じかうへでもミサ聖祭せいさいおいてでも(一)おな奉獻主即さゝげぬしすなはイエズス、キリストが(二)おな献物さゝげものすなは御自分ごじぶんを(三)おな御方即おんかたすなは御父おんちゝに(四)おな目的もくてきもって(だい三百三十二のとひえるとほり)さゝたまふからである。

ちゅう)ミサ聖祭せいさいおいては十字架上じかぜうさゝげ姿すがたでありつゞきである。姿すがたとは十字架上じかぜうさゝたまふたものをミサ聖祭せいさいおい絶間たえまなくさゝつゞけ、キリスト御目的おんもくてきをはりまでつゞかせて、

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其功力そのくりき寄頼よりたの人々ひとゞゝこれ適用てきようするからである。しかし十字架上じかぜう功力くりきがミサ聖祭せいさいよっえるのではないがこれかうむひとえる。それはたとへてへば十字架じか水源すゐげん、ミサ聖祭せいさいおいての水道すゐだうもっ方々はうゞゝひと何時いつまでもとゞけられるやうなものである。

331◯献方さゝげかたちがふとは如何いかゞ

△十字架じかうへではイエズス、キリストくるしながして、みづかさゝたまふたが、ミサ聖祭せいさいではくるしまずながさずなず、司祭しさいもっさゝたまふとふことであります。

それさゝげる方法はうはふおもなるちがひよつある。

だい一、十字架上じかぜうでは

イエズス、キリストくるし

たまうたけれども、御復活ごふくくゎつ以来更いらいさらくるしこと出来できぬから、ミサ聖祭せいさいではくるしたまはない。

だい二、十字架上じかぜうでは

御血おんちなが

たまふたけれどもミサ聖祭せいさいではこれ出來できず、りながら御血既おんちすでながされたがごとく、おん

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きずより流出ながれでるのを祭爵さいしゃくけたやうにえる。

だい三、十字架上じかぜう實際じっさい

たまうたけれど、これいま出來できず、しかしミサ聖祭せいさいおいても死物しぶつもとあっうごかず、死色しにいろしたやうにえ、こと御體(体)おんからだ御血おんち別々べつゞゝわかたすなはおもはせる。これをミサ聖祭せいさいおいてキリストの神秘しんぴ的死てきしふ。

だい四、十字架上じかぜうでは直接ちょくせつ御自身ごじしん

さゝたまふたが、

ミサ聖祭せいさいでは司祭しさいもっさゝたまふ。たゞえるものは唯假たゞかり司祭しさいであって本司祭ほんしさいりもなほさずイエズス、キリストである。

332●なにためにミサ聖祭せいさいさゝげますか

▲ミサ聖祭せいさいさゝげるのは天主てんしゅ禮(礼)拜れいはいし、感謝かんしゃし、つみあがなひ、御恩惠おんめぐみもとめるためであります。

なにため

へば、ミサの目的もくてきであってよつあるが、矢張御やはりご托身即たくしんすなは天主てんしゅ御子おんこひとたまふた御目的おんもくてきおなじもので、ミサ聖祭せいさいもっ尚々なほゝゝあきらかげられるものである。

だい一、

天主てんしゅ禮(礼)拜れいはいするため

イエズス、キリスト

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くだっても天主てんしゅたることかくたまふたけれども聖體(体)せいたい秘跡ひせきうちにあってはひとたることまでも御父おんちゝ御前みまへ此上このうへなくへりくだ御稜威みいづおうじ、人間にんげん礼拝れいはい不足ふそくおぎなたまふ。

だい二、

感謝かんしゃするため

人間にんげん天主てんしゅ無数むすう御恩ごおん忘勝わすれがちであるから、イエズス御自おんみづか返礼へんれいたまふ。それ聖體(体)せいたい秘蹟ひっせきさだたまとき殊更ことさら感謝かんしゃたまふたのである。

だい三、

つみあがなため

つみこれつぐのはれぬかぎばつまぬかれない、キリストひとつみあがなひとして、くるし且死かつしたまふたが、つみ尚日々なほひゞをかされるから日々人ひゞひとつみあがなため神秘しんぴ的死てきしもっ御身おんみ犠牲いけにへさゝたまふ。

だい四、

御恩惠おんめぐみもとめるため

ひとなにもとむべきかさへらず、尚罪人なほつみびとであれば其願そのねがひ聽入きゝいれられる値打ねうちなきばかりでなくかへってられるはずなので、キリスト人間にんげんかはりとなってもとたまふ。りながらキリスト天主てんしゅにてましませば我等われらためいのたまふとははれない。むし我等われら祈禱いのり引受ひきうけてこれ

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かなはせたまふとふべきである。

ちゅう)ミサ聖祭せいさい人間にんげん不足ふそくおぎなためおこなはれるものなれば其目的そのもくてきげたいときはミサ聖祭さいさいあづかるにまさみちはないとさとらねばならぬ、これイエズス、キリストともこれつとめるからである。それ殊更ことさら天主てんしゅ禮(礼)拜れいはいしたい、あるひ御恩ごおんしゃしたい、あるひ御恩惠おんめぐみもとめたい、小罪せうざいゆるしねがひたいとおもへば、ミサ聖祭せいさいあづかるがもっとい、小罪せうざいゆるしいたゞくにミサ聖祭せいさい殊更ことさら功能こうのうのあるものである。現代げんだいでは一秒毎べうごとよつ奉獻さゝげおこなはれしたがっキリスト絶間たえまなくミサ聖祭せいさいもっ此四このよつ目的もくてきげ、御父おんちゝたいするつとめつくし、人間にんげん不足ふそくおぎなたまふ。よって、我々われゝゝ何時いつであってもおもこゝろあは霊的れいてきにミサ聖祭せいさいあづかること出來できる。じつ有難ありがた次第しだいである。

333●たれためにミサ聖祭せいさいさゝげますか

此世このよひとためにもミサ聖祭せいさいさゝげます。

此世このよひと

とは、げんきてひとであって、信者しんじゃ勿論もちろん

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罪人つみびと未信者みしんじゃためにも其改心そのかいしんもとまた迷信めいしんらぬ目的もくてきためにもさゝげること出來できる。

煉獄れんごく霊魂れいこん

んでいよい天國或てんごくあるひ地獄ぢごくってるまいとおもはれる人々ひとゞゝふ。れば聖人せいじんためにミサ聖祭せいさいえうせず、叉救靈またたすかり覺束おぼつかない異教人いけうじん異端者いたんしゃ破門者はもんしゃ自殺者等じさつしゃなどため公然おほやけにミサ聖祭せいさいさゝげられぬ。信者しんじゃ死亡人しぼうにんためこと公教會こうけうくゎいでミサ聖祭せいさいさゝげるは葬式さうしきおよ死後或しごあるひ葬式後さうしきご日目かめ、七日目かめ、三十日目にちめ叉年忌またねんきである。此時死人このときしにんのミサ聖祭せいさい特別とくべつ祈禱いのりがある。

334●とほりにミサ聖祭せいさい與(与)あづからねばなりませんか

▲ミサ聖祭せいさいとき尊敬うやまひ信仰しんかうとをつくし、イエズス、キリスト御苦難ごくなん御死去ごしきょ思出おもひだし、祭壇さいだん降臨かうりんたまイエズス、キリストつゝしんで礼拝れいはいせねばなりませぬ。

尊敬うやまひ盡(尽)つく

とはうやゝゝしく謹慎きんしん態度たいどたもことである。

信仰しんこう盡(尽)つく

とは信仰しんかうまなこひらいてげんに十字架じかはりつけられてさゝたまイエズス、キリストながたてまつり、無心むしん

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救世きゅうせい玄義げんぎ黙想もくそうすることである。

御苦難ごくなん御死去ごしきょ思出おもひだ

とは、ミサ聖祭せいさい時御苦難ときごくなん御死去ごしきょ狀態ありさま祭壇さいだんうへ繰返くりかへされるから、其功徳そのくどくいたゞくやうに心掛こゝろがけることである。イエズス、キリスト實際じっさい祭壇さいだん天降あまくだたまふから、けっして無礼ぶれいさず、一しん

禮(礼)拜れいはい

してたのたてまつらねばならぬ。もなければかへっイエズス、キリスト御親切ごしんせつないがしろにすることる。

ちゅう)ミサ聖祭せいさいときなにより大切たいせつ心掛こゝろがへはイエズス、キリスト犠牲ぎせいあはせて、こゝろまたはたらきくるしみかなしみ心配しんぱいをも皆共みなとも犠牲いけにへとしてさゝげ、こらへ、つとめることいのり、ますま勵(励)はげこゝろおこことである。一しう日曜にちようでもミサ聖祭せいさいあづかれば、一週間しうかん苦労くらうこゝろよさゝげ、をかした小罪せうざいゆるしねがひ、靈魂れいこん新鮮しんせんちから生変うまれかはったごとくになりつぎ週間しうかんつとめるちからかうむる。