公教要理説明/03-08

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だい五十四くゎ 聖 体せいたい

320◯もっとたうと秘跡ひせきなにでありますか

もっとたうと秘跡ひせき聖体せいたいであります。

もっとたふと秘跡ひせき

とは一番位ばんくらゐたかい、一番価値ばんねうちある、一番貴ばんたふと秘跡ひせきとの意味いみであるが其訳そのわけほか秘跡ひせき聖寵せいてうしるしばかりで唯聖寵たゞせいてうほどこすのであるのに、聖体せいたいには聖寵せいてうばかりでなく、聖寵せいてうみなもとにてましますべての秘跡ひせきさだたまふたイエズス、キリストこもたまふからであります。たとへば一ぱいみづよりも其泉そのいづみ果物くだものはなよりもこれせうずる其根そのね尚価値なほねうちあるがごと聖体せいたい秘跡ひせきいづれの秘跡ひせきよりもたふとい。

321●聖体せいたい秘跡ひせきとはなにでありますか

聖体せいたい秘跡ひせきとは、パンと葡萄酒ぶどうしゅとの外観ぐゎいくゎんもとに、イエズス、キリスト御体おんからだ御血おんちとが、実際じっさいましまたま秘跡ひせきであります。

聖体せいたい

ことばせいなる体即からだすなはイエズス、キリスト御体おんからだ

[下段]

意味いみである。イエズス、キリストが十字架じかはりつけられたまうたとき聖体せいたいとははれたが、しか聖体せいたい秘跡ひせきとははれなかった、秘跡ひせきるにはしるしゆゑ御体おんからだしるしなるパンの形色かたちいろもとかくれたときでなければ秘跡ひせきとははれぬわけである。

聖体せいたい

イエズス、キリスト御体おんからだ御血おんちであります。

秘跡ひせきは一時的じてきしきむとすぐぎ、唯結果たゞけっくゎのこすのみであるが、聖体せいたいこれちがうて、イエズス、キリストである。秘跡ひせき存在そんざいたまイエズス、キリスト御体おんからだ御血其おんちそのものであって一時的じてきでなく、消費せうひつくされるまでは其侭そのまゝとゞまたまふものである。秘跡的ひせきてき存在そんざいたまふとへば五しゃく御体おんからだまゝではない。おな御体おんからだではあるがれいごとくにして肉身にくしんにはえず、パン葡萄酒ぶどうしゅ外観ぐゎいくゎんもとかくれてまします。イエズス、キリスト御体おんからだ御血おんち有体ありていえるならば、ひと恐入おそれいって、近寄ちかよこと拝領はいれうすること到底たうてい出来できないから、イエズス御自分ごじぶんをパンと葡萄酒ぶどうしゅとの外観ぐゎいくゎんもとかくたまうた。しかけてもらひたい、パンと葡萄酒ぶどうしゅとの

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うちでなく、

パンと葡萄酒ぶどうしゅとの外観ぐゎいくゎんもと

にとはれてる。すなはちパンと葡萄酒ぶどうしゅ実体じったい聖変化せいへんかよってはイエズス、キリスト御体おんからだ御血おんち成変なりかはりパンと葡萄酒ぶどうしゅ偶成即ぐうせいすなはかたちいろ味即あぢはひすなは外観ぐゎいくゎんもと実際じっさいましますのである、これ聖体せいたい秘跡ひせきである。

こもって

とは、みぎべたとほりパンの外観ぐゎいくゎんもと実際じっさいましますと意味いみである。

ちゅうイエズス、キリストひとこゝろくだりたいと、おのぞみになっても、聖体せいたいうちありまゝたまふなら、たれこれ飮食いんしょくようぞ、それ天主てんしゅもとよりはゝ血液精分せいぶん小供こども血肉けつにくくゎするためこれあま乳汁ちゝへんぜしめたまごとく、イエズス、キリスト御体おんからだ御血おんちをばパンと葡萄酒ぶどうしゅとの外観ぐゎいくゎんもとこもらせたまふのである。ゆゑれ、あぢはところでは普通ふつうのパンにぎないけれ共実体どもじったいはパンではなく、イエズス、キリストみづからの御言おんことばとほりその御体おんからだ御血おんち其物そのものである。

[下段]

ちゅうイエズス、キリストがパンの外観ぐゎいくゎんもとましまたまふはひと室内しつないすまごとことでない、むし霊魂れいこん身体しんたいうちるがごとくである。此処こゝ居給ゐたま事其ことその形色けいしょくそんするあひだであって、形色かたちいろ味等あぢなど消失きえうせてパンとおもはれぬやうになったらイエズス、キリストたまふ、さうして其形色そのけいしょくかれるとき御血肉ごけつにくかれぬのはふにおよばず、其何そのいづれの部分ぶぶんにもとゞまたまふ。たとへてへば一めんかゞみうつかほは一つであるが叉其鏡またそのかゞみこはれると其破片そのはへんいづれにも完全くゎんぜんかほえると稍似やゝにことである。

322●聖体せいたい秘跡ひせきうちにはイエズス、キリスト御体おんからだ御血おんちとだけがましますのでありますか

聖体せいたい秘跡ひせきうちにはイエズス、キリスト御体おんからだ御血おんちばかりでなく、その御霊魂ごれいこん天主てんしゅせいもすべてましまたまふのであります。

御霊魂ごれいこんこもってある

とはからだ霊魂れいこんわかれればことになるから、イエズス、キリスト御体おんからだ御血おんちばかり聖体せいたいうちるならば、てうど十字架上じかぜうったごとくで、

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るとははれない。しか御復活ごふくくゎつ以後いごすなは生回いきかへたまうたうへでは、御体おんからだ御血おんち御霊魂ごれいこんともはずである。

天主てんしゅせいもすべてましまたま

とは御体おんからだ御血おんち御霊魂ごれいこんとは天主てんしゅ聖子おんこのものときまってあれば、天主てんしゅ性即せいすなはまことかみたる本性云もちまへいはゞ全知ぜんち全能ぜんのう全善ぜんゞゝ諸徳しょとく聖体せいたい秘跡ひせきうちにすべてましまたまふのである。

ちゅう聖体せいたい天主てんしゅにてましまイエズス、キリストであるから、礼拝れいはいすべきものでつね御堂みどう祭壇さいだん聖櫃せいひつなかたもつが、聖体せいたいましましるしに、規則きそくとして其前そのまへ昼夜ちゅうや常燈ぜうとうともされてる。ゆゑひと其前そのまへとほ度毎たびごと敬礼けいれいばかりでなく片膝かたひざあるひ聖体せいたいげん顕示けんしされてとき両膝れうひざげて礼拝れいはいへうするはずである、心掛こゝろがけて叮嚀ていねいいたさねばならぬ。

聖堂みどう出入でいり時御主ときおんあるじ挨拶あいさつ礼拝れいはいするためつぎ言葉ことばとなえればい。

しゅ耶蘇イエズス基督キリストしゅじつ聖体せいたい秘跡中ひせきちういまたまふ、われ天主てんしゅたりひとたるしゅ拝礼はいれい讃美さんびし、感謝かんしゃたてまつる。亞孟アメン

[下段]

323◯イエズス、キリスト何時いつ聖体せいたい秘跡ひせきさだたまうたか

御死去ごしきょ前日ぜんじつ晩餐ばんさんとき聖体せいたい秘跡ひせきさだたまうたのである。

晩餐ばんさん

とは、夕飯ゆふはん晩飯ばんめしことである。

ちゅう聖体せいたいいよいイエズス、キリストよりさだめられたこと聖寵せいてうあたへること其徴そのしるしにパンの形色かたちいろもっ成立なりたこととの三要件揃えうけんそろってるから秘跡ひせきである。

324◯イエズス、キリストはどのやうにして聖体せいたい秘跡ひせきさだたまうたか

イエズス、キリスト聖体せいたいさだたまふに、パンをり、これしゅくし、使徒等しとたちあたへてのたまはく「汝等なんぢらけてこれしょくせよ、是汝等これなんぢらためわたされる我体わがからだである」と。つぎさかづきり、これしゅくし、使徒等しとたちあたへてのたまはく「けてこれめ、是我血これわがちである」と。叉使またし

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徒等とたちのたまはく「汝等なんぢら我記念わがかたみとしてこれおこなへ」と(ルカ二二。十九)。

パンをしゅくする

はパンのうへ天主てんしゅめぐみ龥下よびくだことである、

のたまはく

とは、おっしゃったとの意味いみ

是汝等これなんぢらためわたされる我体わがからだである

おっしゃったのをおぼえてもらひたい。此中このうち我体わがからだってあるとはおっしゃらないで、是我体これわがからだである、パンとえてもパンではない我体わがからだであるとおっしゃったことさら明日あす汝等なんぢらためわたされるはず我体わがからだでるとおっしゃらないで、今現いまげん汝等なんぢらためわたされる我体わがからだであるとおっしゃったことわすれてはならぬ。叉爵またさかづきってこれしゅくたまうにも矢張やはり葡萄酒ぶどうしゅうへめぐみ龥下よびくだたまうたので、是我血これわがちであるとおっしゃって、此中このうち我血わがちってあるとはおっしゃったことわすれてはならぬ。それ聖体せいたいはパンと葡萄酒ぶどうしゅとの外観ぐゎいくゎんながらパン葡萄酒ぶどうしゅでなくてまこと天主てんしゅまことひとなるイエズス、キリスト御体おんからだ御血おんちである。叉汝等またなんぢら我記念わがかたみとしてこれおこなへとおっしゃったのは我記念わがかたみとして我今致わがいまいた

[下段]

したとほ汝等なんぢらおこなへとの意味いみである。

325◯イエズス、キリストがパンと葡萄酒ぶどうしゅとをって「是我体これわがからだである我血わがちである」とおっしゃったときパンと葡萄酒ぶどうしゅ如何どうなりましたか

此言このことばによってパンはへんじて御体おんからだとなり、葡萄酒ぶどうしゅへんじて御血おんちりました。

へんじて

とは、成変なりかはったとの意味いみ

イエズス、キリストかね病人べうにんむかってはなほれ、死人しにんむかってはきよ、荒波あらなみむかってはしづまれなどおっしゃるたびに、一として御言おんことばとほりにらぬことはなかった。されば、いまパンをってこれゆびさしてこれ我体わがからだである叉葡萄酒またぶどうしゅってこれゆびさしてこれ我血わがちであるとおっしゃるならばかなら御言おことばとほりるにちがひない。てうはじめに、天主てんしゅひかりあれとのたまうたに、ひかりったとおなじである。我々われゝゝこれ全能ぜんのう天主てんしゅ御言おことば御業おわざなるがゆゑ何等疑なんらうたがところなくやすんじてかたしんずるのである。

ちゅうイエズス、キリスト突然とつぜんさうおっしゃったばかりな

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らば、あるひかねて十字架じかになふべしとおっしゃったときごと諭話たとへばなしかとおもはれるかもれぬ。しかせいヨハネ福音書ふくいんしょだいせうつまびらかにえるごとすでに一年以前ねんいぜんから準備じゅんびたまふたのであった。すなはいつゝぱんもって五千以上いぜうひとやしなたまふた。しかして其機会そのきくゎいわれこそはてんよりくだったきたぱんである、あたへるところぱんかすため我肉わがにくである、我肉わがにくじつ食物たべものであり我血わがちじつ飮物のみものである、われしょくするひとわれによってきるなど幾度いくどもゝゝゝゝおっしゃってもとよりひとわからないでつぶやいたしかまこと天主てんしゅまことひとたるイエズス、キリスト御言おんことば虚偽きょぎがあるはずがないから、假令肉眼たとひにくがんにはえないけれども、実際じっさいイエズス、キリスト其御そのご血肉けつにくである。これしんぜないなら自分じぶん弟子でしにはられぬときびしくおほせられたゆゑ公教会こうけうくゎいでは、イエズス、キリスト天国てんごくましまごと聖体せいたいにもましますとかたしんじてるのである、したがっ聖体せいたい秘跡ひせきイエズス、キリスト御血肉ごけつにく実在じつざいしんぜられないならば公教信者こうけうしんじゃでなく叉信者またしんじゃたること出来できないわけである、此故このゆゑ公教会こうけうくゎい此信仰このしんかう異論ゐろんとなへたるひと破門はもんしたのである。

[下段]

此不思議このふしぎ変化へんくゎ公教会こうけうくゎい実体じったい全変化叉ぜんへんくゎまた化体くゎたい(Transsbstantiatio)となづけるが、イエズス、キリスト御言おことば公教会こうけうくゎい定義ていぎによってひと救霊たすかりためかならしんずべき信仰箇条しんこうかでうである。万物ばんぶつより造出つくりだたま天主てんしゅ全能ぜんのうわざかられば、聖体せいたい秘跡ひせきしんじがたいことはない、あぢは、あめとの影響えいけうよっ植物しょくぶつ樹液じゅえきり、あるひり、はなり、五穀ごこくり、いしのやうなかたさねり、大木たいぼくる、叉食物またしょくもつ毎日まいにち我々われゝゝ血肉けつにくくゎするではないか。天主てんしゅ全知ぜんち全能ぜんのうみづかより出来でかたまふた動植物どうしょくぶつ機関きくゎんもって、漸次だんゞゝ自然しぜんらせたまところを一瞬間しゅんかん超自然的てうしぜんてきないはずはない。あだかキリストカナ婚宴こんえんおいみづを一瞬間しゅんかんにして葡萄酒ぶどうしゅ変化へんくゎさせ、前後ぜんごくゎいわたってわづかのぱんもっすうにんやしなひ、叉只またたゞごんもっ死人しにん生回いきかへらせたまうた事等ことなどかんがあはせると聖体せいたい秘跡ひせきしんずるに何等難なんらがたくはない。

326◯「汝等我記念なんぢらわがかたみとしてこれおこなへ」との御言みことばなに意味いみするのでありますか

この

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ことばによって使徒及しとおよ其相続者そのさうぞくしゃ命令めいれいともに、聖体せいたいつくけんけたこと意味いみするのであります。

使徒及しとおよ相続者さうぞくしゃ

すなはち十二使徒及しとおよ其相続者迄そのさうぞくしゃまではれるは、イエズス、キリストさだたまふたことは十二使徒等しとたちだいためばかりでないからである。てんのぼたまふたとき、「我世われよをはりまで毎日汝等まいにちなんぢらともります」とおっしゃったごといま十二使徒しと此通このとほりよ、すなは聖体せいたいつくれとはれたのであるからこれたゞキリスト

命令いひつけ

ばかりでなく同時どうじに、

聖体せいたいつくけん

すなはキリストごとくパンと葡萄酒ぶどうしゅ御体御血おんからだおんち変化へんくゎさせるちからたまはったに相違さうゐない、しかしてをはりまで彼等かれら相続者さうぞくしゃうである。自分等じぶんども聖体せいたいつくけんすなはちパンと葡萄酒ぶどうしゅイエズス、キリスト御血肉ごけつにく変化へんくゎさせるちからないならば如何どうして其命令そのめいれい実行じっかうする事出来ことできようか出来できないことである。ゆゑ其命令そのめいれいとも其力そのちからたまはったことうたが余地よちがない。

327◯イエズス、キリストなんため聖体せいたい秘跡ひせきさだたまふたか

聖体せいたい秘跡ひせきさだたま

[下段]

たのは(一)ひととしても此世このよとゞまり(二)其身そのみ犠牲ぎせいとして御父おんちゝさゝげ(三)ひと霊魂れいこんやしなためであります。

だい一、天主てんしゅとしてはイエズス、キリスト何処どこにもましませど、

ひととして

御体おんからだはれぬ、唯天たゞてんのぼって天使聖人てんしせいじんたまふに、ひとあひだにもえないながら夜昼止よるひるとゞまり、なぐさめ、願事ねがひごとき、て、天国てんごくみちびきたいとののぞみもってパン葡萄酒ぶどうしゅ外観ぐゎいくゎんもと存在そんざいすることさだたまふたのである。

だい二、イエズス、キリストだいまでは天主てんしゅよりさだめられた旧約時代きうやくじだい犠牲等様々いけにへなどさまゞゝ奉献ほうけんがあったが、すべはいされて、たゞイエズス、キリスト犠牲いけにへのみとなった、其為そのためイエズス、キリスト御自おんみづか聖体せいたい秘跡ひせきさだたまふたのである。

だい三、

ひと霊魂れいこんやしなため

とはめうこへるかもしれないが、しかきるものは、皆養みなやしなひる、植物しょくぶつ動物どうぶつやしなひり、草木くさきさへもやしなひがなければれてしまふ、動物どうぶつ能力のうりょくこれやしなひあたへて維持いぢするごとえうす。ひとの……………、自然しぜん生命いのちくはへられた超自然てうしぜん生命いのちすなはせい

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てう天主てんしゅ子女こどもたるの生命いのちたもつに矢張やはりやしなひる、自然しぜん生命いのちつなぐは五穀ごこく野菜やさい肉類にくるゐごと物質的ぶっしつてきのものであるに、霊魂れいこん超自然てうしぜん生命いのちたもつのは霊的れいてきやしなひすなはイエズス、キリスト御血肉ごけつにくすなはイエズス、キリスト御自身ごじしんである。しか聖体拝領せいたいはいれう物質的食物ぶっしつてきしょくもつごと我々われゝゝイエズス、キリスト同化どうくゎするのではなく我々われゝゝイエズス、キリスト同化どうくゎせられるのである。

ちゅうイエズス、キリストえず我等われらそばとゞまたまゆゑ我々われゝゝこれふか有難ありがたがって、出来できるだけ度々御訪問たびゝゞごほうもんし、イエズスまへて一しんをがみ、感謝かんしゃし、つみゆるし御恩恵おんめぐみねがことわすれてはならぬ、叉身またみ犠牲いけにへさゝたまふにより、自分じぶん其献そのさゝげあづかり、おのれをもともさゝげねばならぬ、叉益またますま天主てんしゅ子女こどもらしくなるために、霊魂れいこんやしなひそなへられたる聖体せいたい拝領はいれうするやうはげまねばならぬ。

328◯何時いつイエズス、キリスト其身そのみ犠牲いけにへとして御父おんちゝさゝたまふたか

イエズス

[下段]

キリストは十字架じかかゝって犠牲いけにへさゝたまふた。しかしていまもミサ聖祭せいさいもっ御自身ごじしん犠牲いけにへとして御父おんちゝさゝたまふのであります。

ちゅうだい一、せいパウロことばによれば「キリストたまひし時御父ときおんちゝむかってのたまふにはしゅよ(いままでの)犠牲いけにへ献物さゝげものとをいなみて肉体にくたいわれそなたまへり、燔祭はんさい礼拝れいはいためさゝげる犠牲いけにへ)と罪祭ざいさいつみつぐのひとしてさゝげる犠牲いけにへ)とは御心みこゝろかなはざりしをもって、我言われいへらく看給みたま聖書せいしょはじめわれきてかきしるしたれば、天主てんしゅわれ御旨みむねおこなはんがためきたれり」(ヘブレオ十。五)と、それ真実ほんとうへばイエズス、キリスト御生涯ごせうがい旧約時代きうやくじだい犠牲ぎせいかはり御自身ごじしん犠牲ぎせいとなってこゝろ犠牲ぎせいけうたまふたことになる。すなはちベトレヘムのうまやうまたまふたときから十字架上じかぜうたまふたときまで御自分ごじぶん意志いしのまにゝゝ生活せいくゎつたまことは一瞬間しゅんかんとてなかった。

だい二、三十さいまでは清貧せいひんあまんじ不自由ふじいうめ、いやしい職業しょくげふいとなみ、私生活しせいくわつもっ犠牲いけにへたまふた。

だい三、布教ふけうはじたまふや洗者せんしゃヨハネより「つみのぞ天主てんしゅ

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こひつじ」となづけられ、自由じいう名誉めいよ犠牲ぎせいにしてたのしみもとめず、「ちゝ思召おぼしめしまったうするは我食物わがしょくもつである、たのは人々ひとゞゝ使つかためでなく人々ひとゞゝつかへる為叉衆人ためまたしうじんあがなひとして生命いのちてるためである」とて身分みぶんましましながらかへって吾弟子等わがでしたちつか給仕きふじのやうに、へりくだたまふた。

だい四、ひとためくるしんでながことふか希望きぼうし、度々預言たびゝゞよげんし、「げるにいたるまでこゝろ切迫せっぱくしてる」とおほせられ、つひに十字架じかはりつけられて「つくした」とのたまひつゝ生命いのちてゝ生涯せうがい犠牲ぎせいまったうしたまふたのである。

だい五、いま其犠牲そのぎせいそのまゝに総括そうくゎつして、聖体せいたい犠牲即ぎせいすなはちミサ聖祭せいさいもっ日々献にちゝゝさゝたまふのである。