公教要理説明/03-06

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だい五十二くゎ 洗 禮(礼)せんれい(二)

310◯成長せいちょうしたひと洗禮(礼)せんれいさづかるためには如何どん準備じゅんびりますか

天主てんしゅをしへ辨(弁)わきまへ、これかたしんじ、つみを一しん悔改くいあらためねばなりませぬ。

小兒(児)こども洗礼せんれいけるに、べつ準備じゅんびえうしないけれども

成長せいちょうしたひと

すなは事理じり辨(弁)わきまへるひとは、相當(当)さうたう準備じゅんびる。

だい一、

天主てんしゅをしへ辨(弁)わきま

ことそれつね公教要理こうけうえうりまなび十かい主要しゅえう祈禱いのりさきおぼえねばならぬ。

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だい二、

これかたしんじ。

すなは外面うはべばかりでなく、眞心まごゝろからしんじなければならぬ。

だい三、

つみ一心いっしん悔改くひあらた

ことは、なにより必要ひつえうである、つみくやまぬならけっしてゆるされず、叉生またうまかはったくらゐあらためぬなら天主てんしゅ本當(当)ほんたう子女こども似合にあはぬ。

311●洗禮(礼)せんれいさづけるのはたれでありますか

洗礼せんれいさづけるのは司教司祭しけうしさいであります、れど必要ひつえう場合ばあひにはたれでも出來できます。

職務上しょくむぜう

洗礼せんれいさづける權能けんのういうするのは司教司祭しけうしさい

及助祭およびじょさいだい四百三のとひよ)であるから、これわすれて普通ふつう信者しんじゃすゝんで軽々かるゞゝしく洗礼せんれいほどこわけにはかぬ、司祭しさいうかゞふが本當(当)ほんたうである。

れど必要ひつえう場合ばあひには

如何どんひとでも、異教者いけうしゃでも、仕方しかたってさへすれば洗禮(礼)せんれいほどこ事出來ことできるに相違さうゐない。もっと必要ひつえう秘蹟ひせきであれば

たれでも

これさづけること

出來でき

るのはじつありがたい次第しだい

[下段]

ある。

312◯必要ひつえう場合ばあひとはなにでありますか

小兒こどもやまひあやうときあるひ成長せいてうしたひとのぞんで洗禮(礼)せんれいねがときであります(此時誨このときおしふべきこと付録ふろくゆ)丈司祭だけしさいたのはずであるが、不在ふざいなるか、あるひ都合悪つがうわるくしてはぬときには、仕方しかた心得こゝろえひとさづけるがい。りながらもっと注意ちういすべきは、大人おとなには入用いりようこと出來できるだけかせ、叉何またなにより天主てんしゅあいし、イエズス、キリスト有難ありがたがり、いままでのつみしん悔改くひあらため、本当ほんとうに、救靈たすかりしきりのぞこゝろおこさせることもっと大事だいじである。ようするこゝろざしなきとき折角せっかく洗禮(礼)せんれいこうなしとわすれてはならぬ。

313●如何どうして洗禮(礼)せんれいさづけますか

洗禮せんれいさづけるには、本人ほんにんひたひみづそゝぎながら「聖父ちゝ聖子聖霊せいれいとの御名みなよりなんぢあらふ」ととなへます。

此所こゝ注意ちういすべきてんである。

本人ほんにんひたひみづそゝぎながら

ひたひとあれば、部分ぶぶんでなく、やむ

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部分ぶぶんそゝいだならば、出來できときひたひそゝなほさねばならぬ。叉髪毛またかみげでなく、皮膚ひふみづくやうにそゝがねばならぬ。

みづ

とあれば、天水てんすいでも海水かいすいでも白湯さゆでもいが、角本当かくほんたうみづ必要ひつえうである、ちゃさけ叉他またたものではかぬ。

そゝ

とあれば、すなはれた布片きれひたひぬぐばかりでらず、みづながれるが本当ほんたうである。司祭しさい公式こうしきおいて三しかも十字架じかかたち流懸ながしかけことめいぜられても、つねひとうせずともい。

ながら

とあれば、みづながことことばとなへることとをけっしてはなさず、両方同時れうはうどうじにすべきものである。どう一の仕方しかたであるからことばまちがはぬやうにするとともに、叉狼狽またうろたへぬやうにするが大事だいじである。たとへば狼狽うろたへて唯聖父たゞちゝ聖子聖霊せいれいとの御名みなよってアメンととなへては洗礼せんれいらぬ。

314◯のぞんだ七才以 下)に洗礼せんれいさづけるのは如何いかゞ

ひと靈魂れいこんすくことであれば、信者しんじゃおこたってはならぬことであります。

[下段]

ちゅう)、おやゆるさぬのに、未信者みしんじゃ子女こども洗礼せんれいさづけること出来できぬ、其子女そのこども親權しんけんもととゞまってキリスト教的けうてき教育けういくける見込みこみがないから絶對的ぜったいてきさづけることゆるされぬ。なんとなれば洗禮せんれいけるばかりで將來せうらいキリスト教的けうてきそだてられぬなら折角せっかく洗禮(礼)せんれいかへっけがされるからである。

たとおやねがってもいよいキリスト教的けうてき教育けういくけさせるとの約束やくそくがなければ其子供そのこども洗礼せんれいさづけること出来できことであって、其事情そのじぜう判斷はんだんするのは司祭しさい責任せきにんである。普通ふつう信者しんじゃではかなはぬことである。

だい一、實際死じっさいしにかかってときである。流行病りうかうべうがあってぬかもれぬと危険丈きけんだけではらぬ、いよい其子女そのこども病気べうきかゝ生存ながらへる見込みこみのないときかぎる。あるひいよいよ七さいまで生存ながらへる見込みこみのないときうであるが、しか軽々かるゞゝしくてはならぬ、キリストけうひとにくませ信者しんじゃ迫害はくがいきたさせぬやうに注意ちういすべきである。

だい二、未信者みしんじゃ子女こどもあるひ信者しんじゃわたし、其子そのこおけ

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親權しんけん放棄はうきするならさづけてもい。

だい三、うまれながらの無知むち將來せうらい智惠付ちえづ見込みこみのないひとは、成長せいてうしても子供こどものやうにられ、しにかかったものと同様どうやう洗礼せんれいさづける事出來ことできる。

かゝものおやらずあるひこのまぬでも洗禮(礼)せんれいさづけるは、うたがひなく靈魂上れいこんぜう慈善業じぜんげうおこなことなればさづけるがい。唯前たゞさきまをしたとほ軽々かるゞゝしくさづけて異教人いけうじんにくみおこさせるやうことがあってはならぬ。まんつねひと洗礼せんれいさづけた子供こどもが、案外生存あんぐわいながらへたときかなら司祭しさいげて、自分じぶんちからおよぶだけキリスト教的教育けうてきけういくけさせるやうにする義務ぎむがある。

洗礼式せんれいしきいては『基督信者宝鑑キリストしんじゃほうかん』四はんの七百十ページから七百四十六ページまでにくわしくしるされてあるから参照さんせうされい。