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第五十二課 洗 禮(礼)(二)
310◯成長した人が洗禮(礼)を授かる爲には如何な準備が要りますか
△天主の教を辨(弁)へ、之を堅く信じ、罪を一心に悔改めねばなりませぬ。
小兒(児)が洗礼を受けるに、別に準備は要しないけれども
成長した人
即ち事理を辨(弁)へる人は、相當(当)の準備が要る。
第一、
天主の教を辨(弁)へ
る事。其で常に公教要理を能く學び十誡や主要の祈禱を先に覺えねばならぬ。
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第二、
之を堅く信じ。
即ち外面ばかりでなく、眞心から信じなければならぬ。
第三、
罪を一心に悔改め
る事は、何より必要である、罪を悔まぬなら決して赦されず、叉生れ変った位に改めぬなら天主の本當(当)の子女に似合はぬ。
311●洗禮(礼)を授けるのは誰でありますか
▲洗礼を授けるのは司教司祭であります、然れど必要の場合には誰でも出來ます。
職務上
洗礼を授ける權能を有するのは司教司祭
及助祭(第四百三の問を看よ)であるから、之を忘れて普通の信者は進んで軽々しく洗礼を施す訳には行かぬ、先づ司祭に伺ふが本當(当)である。
然れど必要の場合には
如何な人でも、異教者でも、仕方を知って居さへすれば洗禮(礼)を施す事出來るに相違ない。最も必要な秘蹟であれば
誰でも
之を授ける事
出來
るのは實に有がたい次第で
[下段]
ある。
312◯必要の場合とは何でありますか
△小兒の病の危き時、或は成長した人の死に望んで洗禮(礼)を願ふ時であります(此時誨ふべき事は付録に見ゆ)成る丈司祭に賴む筈であるが、若し不在なるか、或は都合悪くして間に合はぬ時には、仕方を能く心得た人が授けるが可い。然りながら最も注意すべきは、大人には入用の事を出來るだけ能く聞かせ、叉何より天主を愛し、イエズス、キリストを有難がり、今までの罪を真に悔改め、本当に、救靈を頻に望む心を起させる事が最も大事である。要する志なき時は折角の洗禮(礼)も功なしと忘れてはならぬ。
313●如何して洗禮(礼)を授けますか
▲洗禮を授けるには、本人の額に水を灌ぎながら「我れ聖父と聖子と聖霊との御名に依て汝を洗ふ」と誦へます。
此所は能く注意すべき点である。
本人の額に水を灌ぎながら
額とあれば、他の部分でなく、若し止を得
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ず他の部分に灌いだならば、出來る時に額に灌ぎ直さねばならぬ。叉髪毛でなく、皮膚に水の付くやうに灌がねばならぬ。
水
とあれば、天水でも海水でも白湯でも可いが、兎も角本当の水が必要である、茶や酒、叉他の物では可かぬ。
灌ぎ
とあれば、即ち濡れた布片で額を拭ふ計りで足らず、水の流れるが本当である。司祭は公式に於て三度、而も十字架の形に流懸る事を命ぜられても、常の人は然うせずとも可い。
ながら
とあれば、水を流す事と言を誦へる事とを決して離さず、両方同時にすべきものである。同一の仕方であるから言を誤はぬやうにすると共に、叉狼狽へぬやうにするが大事である。例へば狼狽へて唯聖父と聖子と聖霊との御名に因てアメンと誦へては洗礼に成らぬ。
314◯死に臨んだ子(凡七才以 下)に洗礼を授けるのは如何
△人の靈魂を救ふ事であれば、信者の怠ってはならぬ事であります。
[下段]
(註)、先づ親の許さぬのに、未信者の子女に洗礼を授ける事は出来ぬ、若し其子女は親權の下に止まってキリスト教的教育を受ける見込がないから絶對的に授ける事は許されぬ。何となれば洗禮を受けるばかりで將來キリスト教的に育てられぬなら折角の洗禮(礼)は却て穢されるからである。
假へ親が願っても愈よキリスト教的教育を受けさせるとの約束がなければ其子供に洗礼を授ける事は出来ぬ事であって、其事情を判斷するのは司祭の責任である。普通の信者では叶はぬ事である。
第一、實際死かかって居る時である。流行病があって死ぬかも知れぬと云ふ危険丈けでは未だ足らぬ、愈よ其子女が病気に罹り生存へる見込のない時に限る。或は愈よ七才まで生存へる見込のない時も然うであるが、併し軽々しく爲てはならぬ、キリスト教を人に憎ませ信者に迫害を來させぬやうに注意すべきである。
第二、未信者が若し子女を棄て或は信者に渡し、其子に於る
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親權を放棄するなら授けても可い。
第三、生れながらの無知で將來智惠付く見込のない人は、成長しても子供のやうに見られ、死かかったものと同様に洗礼を授ける事出來る。
斯る者に親が知らず或は好まぬでも洗禮(礼)を授けるは、疑なく靈魂上の慈善業を行ふ事なれば授けるが可い。唯前に申した通り軽々しく授けて異教人に憎を起させる様な事があってはならぬ。若し万一常の人が洗礼を授けた子供が、案外生存へた時は必ず司祭に告げて、自分は力に及ぶだけキリスト教的教育を受けさせるやうにする義務がある。
洗礼式に就いては『基督信者宝鑑』四版の七百十頁から七百四十六頁までに詳しく記されてあるから参照され度い。