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公教要理説明/03-03

提供:Wikisource


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だい四十九くゎ 主禱文しゅたうぶん天使祝詞てんししゅくし

289●もっとすぐれた祈禱いのりなにでありますか

[下段]

もっとすぐれた祈禱いのり主禱文しゅたうぶんであります。

主禱文しゅたうぶん

すなはてんましますの祈禱いのりであるが、其譯(訳)そのわけだい一、これイエズス、キリストしたしくをしたまうた祈祷いのりだからである。聖人方つくった祈禱いのり大切たいせつにするならば、イエズス、キリストみずかつくり、をし且命かつめいたまうたものは、尚更大切なほさらたいせつである。

だい二、簡単かんたんではあるが、天主てんしゅため我々われゝゝために、ねがふべき一切いっさいことふくみ、其順序そのじゅんじょまでしめされてる、すなは天主てんしゅ御光栄ごこうえい讃美さんびし、のち吾入用わがいりようねがふやうに出来できる、だい三、天主てんしゅ聞入きゝいれられやすいから、したがっ其功果そのこうくわもあるはずである。れば文章ぶんせう工妙たくみ祈禱いのりよりも、主禱文しゅたうぶん意味いみさとあぢはひながら、落付おちついて熱心ねっしんとなふれば、天主てんしゅ御心みこゝろかなふに相違さうゐない。

290◯何故此祈禱なぜこのいのり主禱文しゅたうぶんひますか

しゅイエズス、キリストみずか此祈方このいのりかたをしたまうたからであります。

弟子等でしたちイエズス、キリストむかひ、「しゅ我等われらいのことをしたまへ」とひたれば、「汝等なんじらいのときへ」と(ル カ十一。一)おっしゃって、「てんまします」(英文、羅甸(ラテン)文の言い方「(天の~ of Heaven)我らの父(ノーストレ(アワー)・パーテレ(ファーザー))」の祈り)をならはせてくださったが、これ主禱文しゅたうぶん

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すなは御主みあるじ祈方いのりかたなづけられた。しゅめいたまところであれば、聖會せいくわいではこれ非常ひぜうおもんじてる。れば、信者しんじゃ暗記あんきして度々誦たびゞゝとなへるやうつとめねばならぬ。此中このうち日用にちようかて今日与こんにちあたたまへ、つみゆるたまへ」などあれば、日々誦にち〱となふべきはずであらう。

291◯主禱文しゅたうぶんいくつのねがひふくみますか

主禱文しゅたうぶんなゝつのねがひふくみます。

なゝつのねがひ

すなははじめつは天主てんしゅ御光榮みさかえためにして、あとつはひと靈肉上れいにくぜう入用いりようもとめるのである。

ちゅうなゝつのねがひほかはじめにはこゝろ天主てんしゅげる序文じょぶんすなは前書まへがきがあって、をはりには結文けつぶんすなはむすびがある。序文じょぶんは「てんましま我等われらちゝよ」とことばであるが天主様てんしゅさま旧約時代きうやくじだいごとく「יהוהyhvhアドナヰ」(主)ともはず、叉今またいまごと天主てんしゅとか、造物主ぞうぶつしゅとか、造主つくりぬしともはずして、殊更ことさらちゝなづけるのは、如何いかにもしたしみふかありがたいことばで、ひとこゝろもっいのるべきかをしめしてる。此世このよ父母ちゝはゝ生命いのちつたへても、勝手かってこれ與(与)あたへたり、たもこと出來できない。天主てんしゅのみが出來給できたまうがゆゑまこと

[下段]

我等われらちゝにてましますのである。自然界しぜんかいおいすで我々われゝゝちゝにてましますのに、超自然界てうしぜんかいおいては聖寵せいてうよっ我等われら子女こどもとして引受ひきうけ、御一子おんひとりごイエズス、キリストもったすけ、家督かとくとして天国てんごくやくたまうたれば、尚更我等なほさらわれらちゝはねばならぬ。

我父わがちゝはず我等われらちゝとあれば、自分じぶんことばかりおもはずして、皆兄弟みなけうだいであること皆心みなこゝろちからとをあはぜて相互あひたがひためいのり、相助あいたすけねばならぬことしめすのである。叉天またてんましますとあるは、てんあふげば天主てんしゅ広大無辺くわうだいむへんにてましまし、此下界このげかいよりはかぎりなく超越てうえつたまことかる。てん我等われらつひちゝ見奉みたてまつためされるところであれば、我々われゝゝこゝろつね下界げかいより引上ひきあぐべきこと覺悟かくごし、主禱文しゅたうぶんとしてはもっと相應ふさわしい序文じょぶんである。

292◯「ねがはくは御名みなたふとまれんこと」をとの意味いみ如何いかゞ

天主てんしゅ御名みなけがされずしてあまねられあがめられることねがふの意味いみである。

天主てんしゅ讃美さんびするにも冒瀆ぼうとくするにも其名そのないだすものであれば、

御名みな

天主てんしゅ同一どういつのものとこと出來できる。天主てんしゅ

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けがされずして

とは、だい百五十五のとひはれたとほり、天主第てんしゅだいかいもっいましめられたる冒瀆等更ぼうとくなどさらくして、全世界ぜんせかいに、天主てんしゅらぬひとかぞへられぬほどあるから、うか何國いづくにも御名みなれ、萬國萬代ばんこくばんだい人々ひとゞゝ天主てんしゅ如何いかたふと難有思ありがたくおも其御旨そのおんむねしたがふべきものであるかを弁(辨)わきまへ、あがめ、善徳ぜんとくもっせいとせられんことねがはば布教ふけう成功せいこういのるのである。

293◯「御國みくにきたらんことを」との意味いみ如何いかゞ

公教會こうけうくわいさかんになり、人々ひと〲ぱん天國てんごく福樂さいはひかうむことねがふの意味いみである。

御國みくに

とは來世らいせ天國てんごくすのではない、むし天國てんごく入口いりくちなる此世このよ公教會こうけうくわいすのである、旧(舊)約きうやく預言者よげんしゃ洗者せんしゃヨハネイエズス、キリストも「天主てんしゅくに」とか「天國てんごく」とか殊更ことさらなづたまふた。秩序ちつじょとゝのうたくにおいては國民こくみんは、くに法律はうりつみづかすゝんでまもると同樣どうやうに、人間にんげん皆天主みなてんしゅをしへ歸(帰)服きふくすべきものである。

キリスト此國このくに建設けんせつするため天降あまくだたまふたことを、種々さまゞゝ

[下段]

譬話たとへばなしもって、其原因そのげんいん其性質そのせいしつ其徳そのとく其國民そのこくみん義務ぎむべ、天主てんしゅ國王こくわう家父かふ判事はんじたとへ、当分たうぶんいものもわるいものもこんじてってるけれど、必竟審判つまりさばきけて善人ぜんにんのみが天國てんごく歸(帰)すべきものであるとおほせられた。其國そのくにすでてはれど、に一箇処かしょでも一にんでもこれしたがはぬもののあるあひだ我々われゝゝ御國みくにきたらんことをといのはずである。

294◯「御意みむねてんおこなはるゝごとにもおこなはれんことを」との意味いみ如何いかゞ

てんおい天使てんし聖人せいじん天主てんしゅ御思召おぼしめしげつゝあるごとく、おいてもすべてのひと天主てんしゅ御思召おぼしめししたがふやうになることねがふの意味いみである。

御意みむね

とは思召おぼしめしとも御心みこゝろともはれるが、せいパウロ羅馬書ろましょ十二せうせつこれぜん御心みこゝろかなこと完全くわんぜんとのみつけてる。ぜんとは善悪ぜんあく區別くべつする天主てんしゅ誡命かいめい御心みこゝろかなふとはひとよろしくまもるべき天主てんしゅ御勸おんすゝめ完全くわんぜんとは天主てんしゅ御望おんのぞみまでをふが、

てんおい

天使聖人てんしせいじんおのれおもはず、天主てんしゅのみをおもひ、唯天主たゞてんしゅ御心みこゝろまったうすることのみを勵(励)はげむがごとく、

おい

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すべてのひとをしまず、天主てんしゅ誡命かいめい御勸おんすゝめ御望おんのぞみまでにしたがふやうになることねが意味いみである。

ちゅう主禱文しゅたうぶん此通このとほ翻訳ほんやくされるが、原文げんぶんれば、「てんおけごとにも」とことばだい三のねがひのみならず、みつねがひとも包含ほうがんするやうにえる。それはゞ「御名みなせいとせられかし御國みくにきたれかし、御意みむねおこなはれかし、てんおけるがごとおいても」との意味いみらしい。

295◯「我等われら日用にちようかて今日我等こんにちわれら與(与)あたたまへ」との意味いみ如何いかゞ

我等われら靈魂れいこん肉体にくたいとのため必要ひつえうなものを、日々天主にちゝゝてんしゅからあたへられることねがふの意味いみである。

かて

かはり原文げんぶんにはパンとある。パンはイエズス、キリスト時代じだいくに常食ぜうしょくであったので、日用にちようかてとは日々要にちゝゝい食物たべものいひである。

それおもよつ意味いみられる、だいからだやしな食物たべものだいイエズス、キリストが「ひときるはパンのみによるにあらず、

[下段]

叉天主またてんしゅ御口みくちよりづるすべてのことばによる」とおほせられた天主てんしゅ御教みをしへだい生命いのちのパンと稱(称)せうせられたる聖體(体)せいたい(ヨハネ六。四一、四八、五三、五六)。だいつひ天主てんしゅ子女こどもたる生命いのち維持ゐぢする助力じょりき聖寵せいてうである。

今日こんにち

とあるは、明日あすまできぬかもれぬ、明日あすことまで思煩おもひわづらふにおよばぬと、キリストおほせられたからである。これもっ先々さきゞゝためたくはこときんじられたのではない、唯生命たゞいのちの一にちでもしゅ御手みてにあって、生存ながらへるやしなひまった天主てんしゅ日々にちゝゝたまものなるゆゑ日々其御摂理にちゝゝそのごせつり依頼いらいすべきことをしへ、天主てんしゅ肉体霊魂にくたいれいこんものを、今日けふさへくださればいと日々祈にちゝゝいのらせるのである。

296◯「我等われらひとゆるごと我等われらつみゆるたまへ」との意味いみ如何いかゞ

我等われらたいして過失あやまちをかしたもの我等われらゆるごとく、天主てんしゅからも我等われら過失あやまちゆるされんことねがふの意味いみである。

しゅ御言みことばあきらかである、すなはち「ゆるらば汝等なんぢらゆるされよう」と(ル カ六。三七)、また汝等若なんぢらも各心おのゝゝこゝろよりおの兄弟けうだいゆるさずば

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我天父わがてんぷ亦汝等またなんぢらかくごとたまふべし」と(マ テ オ十八。三五)。れば此願このねがひも「ごとく」とあれば条件付でうけんつきになって、我等われら他人たにんゆるさぬならば天主てんしゅ我等われらにはゆるたまことなかれとの意味いみになる。ゆるすべきはけた損害そんがい權利けんりをかされることではない、遺恨ゐこんである、遺恨ゐこんさへふくまぬなら、損害賠償そんがいばいせう權利回復等けんりくわいふくなど請求せいきうしてもい。しんから遺恨ゐこんてて、つみ痛悔つうくわいすれば、これ小罪せうざいゆるされるに相違さうゐない。

297◯「我等われら誘試こゝろみたまはざれ」との意味いみ如何いかゞ

我等われらすべてのいざなひからのがれさせ、且之かつこれへる助力ちからくだたまことねがふの意味いみである。

誘試こゝろみ

とは、こゝろうごかされてつみにでもかされることであるが、

それは惡魔あくますゝめ邪欲じゃよくばかりではない、靈肉上れいにくぜう困難こんなん幾許いくらうである。天主てんしゅ我々われゝゝ救靈たすかり危険きけんるものよりのがれさせ、叉通例またつうれい人間にんげん欲心よくしんよりおこ又功績またこうせき機會きくわいにもるからとの思召おぼしめしならば、したがってこれへ、立派りっぱ打勝うちか助力ちからたまはることいのるのである。せいヤコボいはく「たれいざなはれるに

[下段]

當(当)あたって天主てんしゅよりいざなはれるとふべからず、けだ天主てんしゅあくいざなはれたま事能ことあたはざれば、たれをもいざなたまことなし、おのゝゝいざなはれるは、おのれよくかれまどはされてとある、かくよくはらむやつみみ、つみまったうせられるやせうずる」と(ヤコボ書一。十三、十五)叉聖またせいパウロいはく「汝等なんぢらかゝこゝろみひとつねなるもののみ天主てんしゅ眞實しんじつにてましませば、汝等なんぢら力以上ちからいぜうこゝろみられることゆるたまはず、かへっへることさせるために、こゝろみともつべき方法ほうはふをもたまふべし」と(コリント前書十。十三)

268◯「我等われらあくよりすくたまへ」との意味いみ如何いかゞ

すべてのあくすなは禍災わざはひつみ地獄ぢごくとをまぬがれることねがふの意味いみである。

あく

とは、わることばかりではない、おもがい

禍災わざはひつみ地獄ぢごく

であって、是皆天主これみなてんしゅ御助おんたすけもっのがれ、あるひこれへることいのるのである。りながら禍災わざはひことゞゝまぬがれしめたまへとねがわけにはかぬ、天主てんしゅ禍災わざはひ取除とりのたまはぬ理由りいうだい二十五のとひえる。

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299◯「アメン」との意味いみ如何いかゞ

△「アメン」とはしかあれかしとの意味いみであります。

アメン

とはヘブレオであって、さきはれたこと繰返くりかへして、これ承諾せうだくするとの意味いみである。使徒信経等しとしんけうなどでは、本当ほんとう祈禱いのりでなく、しんずべき事等ことなどべるのであるからしかり、わたくしいよいうであるとの意味いみになる。祈禱いのりをはりでは、しかあれかし、すなはわたくしいのたてまつるとの意味いみである。ちひさな一げんではあるが斯樣かやう意味深いみふかいものであるからつねしんからうやゝゝしくとなへるはずである。

300●聖母せいぼマリアたいする祈禱いのりうちもっとすぐれたものはなにでありますか

天使祝詞てんししゅくし祈祷いのりであります。

天使祝詞てんししゅくし

とは、めでた聖寵せいてう充満みちみてるマリアとのことばもっはじま祈祷いのりであるが、大天使だいてんしガブリエルが御告おつげため天主てんしゅよりせいマリアつかはされて、挨拶あいさつもちゐたことばゆゑ、其祈禱そのいのり天使祝詞てんししゅくしなづけられたわけである。

[下段]

天使てんしことばは、なんぢをんなうちにてしゅくせらる、までいたるが、めでたしとは本当ほんたう挨拶あいさつであって、原語げんごでは、やすかれとの意味いみであるが、羅甸語ラテンごではアヴェすなはすこやかなれ、希臘語ギリシャごでは、よろこべとの意味いみある通常つうぜう挨拶語あいさつごもっ譯(訳)やくされてる。

めでたしの祈禱いのりは、挨拶あいさつ祈願きぐわんとの二わかたれる。挨拶あいさつ大天使だいてんしガブリエルと聖母せいぼ親族しんぞくエリザベトとのことば成立なりたつ、すなはち「をんなうちにてしゅくせらる」までは大天使だいてんし挨拶あいさつであるが、つぎの「御胎ごたい御子祝おんこしゅくせられたまふ」とは聖母せいぼ訪問ほうもんされた親族しんぞくエリザベト挨拶あいさつである。祈願きぐわんはそれからをはりまでゞあるが、これ公教會こうけうくわいおよそ十六世紀せいきころくはえられたのである。