公教要理説明/03-02

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だい四十八くわ いのり[編集]

せいてうるにはひせきゆゐいつみちでない、いのりるが、ひせきさづかるぜんごにもそのときにも、いのりなによりひつえうかくべからざるでうけんである。

281●いのりとはなにでありますか[編集]

いのりてんしゅ

[下段]

こゝろげて、てんしゅさんびし、つみゆるしまためぐみねがことであります。

いのり[編集]

きたうともふが、はやへばてんしゅあるひせいじんたちものまうしあげることである。

てんしゅこゝろげる[編集]

とは、このよりながらこゝろせじよりひきはなして、あたかてんしゅまみかつみたてまつるがごとくにまをしあげることであるがくちばかりのいのりほんたういのりでない、むしてんしゅたいしてぶれいる。

いのりねがことばかりでない、

てんしゅさんびし、[編集]

すなはてんしゅばんぶつつくりぬしぜんちぜんのうぜんゞゝにてましませば、そのかぎりなきおんとくかんじてれいはいし、さいぜうみあるじあがめ、ほめあたてまつことである。

おんしゃ[編集]

とは、あるひじんるゐいっぱんに、あるひちょくせつかんせつおのれれいこんぜうにくしんぜうたまはりたるめぐみかんしゃして、おれいまをしあげることである。たとへばつくられたることいきながらへさせられたることつみゆるされたることわざはひのがれたることなどまたなににもかぎらずおんめぐみいちゝゝ

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かんしゃたてまつことである。すなはおのいりようわすれて、てんしゅさんびかんしゃするのは、ものねがふよりもねうちもあればきゝめもある。

つみゆるしねがふ。[編集]

あやまったときことさらくいあらためて、つみゆるされることとりけされることねがことである。

めぐみねがこと[編集]

すなはれいこんぜうたすかりためたとへばてんしゅあいすることおきてまもことあくまうつかちからてんごくいためぐみせいくわいりうせいなどねがばかりでない、にくしんぜうも、たとへばそくさいべうきぜんくわいいたみやはらことじげふせいこうさくもつみのりわざはひのがれることなにによらずことさらてんしゅおはからひによるところめぐみねがことである。またおのれためばかりでなくたにんためおやけうだいしんせきゆうじんあだがたきためししゃためにもおんめぐみねがことである。

ちゅういのりふたどほりあってこうとうもくとうとである。こうとうことばもってするいのりであるが、もくとうことばもちゐず、こゝろばかりでするいのりである、たとへばありがたさにへずてんしゅあふたてまつり、あるひつみくやみこんで十じかなどもともくしてくやみへうするときごとし。またこうとうこじんてきいのりこうしきてきいのりとある。たとひおほぜいいっしょとな

[下段]

へても、かくじんもくろみによってするいのりこじんてきであるが、こうしきいのりせいくわいさだめあるひさしずによって、しさいつかさどいのりである、たとへばミサせいさいいのりげうれつなどごとし。こうしきいのりとくべつこうのうあるは、まうすまでもないことである。

282●いのりひつえうでありますか[編集]

しかり、いのりせいてうたすかりるにもっとひつえうであります。

一、ひとりせいあたへられてるからもとよりてんしゅをがほめあたてまつるべきものである。またいさゝかでもたれかにせわったときおれいまうさずにはまず、おんらぬならばってかれるやうにるがごとく、かならてんしゅかずゝゝめぐみたいしてもかんしゃつとめつくはずである。

二、またせいてうたすかりじぶんちからばかりでられるものでない(二百七十三のとひよ)、てういしぜんめぐみでもあり、かつしじゅうこれえうするので、てんしゅよりことさらたまはるものなれば、かならこれいのもとめねばならぬ。

三、つひイエズス、キリストが「なんぢらいざなひらざるやうけいせいしていのれ」と(マ テ オ 二六。四一)のめいれいあり、「ねがらばあた

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られよう」と(マ テ オ七。七等)のかへすゞゝゝのおやくそくあり、ごじぶんれいしめして、たびゝゞしかよどほいのたまふたことあり、せいじんがたしきりいのりつとめ、またむかしいましうけうでもいのりなによりもひつえうとするところれば、いのりひつえうなることうたがひいれられぬ。いのりれいこんてんのぼれうよくであり、またこきふのやうにおこたるべからざるものである。

ちゅうキリストおことばに「いのらぬうちからてんちゝなんぢらいりようたまふ」と(マ テ オ六。八)あるのに、なぜいのりひつえうか。しかおほせらたに、またいのれとしきりめいたまふたわけは、あたへることてんしゅぎむでなく、いのことこそひとぎむであって、おのいりようわきまへ、てんしゅよりたまはらぬならなにできずとさとり、へりくだってねがひ、ありがたがってかんしゃすべきことわすれてはならぬからである。

283●いのりきゝいれられるにはとほりいのらねばなりませぬか[編集]

しんゞゝきぼうとをもっいのらねばなりませぬ。

イエズス、キリストいのことしきりすゝめ、かならきゝいれられる

[下段]

いくどとなくやくたまふたにかゝはらず、いのりきゝめのないことは、あるひしきながら、あるひしきことを、あるひしくいのるからである。こゝろみにおもひとてきであるあひだは、そのひとからねがひきゝとゞけられるはずがない、またふためことおやねがうてもあたへられない、またひとものねがふにぼんやりして、ことさへらぬぜうたいねがってはかへっぶれいり、はねつけられるはずではあるまいか、てんしゅたいたてまついのりなほさらそのとほりである、きゝいれられぬことつぶやくよりは、むしいのりかたわるくはないかとかへりみるがだいじである。

しとたちイエズスむかひ「しゅいのことわれらをしたまへ」と(ル カ 十一。一)ねがうたごとく、いのみちまなばねばなりませぬ、よくいのるにひつえうことしんゞゝきぼうとをもってすることである。

284●しんじんもっいのるとはなにでありますか[編集]

しんゞゝもっいのるは、つゝしんでたねんけ、きよこゝろもっひとへいのことであります。

つゝしんで[編集]

とは、たっとおかたおめにかゝるときえりたゞごとく、いのときたいどこゝろつゝしんで、おちついて、かたことはず、ていねいはつおんするなどことである。

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たねんける[編集]

とは、いのりせいしんめて、よそごとおもはず、こゝろらさぬやうにつとめることである。しかおもはずこゝろるやうなときにはできるだけこれいましむればる。たゞくちまかせて、ところらず、あとさきまちがへたり、かたことうては、ほんたういのりらず、かへってんしゅぶれいきわまことる。ればこゝろまなこひらいててんしゅみたてまつり、あるひことばいみけて、しんからとなふべきである。

きよこゝろもっ[編集]

とは、なによりじまんやしんられぬことである。もくてきもっぱてんしゅおんためみこゝろかなことれいこんりえきことねがひたい、もしわがねがひごとてんしゅみこゝろかなはぬばあひには、たゞおぼしめしまかするこゝろいのらねばならぬ。

ひとへいの[編集]

とは、つみびとであればてられるはずおぼえ、へりくだってあだかびんぼうにんほどこしねがふがごとこゝろからいのことである。

ちゅうしんゞゝもっいのるとは、たゞしんゞゝようすあらはばかりでなく、てんしゅみこゝろかなひ、またいのりきゝとゞけられるやうにこゝろがけることである。なみだながしてねっしんいのっても、こゝろたゞしくなければ、

[下段]

せいしょに「このじんみんくちびるわれたふとべど、そのこゝろわれとほざかってる」と(マ テ オ十五。八)あるがごとしだいゆゑこゝろたいどそろはねばならぬ。

285●しんゞゝもっいのためどうせねばなりませんか[編集]

こゝろしづめて、てんしゅみまへことむぜうしゅおはなしすることとをおぼえねばなりません。

せいしょに「いのりさきだってれいこんじゅんびせ」と(集 会 書十八。二十三)あるがごとく、なんじゅんびもなしにとつぜんいのりはじめてもねっしんいのことむづかしい。それ

こゝろしづ[編集]

ねばならぬ、こゝろしづめるとはこゝろないぐわいじゃまものけることであって、ことさらつみあいちゃくすなはつみこのこといろゝゝしごとことなどいのりあひだかんがへないことである。イエズス、キリストおことばに「いのるにおのしつり、ぢてひそかいのれ」と(マテオ六。六)ある。でいのるにはできるだけざっとうさわぎけるがだいじである。こゝろつねしづまったひとは、さわぎうちでもいのことできるけれどもるたけこれけて、しづかなところつゝしんでいのほうがよい、ないしんさわぎならいのりじゃまにはらぬ、たとひそのときいのりいやがるこゝろおこって

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も、しんぼうしていのればさわぎおのづかしづめられる。イエズス、キリストゲッセマニおいみづかかなしみおそれおそはれて、こゝろさわあせたらほどっても、たいにんしていのつゞたまふたのをてもあきらかであり、もはんである、じぶん

てんしゅみまへるのだとおもはねばならぬ。[編集]

ひとまへぶれいおもはれるやうなことしててんしゅみまへおいてはこれけ、からだしせいたゞし、いとていねいかつへりくだって、できるだけひざまづいていのるがい。

むぜうしゅまうたてまつるのだとおもはねばなりません。[編集]

けだこくわうだいじんなどはなことめいよとするならば、しててんしゅばんぶつおんあるじいのこといかほどたかめいよであり、くわんきであらうか。ゆゑうやゝゝしくおそれながらいのりまうしあげるはずである。

286●きぼうもっいのるとはなにでありますか[編集]

きぼうもっいのるとは、いのところじっさいためになるものならば、てんしゅかならきゝいたまふとたのもしくおもっていのことである。

[下段]

きぼうもっいのるとは

たのもしきこゝろもって、[編集]

すなはねがひききとゞけられるとのふかしんらいもっいのことである。

いのところじっさいためになるものならば[編集]

とは、じぶんではためになるつもりいのるけれどもあるひきけんり、あるひわざはひほろびもとって、じっさいためにならぬことたびゝゞある。かゝばあひてんしゅこれたまはらず、そのかはりめぐみを、たとへばあきらめてたへしのちからたまふのは、かへっいのりかなうたしるしになる。

かならききいたまふとおも[編集]

とは、こゝろもっことねがへば、ききいたまふにさうゐない、またおほぜいこゝろそろへてきながしきりいのり、またイエズス、キリストみなによっていのれば、ことさらこうのうあるはずである。

287◯なぜきぼうもっいのらねばなりませんか[編集]

イエズス、キリストは「ねがらばあたへられる」と(マテオ七。七)やくそくたまふたからである。

それのみならずふくいんしょに「すでいたゞいたがごとくにかんしゃしていのれ」と

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(マルコ十一。二十四)あるから、せいヤコボいましめとほり、めぐみけるものとかくしんもっいのらねばならぬ。

288●いついのはずでありますか[編集]

しばゝゞいのらねばなりませぬ、ことあさゆうおもなるわざまへれいこんにくしんきけんときみだうときなどであります。

しばしば[編集]

どころではない、イエズス、キリストは「えずいのりてまざるべき」ことを(ル カ十八。一)をしたまひたればしじゅういのるがほんたうである、これしごとめてもっぱいのりとなへるとことではない、しごとうちにでもまたなにてもくるしみなやんでても、こゝろイエズス、キリストあはせて、くらくともにし、たえまなくさゝげるとことであるが、じつながいのりふねっしんとなへるよりも、みじかいのをねっしんたびゝゞまうしあげるはかへっこうのうがある。みじかいのりしゃたう(orationes jaculatorise)となづけられるが、のやうにまっすぐてんしゅおくるからである、たとへば「イエズスあはれたまへ」「しゅくらうさゝたてまつる」「しゅわがこゝろみこゝろあやからしめたまへ」などしんからまうしあげるいのりである。

[下段]

ことあさゆふ[編集]

あさてんしゅをがみ、おんしゃし、けふおもひのぞみことばおこなひくらくさゝげ、ほんじつうへおんめぐみよびくだためゆふことそのひいたゞいためぐみしゃし、をかしたつみゆるしねがひ、やちゅうごほごためであるが、かならずしもきとうぶんせたるながいのりまうしあげることかぎらぬ、それてほんであって、それとなへるはなによりことさうゐないけれどももっみじかいのりでも、ねっしんとなへればつみまぬがれるが、あさゆふすこしのいのりとなへないならば、つみまぬがれない。またひとりゞゝでなく、いっかこぞっあさゆふいのりとなふれば、いっかますまむつまじくなり、ぜんかうへめぐみいたゞき、これこそイエズス、キリストかていうちとゞまたまこともとめるみちである。おんことばに「二にんあるひは三にんわがなによってあつまればわれそれらうちる」と(マ テ オ一八。二〇)おほせられたとほりである。

おもなるわざまへ[編集]

すなはしごとべんけうをしへけいこなどまへに、つとめてためことねがふのである。

れいこんにくしんきけんとき[編集]

れいこんきけんとは、つみおちいやすことである。たとへばあくまいざなひしきともだちすゝめしよく

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おこときなどにくしんきけんとは、けがさいなんてんさいなどためいのちうしなきけんときに、てんしゅことさらおんたすけねがことである。

みだうとき[編集]

これこそだいじであって、せいしょことばに「わがいへいのりいへばるべし」と(マ テ オ二十一。十三)あるがごとく、みだういのりをすべきところである。ことイエズス、キリストせいたいましまし、われらいのりって、これきゝとゞけたいとのおぼしめゆゑみだううちはいときそとまったこゝろいれかへて、イエズスさまるがごとこゝちもっねっしんいのり、あちこちみまはことず、またひとためふかうぎれいとならずして、いっしんいのるはしたうである。

など[編集]

とあれば、しじゅういのれとはれたこといてしるしたるとほりである。