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公教要理説明/03-01

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だい四十七くゎ 聖 寵せいてう

273●ひと自分じぶん力計ちからばかりをしへまも救霊たすかりこと出來できますか

いな聖寵せいてうによらねば、をしへまも救靈たすかりこと出來できませぬ。

だい一、

ひと自分じぶん力計ちからばかりをしへまも

ぬのは、をしへもとよりひとちからおよばぬとわけではない、天主てんしゅちからおよばぬことけっしてめいたまはずはない、唯人たゞひと種々いろ〱邪欲じゃよくくらまされやす叉悪魔またあくまだまされやすいので、始終之しじゅうこれ

[下段]

すこしもつみをかさにやうにはつとめかねる。聖人達せいじんたちがよくをしへまもったのは、えず用心ようじん叉聖寵またせいてうちからあはせて、おの全力ぜんりょくげて勵(励)はげんだためである。せいパウロいはく「いまごとくなるは天主てんしゅ恩寵おんてうによれり」(コリント前書十五。十)と。

だい二、

自分じぶん力計ちからばかり救靈たすかりられぬ

のは、救靈たすかりとはりもなほさず天主てんしゅ見奉みたてまつり、天主てんしゅより子女こどもとしてあいせられ、天国てんごくをはりなくたのしことであるからである。ひとちかららぬところは、聖寵せいてうによって出來できるやうになる。聖寵せいてう天主てんしゅひとちかららぬところは、聖寵せいてうによって出來できるやうになる、聖寵せいてう天主てんしゅひととのあひだへだてるふちひと天主てんしゅ結合けつがふせしめるものである。

274●聖寵せいてうとはなにでありますか

聖寵せいてう救靈たすかりため天主てんしゅたま超自然てうしぜん恩惠めぐみであります。

ゆゑ聖寵せいてうついてはつぎみつことみとめねばならぬ。(一)聖寵せいてう天主てんしゅ恩惠めぐみ、(二)超自然てうしぜん御恩惠おんめぐみである、(三)与(與)あたへられるのは此世このよためでなく永遠えいゑん救靈たすかりためであるとこと

だい一、聖寵せいてうことばは、天主てんしゅいつくしみ天主てんしゅよりあいせられるとことであるが、被造物ひぞうぶつたる人間にんげん其創造主そのつくりぬし天主てんしゅより

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としてあいせられるのは自然あたりまへことではない。まった天主てんしゅかぎりなき御慈悲おんじひによってほどこされる特別とくべつ御恩惠おんめぐみである。

だい二、人間にんげんうまれたのも、智惠ちゑ能力ちから叉何またなに与(與)あたへられるのも、皆固みなもとより天主てんしゅ御恩惠おんめぐみである、唯然けれども人間にんげんである以上いぜう其丈それだけ自然しぜん賦与(與)ふよされたる所謂いはゆる自然しぜん恩惠めぐみ」である、聖寵せいてう自然あたりまへではない、まった人間にんげんあまるもの、すなは自然しぜんえた恩惠めぐみである。よっこれを「超自然てうしぜん恩惠めぐみ」とふのである。こゝおい超自然てうしぜんことば了解れうかいするのは大事だいじである。たとへばみずこうり湯気(氣)ゆげくもあがるのは自然しぜんことである、かひこさなぎてうるのは、不思議ふしぎであっても造物主ざうぶつしゅよりきめられた順序じゅんじょ自然しぜんである。貧乏人びんぼうにん金滿家かねもちり、尾張おはり田舎ゐなか百姓ひゃくせう息子むすこうまれた日吉ひよしでも漸次だんゝゝ豊臣秀吉とよとみひでよし大閤秀吉たいかふひでよしのやうな大人物だいじんぶつったのは、いくめづらしくても矢張人間性やはりにんげんせいえたことではないから、超自然てうしぜんとははれぬ。いしはなき、はなとりり、さるひとるとふならそれは其物そのもの本来ほんらいせいえたことであるから超自然てうしぜんはねばならぬ。そこ貧乏人びんぼうにん富家かねもち養子やうしになったり、国王こくわう養子やうしになったりする

[下段]

ことおな人間同志にんげんどうしゆえ超自然てうしぜんこととははれぬ、しか人間にんげん天主てんしゅ子女こどもになるのは(イザヤ、9:6「永遠の父」マタイ伝、6:9「我等の父」)これこそ人間性にんげんせい似合にあはず、身分みぶんえたことはねばならぬこれ超自然てうしぜんふべきものである。叉骨折またほねをってかねまうけられるのは当然あたりまへなれど其働そのはたらき天国てんごくって天主てんしゅ見奉みたてまつり、天主てんしゅよりあいせられ、をはりなき幸福さいはひられるのは当(當)然あたりまへでない、すなは超自然てうしぜんであって天主てんしゅかたじけなき御愛憐ごあいれん殊更ことさら御恩恵おんめぐみによる。聖寵せいてうそんなものである、てられるはずなのにつみゆるされ、天主てんしゅ子女こどもり、御心みこゝろかなひ、御共おんともをはりなき幸福さいはひられるのは、人間にんげん生付うまれつきえたもの故超自然ゆゑてうしぜんほかなし。れば聖寵せいてう人間にんげんから請求せいきうすること到底出來たうていできぬものであって唯天主たゞてんしゅかぎりなき御慈悲おんじひまたイエズス、キリスト我々われ〱すくうてくださった結果蒙けっくわかうむるものである。とくいても、超自然徳てうしぜんとくはれるのは、其徳そのとくおこなこと人間自然にんげんしぜん理由りゆうもとづかず、人間以上にんげんいぜう原因げんいんによるからである。

だい三、恩寵めぐみおも此世このよためあたへられるが、聖寵せいてう唯永遠たゞえいゑん救靈たすかりため与(與)あたへられる、すなは聖寵せいてう天国てんごくおい天主てんしゅ直觀ちょくくゎんする幸福さいはひせしめる。しかして、天主てんしゅよりこれたまはるのは、

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まったキリスト御功力ごくりきによるのである。

ちゅう一体聖寵いったいせいてうとは羅典語らてんごGratiaグラチアやくしたことばであるがむしろ「恩寵おんてう」とふのが適当てきたうでらう。

275◯聖寵せいてう幾種いくとほりありますか、

聖寵せいてう二通ふたとほりあります、助力じょりき聖寵せいてう成聖せい〱聖寵せいてうとであります。

助力じょりき聖寵せいてう

すなはちからたすけて加勢かせいになる聖寵せいてうとの意味いみ

成聖せい〱聖寵せいてう

すなはひとせいならしめる聖寵せいてうとの意味いみである。兩方れうはうちがところ今説明いませつめいする。

276●助力じょりき聖寵せいてうとはなにでありますか

助力じょりき聖寵せいてうあくぜんおこなはせるために、ひとこゝろてらつよめる天主てんしゅ御助おんたすけであります。これ天主てんしゅ助力じょりきともひます。

助力じょりき聖寵せいてう

ぜんおこなあくけるため

与(與)あたへられる。それ始終しじゅうではない、一時的じてき加勢かせいであるから、ときだけ、すなはことぜんはずときあるひあくくべきときだけである。

助力じょりき聖寵せいてうはたらきふたつすなはち(一)こゝろてらす、(二)こゝろつよめる

[下段]

ことである。

だい一、

こゝろてらす。

ひとこといてあかるくあっても善惡ぜんあくいては、めう明盲あきめくらのやうで、これい、ねばならぬ、それわるい、うしてはならぬと、良心れうしんさとされながらあはむかず、あるひ私欲しよくくらまされるためすべきぜんさず、すべからざるあく場合ばあひおほい。助力じょりき聖寵せいてうさまさせて、いよいねばならぬ、てはならぬとこと尚明なほあきらかにさとし、こゝろくのである。せいパウロ改心かいしんするためさまさせたのはそれである。

だい二、

こゝろつよめる。

さとりながらも力弱ちからよわくてぜんきらず、あくけきらず、惡魔あくま世間せけん叉己またおのれけて、もろくもつみおちいこと度々たび〲ある、これ打勝うちかつやうに、[方]力ちかららぬところ与(與)あたへるのは聖寵せいてうであって、それ助力じょりき聖寵せいてうふ。せいパウロいはく「われつよたま御者おんものおい一切いっさい事我ことわざるはなし」(フィリッピ四。十三)と。聖人達せいじんたち熱心ねっしんつとめたのも、殉教者達じゅんけうしゃたちくるしみけなかったのも天主てんしゅ助力じょりきによる。

ちゅう)、だい一、助力じょりき聖寵せいてうけるのは信者しんじゃばかりでない、ひと

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みなであって、こゝろうちばかりにおこときたとへばかんがへのぞみ良心れうしんすゝめ呵責かしゃくも、これを「内部ないぶ恩寵おんてう」とふ。外来ぐわいらい刺激しげきたとへばはなし模範もはんあるひ困難こんなん失敗等しっぱいなどもっうごかされるのは、ことに「外部ぐわいぶ恩寵おんてう」とふ。

だい二、實際じっさい天主てんしゅ助力じょりきらぬことはない、ひとこれおうじて勵(励)はげことらぬのがつねである。それ聖寵せいてうてらされつよめられながらつみおちいるのは、おのちから聖寵せいてうあはせず、かへっこれはんするからである。ゆゑなにより大事だいじなのは聖寵せいてうさからはずこれおうじて勵(励)はげことである。

だい三、聖寵せいてうによってことすゝめられるのは、「恩寵おんてうすゝめ」とふが、これみゝさず、したがはぬのは「恩寵おんてうさからふ」とふ。恩寵おんてうさからへば天主てんしゅ恩惠めぐみないがしろにし、折角せっかく御助力ごじょりきて、恩寵おんてうかんじにぶり、益々目ますますめくらまされ、心惡こゝろあくかたまり、つみくせり、特別とくべつ助力じょりきがなければほろびいたる。

277●成聖せい〱聖寵せいてうとはなにでありますか

成聖せいせい聖寵せいてう霊魂れいこんきよめ、御心みこゝろかなはせる天主てんしゅ御恩恵おんめぐみであり

[下段]

ます。これとく聖寵せいてうともひます。

それ成聖せい〱聖寵せいてうはたらきおもふたつ、(一)靈魂れいこんきよめる(二)天主てんしゅ御心みこゝろかなはせる。此二このふたつ要件えうけんもっ聖人せいじんられる、ゆゑ成聖せい〱聖寵せいてうすなはせいならしめる、聖人せいじんらしめる聖寵せいてうなづけられてある。

だい一、

成聖せい〱聖寵せいてう霊魂れいこんきよめ。

大罪だいざいがあるときでも聖寵せいてうかうむればつみまったゆるされてこゝろきよる。預言者よげんしゃことばに「假令たとひ汝等なんぢらつみごとくなるもゆきごとしろくならん」と(イ ザ ヤ一。十八)あるがごとし。大罪だいざいがない時即ときすなは聖寵せいてう状態ぜうたいにあって、さら聖寵せいてうかうむれば聖寵せいてうこゝろますまきよくなり天主てんしゅとの一益々ます〱親密しんみつになる。

だい二、

御心みこゝろかなはせる。

すなは大罪だいざいもってきであったのに、聖寵せいてういたゞけば天主てんしゅ愛子あいしる。すで愛子あいしひと聖寵せいてうかうむれば益々ますます御心みこゝろかなものる。

これとく聖寵せいてうふ。

たとへば天使祝詞てんししゅくしに「聖寵せいてう充満みちみてるマリア」とふがごとし。其意味そのいみせいマリア霊魂れいこんすみ〲まできよくして、まった天主てんしゅ御心みこゝろかなってられるとのこと

-205-

である。

ちゅうだい一、本當(当)ほんとうへば聖寵せいてう愛德あいとくとは必竟つまりひとつのものにる。すなは天主てんしゅ眞実しんじつあいたてまつれば、つみゆるされ、天主てんしゅよりあいせらる、これ聖寵せいてうである。イエズス、キリストのたまはく「人若ひともわれあいせば我言わがことばまもらん。かく我父わがちゝかれあいたまひ、我等彼われらかれいたりて其中そのうちまん」と(ヨ ハ ネ十四。二三)。叉使徒聖またしとせいヨハネいはく「天主てんしゅあいにてまします、しかしてあいとゞまもの天主てんしゅとゞまたてまつり、天主てんしゅ亦之またこれとゞまたまふ」と(ヨ ハ ネ壹(一)書四。十六)。れば天主てんしゅあいすればあいする程益ほどますま御心みこゝろかなものり、あいやぶれば聖寵せいてううしなふ。

だい二、聖寵せいてう原人祖もとじんそアダム特別とくべつたまはったのに人祖じんそ天主てんしゅいましめそむいて、自分じぶんにも子孫しそんぱんにもうしなうたれば、やうやイエズス、キリスト御贖おんあがなひ功力くりきによって聖寵せいてう狀態ぜうたい回復くわいふくするにいたった。しかしてひとは、洗禮(礼)せんれいよっこれいたゞく。

だい三、成聖せい〱聖寵せいてう助力じょりき聖寵せいてうとのおもちがふのは(イ)助力じょりき聖寵せいてうは一時的じてきであるに成聖せい〱聖寵せいてうころもまとうたがごとこゝろとゞまる。(ロ)成聖せい〱聖寵せいてう義人ぎじんばかりにあるに、助力じょりき聖寵せいてう

[下段]

義人ぎじんにも惡人あくにんにも与(與)あたへらる、すなは義人ぎじん狀態ぜうたいつづけるためこれけ、惡人あくにん悔改くいあらためるためこれける。(ハ)成聖せい〱聖寵せいてうたもてばかなら天國てんごくける、助力じょりき聖寵せいてううまではかぬ。

278◯成聖せい〱聖寵せいてうてば如何どんえきがありますか

成聖せい〱聖寵せいてうてば、天國てんごくるべき天主てんしゅ愛子あいしり、其善行そのぜんかうすべをはりなき福樂さいはひくべき功力くりきいうするものとなる。

聖寵せいてう

ことは、「聖寵せいてう狀態ぜうたいる」ことでべつことばへば大罪だいざいいことをふ。


だい一、

天國てんごくるべき天主てんしゅ愛子あいしる。

聖寵せいてうなきあひだ天主てんしゅ愛子あいしはれず、むしてきのやうなものである。聖寵せいてういたゞいてこそ愛子あいしる、愛子あいしならば家督かとくとして天國てんごく福樂さいはひけるはず

だい二、

をはりなき福樂さいはひくべき善業ぜんげふすをる。

すなは聖寵せいてうもっ天主てんしゅ愛子あいしならば、ぜんれば

-206-

るほど天國てんごくをはりなくむくいられるべきものである、れば祈禱いのり善業ぜんげふはたらきかなしみくるしみ何事なにごとこゝろよさゝげれば一々永福いち〱えいふくたね天國てんごくことになる。

279●成聖せい〱聖寵せいてううしなことがありますか

大罪だいざいをかすと成聖せい〱聖寵せいてううしなひます。

大罪だいざい

大事だいじいてまった承諾せうだくして天主てんしゅそむことであれば、これをかとき

聖寵せいてううしな

天主てんしゅてきり、そのまゝの狀態ぜうたいまるならば、をはりなくてられるものとる。天主てんしゅ御憐おんあはれみによって大罪だいざいゆるされゝばふたゝ聖寵せいてうかうむり、叉天主またてんしゅ愛子あいし大罪だいざいもっくした動功てがら回復くゎいふくすること出來できる。

ちゅうだい一、大罪だいざいをかしても天主てんしゅたる資格しかくうしなふのではない、唯不孝極たゞふかうきはまり、ちゝより勘当かんだうけるものる。ればそれまでに如何いかほど功績てがらしたひとでも其功績皆無そのてがらかいむり、地獄ぢごくられるほかはない。さうして大罪だいざいあるあひだおこなぜんてう宝物たからものそこけたふくろれると同樣どうやうであって、天主てんしゅはなれてあひだ價値ねうちがない。しかそれでも無益むえきおもってはならぬ、

[下段]

つとむべきことたとへば祈禱いのり、ミサ拜聽等はいてうなどおこたってはつみはます〱おもり、いよい天主てんしゅよりてられるべきものゆゑなによりおそるべきわざはひである。それ大罪だいざいあるときでもいよいてられてしまはぬやうに天主てんしゅ御憐おんあはれみねがひ一こくはや悔改くいあらためてつみゆるしこうむらねばならぬ。

だい二、ことわざに「生命いのちあっての物種ものだね」とふが、きてこそはたら事出來ことできる、んだとき食物たべものくすりようたず、はたらこと身動みうごきさへも出來できぬものとる。ごと聖寵せいてうのあるあひだ天國てんごくためはたらこと出來できるけれどもこれうしなとき何事なにごとえきらぬので、聖寵せいてう殊更ことさらに「靈魂れいこん生命いのち」とはれてある、勿論人もちろんひとたるの自然しぜん生命いのちではない、これくはへられた天主てんしゅたる超自然てうしぜん生命いのちであります。てう靈魂れいこん肉身にくしんとが一致いっちするのはひとたるの自然しぜん生命いのちるがごとく、靈魂れいこん聖靈せいれいもっ天主てんしゅ一致いっちすれば天主てんしゅたる超自然てうしぜん生命いのちかうむったものとる。

だい三、うまれるとき自然しぜん生命いのちて、それから壯健そうけんったり、不工合ふぐあひったりするごとく、洗禮(礼)せんれいもっける聖寵せいてう生命いのちも、祈禱いのり善業等ぜんげふなどもっさかんり、怠慢おこたり小罪等せうざいなどもっおとろへ、だい

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ざいもっる。それ大罪だいざい靈魂れいこんはれる、それは靈魂れいこん大罪だいざいもっ超自然てうしぜん生命いのちうしなふからである。

280●なにもっ聖寵せいてうますか

聖寵せいてうこと祈禱いのり秘蹟ひっせきもっられるれど成聖せいゝゝ聖寵せいてうるには完全くゎんぜん痛悔つうくゎい洗礼せんれい悔悛くわいしゅんかぎります。

祈禱いのり秘跡ひっせき

ことのち説明せつめいするが、成聖せい〱聖寵せいてうみちついて一げんすれば成聖せい〱聖寵せいてうかうむるには祈禱いのりだけではらず、叉唯またたゞ秘跡ひせきでもらず、これほどこすにきまった秘跡ひせき洗礼(禮)せんれい悔悛くゎいしゅんだけであって、それかなはぬときこれさづかりたいとののぞみともに、完全くわんぜん痛悔つうくわいおこすにかぎる。(だい三百六十一のとひよ)