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公教要理説明/02-21

提供:Wikisource


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だい四十五くわ 対(對)神德たいしんとく(一)

259●救靈たすかりためもっと必要ひつえうとくなにであるか

しんぼうあいみつ対(對)神德たいしんとくであります。

せいパウロことば

しんぼうあい

此三このみつ」とあるが、

対(對)神德たいしんとく

はれるのは、天主てんしゅしんじ、天主てんしゅ希望きぼうし、天主てんしゅあいすることゆゑ、直接ちょくせつに、眞直まっすぐ天主てんしゅ当(當)あたるからであります。天主てんしゅしんぜず、希望きぼうせず、あいせぬならば、如何どうして救靈たすかり

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られようか、それ其三そのみつとく救靈たすかり

もっと必要ひつえう

はれる。しんぼうあいうちに、根本こんぽんるのは無論信德むろんしんとくである、信德しんとくがなくては望德ぼうとく愛德あいとくられぬからである。りながらみつうちすぐれたのは愛德あいとくである。假令信德望德たとひしんとくぼうとくはあっても愛德あいとくなければ値價ねうちはない、それ天國てんごくおいては、しんぼうって永遠えいゑんのこるのはあいのみだからである。

260●信德しんとくとはなにであるか

信德しんとくは、天主てんしゅあざむたまことなきにって、其教そのをしへこと〲しんずる超性德てうせいとくであります。此定義このていぎみつことふくまれてる、だい一、信徳しんとく性質せいしつすなは超自然德てうしぜんとくであることだい二、信德しんとくはたらきすなは天主てんしゅをしへこと〲しんずることだい三、其訳(譯)そのわけ天主てんしゅあざむたまはぬとことである、こゝろ銘記めいきすべき三点(點)てんである。

信德しんとく超性德てうせいとくである

とは、すなは各人かくじんちからによらず、聖寵せいてうてらされて天主てんしゅ信仰しんかうし、其教そのをしへしんずるにこゝろかたむかせるからである。

信德しんとくはたらき天主てんしゅをしへしんずることであるが、しんずるのは、

[下段]

ことわかってことちがひ、ぬながら、わからぬながらにでもうたがことなく、しんからまことなりとおもことである。其信そのしんずる訳(譯)わけほかではない、あざむこと出來給できたまはぬ天主てんしゅが、各人かくじんあらはたまはないでも、イエズス、キリストもって、十二使徒しともって、公教會こうけうくわいもって一ぱんをしたまふからである。それ

ことゞゝ

しんじねばならぬ、一てんでもしんじないなら、天主てんしゅよりあざむかれると見做みなすことにるからこれでは信德しんとくにはらぬ。

ちゅう天主てんしゅあざむたまことなきによって其教そのをしへことゞゝしんずるのは信徳しんとくなれば、おほくのひとごとく、聖書せいしょんで其中己そのうちおの事叉気ことまたきはぬことけて一ぽうしんじ一ぽうしんじないのは天主てんしゅ御言おんことばしんずるのではなくて、おの好々すき〲ことしんずるから信德しんとくとはいはれぬ。

261◯如何どんこと信德しんとくそむくか

しんずべきことうたがひ、公教こうけうさからしょみ、信仰しんかうあやふきをけず、異説いせつとなへ、公教こうけうてるなど信德しんとくそむきます。信德しんとくそむことおほい、其重そのおもなるは、

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しんずべきことうたがひ。

いよい天主てんしゅをしへ公教會こうけうくわいをしへるところこと信仰箇条しんかうかでうみとめながら、一てんでもうたがこと信德しんとくそむくが、これいなめば猶更なおさらことである。

公教こうけうさから書物しょもつ

たとへば其教そのをしへ其規定そのさだめ其儀式そのぎしきそししょ

み、

あるひひとませること相当(當)さうたう學識がくしきあって、其書物そのしょもつ答弁(辯)とうべんするためこれむものならかくそれでも司教しけうゆるしるが、ぶん學識がくしきかまはず不用心ぶようじんむなら、答弁(辯)とうべんすること出來できず、まよはされて信德しんとくうしな危険きけんがあるから、つみるに相違さうゐない。政府せいふ毒薬叉どくやくまた秩序風俗ちつじょふうぞくがいする書籍等しょせきなど販賣はんばいきんずるごとく、公教會こうけうくわいでも霊魂れいこんがいする書物しょもつきんずるのは当(當)然たうぜんことである。

信仰しんかうあやふ

とは、たとへば公教こうけうはんする宗教しうけう儀式ぎしき与(與)あづかり、異説者いせつしゃ異教者いきょうしゃ説教せっけうき、用心ようじんせずに公教こうけうきら人々ひと〲はなしあまんじて事等ことなどであるが、「しゅまじはればあかる」とあるごとく、信仰しんかうあやふきをけぬならばひにるにいたる。

[下段]

異説いせつ

とは、公教會こうけうくわいをしへるところちがったはなしで、たとへばプロテスタンのうちごとく、告白こくはくらぬとか、聖書せいしょむだけでるとかふやうなこと自分じぶんへば、自他じた信仰しんかうがいするので信德しんとくそむく。

公教こうけうてる

とは、公教こうけうめるとことであるがこれ殊更ことさらに「棄教きけう」とひ、そんひとを「棄教者きけうしゃ」とふ。それだいおそるべきつみである。救靈たすかりみち公教以外こうけういぐゎいいから、しん取返とりかへし出来でき損害そんがいる。公教こうけうてず、何処どこまでもこれまもために、教理けうりまなぶのが大事だいじであって、叉信德またしんとくそむかぬやうに、天主てんしゅ助力じょりきかならいのらねばならぬ。せいペトロひとはゞかってあつかましくイエズスらぬと三までったのは、殊更ことさらいましめられたのに、警戒けいかい祈祷いのりず、むかずにわるひと仲間なかま入込いりこんだからである。

など

とあるのは、種々いろ〱あってあるひをしへまなばず、しんずべき大切たいせつことでもらぬのに稽古けいこおこたり、あるひ信者しんじゃでないとひ、あるひ其態そのふりし、信仰しんかうあらはさねばならぬ場合ばあひこれかくなどである。

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ちゅう無暗むやみ信仰しんかうあらはさぬでもいが、りながらこと注意ちういすべきは、

だい一、十かい聖會せいくわい律令おきてによっていましめられいひつけられることまたイエズス、キリストめいたまふたキリスト教的生活けうてきせいくゎつ是非守ぜひまもるべきことまをすにおよばず、ことだい百四十四、五、六、七のとひはれた迷信めいしんわざは、表向おもてむきだけでもけっしてゆるされぬ。唯掟たゞおきてらぬことたとへば十字架じか記号しるし食事前後しょくじぜんご祈禱いのりごとく、るがい、よろしくすべしくらゐすゝめとゞまことなら、これぢるとか、かまはぬとかこゝろつみなれど、ひとはゞかって、ぬがいとおもばかりではつみにはらぬ。

だい二、權利けんり個人こじん信仰しんかうはれたときこたへけてもけれど、信者しんじゃいとはけっしてってはならぬ。せいペトロイエズスくちばかりでもてたつみほどわすれてはならぬ。

だい三、問質とひたゞ權利けんりあるひとからはれるか、こたへぬのはひとつまづかせるか、棄教きけうしたと同用樣どうやうおもはれるかのときは、おどされてもばつまねいても、イエズス、キリストたいしてはゞからず信仰しんかうあらはさねばならぬ。假令恐たとひおそろしくあっても、おのれたのまず、こら

[下段]

ちから天主てんしゅよりたまはこと希望きぼうして、をしへてるようなことばでもはっしてはならぬ。殉教者じゅんけうしゃ模範もはん目前めのまへくべきである。またイエズス、キリストが「我爲わがため人々汝等ひと〲なんぢらのろひ、且迫害かつはくがいし、且偽かついつはりて、汝等なんぢらいて所有あらゆ悪聲(声)あくせいはなとき汝等なんぢらさいはひなるかな、よろこをどれ、てんおけ汝等なんぢらむくいはなはおほいからである。けだ汝等なんぢらよりさきにあった預言者等よげんしゃたち其通そのとほり迫害はくがいせられた。」と(マテオ五。十一、十二)おっしゃったことわすれてはならぬ、口先丈くちさきだけなら棄教きけうことばはっしても差支さしつかへないなどとおもふはだいなる間違まちがひである、口先丈くちさきだけでも棄教きけうとなる。

望徳ぼうとくとはなにであるか

望德ぼうとくは、天主てんしゅ御約束おんやくそくによって、現世このよでは聖寵せいてう來世のちのよでは救靈たすかりると希望きぼうする超性德てうせいとくであります。

此定義このていぎにもみつことすなは望德ぼうとく性質せいしつはたらき訳(譯)わけとがふくまれてある。

望德ぼうとく超性德てうせいとくである

ことは、まへはれたとほ聖寵せいてうっておことくであるからである。

望德ぼうとくはたらき

天主てんしゅ御約束おんやくそく

實現じつげん

希望きぼうする

すなは

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こひねがのぞことである。御約束おんやくそくおもふたつだい一、もとめるひとにはかなら聖寵せいてうほどこし、すなはつみゆるし御寵愛ごてうあいと、叉惡またあくぜん御祐おんたすけ与(與)あたへることだい二、ちからおよぶだけつみぜんせば未来みらい救靈たすかりすなはをはりなき福樂さいはひたまはこととである。

両方堅れうほうかたのぞ訳(譯)わけは、自分じぶんちからによってゞはない、イエズス、キリスト御救贖おんあがなひ功力くりきと、かたじけなき御約束おんやくそくがあるからである。眞理しんり其者そのものなる天主てんしゅが一度約束どやくそくたま以上いぜうは、けっしてこれやぶたまはぬからである。

望徳ぼうとくもっもっぱあふぐべきは聖寵せいてうおよ救靈たすかりことなれど、肉身にくしん入用いりようをもやくされたから、これ希望きぼうすべきである。イエズス、キリストのたまはく「汝等何なんじらなになにんかと思煩おもひわづらふな、是皆これみな異邦人いほうじんもとめるところにして、汝等なんじら天父てんぷ是等これら物皆ものみな汝等なんじらことたまふ。ゆゑ先神まづかみくに其義そのぎもとめよ、しからば是等これら物皆ものみな汝等なんじらくはへられやう」と(マ テ オ六。三一、三三)。これたゞ与(與)あたへられる訳(譯)わけではない、ことわざに「てんおのれたすけるものたすく」とあるごとく、はたらくのは当(當)然あたりまへである。叉御言またみことばとほり「御國みくに正義せいぎ」とをもとめ、すなは御心みこゝろかなふやうに勵(励)はげむのが大事だいじであ

[下段]

る。それでも貧乏びんぼうすれば、イエズス、キリストが「さいはひなるかなこゝろまづしいひと天國てんごく彼等かれらものである」と(マテオ五。三)おっしゃったのをわすれず、イエズス、マリアさへも我々われ〱よりひど貧乏びんぼうしのたまふたゆゑ自分じぶんおとさず、らくたねことおぼえて希望きぼうせねばならぬ。

263◯如何どんこと望德ぼうとくそむくか

救靈たすかりいて失望しつぼうすること叉妄またみだりたのすごこと望徳ぼうとくそむく。

聖寵及せいてうおよ救靈たすかりのぞむに、らぬこともあれば、ぎることもある。

だい一、のぞみらぬとは、救霊得たすかりえられぬとおもって

失望しつぼうすること

たとへばあまつみおほいので到底赦とうていゆるしかうむないとおとしたり幾許いくら努力どりょくしてもつみ善人ぜんにんにはまいとか、我々われ〱のやうなもの到底たうてい救霊たすかりかなはぬとかおもふがごとことである。成程なるほど金儲かねもうけ病気べうき全快等ぜんくわいなど世上せぜう幸福しあはせもとより御約束おんやくそくいから出来できぬかもれぬ。しかつみ如何いかほどひどくとも、しん悔改くいあらためてイエズス、キリスト依靠よりすがれば、此世このよくるかぎけっしてゆるされぬつみはない。しゅ御憐おんあはれみ如何いかなるつみよりもふかくし

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て、眞心まごゝろから悔改くいあらたむれば何時いつでもゆるすとの御約束おんやくそくがあるから、けっしてこゝろおとしてはならぬ。救主すくいぬし天降あまくだたまふたのは、とくに「罪人つみびとたづねてすくため」(マ テ オ九。十三)ではないか。よっカインユダごとく、救靈たすかりいて失望しつぼうするはなにより御心みこゝろさからひ、ゆるされぬつみり、みづか救靈たすかりみちふさぐのである。

だい二、りながら聖寵せいてう救靈たすかりは、たゞ勝手かってられるとの御約束おんやくそくい、ためにはみちあるゆゑみちまもらねばられぬことあきらかである。それあるひ天主てんしゅ御憐おんあわれみあるひおのれちから見込みこぎて、たとへば天主てんしゅわればったまことはあるまひとか、幾許いくらつみかさねても告白こくはくさへすればゆるされるとか、毎年まいねん告白こくはく聖体せいたい拜領はいれうしなくても何時いついたさうとか、今悔改いまくいあらためぬでも、当(當)分たうぶん私慾しよくつゞけて、死際しにぎわ悔改くいあらためやうとかおもことは、「過望くわぼう」のつみ

すなは

たのすご

つみる。

天主てんしゅ如何どうでも何時いつでも痛悔つうくわいするちからひまあたたまはなかったのみならず、道理上だうりぜうからっても御誡おんいましめさからってつみかさねたら、てられるはずである。必竟ひっきょう御憐足おんあわれみたらずとて失望しつぼうするより、たのすごつみ割合わりあひかるいけれど、れう

[下段]

方共ほうとも大罪だいざいことうたがひない。

ちゅうまへとひったとほり、肉身上にくしんぜう入用いりよういて、あるひみだりこゝろおとし、あるひはたらかずして無理むり希望きぼうするときは、今述いまのべるやうな失望しつぼう過望くわぼうとのつみこともあらう。