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第四十五課 対(對)神德(一)
259●救靈の爲に最も必要な德は何であるか
▲信、望、愛の三の対(對)神德であります。
聖パウロの言に
「信、望、愛、
此三」とあるが、
対(對)神德
と云はれるのは、天主を信じ、天主に希望し、天主を愛する事ゆゑ、直接に、眞直に天主に当(當)るからであります。天主を信ぜず、希望せず、愛せぬならば、如何して救靈が得
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られようか、其で其三の德は救靈に
最も必要
と云はれる。信、望、愛の中に、根本に成るのは無論信德である、信德がなくては望德も愛德も有られぬからである。然りながら三の中に勝れたのは愛德である。假令信德望德はあっても愛德なければ値價はない、夫は天國に於ては、信も望も無く成って永遠に殘るのは愛のみだからである。
260●信德とは何であるか
▲信德は、天主が欺き給ふ事なきに因って、其教を悉く信ずる超性德であります。此定義に三の事が含まれて居る、第一、信徳の性質、即ち超自然德である事、第二、信德の働、即ち天主の教を悉く信ずる事、第三、其訳(譯)、天主は欺き給はぬと云ふ事である、心に銘記すべき三点(點)である。
信德は超性德である
とは、即ち各人の力によらず、聖寵に照されて天主を信仰し、其教を信ずるに心を傾かせるからである。
信德の働は天主の教を信ずる事であるが、信ずるのは、見
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る事、解って居る事と異ひ、見ぬながら、解らぬながらにでも疑ふ事なく、心から眞なりと思ふ事である。其信ずる訳(譯)は外ではない、欺く事が出來給はぬ天主が、各人に現し給はないでも、イエズス、キリストを以て、十二使徒を以て、公教會を以て一般に教へ給ふからである。其で
悉く
信じねばならぬ、一点でも信じないなら、天主より欺かれると見做すことに成るから之では信德には成らぬ。
(註)天主の欺き給ふ事なきによって其教を悉く信ずるのは信徳なれば、多くの人の如く、聖書を読んで其中己が気に合ふ事叉気に合はぬ事を分けて一方を信じ一方を信じないのは天主の御言を信ずるのではなくて、己が好々の事を信ずるから信德とはいはれぬ。
261◯如何な事が信德に背くか
△信ずべき事を疑ひ、公教に逆ふ書を読み、信仰の危きを避けず、異説を唱へ、公教を棄てる等は信德に背きます。信德に背く事は多い、其重なるは、
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信ずべき事を疑ひ。
愈よ天主の教、公教會の教へる所、殊に信仰箇条と認めながら、一点でも疑ふ事は信德に背くが、之を否めば猶更の事である。
公教に逆ふ書物、
例へば其教、其規定、其儀式を譏る書を
読み、
或は人に読ませる事。相当(當)の學識あって、其書物に答弁(辯)する爲に之を讀むものなら兎も角、其でも司教の免が要るが、若し不十分の學識で構はず不用心に讀むなら、答弁(辯)する事が出來ず、迷はされて信德を失ふ危険があるから、罪に成るに相違ない。政府で毒薬叉は秩序風俗を害する書籍等の販賣を禁ずる如く、公教會でも霊魂を害する書物を禁ずるのは当(當)然の事である。
信仰の危き
とは、例へば公教に反する他の宗教の儀式に与(與)り、異説者、異教者の説教を聞き、用心せずに公教を嫌ふ人々の話を甘んじて聞く事等であるが、「朱に交れば赤く成る」とある如く、信仰の危きを避けぬならば遂ひに無く成るに至る。
[下段]
異説
とは、公教會の教へる所と異った話で、例へばプロテスタンの中に云ふ如く、告白は要らぬとか、聖書を読むだけで足るとか云ふやうな事を自分で云へば、自他の信仰を害するので信德に背く。
公教を棄てる
とは、公教を罷めると云ふ事であるが之を殊更に「棄教」と云ひ、其な人を「棄教者」と云ふ。其が第一恐るべき罪である。救靈の道は公教以外に無いから、真に取返の出来ぬ損害に成る。公教を棄てず、何処までも之を能く守る爲に、教理を能く學ぶのが大事であって、叉信德に背かぬやうに、天主の助力を必ず祈らねばならぬ。聖ペトロが人に憚かって厚かましくイエズスを知らぬと三度まで云ったのは、殊更に誡められたのに、警戒も祈祷も為ず、向ふ見ずに悪い人の仲間に入込んだからである。
等
とあるのは、種々あって或は教を學ばず、信ずべき大切な事でも知らぬのに稽古を怠り、或は信者でないと云ひ、或は其態を爲し、信仰を現さねばならぬ場合に之を隱す等である。
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(註)無暗に信仰を現さぬでも可いが、然りながら殊に注意すべきは、
第一、十誡や聖會の律令によって誡められ命けられる事、叉イエズス、キリストの命じ給ふたキリスト教的生活を是非守るべき事は申すに及ばず、殊に第百四十四、五、六、七の問に云はれた迷信の業は、表向だけでも決して免されぬ。唯掟に成らぬ事、例へば十字架の記号、食事前後の祈禱の如く、爲るが宜い、宜しく爲すべし位な勸に止る事なら、之を耻ぢるとか、構はぬとか云ふ心は罪なれど、人に憚って、爲ぬが宜いと思ふ計りでは罪には成らぬ。
第二、權利の無い個人に信仰を問はれた時、答を避けても可けれど、信者で無いとは決して云ってはならぬ。聖ペトロのイエズスを口ばかりでも棄てた罪の程を忘れてはならぬ。
第三、若し問質す權利ある人から問はれるか、答へぬのは人を躓かせるか、棄教したと同用樣に思はれるかの時は、嚇されても罸を招いても、イエズス、キリストに対して憚らず信仰を現さねばならぬ。假令恐しくあっても、己を頼まず、耐へ
[下段]
る力を天主より賜る事を希望して、教を棄てるような言でも發してはならぬ。殉教者の模範を目前に置くべきである。叉イエズス、キリストが「我爲に人々汝等を咀ひ、且迫害し、且偽りて、汝等に就いて所有る悪聲(声)を放つ時、汝等福なるかな、歡び躍れ、其は天に於る汝等の報甚だ多いからである。蓋し汝等より先にあった預言者等も其通に迫害せられた。」と(マテオ五。十一、十二)仰しゃった事を忘れてはならぬ、口先丈けなら棄教の言を發しても差支ないなどと思ふは大なる間違である、口先丈でも棄教となる。
望徳とは何であるか
▲望德は、天主の御約束によって、現世では聖寵を得、來世では救靈を得ると希望する超性德であります。
此定義にも三の事、即ち望德の性質と働と訳(譯)とが含まれてある。
望德は超性德である
ことは、前に云はれた通り聖寵に由って起る德であるからである。
望德の働は
天主の御約束
の實現を
希望する
即
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ち希ひ望む事である。御約束は主に二。第一、求める人には必ず聖寵を施し、即ち罪の赦と御寵愛と、叉惡を避け善を爲す御祐を与(與)へる事と第二、力の及ぶだけ罪を避け善を爲せば未来の救靈、即ち終なき福樂を賜る事とである。
両方堅く望む訳(譯)は、自分の力によってゞはない、イエズス、キリストの御救贖の功力と、忝なき御約束があるからである。眞理其者なる天主が一度約束し給ふ以上は、決して之を破り給はぬからである。
望徳を以て專ら仰ぐべきは聖寵、及び救靈の事なれど、肉身の入用をも約されたから、之を希望すべきである。イエズス、キリスト曰く「汝等何を食ひ何を着んかと思煩ふな、是皆異邦人の求める所にして、汝等の天父は是等の物皆汝等に需る事を知り給ふ。故に先神の國と其義を求めよ、然らば是等の物皆汝等に加へられやう」と(マ テ オ六。三一、三三)。是は只で与(與)へられる訳(譯)ではない、諺に「天は己を助ける者を助く」とある如く、先づ働くのは当(當)然である。叉御言の通り「御國と正義」とを求め、即ち御心に叶ふやうに勵(励)むのが大事であ
[下段]
る。其でも若し貧乏すれば、イエズス、キリストが「福なるかな心の貧しい人、天國は彼等の有である」と(マテオ五。三)仰しゃったのを忘れず、イエズス、マリアさへも我々より甚い貧乏を凌ぎ給ふた故、自分も氣を落さず、苦は樂の種と成る事を覺えて希望せねばならぬ。
263◯如何な事が望德に背くか
△救靈に就いて失望する事、叉妄に賴み過す事は望徳に背く。
聖寵及び救靈を望むに、足らぬ事もあれば、過ぎる事もある。
第一、望の足らぬとは、救霊得られぬと思って
失望する事、
例へば餘り罪が多いので到底赦を蒙り得ないと氣を落したり幾許努力しても罪を避け善人には成り得まいとか、我々のやうな者は到底救霊は叶はぬとか思ふが如き事である。成程金儲や病気全快等、世上の幸福は固より御約束が無いから出来ぬかも知れぬ。併し罪は如何ほど甚くとも、真に悔改めてイエズス、キリストに依靠れば、此世に生くる限り決して赦されぬ罪はない。主の御憐は如何なる罪よりも深くし
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て、眞心から悔改むれば何時でも赦すとの御約束があるから、決して心を落してはならぬ。救主の天降り給ふたのは、特に「罪人を尋ねて救ふ為」(マ テ オ九。十三)ではないか。因てカインやユダの如く、救靈に就いて失望するは何より御心に逆ひ、赦されぬ罪と成り、自ら救靈の道を塞ぐのである。
第二、然りながら聖寵と救靈は、只で勝手に得られるとの御約束は無い、得る為には道ある故に道を守らねば得られぬ事は明である。其で或は天主の御憐、或は己の力を見込み過ぎて、例へば天主は我を罰し給ふ事はあるまひとか、幾許罪を重ねても告白さへすれば赦されるとか、毎年告白、聖体拜領しなくても何時か致さうとか、今悔改めぬでも、当(當)分私慾を續けて、死際に悔改めやうとか思ふ事は、「過望」の罪、
即ち
頼み過す
罪に成る。
天主は如何でも何時でも痛悔する力や暇を与へ給はなかったのみならず、道理上から言っても御誡に逆って罪を重ねたら、棄てられる筈である。必竟御憐足らずとて失望するより、賴み過す罪は割合に軽いけれど、兩
[下段]
方共大罪に成る事は疑ない。
(註)前の問に云った通り、肉身上の入用に就いて、或は妄に心を落し、或は働かずして無理に希望する時は、今述べるやうな失望と過望との罪に成る事もあらう。