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公教要理説明/02-22

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だい四十六くわ 対(對)神德たいしんとく (二)つけたり 倫理德りんりとく

462●愛德あいとくとはなにであるか

愛德あいとくとは、天主てんしゅかぎりなきぜんいますがゆゑあい叉天主またてんしゅためひとあいする超性德てうせいとくであります。

此定義このていぎにもみつことふくまれてる。

愛德あいとく超性德てうせいとく

で、聖寵せいてうっておこるが、其働そのはたらきは、天主てんしゅあいすることひとあいすることにきまる。

天主てんしゅあいする訳(譯)わけは、唯救靈たゞたすかりためではない、天主てんしゅ万有ばんいう原因げんいん無限むげん完全善くゎんぜんぜんいまして、万德備ばんとくそなはり、したがっ萬事萬物ばんじばんぶつへてあいすべきものにいますからである。ひとあいするのは、あいらしいからではない、天主てんしゅためであって、皆天父みなてんぷ子等こどもであれば、たがひ兄弟けうだいである訳(譯)わけであります。それ天主てんしゅあいするばかりでは

-195-

らず、ひとをもかならあいせねばならぬ。使徒しとヨハネ殊更ことさらに「ひとあって我神われかみあいたてまつるといひつゝおの兄弟けうだいにくまば、虛言者きょげんしゃである、けだえる兄弟けうだいあいせぬものうしてたまはぬかみあいたてまつことやうぞ、且神かつかみあいたてまつひとおの兄弟けうだいをもあいすべしとは、我等われらかみよりたまはったおきてである」と(ヨハネ壹(一)書四。二十、二一)はれた。

265●天主てんしゅ何程愛どれほどあいせねばなりませぬか

天主てんしゅなによりもあいせねばなりませぬ。イエズス、キリストは「こゝろ尽(盡)つくちから尽(盡)つくして天主てんしゅあいすべし」とのたまふた。

天主てんしゅ何物なにものよりもあいせねばならず、はゞ萬事ばんじえて、すなは何人なにびとよりも、なん寶物たからものよりも、なにたのしみよりも、我生命わがいのちよりも、あいせねばならぬ。イエズス、キリスト

こゝろつくちからつくして天主てんしゅあいすべし」

おっしゃったばかりでなく、ことばかさねて「こゝろ尽(盡)つくし、れい尽(盡)つくし、尽(盡)つくし、ちから尽(盡)つくして」とおっしゃったのは、すべてをげて天主てんしゅあいたてまつためもちひねばならぬことををしたまふたのである。

[下段]

ちゅうあいするがためこゝろえるがごと愛淸あいぜうおぼえる必要ひつえうはない。おのれをしまず、なにをもをしまず、假令たとひ何人なにびとにもてられ、如何いかなるたからうしなふとも、生命いのちうしなふとも天主てんしゅ御心みこゝろかなはぬことはしないとの覺悟かくごがあればる。これこそ天主てんしゅなによりもあいするまぎれなきしるしである。もなくばあいくちこゝろとゞまばかりで、有名いうめい無實むじつる。

266●なにもっ天主てんしゅあいすることれますか

天主てんしゅあいすることは、天主てんしゅためあくけ、ぜんおこなふをもっれます。

此答このこたへ餘程よほど大事だいじである。たれでも天主てんしゅあいするやいなやはりたいが、其徴そのしるし間違まちがってはならぬ。假令たとひなみだながすほどむね熱心ねっしんえても、ひとなみだながさせるほど感動かんどうぶかはなしをしても、しん天主てんしゅあいするしるしにはらぬ、そんこと神経しんけい能弁(辯)のうべん惡魔あくまわざによってゞもおこことがある。叉祈またいのとき趣味しゅみおぼえるのもしるしではない、むし趣味しゅみなしに辛抱しんぼうしていのるのはしるしちかい。またしばゝゞ聖体(體)せいたい拜領はいれうするのもあいしるしではない、むし拜領はいれう準備じゅんびまた感謝かんしゃとして、毎度まいど層勵(励)そうはげむのはしるしらう。必竟つまり本当(當)ほんたうしるし

-196-

唯一たゞひとつ

あく

るやうに、心掛こゝろがけるか叉出来またできるだけ

ぜんおこな

かである、しか

天主てんしゅため

とあるからにはためあるひほまれためでなく、天主てんしゅ対(對)たいしてうするにかぎったことである。熱心ねっしん趣味しゅみおぼえぬときでも、へりくだって御心みこゝろかなふやうに励(勵)はげみ、祈禱いのり職業しょくげふ等凡などすべての業務ぎむ忠實ちうじつ尽(盡)つくほどあきらかに天主てんしゅあいたてまつしるしこと出來できる。せいパウロいはく「悪魔あくますらみづかひかり使つかひおのれよそほものである」と(コリント後書十一。十四)叉曰またいはく「假令たとひ人間にんげん天使てんしとの言語ことばかたるとも、あいなければかね鐃鈸ねうはちごとくにりたるのみ。假令たとひ預言よげんすることて、一さい奥義おくぎさい學科がくくわり、叉假令またたとひやまうつほどの一さい信仰しんかうあっても、あいなければ何物なにものでもない。假令たとひ我財産わがざいさんこと〲貧者ひんじゃ食物しょくもつとして分与(與)わけあたへ、叉我身またわがみかれるためわたすとも、あいなければいさゝか自分じぶんえきあることなし。

あい堪忍かんにんし、なさけあり、あいねたまず、自慢じまんせず、たかぶらず、非礼(禮)ひれいさず、おのれためはからず、いからず、あくはせず、不義ふぎよろこばずして眞實しんじつよろこび、何事なにごとつゝみ、何事なにごと

[下段]

をもこらへるのである」と(コリント後書十三。一-七)

267●ひとやうあいするはずであるか

ひとおのれごとあいせねばなりませぬ。

やう

にとは、何程どれほどちがって、ほど(程度)をふのではない、仕方しかたふのである。ほどへば、おのれひとよりさきあいするのは、当(當)然あたりまへである。それひとためおのれ犠牲ぎせいけうするのは、此上このうへもない功績てがらる。しか靈魂れいこんたすかだけだれためにもうしなってはならぬ。永遠えいえん取返とりかへし出來でき全損まるぞんるからである。また他人たにんよりもちかものちかほどたとへば配偶者つれあひおや子女こども兄弟けうだい親族しんぞく友人ともだち他人たにんよりさきあいするのは順序じゅんじょである。あいする仕方しかただけは、

おのれごと

はねばならぬ、其意味そのいみつぎとひえる。

268●ひとおのれごとあいするとはなにであるか

自分じぶんのぞまぬことひとにもず、自分じぶんのぞことひとにもことであります。

おのれごとあいする

とは、まへとひはれたとほ己程おのれほど

-197-

はない、あいする仕方しかただけである。

自分じぶんのぞまぬことひとにも

とは、世間せけんで「おのれほっせざるところひとほどこなかれ」とふとおなじものである。其通そのとほりすれば、うらみ復讐あだがへしそねみ人殺ひとごろし姦淫かんいん盗等ぬすみなどさらく、ほゞかいいましめられたとほりって、孔子こうしをしへたがたれでもおのれかへりみれば、はずことわかる。其次そのつぎことばすなは

自分じぶんのぞことひとにも

とは、これイエズス、キリストかたじけなきおほせで、すべての犠牲ぎせいすべての献身けんしんのりって、だい二百六十九のとひはれることく、キリストけうおいて、おどろかほどえて慈善じぜん事業じげふ叉赤またせき字社じうじしゃ事業じげふも、此御言このみことばむすんだ果實くゎじつである。

269◯なにもっ他人たにんあいすることあらはすか

靈魂れいこん上及ぜうおよ肉身上にくしんぜう慈善業じぜんげふもっあらはします。

靈魂上れいこんぜう慈善業じぜんげふ

とは、ひと靈魂れいこんたすけるにほどこところであるが、とく聖書せいしょせたのはなゝつある。すなはち、だい一、ひとまどひいて指図(圖)さしづことだい二、無学むがくひとをしへることだい

[下段]

三、つみをかひといさめることだい四、かなしひとなぐさめることだい五、ひとあやまち堪忍かんにんすることだい六、侮辱等ぶじょくなどゆることだい七、生者せいしゃ死者ししゃためいのこと

肉身上にくしんぜう慈善業じぜんげふ

とは、体(體)からだたすける手段しゅだんで、聖書せいしょせたのは叉七またなゝつある。すなはだい一、ひもじい人にべさせることだい二、かわいたひとませることだい三、衣服きものたぬひとせることだい四、宿やどなきひと宿やどことだい五、病人べうにん難澁なんじふ人等にんなど見舞みまこと。六、捕虜等ほりょなどあがなことだい七、死者ししゃほうむこと

捕虜等ほりょなどあがなことは、今行いまおこながたことなれど、ひさしいあひだこと戦争せんそう敗北はいぼくしたひと奴隷どれい悪弊あくへいあった時代じだい叉売(賣)奴またばいど売(賣)買うりかひするくにでは必要ひつえうなものであってそれため聖會(会)せいかいおい幾個いくつ修道會(会)しうだうくわい設定せっていされ、叉聖人またせいじんうちノラせいパウリノ(六 月十七日)、せいライムンド(八 月卅一日)パウラせいヴィンセンチヨ(七 月十八日)のごとく、奴隷どれいかはり売(賣)ったれいさへもある。現今行げんこんおこなはれる慈善じぜんおもほどこしとて、個人こじん罹災者りさいしゃ慈善じぜん會等くゎいなど金銭食物きんせんしょくもつ衣服等いふくなど寄附きふすることであるが、天主てんしゅ御前みまへ價値ねうちせうずるには(一)天主てんしゅ對(対)たいして、(二)信仰上しんこうぜうゆゑもって、(三)

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こゝろよく、(四)名譽めいよもとめず、ほどこすのが本当(當)ほんたうである。くすればほどこしそんにならぬばかりか、天主てんしゅしたと同様どうやうに、此世このよおい利益りえきこともあり、叉靈魂またれいこんっては、直接ちょくせつつみゆることはなけれど、ゆるしいたゞかれる恩惠おんめぐみまねき、つぐのひり、いよい天國てんごく福樂ふくらくたねる。潤沢(澤)じゅんたくてば潤沢じゅんたくほどこし、わづかしかたぬときわづかでもこゝろよほどここと必要ひつえうである。ほどこかねがなくとも、せめ難儀なんぎひと親切しんせつあらはし、なぐさめ、引立ひきたて、ため指図(圖)さしづ与(與)あたへ、あるひ祈禱いのりなりとも出來できるによって、何人なにびとこゝろしてあい實際じっさいあらはすやうに心掛こゝろがくべきである。假令人たとひひとおんらずとも、これこそ天主てんしゅより一層報そうむくいらるべきものとゆゑよし愛想あいそきるやうにっても辛抱しんぼうして、イエズス、キリストおもひ、かくごとわざひとほどこあるひこばんだとき御自身ごじしんほどこされあるひこばまれたと同様どうやう賞罸せうばつのあることをしたまふたのをおぼえて、はげむほどい。

270●てきをもあいせねばならぬか

しかり、てきをもあいし、これが(:ひと救靈きゅうれいくようにその)ためいのらねばなりませぬ。

[下段]

これまったイエズス、キリスト御言みことばによることである。おっしゃった、「なんぢてきにくむべしとはれたのは、汝等なんぢらかねいてるが、われ汝等なんぢらふ、汝等なんぢらてきあいせよ、汝等なんぢらにくひとめぐめ、汝等なんぢら迫害はくがい讒謗かつざんぼうするひとためいのれ、是天これてんましま汝等なんぢらちゝ子等こどもためである。」と(マ テ オ五。四三、四五)

てきあいする

とは、けっして友人程いうじんほどでもなければ、叉夢またゆめにもてきはなしくはだて業等わざなどあいし、あるひたすけるとことではない。わるものなら何処迄どこまでむかってい、唯諺たゞことわざに「つみにくんでひとにくまず」とはれるとほり、あくまでてき謀計はかりごとやぶるやうに勵(励)はげむ一ぽうに、敵其者てきそのものにくまず、イエズス、キリストおほせとほり叉殊更またことさらに、十字架じかはりつけられたまふたときてきからのゝしられつゝも、「嗚呼父あゝちゝ彼等かれら其為そのなところらざるによってゆるたまへ」といのたまふた模範もはんしたがって、てき遺恨ゐこんふくまず、ゆるしねがへばこれこばまず、相当(當)さうたう損害賠償そんがいばいせうかた請求せいきうしつゝも帰(歸)服きふくするのを退しりぞけず、将来せうらい用心ようじんしながらゆるしてりたい。おのれごとこれあいしたいとおもことである。

ちゅうせき字社じしゃ仕方しかたればわかやする。一生懸命せうけんめいてき

-199-

打勝うちかつやうに尽(盡)つくせども、てきだからとって打棄うちすてるではなく、たふれるや味方みかた同樣どうやうこれ收容しうようし、飮食いんしょく与(與)あたへ、治療等ちれうなどつくし、よくなるやうに心掛こゝろがけるではないか。是叉聖これまたせいパウロ羅馬人ろうまじん書贈かきおくったとほりになる。すなはち「汝等なんぢらちからおよかぎり、出來できるだけ衆人しうじん相和あいわせよ。至愛しあいなるものよ、みづか復讐ふくしうせずしてかみいかりまかせよ、聖書せいしょに『しゅのたまは復讐ふくしう我事わがことである、われむくいるはず』と。かへってきゑればこれべさせ、かわかばこれませよ、うすればなんぢかれかうべ燃炭もえずみむであらう。あくたれることなく、ぜんもっあくて」と(ロ マ 書十二。十八-二一)こゝ燃炭もえずみてきかうべむとは、真心まごゝろ感心かんしんさせてたまらなくらせることであるが、これこそキリストけう主意しゅいである。

271●何故總なぜすべてのひとあいせねばならぬか

すべてのひとあいせねばならぬのは、イエズス、キリストめいたまひ、叉人またひと皆兄弟みなけうだいであるからである。

すべてのひとあいする

のは、かた

イエズス、キ

[下段]

リストめいたま

殊更ことさらに「汝等人なんじらひとゆるさずば自分じぶん在天ざいてんちゝからゆるされまい」(マ テ オ十八。三五)、また汝等なんぢらあいしたごとたがひにあいせよ。ひと汝等なんぢら相愛あひあいするをて、我弟子わがでしたることるであらう」(ヨ ハ ネ十三。三五)と、しきりおっしゃった。叉諺またことわざに「四海兄弟かいけいていはれるがごとくに、

ひと皆兄弟みなけうだい

であって、天主てんしゅちゝいたゞいてれば、出来できかぎ兄弟けうだいのやうにねばならぬ。(一つのバプティスマをけていれば本当ほんとう兄弟きょうだいである、ヨブ記、6:14「ともへのいつくしみをこばものは、全能者ぜんのうしゃへのおそれをてている」:聖書協会共同訳)

272◯如何どんこと愛德あいとくそむくか

すべ天主てんしゅそむこと叉人またひとにくみ、うらみ、つまづかせ、つみいざな事等ことなど愛徳あいとくそむきます。

すべ天主てんしゅそむこと

つみ大小だいせうかゝはらず天主てんしゅ対(對)たいするあい正反対(對)せいはんたいである。天主てんしゅあいすると幾許云いくらいっても、つみをかすならいつはりである。

ひとにくみ、

すなはがいくはへたひとでも「あくにくんでひとにくまず」とはれたごとあはれむが本当ほんたうである。

うらみ、

すなは遺恨ゐこんふくんでものはず、ゆるしねがはれても和合わがふ

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こばなどことであるが、「ひとゆるさずばみづからも天主てんしゅよりゆるされず」とのイエズス、キリスト御言おんことばと、また我等ひとゆるごと我等われらつみゆるたまへ」との祈禱いのりわすれてはならぬ。

つまづかせ、

すなは言行ことばおこなひもっしきかゞみしめし、他人たにんつみおとことである。ひと相互さうごかゞみるやうに励(勵)はげまねばならぬ、これを「ひととくて」るとふ。

つみいざな

ことあいそむくは、だい二百四十五のとひはれたことれば、ひと靈魂れいこんがいするからである。

ちゅう對(対)神德たいしんとくすなは天主てんしゅ直接ちょくせつ対(對)たいするとく)のほか叉種々またいろ〱倫理徳りんりとくがある、すなはをさおこなひイエズスをしへしたがってくするととくである。

倫理徳りんりとく中最うちもっと肝要かんえうなのは「けんゆうせつ」でこれよつの「樞要德すうえうとく」とふ。樞要すうえうとはかなめるとの意味いみで、扇子せんすかなめのやうに肝要かんえうであるからづけられたのである。

賢德けんとく」は救靈たすかり危険きけんおもんぱかとくである。すなは用心ようじんすべきこと用心ようじんし、つとむべきことつとめさせるのである。

義德ぎとく」は天主てんしゅ対(對)たいし、(:己の?!)徳(:おのれの?)とくたいして、盡(:尽)つくすべきこと

[下段]

適宜てきゞつくとくである。これを「正義せいぎ」ともふ。

勇德ゆうとく」は勇氣ゆうきもっ靈魂れいこんみつとくてきなる惡魔あくま世間せけんおのれとに打勝うちかとくであってこれ殉教者じゅんけうしゃ聖人せいじんいちじるしくえる。

節德せつとく」は快樂くゎいらくすごさぬやうにひかへるとくである。節操せっさう節食せっしょく節酒等せっしゅなど其部分そのぶぶんである。

樞要德すうえうとくほか種々いろゝゝ倫理德りんりとくがあるが、おもなるは敬神德及けいしんとくおよ謙遜けんそん柔和にうわ堪忍かんにん貞操ていさう從順等じゅうじゅんなどである。

とくおもなるみちは、だい聖寵せいてう助力じょりきいのり、だいイエズス、キリスト聖母せいぼ聖人方せいじんがた模範もはんならひ、だい出来できるだけとくおこなことである。