第四十六課 対神徳 (二)付 倫理徳[編集]
462●愛徳とは何であるか[編集]
▲愛徳とは、天主が限なき善に在すが故に愛し叉天主の為に人を愛する超性徳であります。
此定義にも三の事が含まれて居る。
愛徳も超性徳[編集]
で、聖寵に由って起るが、其働は、天主を愛すること人を愛することに極る。
天主を愛する訳は、唯救霊を得る為ではない、天主は万有の原因無限完全善に在して、万徳備り、従て万事万物に超へて愛すべきものに在すからである。人を愛するのは、愛らしいからではない、天主の為であって、皆天父の子等であれば、互に兄弟である訳であります。其で天主を愛する計りでは足
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らず、人をも必ず愛せねばならぬ。使徒ヨハネは殊更に「人あって我神を愛し奉ると言つゝ己が兄弟を憎まば、虚言者である、蓋し目に見える兄弟を愛せぬ者が何うして見え給はぬ神を愛し奉る事を得やうぞ、且神を愛し奉る人は己が兄弟をも愛すべしとは、我等が神より賜った掟である」と(ヨハネ一書四。二十、二一)云はれた。
265●天主を何程愛せねばなりませぬか[編集]
▲天主を何よりも愛せねばなりませぬ。イエズス、キリストは「心を尽し力を尽して天主を愛すべし」と曰ふた。
天主を何物よりも愛せねばならず、云はゞ万事に超えて、即ち何人よりも、何の宝物よりも、何の楽よりも、我生命よりも、愛せねばならぬ。イエズス、キリストは
「心を尽し力を尽して天主を愛すべし」[編集]
と仰しゃった計りでなく、言を重ねて「心を尽し、霊を尽し、意を尽し、力を尽して」と仰しゃったのは、凡てを挙げて天主を愛し奉る為に用ひねばならぬことを教へ給ふたのである。
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(註)愛するが為に心の燃えるが如き愛情を身に覚える必要はない。己を惜まず、假令何人にも棄てられ、如何なる宝を失ふとも、生命を失ふとも天主の御心に叶はぬ事はしないとの覚悟があれば足る。是こそ天主を何よりも愛する紛なき徴である。然もなくば愛は口や心に止る計りで、有名無実に成る。
266●何を以て天主を愛する事は知れますか[編集]
▲天主を愛する事は、天主の為に悪を避け、善を行ふを以て知れます。
此答は余程大事である。誰でも天主を愛するや否やは知りたいが、其徴を間違ってはならぬ。假令涙を流すほど胸に熱心は燃えても、人に涙を流させるほど感動深い話をしても、真に天主を愛する徴には成らぬ、其な事は神経や能弁や悪魔の業によってゞも起る事がある。叉祈る時に趣味を覚えるのも徴ではない、寧ろ趣味なしに辛抱して祈るのは徴に近い。叉屡聖体拝領するのも愛の徴ではない、寧ろ拝領の準備、叉は感謝として、毎度一層励むのは徴に成らう。必竟本当の徴
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は唯一、
悪を避け[編集]
るやうに、心掛けるか叉出来るだけ
善を行ふ[編集]
かである、併し
天主の為[編集]
とあるからには世の為、或は誉の為でなく、天主に対して然うするに限った事である。熱心や趣味を覚えぬ時でも、遜って御心に叶ふやうに励み、祈祷、職業等凡ての業務を忠実に尽す程、明かに天主を愛し奉る徴と見る事が出来る。聖パウロ曰く「悪魔すら自ら光の使に己を装ふ者である」と(コリント後書十一。十四)叉曰く「假令人間と天使との言語を語るとも、愛なければ鳴る鐘や鐃鈸の如くに成りたるのみ。假令預言する事を得て、一切の奥義一切の学科を知り、叉假令山を移す程の一切の信仰あっても、愛なければ何物でもない。假令我財産を悉く貧者の食物として分与へ、叉我身を焼かれる為に付すとも、愛なければ聊も自分に益ある事なし。
愛は堪忍し、情あり、愛は妬まず、自慢せず、驕らず、非礼を為さず、己の為に謀らず、怒らず、悪を負はせず、不義を喜ばずして真実を喜び、何事も包み、何事
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をも怺へるのである」と(コリント後書十三。一-七)
267●人を何の様に愛する筈であるか[編集]
▲人を己の如く愛せねばなりませぬ。
何の様[編集]
にとは、何程と異って、程(程度)を云ふのではない、仕方を云ふのである。程を云へば、己を人より先に愛するのは、先づ当然である。其で人の為に己を犠牲に供するのは、此上もない功績に成る。併し霊魂の助り丈は誰の為にも失ってはならぬ。永遠に取返の出来ぬ全損に成るからである。叉他人よりも近い者を近い程、例へば配偶者、親、子女、兄弟、親族、友人を他人より先に愛するのは順序である。愛する仕方だけは、
己の如く[編集]
と云はねばならぬ、其意味は次の問に見える。
268●人を己の如く愛するとは何であるか[編集]
▲自分の望まぬ事を人にも為ず、自分の望む事を人にも為る事であります。
己の如く愛する[編集]
とは、前の問に云はれた通り己程で
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はない、愛する仕方を云ふ丈である。
自分の望まぬ事を人にも為ず[編集]
とは、世間で「己の欲せざる所は人に施す勿れ」と云ふと同じものである。其通すれば、恨、復讐、嫉、人殺、姦淫、盗等は更に無く、略十戒に誡められた通に成って、孔子も然う教へたが誰でも己に省みれば、然う為る筈と云ふ事は解る。其次の言、即ち
自分の望む事を人にも為る[編集]
とは、是ぞイエズス、キリストの忝なき仰で、凡ても献身の則と成って、第二百六十九の問に云はれる如く、キリスト教に於て、世を驚す程に殖えて居る慈善事業、叉赤十字社の事業も、此御言葉が結んだ果実である。
269◯何を以て他人を愛する事を顕すか[編集]
▲霊魂上及び肉身上の慈善業を以て顕します。
霊魂上の慈善業[編集]
とは、人の霊魂を助けるに施す所であるが、特に聖書に載せたのは七ある。即ち、第一、人の惑を解いて善き指図を為る事。第二、無学の人を教へる事。第
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三、罪を犯す人を諫める事。第四、悲む人を慰める事。第五、人の過を堪忍する事。第六、侮辱等を宥す事。第七、生者死者の為に祈る事。
肉身上の慈善業[編集]
とは、先づ体を助ける手段で、聖書に載せたのは叉七ある。即ち第一、饑人に食べさせる事。第二、渇いた人に飲ませる事。第三、衣服を有たぬ人に着せる事。第六、捕虜等を贖ふ事。第七、死者を葬る事。
捕虜等を贖ふ事は、今行ひ難き事なれど、久しい間、殊に戦争に敗北した人を奴隷に為る悪弊あった時代、叉売(賣)奴を売(賣)買する国では必要なものであって其が為に聖會(会)に於て幾個も修道會(会)が設定され、叉聖人の中にノラの聖パウリノ(六 月十七日)、聖ライムンド(八 月卅一日)パウラの聖ヴィンセンチヨ(七 月十八日)の如く、身を奴隷の代に売(賣)った例さへもある。現今行はれる慈善は主に施とて、個人罹災者、慈善會等に金銭食物衣服等を寄付する事であるが、天主の御前に価(價)値を生ずるには(一)天主に對(対)して、(二)信仰上の故を以て、(三)
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快く、(四)名誉(譽)を求めず、施すのが本当(當)である。斯くすれば施は損にならぬ計りか、天主の貸したと同様に、此世に於て利益に成る事もあり、叉霊魂に取っては、直接に罪を赦す事はなけれど、赦を戴かれる恩恵を招き、償と成り、愈よ天国の福楽の種に成る。潤沢(澤)に有てば潤沢に施し、僅しか有たぬ時は僅でも快く施す事が必要である。施す金がなくとも、切て難儀な人に親切を現し、慰め、気を引立て、益に成る指図(圖)を与(與)へ、或は祈祷(禱)なりとも出来るによって、何人も心して愛を実際に現すやうに心掛くべきである。假令人が恩を知らずとも、是こそ天主より一層報いらるべきものと成る故、縦や愛想が尽(盡)きるやうに成っても辛抱して、イエズス、キリストを思ひ、斯の如き業を人に施し或は拒んだ時は御自身に施され或は拒まれたと同様に賞罸のある事を教へ給ふたのを覚えて、励(勵)むほど好い。
270●敵をも愛せねばならぬか[編集]
▲然り、敵をも愛し、之が為に祈らねばなりませぬ。
[下段]
是は全くイエズス、キリストの御言による事である。斯う仰しゃった、「汝の敵を憎むべしと云はれたのは、汝等が兼て聞いて居るが、我は汝等に云ふ、汝等の敵を愛せよ、汝等を憎む人を恵め、汝等を迫害し且讒謗する人の為に祈れ、是天に在す汝等の父の子等と成る為である。」と(マ テ オ五。四三、四五)
偖て
敵を愛する[編集]
とは、決して友人程でもなければ、叉夢にも敵の話、企、業等を愛し、或は扶けると云ふ事ではない。悪い者なら何処迄も抗って可い、唯諺に「罪を憎んで人を憎まず」と云はれる通り、飽まで敵の謀計を破るやうに勵(励)む一方に、敵其者を憎まず、イエズス、キリストの仰の通、叉殊更に、十字架に磔けられ給ふた時、敵から罵られつゝも、「嗚呼父よ彼等は其為す所を知らざるによって赦し給へ」と祈り給ふた模範に従って、敵に遺恨を含まず、宥を願へば之を拒まず、相当(當)の損害賠償を固く請求しつゝも帰(歸)服するのを退けず、将来を用心しながら宥して遣りたい。己の如く之を愛したいと思ふ事である。
(註)赤十字社の仕方を見れば解り易く成る。一生懸命に敵
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に打勝つやうに尽(盡)せども、敵だからと云って打棄てるではなく、倒れるや味方と同様に之を収容し、飮食を與(与)へ、治療等に手を尽し、癒るやうに心掛けるではないか。是叉聖パウロが羅馬人に書贈った通りになる。即ち「汝等が力の及ぶ限り、出来るだけ衆人と相和せよ。至愛なる者よ、自ら復讐せずして神の怒に任せよ、聖書に『主曰く復讐は我事である、我は報いる筈』と。却て敵が飢ゑれば之に食べさせ、渇かば之に飮ませよ、斯うすれば汝は彼の頭に燃炭を積むであらう。悪に勝たれる事なく、善を以て悪に勝て」と(ロ マ 書十二。十八-二一)茲に燃炭を敵に頭に積むとは、真心に感心させて堪らなく成らせることであるが、是こそキリスト教の主意である。
271●何故総ての人を愛せねばならぬか[編集]
▲総ての人を愛せねばならぬのは、イエズス、キリストが命じ給ひ、叉人は皆兄弟であるからである。
総ての人を愛する[編集]
のは、堅く
イエズス、キ[編集]
[下段]
リストが命じ給ひ[編集]
て殊更に「汝等人に宥さずば自分も在天の父から宥されまい」(マ テ オ十八。三五)、叉「我が汝等を愛した如く互ひに愛せよ。人が汝等の相愛するを見て、我弟子たる事を知るであらう」(ヨ ハ ネ十三。三五)と、頻に仰しゃった。叉諺に「四海兄弟と云はれるが如くに、
人は皆兄弟[編集]
であって、天主を父と戴いて居れば、出来る限り兄弟のやうに為ねばならぬ。
272◯如何な事が愛徳に背くか[編集]
△凡て天主に背く事、叉人を悪み、怨み、躓かせ、罪に誘ふ事等は愛徳に背きます。
凡て天主に背く事。[編集]
罪は大小に拘らず天主に対する愛の正反対である。天主を愛すると幾許云っても、罪を犯すなら偽である。
人を悪み、[編集]
即ち害を加へた人でも「悪を憎んで人を憎まず」と云はれた如く憐むが本当である。
怨み、[編集]
即ち遺恨を含んで物を云はず、免を願はれても和合
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を拒む等の事であるが、「人に免さずば自らも天主より免されず」とのイエズス、キリストの御言と、叉「{我等が人に免す如く我等の罪を免し給へ」との祈祷を忘れてはならぬ。
躓かせ、[編集]
即ち言行を以て悪しき鑑を示し、他人を罪に陥す事である。人は相互に善き鑑に成るやうに励まねばならぬ、是を「人の徳を樹て」ると云ふ。
罪に誘ふ[編集]
事の愛に背くは、第二百四十五の問に云はれた事を為れば、人の霊魂を害するからである。
(註)対神徳(即ち天主に直接に対する徳)の外に叉種々「倫理徳がある、即ち身を修め行をイエズスの教に従って善くすると云ふ徳である。
倫理徳の中最も肝要なのは「賢、義、勇、節」で之を四の「枢要徳」と云ふ。枢要とは要に成るとの意味で、扇子の要のやうに肝要であるから然う名づけられたのである。
「賢徳」は救霊の危険を慮る徳である。即ち用心すべき事を用心し、努むべき事を務めさせるのである。
「義徳」は天主に対し、(:己の?!)徳に対して、盡(:尽)すべき事を
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適宜に盡す徳である。之を「正義」とも云ふ。
「勇徳」は勇気を以て霊魂の三の徳の敵なる悪魔と世間と己とに打勝つ徳であって之は殉教者や聖人に著しく見える。
「節徳」は快楽の度を過さぬやうに控へる徳である。節操、節食、節酒等は其部分である。
枢要徳の外に種々の倫理徳があるが、主なるは敬神徳及び謙遜、柔和、堪忍、貞操、従順等である。
徳を得る主なる道は、第一聖寵の助力を祈り、第二イエズス、キリスト、聖母、聖人方の模範に倣ひ、第三出来るだけ徳を行ふ事である。