公教要理説明/02-19

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だい四十三くわ ざいげん[編集]

246●ことおほくのつみみなもとるものがある[編集]

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ります、がうまんどんよくしっとじゃいんどんしょくふんどたいだであって、これなゝつざいげんひます。

ざいげん[編集]

とは、つみみなもとである。「かぬたねへぬ」とはへ、とちにも、かぬでもいろゝゝさまゞゝわるたねがあって、しぜんいばらあざみざっさうしきりはびこり、なかゝゝねだやされず、ゆだんなくこれいちゝゝぬきとらぬなら、せっかくさくもつでもこれおほはれてしまことは、たはたはたらひとみなよってところである。てうそのごとひとうまれつきわるかたむきがあって、そればかりならつみではないが、つみるのはこれまかせててんしゅそむことときだけで、しかだいざいるのはだいじおよときだけである。たゞもいましめぬならばますゝゝひどって、おほくのつみるものである。ひとみなたせうこれってるが、おのゝゝおもるものをしゅあくなづける。

247◯がうまんとはなにであるか[編集]

がうまんたかぶってひとみさげることであります。

たかぶ[編集]

とは、おのれあたりまへよりたかくし、ったものみせびらかし、

[下段]

にあはぬほまれよけいむさぼことなどである。

ひとみさげる[編集]

とは、ひととくてがらくさし、じぶんよりはおとったものつまらぬものけいべつすることなどである。

ちゅうおれつよい、うつくしい、さいしかねもちなどおもふのも、よろこぶのも、じっさいであればがうまんではないあたりまへである。がうまんるのは、(一)うでないのにおもふてじまんすること、(二)てんしゅおかげであるのにおのれとくおもこと(三)てんしゅかんしゃするはずなのにかんしゃせず、(四)ほまれてんしゅせずしておのれむさぼり、(五)ほどわきまへずていどいぜうほこことである。あたりまへほまれのぞむのも、けうさうしてまけぬきり、ひとちたいとおもふのも、またゆうとうことよろこぶのもがうまんではない、しかくのないのに、どこでもいつでも、かしらだちたいとおもふのはがうまんる。がうまんすべてのあくって、それからおもせうずるは(一)きょえいしんすなはむだことほここゝろ、(二)わがままじふじまんふじうじゅんがうぜうふしんかうふしんじん(三)ぎぜんって、められるために、こゝろからおこらぬぜんかざり、(四)たいもうとて、あまこととどかうとし、(五)またひとかろんじ、そねみ、うらことなどである。

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がうまんはんするとくけんそんすなはへりくだりであって、けっしてうそでない、がうまんこそうそであるからつみる。けんそんわけせいパウロことばに、「なんぢってものもらはなかったがごとくにほこるぞ」と(コリント前書四。七)あるがごとし。それけんそんおのとくみとめぬとことではない、るものはる、いものはいと、そのてうしょみとめるとともたんしょをもわきまへて、てうしょてんしゅおかげひとおかげことかんがへ、おのれあたらぬほまれもとめず、すべきにし、おのれぶんとゞまことるのはほんたうけんそんもっともである。

たゞおもてむきばかりのけんそんほんたうけんそんでない、(一)ほまれきょぜつするがごとくにせ一そうほめられるやうにくめんするのはにせけんそんである、(二)またべっして「うせい」とか「ぐさい」とか「とんじ」とかふやうに、けんそんけて、じっさいひとくさことけっしてけんそんでない、じっさいうがちてこそけんそんふものである、イエズス、キリストのたまはく「すべみずかおごひとげられみずかへりくだひとげられる」と(ル カ十四。十一)。

248◯どんよくとはなにであるか[編集]

どんよくかねなどみだり

[下段]

をしみ、むさぼことであります。

どんよく[編集]

は、むさぼのぞむとで、だんりんともだんらんともはれてある。

かねなど[編集]

とは、かねばかりでなく、ざいさんまたひとつねしがるたからである。

みだりをし[編集]

とは、かねつかはずところつかはず、しさのために、じぶんあるひかぞくひつえうさうたういしょくぢういてむりくるしめ、またおのれだいじぎむことである。けちんぼうしはんぼうはれるのはそれである。

むさぼ[編集]

とは、たゞほしがるのではない、よけいに、むやみのぞんで、こればかりをおもひこそのためからぬことことである。

ちゅうかねなどるから、これのぞむのも、そのためしきりはたらくのも、おしむのも、もとよりあたりまへである。それで「きんべん」とって、つとはげこと、「けんやく」とって、一りんでもむだつかはず、さきためめるのは、しごくよことである。それはんして、「らうひ」とって、げんしゅゞゝさまゞゝじたいりようたいそうあるのに、むだつかひ

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るのは、ほとんつみほどである。

しかかねちさへすればいとわけにはかぬ、かねもくてきもっいりようしだいつかふべきものゆゑなふぜいけういくひばかりでない、ほどこしじぜんじげふこくかじげふけうくわいひようとうにもこゝろよさしだし、これもっをはりなくむくいられるべきてがらはずである。

それどんよくしゃれいこんよりもかねだいじがり、てんしゅをもかへりみずかねためおんいましめそむき、せいじつやぶり、にくしんぜうりえきのみをはかり、またひとあはれまず、ほどこしばかりかさぎかうりがしそしょうなどし、またあたりまへばかりではらぬがごとくに、わいろなどり、とくしょくして、ふところこやくめんまでするひとがあって、おほいじんだうやぶるのである。せいしょに「ぐうぞうすうはいなるどんよくころすべし」と(コロサイ三。五)あるが、かねわがかみとすることがあるからはれたのであって、せけんはいきんしゅぎそれあたる。またかはれてある「あやまことなかれ、しつうしゃも、ぐうぞうすうはいしゃも、かんいんしゃも、とうぞくも、どんよくしゃも、かみくにざるべし」と(コリント前書六。九、十)。うかどんよくくらまされて、一とみためたすかりうしなはず、

[下段]

ほんたうことのぞむならば、かねなどえいゑんてがらためしようし、しんをはりなきとみるやうにはげまねばならぬ。

どんよくはんするとくは、こゝろひろくしてものをしみせぬことで、せいくわつよぶんあるひけんやくしたものを、よろこんでひんきゅうにんなんぎひとほどこし、けうくわいこくかじげふきふすることなどである。をしみなくさゝげれば百ばいてんしゅよりむくいられるにさうゐない。

249◯しっととはなにであるか[編集]

そねみひとさいはひねたわざはひよろこことであります。

しっと[編集]

またそねみとも、ねたみともふ。

ひとさいはひねた[編集]

とは、うらやこゝろもっひとしあはせかなしこと

わざはひよろこ[編集]

とは、うらために、ひとふしあはせみきゝしてきみだとおもことである。

ちゅうひとさいはひかなしんでも、しっとらぬことたびゝゞある、たとへばけうさうするのに、ひとったことよろこばぬでもい。またひとせいこうしたのはむりおもひ、あるひてんしゅほまれらず、むしがいらうとおそれるときなどである。しっとるのは、そのかなしみじまん

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ねたみからおこって、ひとせいこうもって、なんだかじぶんねうちおとった、めんぼくさはるとおもふやうなときである。ひとわざはひよろこぶのも、たいていおなだうりで、てんしゅためひとためわけでなく、しぜんねたこゝろからときである。

しっとよりせうずるがいは、おもふわにくしみうらみざんげんそしりけんくわまたひとごろしまでいたことがある。こだいぎじんアベルあによりころされ、ヨゼフけうだいからられ、イエズス、キリストしけいおこなはれたまふたのもしっとわざである。

しっとはんするとくあいであって、てんしゅくわうえいひとがいせぬかぎりは、せいパウロが「よろこひとびとともよろこび、ひとびとともき」と(ロ マ 書十二。十五)おっしゃったごとく、どうぜうあらはことである。

250◯じゃいんとはなにであるか[編集]

じゃいんみだりいろこのことであります。

じゃいんことだい百八十六いかとひせつめいしたが、ざいげんうちれつせられるのは、ひぜうはやってこじんれいこんにくしんがいするばかりでなく、かていにもしゃくわいいっぱんにもかぞへられぬほどがいどくきたすからである。すなはじゃいんためからだけがされきずつき、くわりうべうはいらうなど

[下段]

せうじ、こゝろいやしくり、のうりょくにぶり、げんきぬけ、しょくげうおこたり、ざいさんつぶし、めたいとおもってもじゃよくどれいってめられず、ひといさめきゝいれず、いのりことひせきさづかこといやがり、をしへとほざかり、つひあはれせうがいおくことおほいのはじつなげかはしい。ことどくなのはせいねんであって、げんきやしなひ、がくげふかげふはげみ、おのれちてうるはしきせいねんり、つひさうたうえんぐみもっゑんまんかていまうけるやうにつとめればいのに、それらず、しきともだちつきあひ、ぜうよくほしいまゝにしてくずし、おやかなしませ、げふおこたり、つまらぬもの、きずものとるのはなによりいたましい。やうやめてこどもまうけたいとおもっても、かねてのきずものはきずものをせうずるほかなく、しそんいたるまでがいどくたねのこすのはまことおそろしいしだいである。

らぬやうに、わかあひだにはこゝろざしさだめ、そんことゆるされるときでないから、こゝろよりかされても、ともだちからさそはれても、あくまいざなはれても、だんぜんことわり、こんいんするまでしんぼうして、じゃよくけぬやうにこゝろがけ、いのりこくはくせいたいはいれうおこたらず、しきともあやふたよりけ、五くわんつゝしみ、じゃよくおさ

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ねばならぬ。これこそほんたうじんぶつり、ねうちあがり、じゅんけつなるしはわせおぼえ、またこんいんしてからてんしゅめぐみじゅんたくいたゞみちである。

じゃいんはんするとくていそうであるが、どくしんものふうふものそのまもりかたことなれど、つまりみだらことふせぐにきまって、これまもみちすでだい百九十二のとひべたとほりであります。

251◯どんしょくとはなにであるか[編集]

どんしょくみだりいんしょくたしなみ、すごことであります。

どんしょく[編集]

は、しょくむさぼる、しょくすごすとのいみであって、こゝにとほりふたつことる。

(一)

いんしょくたしな[編集]

とは、のみくひく、このむとのいみであるが、もとよりいんしょくひもじさをふせぎ、ちからゐぢするにえうするばかりでなく、よろこびあらはすにももちゐられるが、これたしなむのはけっしてつみでない。わるいのは

みだりたしな[編集]

ことで、よけいに、むりいんしょくこのみ、たとへばしこうおよびみかくけうらくのみのためのみくひし、すきものむやみひたいみたいで、しんだいにあはぬかねそれため

[下段]

つひやし、がつゝゝのみくひすることである。

(二)またわるいのは

すご[編集]

ことで、これで十ぶんみとながら、わけもないのによけいいんしょくして、せいしんしんたいがいし、しょくむはたことできなくことである。

ちゅうことさらいましめられるのは、さけなどことであるがイエズス、キリストみづかぶだうしゅめしあがり、ひとにもけうきふたまふたのをても、ばかりはつみらぬことろんたず、またノエごとさけがいらずにったときつみにはらぬ。

きんしゅもっとことで、あるひとってはぜひすべきことなれど、一ぱんめいれいとははれぬ。

つみるのは、いわゆるさけまれることであって、たいがいことおほい。たとひさいばんしょでは、ほんしんうしなったときむせきにんみなされることがあっても、てんしゅみまへには、そんがいふせためいましめられためいていなれば、そのけっくわつみはれるにさうゐない。それとまるべきことがてんながら、んだうへまたのみ、ほんしんうしなひ、あるひだいじぎむそむことあらば、たいざいるにさうゐない。あはれにもさけためからだがいし、アルコールちうどくにもり、せいしんくら

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し、たいせつかねついやして、なふぜいへんさい、一せいかつこどもけういくしんじゃこくみんぎむはたしかねるものり、てられぬありさまって、ひとしきかゞみせ、つまこどもなんぎかなしみかへりみず、せいパウロことばごとく「はらおのかみし」(フィリッピ書三。十九)れいこんさけためほろびいたるは、なによりなげかはしいことである。そんがいて、こゝろざしあるひとは、かゞみしめためきんしゅするのは、しごくほむべきことである。

どんしょくかくごとひとせいしんくらまし、はれぬほどふかうきたすによって、ざいげんうちかぞへらる。

これはんするとくは、ことさらせっせいって、なにごとほどよくひかへ、ちうようまもことであって、しゅうしんとくうちことすうえうとくばれる四のとくの一である。

252◯ふんどとはなにであるか[編集]

ふんどみだりいかことであります。

ふんど[編集]

は、いきどほいかるとで、おもいかりはらだちたんきともふが、つねはぬひとや、ものごとたいして、はらだとがちことである。いかりよしあしかんがへるもないのに、にはかおここともあ

[下段] るが、おさらぬときつみにはるまい。またいかってもことがある、たとへばこどもめしたものげうぜうて、かんべんらず、あるひそのあやまちさとために、りっぷくするごとことである。それせいしょに「いかるともつみをかすな」と(エフェゾ書二。二六)いてあります。

つみるのは、こゝにいてあるとほり

みだりいかこと[編集]

であって、すなはち(一)あるひさうたうゆゑなく、(二)あるひすごして、たとへばこどもわづかあやまちあらことばひ、ひぜううちたゝいていかるやうなときである。それにはかはらったときは、るべくおさへねばならぬ。むりひどいかり、あるひおほきがいおよぼすときは、たいざいこともある。

ことわざに「たんきそんき」とふがごとく、ふんどからあやまちおびたゞしく、ことふわあだがへしあくこうぶじょくけんくわうちあひひとごろしなどである。

ふんどはんするとくは「かんにん」とて、なにごとこらへ、またにうわ」とて、おだやかにしてしんせつひとあらはことである。

253◯たいだとはなにであるか[編集]

たいだつとめいとってつねおこたことであります。

たいだ[編集]

おこたおこたるとで、つね

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なまけのらくらなどふ。あるちほうではもとぶせうってったが、いくらちがふ。

つとめいとって[編集]

とは、しょくげふみぶんさうたうこといやがっておこたりがちことである。ことさらなにかぬとふのでなく、たゞみをしみ、ほねをりいやがるわけである。

やすみなしにははたらかれぬから、てきゞやすむのはひつえうである。やすみこのむのはつみではない、あんそくじつさだまったのはそのためにもるが、べうきつかれもないのに、あるひこれかこつけにてよけいに、むりやすんで、しょくげふおこたるのは、たいだつみる。

せけんでも「かんきょふぜんす」とふが、なにときは、さまゞゝあくじもとる。はたらときは、あくいざなふにあくまえうすれど、かんきょするときは、あくまえうせず、みづかつみもとめるにいたる。たいだは、れいてきにくてきふたとほりあるが、にくてきたいだは、ほねをりいやがって、すきことにはひまつひやしてもおのしょくげふにはおこたことである。そのけっくわむだあそびふゆくわいふげんきこんなんびんぼうひけふしつぼうれいらくなどである。れいてきたいだは、れいこんぜうつとめいとって、をしへけんきういのりおこたり、おのれことず、こくはくなどつとめむやみ

[下段]

のばし、ついれいたんり、しつぼうするにいたる。

たいだはんするとくは、ゆうきであって、くわっぱつはたらき、おのれち、ことはげことで、なによりゆくわいなものにる。

ちゅうだい四十三くわをはるにあたって、ちういすべきことがある。つみもっとおそるべく、くべきものなるに、ひとこれしばゝゞをかすのは、ちからおよばぬわけよりも、むしをかさぬはうはうもちゐぬからである。つみをかさぬはうはうりゃくしてへば、

だい一につみきくわいけることつみきくわいへば、よくくらまされて、あくじるから、できかぎつみきくわいけねばならぬ。ながきくわいもとめれば、つみをかすにさうゐない。ゆゑあるところき、あるひとであひ、あるともだちつきあひ、あるはなしき、あるしょもつみ、あるがながめるときこれまでけいけんによって、かならつみをかすなら、そのきくわいだんぜんさけねばならぬ。もなければ、これうちかじょりょくてんしゅよりかうむことは、むりちうもんる。ぜひさけられぬきくわいならば、ふかようじんし、かつゆうきふるはし、またねっしんてんしゅおんたすけいのことなによりかんえうである。

だい二のはふくわいしゅんせいたいひせきさづかることであるが、てう

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ものよごれたときに、まらよごことおそれぬごとく、だいざいをかしてそのままとゞまるならば、つみかさやする。くわいしゅんもっこゝろきよめれば、ふたゝよごさぬやうにようじんするおこるのみならず、それだけちからるから、つみをかしたときはやこころあらためてそのゆるしけ、ふたゝをかさにやうにちからもとめるがほんとうである。またことさらせいたいいたゞいてイエズスと一することつとむれば、なおてらされて、もこゝろかなはぬことけるちからるにさうゐない。

だい三のはふは、いのりであって、いのりさへすればかならあくまけぬちからるが、いのりおこたらばけるきけんさらされる。あくまひといのりいやがらせるのはそのためである。

だい四のはふは、すでだい百三十五のとひったとほり、四しうことしばゝゝおもことであって、ぬべきことしんぱんくべきことせうばつまぬがれぬことかんがへれば、つみをかことはあるまい。