公教要理説明/02-18

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だい四十二くわ つみ

231●なによりきらはねばならぬのはなにであるか

なによりきらはねばならぬのはつみであります。

悪魔あくまよりもつみにくむべきものである、何故なぜなればつみをかさぬならさすが悪魔あくまがいする事出来ことできず、つみをかして悪魔あくまがいせられるのである。

232●つみとはなにであるか

つみとは天主てんしゅめいそむことであります。

こゝ承諾せうだくしてそむくとはぬのは、原罪げんざいこれふくまれるからである。だい四十三のとひはれたとほり原罪げんざい各々めん〲承諾せうだくによるのではなく、人類じんるゐ代表だいへうせる人祖じんそアダム承諾せうだくによってをかされ、我々われわれ唯罪たゞつみをかしたおや子供こどもとして、罪人つみびと身分みぶんうまれたわけである。

[下段]

天主てんしゅめいそむく。

めいすゝめとはちがふ。めいは、ろ、るな、との言付いひつけであるが、すゝめたゞるがい、ぬがい、とこととゞまる。だい百三十六のとひはれたとほり、十かいもっいましめられること天主てんしゅ直接ちょくせつめいであり、聖会(會)せいくゎい律令おきてあるひ親長上おやめうへたゞしき命令めいれいもっめいぜられたことは、天主てんしゅ間接かんせつめいであって、いづれも天主てんしゅめいである。叉何またど場合ばあひでも、良心れうしんによってこと善惡よしあしあきらかにさとされるところも、天主てんしゅめいはれる。天主てんしゅめいそむことつみなれど、御勸おんすゝめまもらぬだけではつみといふまでにはかぬ。たとへば日曜にちえうのミサ聖祭せいさいあづかことめいであって、これそむくのはつみるが、聖体(體)せいたい降福式かうふくしきあづかるとか、毎日まいにちミサ聖祭せいさいあづかるとかことは、すゝめぎぬから、これあづからずとも、これかろんずるわけからでないなら、つみにはらぬ。

233◯つみ幾種いくとほりあるか

つみ二種ふたとほりあります、原罪げんざい自罪じざいとであります。

234●原罪げんざいとはなにであるか

原罪げんざい元祖ぐわんそアダムから人類じんるゐぱんに(遺伝いでんで)つたはるつみであります。

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だい四十三のとひはれたとほり原罪げんざい自分じぶんをかしたつみでないから、それためばっせられるのではなく、唯人祖たゞじんそつみによって、其子孫そのしそん罪人ざいにん身分みぶんうまれ、人祖じんそ与(與)あたへられた超自然てうしぜんめぐみと、これくはへられた特恩とくおんとをたぬものだけである。れど痛悔つうくわいなしに、たゞイエズス、キリスト御贖おんあがなひによって、洗礼せんれいもっゆるされ、聖寵せいてう救靈たすかりめぐみとを回復くゎいふくする事出來ことできるのである。

235●せいマリアにも原罪げんざいがありましたか

いなせいマリア救世主きゅせいしゅ御母おんははため原罪げんざいまぬがれました。だい四十三および四十四のとひはれたとほり原罪げんざい聖寵せいてうたずすなは天主てんしゅよりあいせられてらぬとのことであるが、イエズス、キリスト原罪げんざいのないことまをすにおよばず、せいマリアアダム子孫しそんとして、原罪げんざいまるはずであったが、天主てんしゅあいせられてこそ御子おんこはゝるべくえらまれたものなれば、片時かたとき聖寵せいてうたぬとことはない。これ

原罪げんざいまぬが

たまふた理由りゆうである。

ちゅうそれなら聖母せいぼは、イエズス、キリストからすくはれたまはぬかとふに、ひとまさってすくはれたまふたとはねばならぬ。

[下段]

すなはキリスト御救おんすくひによって、ひとキリスト御功力おんくりきよっ原罪げんざいゆるされ、聖母せいぼキリストゆゑに、原罪げんざいまぬがたまふたわけである。

236●自罪じざいとはなにであるか

自罪じざいひとみずか承諾せうだくして、天主てんしゅめいそむことであります。

ひとみずか

とは、自分じぶん意志いしでとこと

自罪じざいるにふたつ要件えうけんがある、すなは天主てんしゅめいそむことと、これ承諾せうだくがなければつみにはならぬ。それ天主てんしゅめいあるをらず、あるひこれわすれ、あるひ気付きづかないでこれまもらなかった場合ばあひあとから其事そのこといて、うもわるかった、つみったといくかゝっても、承諾せうだくしたことでなければ、つみにはらぬと安心あんしんしてよい。

237◯承諾せうだくするとはなにであるか

承諾せうだくするとはりながらうけがことであります。

それ承諾せうだくふたつことから成立なりたつ、ことうけがこととである。

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だい一、

りながら

とは、つみいてへば、しん天主てんしゅめいあるひいましめあること合点がてんし、これそむけばつみると、気付きづいてことである。わるいとまるらぬならつみにはらぬ。

だい二、

うけが

とは(まをすまでもいが、請負うけあふとか、うたがふとかふのとはまることばちがふ)うしてはつみると熟知じゅくちしながら、それでもかまはぬ、仕方しかたがないとしておこなひさだめることである。だい一のこと知恵ちゑはたらきで、だい二のうけがこと意志いし意力いりょくこゝろはたらきである。両方揃れうはうそろって承諾せうだくことるが、つみおも承諾せうだくによってきまる。假令たとひわることしひせられても、自分じぶん意志いし承諾せうだくがないあひだつみにはらぬ。

ちゅう当然あたりまへ人間にんげんなら、たれでも良心れうしんふものがある。良心れうしんはたらきふたつすなはち(一)こと善悪よしあしまへから判断はんだんして、これい、これわるいと見分みわけ、ことめいじ、わることいましめる、これ良心れうしん指揮さしづふ。(二)叉事またことるのに、あるひあとに、ことなら良心れうしんめてうれしがらせ、わることならしきりとがめて気遣きづかひおこさせ、ばつおそろしがらせる、これ良心れうしんせめ良心れうしん呵責かしゃく

[下段]

ぞく気掛きがゝりなづけてをる。ひと皆之みなこれおぼえてあるが、度々たびゝゞ良心れうしんさからへば、良心れうしん漸々だんゞゝにぶって、其指揮そのさしづせめかなくなる。

善悪ぜんあく外部そとのり天主てんしゅめいであるが、良心れうしん其命そのめいさと善悪ぜんあく内部うちのりである。ひとみちびためあたへられた足下あしもとともしびで、善悪ぜんあく見分みわけるちかのりであるから、善悪ぜんあくもっぱ其判断そのはんだんよっさだまる。すなはぜんとのみ思込おもひこんでしたことおのれってぜんあく合点がてんしてしたことおのれってあくる。すなはちひさことでも大罪たいざい思込おもひこんでをかしたこと大罪たいざいり、重大じゅうだいことでも小罪せうざいぎぬと思込おもひこんでをかしたつみ小罪せうざいとゞまる。しかし「思込おもひこんで」とはれたのをわすれてはならぬすなはこれ良心れうしんいづれかに確定かくていしたこと意味いみするのである。良心れうしんげてはならぬ。うたがひあるときたしかところたづし、祈祷いのりでもして其不安そのふあん除去のぞきさってのちおこなふのが本当ほんたうである。わるいとうたがひながらなにかをれば、つみまぬがれぬ。

良心れうしん文字もんじとほり、こゝろで、たしかみちびくものなれど、(一)をしへまなはずなのにまなばず、はずことらぬなら、明盲あきめ

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くらごとこともある。(二)叉世間またせけん風習ふうしん談話等こばなしなどまよはされて、わることいと見做みなこともある。(三)叉茫然またうっかりして気付きづかぬこともあり、一寸忘ちょっとわすれることもある。(四)叉懼またおそれため判然見分はっきりみわこともある。(五)情欲ぜうよくためくらまれることもある、ゆゑ良心れうしんますまあかるくすることこれげずたゞしくたもことまがってはらぬかと度々たびゝゝ反省はんせいすること何処どこまでも其指図通そのさしづどほりおこなことは、なにより肝要かんえうである。良心れうしんしたがふならば、假令間違たとひまちがったことでもつみにはらぬ。

238◯んなことからつみをかすか

おもひのぞみことばおこなひおこたりもって、天主てんしゅいましめあるひ教会けうくわい律令おきてあるひおの職務しょくむそむくをもっつみをかす。

天主てんしゅ

めいるのは

かい教会けうくわい律令おきて

ばかりではなく、各人めんゝゝ

職務しょくむ

うである。すなは身分職分みぶんしょくぶんによって、たとへばおやとして、役人やくにんとして、教師けうしとしてなどまもらねばならぬつとめであるが、良心れうしんによってさとされるから、良心れうしんさからふのも天主てんしゅめいそむことである。

[下段]

天主てんしゅめいそむくのはわざばかりではない、じつ五種いつゝとほりある。

一、

おもひ

たとへばこゝろうち天主てんしゅ御計おはからひつぶやき、ひときらねんたもち、猥褻わいせつことたのしみかんがへ、叉何またなににもよらずおもってはならぬと合点がてんしながらおもこと

二、

のぞみ

すなは機会きくわいさへあらばなにわることたい、擲返うちかへしたい、ひとがなければものぬすみたい、邪淫じゃいんをかしたいなどのぞことであるが、つみでないならばとの条件でうけんいたときつみにはるまい。いよいつみをかしたいとおもへば天主てんしゅ御前みまへをかしたと同様どうやうる。

三、

ことば

たとへば天主てんしゅことわるひ、相当さうたうわけなくしてひとそしり、猥褻わいせつはなし猥褻わいせつうたひとしきかゞみことひ、喧嘩けんくわ嘲等あざけりなどことである。

四、

おこなひ

たとへばものぬすみ、邪淫じゃいんわざし、さけひ、聖日せいじつゆるしなくしてはたら事等ことなど

五、

おこたり

すなははずこといたさず、たとへば朝夕少あさゆうすこしも祈祷いのりず、るべきことならはず、子供こどもをしへず、かれるのに

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ミサ聖祭せいさいかず、あるひゆるがせためおくれ、ひと難儀なんぎたすけず、借金しゃくきんはらはず、ねん告白こくはく聖体拝領せいたいはいれうつとめまもらぬなどことである。

239◯自罪じざい幾種いくとほりあるか

自罪じざい二種ふたとほりあります。大罪だいざい小罪せうざいとであります。

240●大罪だいざいとはなにであるか

大罪たいざい大事だいじいてまった承諾せうだくして、天主てんしゅめいそむことであります。

わすれるな、大罪たいざいとなるにふたつ条件でうけんる、大事だいじいてそむことと、まった承諾せうだくと、此二揃このふたつそろったとき大罪たいざいである。

だい一。

大事だいじ

とは、わづかこととゞまらず、おほきことたいしたことであって、

大事だいじいて

そむくとは、あるひとくきびしくいましめられたわけあるひおほきがいわけで、天主てんしゅよりてられるほどことそむことである。たとへば天主てんしゅほかのものを礼拝れいはいすること天主てんしゅあきらかにをしたまふたことしんぜぬこと信者しんじゃでありながら信者しんじゃでないとこと人殺ひとごろし自殺じさつ姦淫かんいん大金たいきんぬすむ、あるひぬすみたいのぞみいだことひとおほきそんけ、あるひけたいのぞみいだ事等ことなど叉僅またわづかことおもはれても、厳重げんじういましめられたことたとへば

[下段]

聖体拝領前せいたいはいれうぜんすこしの飮食いんしょくでも、矢張大事やはりだいじる。

だい二は

まった承諾せうだくする

ことであるが、だい二百三十七のとひはれたとほりまったことまったうけがこととである。

まったるとは、これ天主てんしゅ厳重げんぢうきんたまふたことである、大罪たいざいってをはりなきばつまねことであると、立派りっぱりながら、良心れうしんさからって、重大ぢうだいことくわんして天主てんしゅいましめそむことである。

其時そのときに(一)くはらず、たとへば銃猟じうれう時獣ときけもの見違みちがへてひところし、(二)あるひわすれ、たとへば主日叉しゅじつまた大小斎日だいせうさいびであることわすれ、(三)あるひかぬなら、りながらたとははれぬから、大罪たいざいまでにはくまい。れどあるひらぬこと、かぬことのよっきた理由次第りゆうしだいでは大罪たいざいこともある。

まったうけがふとは、たとへばしたがへばしたがはれるのに、叉従またしたがはねばならぬとおもひながらしたがはぬとのこゝろである。それ極悪ごくわるいとりながら、それでもいたします、天主てんしゅよりきびしくいましめられたけれどもかまはぬ、天主てんしゅよりてられて、をはりなくばつせられても仕方しかたがないと、心得こゝろえことである。おさへかねる非常ひぜう情欲ぜうよく

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れてこれちきらぬか、ひどおどされて恐怖びくゞゝほとん自由じいううばはれてるか、いづれにしても、うもそむきたくない、なんとかしてしたがひたい、やむしたがはぬこと残念ざんねんだとおもへば、つみるにしても、まった承諾せうだくしたとはれぬだけあるひ大罪たいざいるまい。ぶんながら殊更ことさらわけあってそむときも、叉其通またそのとほりであらう。

此二このふたつ条件でうけんそろったとき大罪たいざいる、ひとつでもけたとき大罪たいざいでなく小罪せうざいとゞまる。

ちゅう大罪たいざいにしても皆同様みなどうやうのものではない、比較的わりあひひどいものがある、とく聖書せいしょに、てんさけつみ聖霊せいれいさからつみとは殊更ことさらいましめられてある。

てんさけつみとは、たとへば無理むりひところことソドム地方ちほう流行はやったやうなせいもと邪淫じゃいんおこなこと貧窮人ひんきゅうにん未亡人みぼうじん孤児みなしごしひたげること労働者らうどうしゃ賃金ちんきんはらはぬ事等ことなどである。

また聖霊せいれいさからって此世このよのちゆるされぬ」とイエズス、キリストよりはれたつみは、たとへば救霊たすかり失望しつぼうすること改心かいしん無暗むやみばすこと真理しんりみとめながら帰服きふくするをこばことひととくねたこと意見いけんれず、あくこゝろかためること

[下段]

まで不敬虔ふけいけんみせびらかす事等ことなどであって、のちでもゆるされぬのは、みづか救霊たすかりみちふさぐからである。

241●小罪せうざいとはなにであるか

小罪せうざい小事せうじいて天主てんしゅそむき、あるひ大事だいじいてもまったくは承諾せうだくせずして天主てんしゅそむことであります。

大罪たいざいるにえうするふたつ条件即でうけんすなは重大ぢうだい事及之ことおよびこれついまった承諾せうだくけたとき小罪せうざいである。それ小罪せうざいは、

(一)

小事せうじいて天主てんしゅそむ

とは、わづかこといて天主てんしゅそむくとの意味いみであるが、わづかことでも矢張天主やはりてんしゅめいならばおもんじて、是非守ぜひまもらねばならぬから、これそむけばつみる、これ小罪せうざいである。たとへば大金たいきんではなくとも、ひとわづかものぬすあるひ一寸人ちょっとひとち、一寸譏ちょっとそしった時等ときなどである。

(二)

大事だいじいても

とは、おほきことでも、たいしたことそむいてもと意味いみである。

まったくは承諾せうだくせずして

とあるに注意ちういせねばならぬ、まった承諾せうだくせぬことつみらぬからである。「まったくは」とはたと

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承諾せうだくはしても完全くわんぜん承諾せうだくでないと意味いみである、すなはち(一)あるひらず、(二)あるひまったうけがはず、否々いやゝゝながら天主てんしゅそむ行為かうゐすとことである。

(一)らずとは、たとへばわすれてかぬとき、(二)まったうけがはずとは、あるひしひられて、あるひよくけてつみおちいときまたぶんながら殊更ことさらわけがあるときふのである。ときつみにはれど小罪せうざいぎぬとおもはれる、天主てんしゅよりてられるほどにはるまい。

242●おそるべきは大罪たいざいばかりであるか

大罪たいざい小罪せうざい天主てんしゅさからひ、おほいがいるにって、如何どんわざはひよりもおそきらふべきものであります。

大罪たいざいでも小罪せうざいでも

天主てんしゅめいそむことなれば、両方れうはうともにつみである。注意ちういすべきは、小罪せうざいはれるのは、けっしてわづかことちひさことかへりみるにらぬとの意味いみではない。唯大罪たゞたいざいたいしてふので、大罪たいざい比較的わりあひ小罪せうざい害少がいすくなく、叉赦またゆるされやすいとふにぎぬ。実際罪じっさいつみなんたるかをったなら

[下段]

ば、つみつみでもなによりおそるべきものだけある。

天主てんしゅさからふ。

万物ばんぶつつくり、我等われららしめ、だけものやすこれあたへ、生死せいしはからひ、万事万物ばんじばんぶつつかさどたまふて、万物皆ばんぶつみないさゝかそむかず、何処どこまでもしたがたてまつ天主てんしゅは、我等われらむかって、これけっしてるな、あるひ是非為ぜひなせと、わづかことでも殊更ことさらいひつたまふのに、御前みまへって、われしたがはぬとの鉄面皮あつかましいこゝろは、軽蔑けいべつ侮辱ぶじょく恩知おんしらずもはなはだしいではないか。天主てんしゅないがしろにし、キリスト御受難ごじゅなん御死去ごしきょ無益むえきにすることで、じつ非道極ひどうきはまることである。(だい八十四のとひだい二にはれたこと繰返くりかへよ)。

おほいがいる。

つみ天主てんしゅめいかろんじて、天主てんしゅて、あるひとほざかることなれば、自分じぶん天主てんしゅより打棄うちすてられて、此世或このよあるひのちばつせられるはずり、しん取返とりかへし出来でき損害そんがいる。つみ健康けんこう財産ざいさんそこなふものならばひとをかすまいものを。

如何どんわざはひよりもおそきらふべきものであ

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る。

わざはひは、健康財産けんこうざいさんうしなことでも、皆此世みなこのよかぎったことで、かへっさゝげれば天国てんごくをはりなき幸福さいはひたねるも、つみのちにも影響えいけうおよぼす、すなは永遠えいゑんくいかなしみたねとなるゆゑ此世限このよかぎりの如何いかなるわざはひよりもおそきらふべきである。

243●大罪たいざい如何どんがいるか

大罪たいざいをかせば天主てんしゅ聖寵せいてううしなひ、地獄ぢごくをはりなきばつまねきます。

天主てんしゅ聖寵せいてううしなふ。

聖寵せいてうとは天主てんしゅ御寵愛ごてうあい子等こどものやうに天主てんしゅよりあいせられることであるが、大罪だいざい大事だいじいて、天主てんしゅそむことなれば、天主てんしゅて、自分じぶん天主てんしゅよりてられるのである。すなは天主てんしゅ子等こどもたるもの罪故つみゆゑ天主てんしゅてきり、勘当かんだうけて、天国てんごくかれぬものとる。

だい二百七十八のとひ説明せつめいするが、善業ぜんげふもっをはりなきさいはひられるのは、聖寵せいてうあってのことゆゑ、聖寵せいてう霊魂れいこん生命いのちはれてある。勿論もちろん人間にんげんたるの自然しぜん生命いのちではない、天主てんしゅ子孫こどもたるの超自然てうしぜん生命いのちであって聖寵せいてうもっ善業ぜんげふその一つ〱が天国てんごくをはりなきさいはひとしてまれるが、聖寵せいてううしなへば、

[下段]

すで幾許功績いくらてがらのあったひとでも、其功績そのてがらまったうしなって仕舞しまふ。ひとねば其財産そのざいさんからはなれると同様どうやうである。叉枝またえだみきからはなるればれる、はなせうずること出来できないごとく、大罪だいざいもっあひだは、善業ぜんげふおこなっても、唯愈たゞいよいてられてしまはぬやうにばかりで、天主てんしゅためにはらず、遂々霊魂とう〱れいこんんだものゝやうになる。大罪だいざい一つでるのであるから、大罪だいざい殊更ことさら死罪しざいなすつみ)となづけられてる。

地獄ぢごくをはりなきばつまね

とは、立派りっぱいへでも、木材もくざいこぼれたときたきゞにしかならないごとく、大罪たいざいをかせば、霊魂れいこん毀物こはれものって、地獄ぢごくばつせられるほかはない。せいパウロことばによれば「つみをかものこゝろうちイエズス、キリストさらに十字架じかはりつける」とあるが、すなはキリスト御苦おんくるしみ無駄むだならしめ、天主てんしゅ帰服きふくすることこばみ、叉救霊またたすかりみちみづかてるゆゑ自分じぶん天主てんしゅより地獄ぢごくてられキリストよりてられてをはりなくくるしむのほかはない。

244●小罪せうざい如何どんがいるか

小罪せうざいをかせば天主てんしゅたいする熱心ねっしんこゝろけがれ、漸々大罪だんゞゝたいざいかたむき、煉獄れんごく

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ばつまねきます。

天主てんしゅたいする熱心ねっしんめる。

小罪せうざいばかりでは聖寵せいてううしなふでもなければ、聖寵せいてうるともはれぬ。もし聖寵せいてうことなら、幾許いくら小罪せうざいかさなったとき結局大罪つまりたいざいり、聖寵せいてうってしま勘定かんでうはずしかうはかぬ、小罪せうざいでは天主てんしゅたいするあいうすらぎ、熱心ねっしんめかゝり、追々おいゝゝ不熱心ふねっしんり、不用心ふようじんり、上句あげくには大罪たいざいでもおそれぬやうにる。

状態ぜうたい殊更ことさら不熱心ふねっしんなづけるが、これいてイエズス、キリスト或人あるひとおっしゃった「われなんぢわざってる、すなはなんぢひやゝかでもなくあつくもないが、むしひやゝかに、あるひあつくあらばや、れどひやゝかでもなくあつくもなくてぬるきがゆゑに、われくちより吐出はきださんとす」と(黙 示 録三。十五、十六)。其意味そのいみ熱心ねっしんるやうにはげまないならばをはりてられるにいたるとの御忠告ごちゅうこくである。

こゝろけがれる。

人間にんげんあさましさによってまぬがれかねる小罪せうざいと、

[下段]

おそれずにわざをか小罪せうざいとはちがふ。一方いっぽうたび道中だうちうごみくやうなものにとゞまれど、故意ことさらをか小罪せうざいしみり、ため霊魂れいこん益々ますゝゝみにくくなり、天主てんしゅ御心みこゝろかなはぬやうにる。

漸々だんゞゝ大罪たいざいかたむく。

悪魔あくまはじめから大罪たいざいすゝめるものでない、漸次だんゞゝいざなふ、すなは熱心ねっしんめるにれて邪欲じゃよく悪魔あくまいざなひ弥増いやまし、はじめ小罪せうざいとゞまれどこゝろ漸々だんゞゝ不用心ぶようじんり、つみ機会きくわいけず、大罪たいざいにまでおちいるやうにる。

煉獄れんごくばつまねく。

天主てんしゅめいりながら、かろんじてこれやぶれば、かなら其罰そのばつまぬがれず、あるひ此世このよあるひ煉獄れんごくおいて、ばつせられるはずいさゝかでもけがれたるあひだは、けっして天国てんごくこと出来できず、煉獄れんごくつぐのひはたさねばならぬ。かく小罪せうざい煉獄れんごくばつまねくものなれば、如何いかにもおそきらひ、をかさぬやうに用心ようじんすべきはずではないか。

ちゅう一二いちに比喩たとへもっ大罪たいざい小罪せうざい都合つがふ説明ときあかさう

だい一、たるものおやあいしながら、あるひ軽挙かるはづみあるひ徒事いたづらために、しばゝゞおやはぬことあるも、おやことかまはぬでもなければ、うやまはぬでもなく、おやから厳重げんぢういましめらるれば、おや

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かなしませることおそれて、おのれかへりみ、みづかいましめ、真面目まじめおや勘弁かんべんねがひ、仕方しかたなほせば、容易やさしくゆるされるに相違さうゐないが、小罪せうざい略之ほゞこれににたものである。ひとあさましさによるので、ひとこゝろ入替いれかへ、天主てんしゅゆるしねがひ、熱心ねっしんふるはすことあらば、悔悛くわいしゅん秘跡ひせきによらずとも、天主てんしゅよりゆるされるのである。

しかるに其子そのこおやいひつけでもかへりみず、おやかまはず、其恩そのおんわすれ、意見いけんおどしかず、道楽だうらくして財産ざいさん浪費つひやし、我侭わがまま勝手かってにするためおやてゝ家出いへですることあらば、勘当かんだうけても当然あたりまへである。一度勘当どかんだうとなっては最早もはや自分じぶんからもととほり事出来ことできない、やうや世話人せわにん仲裁ちゅうさいおやあはれみとによって、ふたゝいへこと出来できても、おや不幸ふこうしたこといなまれぬ事実じじつで、何時いつまでも其人そのひときずるがごとく、大罪たいざいをかときは、天主てんしゅでありながら、ちゝそむきててきり、キリスト御苦難ごくなん無益むえきてるので、天主てんしゅよりてられるはずゆるしいたゞかうとすれば、完全くわんぜん痛悔つうくわいあるひ悔悛くわいしゅん秘跡ひせきによるのほかない。さうして其罪そのつみゆるされても、疵痕きずあとのこるのをまぬがれること出来できぬ。

だい二、大罪たいざいをかせば、あだか立派りっぱたまこはしてしまったやうなも

[下段]

ので、棄物すてもの焚物たきものほかはない。假令悔悛たとひくわいしゅん秘跡ひせきまた完全くわんぜん痛悔つうくわいもって、大罪たいざいゆるしいたゞいても、てうたまかけ継合つぎあはせたやうで、以前いぜんとほりにはらず、よわみがのこり、こはれたあとえる。それで百二十三のとひったごとく、つみ聖母せいぼマリアと、つみゆるされたマグダレナ、マリアとは、何時いつまでもちがひ、一ぽうつみなき童貞女どうていぢょたふとばれるに、一ぽう罪女ざいぢょであったマグダレナばれ。それでもマグダレナごとつとめて、なみだ熱心ねっしんとをもっ疵痕きずあとみがき、天主てんしゅそむいたかはりに、幾倍いくばいにも御心みこゝろかなふやふにはげんだなら、こはれ罅焼ひびやきでもるやうにり、もと悪人あくにん善人ぜんにんにもうらやましがられることがないともかぎらぬ。

小罪せうざいではことちがふ、たまこはれるのではない、唯塵たゞごみかさなり、雨滴あまだれためどろでもいたごとくに、つやくもってえかゝり、たま価値ねうちさゝうにる。りながらきずいていないから、断然だんぜん悔改くいあらためて、痛悔つうくわいもっごみおとし、熱心ねっしんふるはしてつみゆるさるれば、たまもととほ綺麗きれいれる、唯不熱心たゞふねっしんあひだ小罪せうざいは、取返とりかへしかぬそんるのである。

必竟何つまりいづれにしても大罪たいざいあとのこるのは、天主てんしゅ真理其者しんりそのものにて

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ましませば、御自分ごじぶんたてまつ人々ひとゞゝを、てぬもののやうにおもはせたま事出来ことできぬからである。叉人またひとみづか天主てんしゅめいそむき、大罪たいざいをかしておのれけがし、おのれきずつけた以上いぜうは、其汚そのけがれまったけて、きずきがごとくになほこと出来できないのは、からだきず衣服きものやぶれ染等しみなどもっあきらかにれる道理だうりである。れば大罪たいざいゆるさるべきこと見込みこんで、これをかことあらば、はなはだしい間違まちがひであって、何時いつまでも残念ざんねんたねるに相違さうゐない。

245◯つみるのは自分じぶんことばかりであるか

いなわることいひつけ、すゝめ、うけがひ、め、手伝てつだひし、利得りとくにし、叉誡またいましめねばならぬときいましめるはずひとかく事等ことなどつみります。

いひつける

とは、目下めしたものに、なにかをぬすめ、ひとってなどめいじ、あるひはミサにくななどきんずること

すゝめる

とは、るがいとひ、よひかゝったひとさけひるやうな事等ことなど

うけが

とは、いかとはれたときいとこたへるやうな

[下段]

こと

める

とは、ひとつみめて賛成さんせいへうすること叉本人またほんにんに、うまいなどとってめ、あるひ腰抜こしぬけとかあざけってはげまこと

手伝てつだひする

とは、つみをかすのに加勢かせいし、迷信めいしん材料ざいれう供給けうきふし、道具だうぐし、張番はりばんし、盗人ぬすびとかばひ、贓物ぬすみものあづかなどこと

利得りとく

とは、贓物ぬすみもの売買うりかひし、あるひ分配ぶんぱいけるなどこと

いましめねばならぬときいましめぬ

とは、たとへば父兄ふけい長上めうへ番人ばんにんにして、めるべきはずなのにめず、だまってあるひばつすべきにばつせぬことなど。

いましめるはずひとかく

とは、たとへば親等おやなどこれったならばめるはずなのに、わざらせぬやうに事等ことなどである。