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第四十二課 罪
231●何より嫌はねばならぬのは何であるか
▲何より嫌はねばならぬのは罪であります。
悪魔よりも罪が憎むべきものである、何故なれば罪を犯さぬなら遉の悪魔も害する事出来ず、罪を犯して悪魔に害せられるのである。
232●罪とは何であるか
▲罪とは天主の命に背く事であります。
茲で承諾して背くと云はぬのは、原罪が之に含まれるからである。第四十三の問に云はれた通、原罪は各々の承諾によるのではなく、人類を代表せる人祖アダムの承諾によって犯され、我々は唯罪を犯した親の子供として、罪人の身分に生れた訳である。
[下段]
天主の命に背く。
命と勸とは異ふ。命は、爲ろ、爲るな、との言付であるが、勸は唯、爲るが宜い、爲ぬが宜い、と云ふ事に止る。偖て第百三十六の問に云はれた通、十誡を以て誡められる事は天主の直接の命であり、聖会(會)の律令、或は親長上の正しき命令を以て命ぜられた事は、天主の間接の命であって、何れも天主の命である。叉何の場合でも、良心によって事の善惡を明かに諭される所も、天主の命と云はれる。天主の命に背く事は罪なれど、御勸を守らぬ丈では罪といふまでには行かぬ。例へば日曜のミサ聖祭に与る事は命であって、之に背くのは罪に成るが、聖体(體)降福式に与るとか、毎日ミサ聖祭に与るとか云ふ事は、勸に過ぎぬから、之に与らずとも、之を軽ずる訳からでないなら、罪には成らぬ。
233◯罪に幾種あるか
△罪に二種あります、原罪と自罪とであります。
234●原罪とは何であるか
▲原罪は元祖アダムから人類一般に(遺伝で)伝はる罪であります。
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第四十三の問に云はれた通、原罪は自分で犯した罪でないから、其が爲に罰せられるのではなく、唯人祖の罪によって、其子孫は罪人の身分に生れ、人祖に与(與)へられた超自然の惠と、之に加へられた特恩とを有たぬ者と成る丈である。然れど痛悔なしに、唯イエズス、キリストの御贖によって、洗礼を以て赦され、聖寵と救靈の惠とを回復する事出來るのである。
235●聖マリアにも原罪がありましたか
▲否、聖マリアは救世主の御母と成る為に原罪を免れました。第四十三及び四十四の問に云はれた通原罪は聖寵を有たず即ち天主より愛せられて居らぬとの事であるが、イエズス、キリストに原罪のない事は申すに及ばず、聖マリアはアダムの子孫として、原罪に染まる筈であったが、天主に愛せられてこそ御子の母と成るべく選まれたものなれば、片時も聖寵を有たぬと云ふ事はない。是が
原罪を免れ
給ふた理由である。
(註)其なら聖母は、イエズス、キリストから救はれ給はぬかと云ふに、他の人に勝って救はれ給ふたと云はねばならぬ。
[下段]
即ちキリストの御救によって、他の人はキリストの御功力に由て原罪を赦され、聖母はキリスト故に、原罪を免れ給ふた訳である。
236●自罪とは何であるか
▲自罪は人が自ら承諾して、天主の命に背く事であります。
人が自ら
とは、自分の意志でと云ふ事。
偖て自罪と成るに二の要件がある、即ち天主の命に背く事と、之を承諾がなければ罪にはならぬ。其で天主の命あるを知らず、或は之を忘れ、或は偶と気付かないで之を守らなかった場合に後から其事に気が付いて、何うも悪かった、罪に成ったと幾ら気に懸っても、承諾した事でなければ、罪には成らぬと安心してよい。
237◯承諾するとは何であるか
△承諾するとは知りながら諾ふ事であります。
其で承諾は二の事から成立つ、知る事と諾ふ事とである。
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第一、
知りながら
とは、罪に就いて云へば、真に天主の命、或は誡ある事を合点し、之に背けば罪に成ると、気付いて居る事である。悪いと全で知らぬなら罪には成らぬ。
第二、
諾ふ
とは(申すまでも無いが、請負ふとか、疑ふとか云ふのとは全で語が違ふ)斯うしては罪に成ると熟知しながら、其でも構はぬ、仕方がないとして行を定める事である。第一の知る事は知恵の働で、第二の諾ふ事は意志、意力、心の働である。両方揃って承諾と云ふ事に成るが、罪は主に承諾によって極る。假令悪い事を強て為せられても、自分の意志の承諾がない間は罪には成らぬ。
(註)当然の人間なら、誰でも良心と云ふものがある。良心の働は二、即ち(一)事の善悪を前から判断して、是が善い、是が悪いと見分け、善い事を命じ、悪い事を誡める、之を良心の指揮と云ふ。(二)叉事を為るのに、或は為た後に、良い事なら良心は誉めて嬉しがらせ、悪い事なら頻に咎めて気遣を起させ、罰を恐しがらせる、之を良心の責、良心の呵責、
[下段]
俗に気掛と名けてをる。人は皆之を覚えてあるが、若し度々良心に逆へば、良心は漸々鈍く成って、其指揮も責も利かなくなる。
善悪の外部の則は天主の命であるが、良心は其命を諭す善悪の内部の則である。人を導く為に与へられた足下の燈で、善悪を見分ける近き則であるから、善悪は専ら其判断に由て定まる。即ち善とのみ思込んで為した事は己に取って善、悪と合点して為した事は己に取って悪に成る。即ち小な事でも大罪と思込んで犯した事は大罪と成り、重大な事でも小罪に過ぎぬと思込んで犯した罪は小罪に止る。併し「思込んで」と云はれたのを忘れてはならぬ即ち之は良心が何れかに確定した事を意味するのである。良心を枉げてはならぬ。疑ある時は確な所を尋ね出し、祈祷でもして其不安を除去って後、行ふのが本当である。悪いと疑ながら何かを為れば、罪は免れぬ。
良心は文字の通り、良い心で、確に導くものなれど、(一)若し教を学ぶ筈なのに学ばず、知る筈の事を知らぬなら、明盲
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目の如く成る事もある。(二)叉世間の風習談話等に迷はされて、悪い事を善いと見做す事もある。(三)叉茫然して気付かぬ事もあり、一寸忘れる事もある。(四)叉懼の為に判然見分け得ぬ事もある。(五)情欲の為に暗まれる事もある、故に良心を益す明るくする事、之を枉げず正しく保つ事、枉っては居らぬかと度々反省する事、何処までも其指図通に行ふ事は、何より肝要である。良心に能く従ふならば、假令間違った事でも罪には成らぬ。
238◯何んな事から罪を犯すか
△思、望、言、行、怠を以て、天主の誡、或は教会の律令、或は己が職務に背くを以て罪を犯す。
天主の
命に成るのは
十誡と教会の律令
ばかりではなく、各人の
職務
も然うである。即ち身分職分によって、例へば親として、役人として、教師として等、守らねばならぬ務であるが、良心によって諭されるから、良心に逆ふのも天主の命に背く事である。
[下段]
偖て天主の命に背くのは業ばかりではない、実に五種ある。
一、
思。
例へば心の中に天主の御計を呟き、人を嫌ふ念を保ち、猥褻な事を楽に考へ、叉何にもよらず思ってはならぬと合点しながら思ふ事。
二、
望。
即ち機会さへあらば何か悪い事を為たい、擲返したい、見る人がなければ物を盗みたい、邪淫を犯したい等と望む事であるが、若し罪でないならばとの条件の付いた時は罪には成るまい。愈よ罪を犯したいと思へば天主の御前に犯したと同様に成る。
三、
言。
例へば天主の事を悪く云ひ、相当の訳なくして人を誹り、猥褻な話、猥褻な歌、人の悪しき鑑に成る事を云ひ、喧嘩、嘲等を為る事である。
四、
行。
例へば物を盗み、邪淫の業を為し、酒に酔ひ、聖日に免なくして働く事等。
五、
怠。
即ち為る筈の事を致さず、例へば朝夕少しも祈祷を為ず、知るべき事を習はず、子供に教へず、往かれるのに
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ミサ聖祭に往かず、或は忽の為に遅れ、人の難儀を助けず、借金を払はず、年の告白聖体拝領の勤を守らぬ等の事である。
239◯自罪に幾種あるか
△自罪に二種あります。大罪と小罪とであります。
240●大罪とは何であるか
△大罪は大事に就いて全く承諾して、天主の命に背く事であります。
忘れるな、大罪となるに二の条件が要る、大事に就いて背く事と、全き承諾と、此二揃った時に大罪である。
第一。
大事
とは、僅な事に止らず、大な事、大した事であって、
大事に就いて
背くとは、或は特に厳しく誡められた訳、或は大な害に成る訳で、天主より棄てられる程の事に背く事である。例へば天主の外のものを礼拝する事、天主の明かに教へ給ふた事を信ぜぬ事、信者でありながら信者でないと云ふ事、人殺、自殺、姦淫、大金を盗む、或は盗たい望を抱く事、人に大な損を掛け、或は掛けたい望を抱く事等。叉僅な事と思はれても、厳重に誡められた事、例へば
[下段]
聖体拝領前の少しの飮食でも、矢張大事に成る。
第二は
全く承諾する
事であるが、第二百三十七の問に云はれた通、全く知る事と全く諾ふ事とである。
全く知るとは、是は天主が厳重に禁じ給ふた事である、大罪に成って終なき罰を招く事であると、立派に知りながら、良心に逆らって、重大な事に関して天主の誡に背く事である。
若し其時に(一)能くは知らず、例へば銃猟の時獣と見違へて人を殺し、(二)或は忘れ、例へば主日叉は大小斎日である事を忘れ、(三)或は気が付かぬなら、能く知りながら為たとは云はれぬから、大罪までには行くまい。然れど或は知らぬこと、気の付かぬことの由て来る理由次第では大罪に成り得る事もある。
全く諾ふとは、例へば従へば従はれるのに、叉従はねばならぬと思ひながら従はぬとの心である。其で極悪いと知りながら、其でも致します、天主より厳しく誡められたけれども構はぬ、天主より棄てられて、終なく罰せられても仕方がないと、能く心得る事である。若し押へかねる非常な情欲に騙ら
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れて之に勝ちきらぬか、甚く嚇されて恐怖し殆ど自由を奪はれて居るか、何れにしても、何うも反きたくない、何とかして従ひたい、止を得ず従はぬ事は残念だと思へば、罪に成るにしても、全く承諾したと云はれぬ丈、或は大罪に成るまい。不十分ながら殊更の訳あって背く時も、叉其通であらう。
此二の条件が揃った時は大罪に成る、一でも欠けた時は大罪でなく小罪に止る。
(註)大罪にしても皆同様のものではない、比較的に甚いものがある、特に聖書に、天に叫ぶ罪と聖霊に逆ふ罪とは殊更に誡められてある。
天に叫ぶ罪とは、例へば無理に人を殺す事、ソドム地方に流行ったやうな性に戻る邪淫を行ふ事、貧窮人、未亡人、孤児を虐げる事、労働者の賃金を払はぬ事等である。
叉「聖霊に逆らって此世も後の世も赦されぬ」とイエズス、キリストより云はれた罪は、例へば救霊を失望する事、改心を無暗に延ばす事、真理と認めながら帰服するを拒む事、人の徳を嫉む事、善き意見を容れず、悪に心を固める事、死ぬ
[下段]
まで不敬虔を衒かす事等であって、後の世でも赦されぬのは、自ら救霊の道を塞ぐからである。
241●小罪とは何であるか
▲小罪は小事に就いて天主に背き、或は大事に就いても全くは承諾せずして天主に背く事であります。
大罪と成るに要する二の条件即ち重大な事及之に付て全き承諾が欠けた時は小罪である。其で小罪は、
(一)
小事に就いて天主に背く
とは、僅な事に就いて天主に背くとの意味であるが、僅な事でも矢張天主の命ならば重んじて、是非守らねばならぬから、之に背けば罪に成る、之は小罪である。例へば大金ではなくとも、人の僅な物を盗み或は一寸人を擲ち、一寸譏った時等である。
(二)
大事に就いても
とは、大な事でも、大した事に背いてもと云ふ意味である。
全くは承諾せずして
とあるに注意せねばならぬ、全く承諾せぬ事は罪に成らぬからである。「全くは」とは假
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令、承諾はしても完全な承諾でないと云ふ意味である、即ち(一)或は能く知らず、(二)或は全く諾はず、否々ながら天主に背く行為を為すと云ふ事である。
(一)能く諾らずとは、例へば忘れて気の付かぬ時、(二)全く諾はずとは、或は強られて、或は欲に負けて罪に陥る時、叉は不十分ながら殊更の訳がある時を云ふのである。然う云ふ時は罪には成れど小罪に過ぎぬと思はれる、天主より棄てられる程には成るまい。
242●怖るべきは大罪ばかりであるか
▲大罪も小罪も天主に逆らひ、大に害に成るに因って、如何な禍よりも恐れ嫌ふべきものであります。
大罪でも小罪でも
天主の命に背く事なれば、両方ともに罪である。注意すべきは、小罪と云はれるのは、決して僅な事、小な事、顧みるに足らぬとの意味ではない。唯大罪に対して然う云ふので、大罪の比較的に小罪は害少く、叉赦され易いと云ふに過ぎぬ。実際罪の何たるかを知ったなら
[下段]
ば、罪と云ふ罪でも何より恐るべきものだけある。
天主に逆らふ。
万物を造り、我等を在らしめ、有り丈の物は安く之を与へ、生死を計ひ、万事万物を主り給ふて、万物皆聊も背かず、何処までも従ひ奉る天主は、我等に向って、是を決して為るな、或は是非為せと、僅の事でも殊更に命け給ふのに、御前に在って、我は従はぬとの鉄面皮しい心は、軽蔑、侮辱、恩知らずも甚だしいではないか。天主を蔑にし、キリストの御受難御死去を無益にする事で、実に非道極まる事である。(第八十四の問の第二に云はれた事を繰返し看よ)。
大に害に成る。
罪は天主の命を軽んじて、天主を棄て、或は遠ざかる事なれば、自分も天主より打棄てられて、此世或は後の世に罰せられる筈に成り、真に取返の出来ぬ損害に成る。罪が健康や財産を損なふものならば人は犯すまいものを。
如何な禍よりも恐れ嫌ふべきものであ
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る。
他の禍は、健康財産を失ふ事でも、皆此世に限った事で、却て能く献げれば天国の終なき幸福の種に成り得るも、罪は後の世にも影響を及ぼす、即ち永遠の悔、悲の種となる故に此世限りの如何なる禍よりも恐れ嫌ふべきである。
243●大罪は如何な害に成るか
▲大罪を犯せば天主の聖寵を失ひ、地獄の終なき罰を招きます。
天主の聖寵を失ふ。
聖寵とは天主の御寵愛、子等のやうに天主より愛せられる事であるが、大罪は大事に就いて、天主に背く事なれば、天主を棄て、自分も天主より棄てられるのである。即ち天主の子等たる者が罪故に天主の敵と成り、勘当を受けて、天国に往かれぬものと成る。
第二百七十八の問に説明するが、善業を以て終なき福を得られるのは、聖寵あっての事ゆゑ、聖寵は霊魂の生命と云はれてある。勿論人間たるの自然の生命ではない、天主の子孫たるの超自然の生命であって聖寵を有て居て為す善業は其一つ〱が天国に終なき福として積まれるが、聖寵を失へば、
[下段]
既に幾許功績のあった人でも、其功績は全く失って仕舞ふ。人が死ねば其財産が手から離れると同様である。叉枝は幹から離るれば枯れる、花も実も生ずる事が出来ない如く、大罪を有て居る間は、善業を行っても、唯愈よ棄てられて了はぬやうに成る計りで、天主の為には成らず、遂々霊魂が死んだものゝやうになる。大罪一つで然う成るのであるから、大罪は殊更に死罪(死なす罪)と名けられて居る。
地獄の終なき罰を招く
とは、立派な家でも、木材が毀れた時は薪にしかならない如く、大罪を犯せば、霊魂は毀物に成って、地獄に罰せられる外はない。聖パウロの言によれば「罪を犯す者は心の中にイエズス、キリストを更に十字架に磔ける」とあるが、即ちキリストの御苦を無駄ならしめ、天主に帰服する事を拒み、叉救霊の道を自ら棄てる故に自分も天主より地獄に棄てられキリストより棄てられて終なく苦むの外はない。
244●小罪は如何な害に成るか
▲小罪を犯せば天主に対する熱心が冷め心が汚れ、漸々大罪に傾き、煉獄の
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罸を招きます。
天主に対する熱心が冷める。
小罪ばかりでは聖寵を失ふでもなければ、聖寵が減るとも云はれぬ。若も聖寵の減る事なら、幾許か小罪の重った時に結局大罪と成り、聖寵が無く成って了ふ勘定に成る筈。併し然うは行かぬ、小罪では天主に対する愛が薄らぎ、熱心が冷めかゝり、追々不熱心に成り、不用心に成り、上句には大罪でも恐れぬやうに成る。
然う云ふ状態は殊更に不熱心と名けるが、之に就いてイエズス、キリストは或人に斯う仰しゃった「我は汝の業を知って居る、即ち汝は冷かでもなく熱くもないが、寧ろ冷かに、或は熱くあらばや、然れど冷かでもなく熱くもなくて温きが故に、我は口より吐出さんとす」と(黙 示 録三。十五、十六)。其意味は熱心に成るやうに励まないならば終に棄てられるに至るとの御忠告である。
心が汚れる。
人間の浅ましさによって免れかねる小罪と、
[下段]
恐れずに態と犯す小罪とは差ふ。一方は旅の道中で塵が身に付くやうなものに止れど、故意に犯す小罪は染に成り、為に霊魂は益々醜くなり、天主の御心に叶はぬやうに成る。
漸々大罪に傾く。
悪魔は初から大罪を勧めるものでない、漸次と誘ふ、即ち熱心が冷めるに連れて邪欲も悪魔の誘も弥増し、初は小罪に止れど心は漸々不用心に成り、罪の機会を避けず、大罪にまで陥るやうに成る。
煉獄の罰を招く。
天主の命と知りながら、軽んじて之を破れば、必ず其罰は免れず、或は此世、或は煉獄に於て、罰せられる筈、聊でも汚れたる間は、決して天国に入る事出来ず、先づ煉獄で償を果さねばならぬ。斯も小罪は煉獄の罰を招くものなれば、如何にも恐れ嫌ひ、犯さぬやうに用心すべき筈ではないか。
(註)一二の比喩を以て大罪小罪の都合を説明さう
第一、子たるもの親を愛しながら、或は軽挙、或は徒事の為に、屡親の気に合はぬ事あるも、親の云ふ事を構はぬでもなければ、敬はぬでもなく、親から厳重に誡めらるれば、親
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を悲ませる事を恐れて、己を省み、自ら誡め、真面目に親の勘弁を願ひ、仕方を直せば、容易しく免されるに相違ないが、小罪は略之ににたものである。人の浅ましさによるので、人が心を入替へ、天主に赦を願ひ、熱心を奮はす事あらば、悔悛の秘跡によらずとも、天主より赦されるのである。
然るに其子が親の命けでも顧みず、親を構はず、其恩を忘れ、意見や嚇を聞かず、道楽して財産を浪費し、我侭勝手にする為に親を棄てゝ家出する事あらば、勘当を受けても当然である。一度勘当の身となっては最早自分から原の通に成る事出来ない、漸く世話人の仲裁と親の憐とによって、再び家に入る事が出来ても、親に不幸した事は否まれぬ事実で、何時までも其人の疵に成るが如く、大罪を犯す時は、天主の子でありながら、父に背きて敵と成り、キリストの御苦難を無益に棄てるので、天主より棄てられる筈。赦を戴かうとすれば、完全な痛悔、或は悔悛の秘跡によるの外ない。而して其罪は赦されても、疵痕の残るのを免れる事は出来ぬ。
第二、大罪を犯せば、恰も立派な玉を毀して了ったやうなも
[下段]
ので、棄物や焚物に成る外はない。假令悔悛の秘跡、叉は完全な痛悔を以て、大罪の赦を戴いても、宛ど玉の闕を継合せたやうで、以前の通には成らず、弱みが残り、毀れた跡も見える。其で百二十三の問に云った如く、罪の無い聖母マリアと、罪を赦されたマグダレナ、マリアとは、何時までも異ひ、一方は罪なき童貞女と尊ばれるに、一方は罪女であったマグダレナと呼ばれ。其でもマグダレナの如く務めて、涙と熱心とを以て疵痕を磨き、天主に背いた代に、幾倍にも御心に叶ふやふに励んだなら、毀は罅焼でも見るやうに成り、原の悪人は善人にも羨ましがられる事がないとも限らぬ。
小罪では事が違ふ、玉は毀れるのではない、唯塵が重り、雨滴の為に泥でも付いた如くに、艶は曇って消えかゝり、玉は価値の無さゝうに成る。然りながら疵が付いていないから、断然悔改めて、痛悔を以て塵を落し、熱心を奮はして罪を赦さるれば、玉は原の通り綺麗に成れる、唯不熱心の間の小罪は、取返の付かぬ損に成るのである。
必竟何れにしても大罪の跡の残るのは、天主は真理其者にて
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在せば、御自分を棄て奉た人々を、棄てぬ者のやうに思はせ給ふ事出来ぬからである。叉人は自ら天主の命に背き、大罪を犯して己を汚し、己に疵つけた以上は、其汚は全く抜けて、疵は無きが如くに直る事の出来ないのは、体の疵や衣服の破、染等を以て明かに知れる道理である。然れば大罪の赦さるべき事を見込んで、之を犯す事あらば、甚しい間違であって、何時までも残念の種に成るに相違ない。
245◯罪に成るのは自分で為た事ばかりであるか
△否、悪い事を命け、勧め、諾ひ、誉め、手伝し、利得にし、叉誡めねばならぬ時に誡める筈の人に匿す事等は罪に成ります。
命ける
とは、目下の者に、何かを盗め、人を擲って遣れ等と命じ、或はミサに往くな等と禁ずる事。
勧める
とは、為るが宜いと云ひ、酔かゝった人に酒を強ひるやうな事等。
諾ふ
とは、為て可いかと問はれた時、可いと答へるやうな
[下段]
事。
誉める
とは、人の罪を誉めて賛成を表する事、叉本人に、巧いなどと云って誉め、或は腰抜とか嘲って励す事。
手伝する
とは、罪を犯すのに加勢し、迷信の材料を供給し、道具を貸し、張番し、盗人を庇ひ、贓物を預る等の事。
利得に為る
とは、贓物を売買し、或は分配を受ける等の事。
誡めねばならぬ時に誡めぬ
とは、假へば父兄、長上、番人にして、止めるべき筈なのに止めず、默って見、或は罰すべきに罸せぬ事など。
誡める筈の人に匿す
とは、例へば親等は之を知ったならば止める筈なのに、態と知らせぬやうに為る事等である。