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第四十課 第三と第四との律令
215●教会の第三の律令の文は如何
▲少くとも年に一度は必ず告白すべし。
少くとも年に一度
とは、毎年一度なりもと云ふ事で、尚度々
告白する
は教会の望む所である。告
[下段]
白は悔悛の秘跡の一部分に過ぎぬから第三百四十七の問に掲げられる事を皆致すを命ぜられるのである。
(註)大罪ある時は、天主の子等ながらも、打棄てらるべき敵と成り、善業を致しても唯棄てられるやうに成る計りで、天国には其報を受ける事出来ず、其侭に死するならば、終なき罰を免れぬ故、教会では、年に一度なりとも告白して、是非赦を戴くやうにせよと命ずるのである。然り乍ら若し大罪を犯したならば、律令の期を待たず、一日も早く告白を以て赦を願ひ、再び犯さぬやうに力を求めるのが肝要である。
216◯何歳から告白する筈であるか
△善悪を弁へる年齢、即ち七歳から告白する筈であります。
大抵小児は凡そ七歳から告白する筈であります。
善悪を見分ければこそ、悪い事をするに人目を忍ぶのである。小児でも大罪を犯されぬ事はない。早く赦うを願はぬならば天主の罰を免れぬ。叉例令大罪はなくとも心を改めるに告白するのは必要である。
217◯教会の第四の律令の文は如何
△少くと
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も年に一度は御復活祭の頃に聖体を領くべし。
御復活祭の頃
とは、先づ御復活の前後一週間宛である。併し必要の時司教は其期間を、四旬節の第四の日曜日から聖霊降臨の八日目なる聖三位の日曜日まで延す事が出来る。尚ほ各教区の聖暦に就いて毎年しらべて置く必要があります。
聖体を拝領くる
とは、第三百三十五以下の問に云はれる如く、聖体の秘跡に籠り在す主イエズス、キリストの御血肉を実際に戴く事であるが、之を聖体拜領と申します。
聖体拜領を御復活祭の頃に命ぜらるは先ず(一)恰もイエズス、キリストが其時忝
なく之を定め給ふた故、(二)聖体を戴くのは何より御受難、御復活の効果を蒙る道である故、(三)遂に御復活頃は殊更告白を以てイエズスと共に罪に死し、叉聖体拝領を以て共に生回る筈の時である故であります。
(註)
(一)年に一度
なりとも聖体拜領を命ぜられるのは、男女を問はず信者皆で、分別の年齢に達した小児までゝ
[下段]
ある。小児に聖体を戴かせる義務は殊更に両親、後見人、伝道者、司祭等の責に当る。(二)大罪を以て聖体拝領すれば更に瀆聖の大罪を犯して第四の制令は全うされぬ(三)聖体拝領の務は信者各々所属の御堂で為るが本当である。他の御堂で年の務を致したなら所属の司祭に之を通知すべきものである。(四)御飯を日に三度も食べるのに霊魂の糧なる聖体を年に一度戴くだけでは足る筈はない。年に一度とは極々約った所で、唯イエズス、キリストと縁が断れず、大罪にならぬ為ばかりである。教会で深く望む所は信者がミサ聖祭の効果を尚潤沢に戴く為、之に与る度毎に聖体を授かると云ふ事である。之によって聖日毎に否いな日々でも相当の準備を以て聖体を戴くならば熱心を増し力を得て己が欠点を直し、必ず完全な信者に成る事が出来る。
218◯故意と年に一度も告白せず、聖体を授からぬのは大罪であるか
△大罪になります。
故意と
とあれば、大罪の気がかりがあるのに、告白する
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機会があっても年に一度もせず、叉聖体を拝領する機会があっても或は構はず或は口実を以て怠り、年も一度も聖体を授からぬ事を云ふ。
大罪に成るのは、
(一)教会の厳重な律令を軽んじ、(二)天主の御恩を放って置き、(三)人の悪しき鑑と成り、(四)天主の御招を拒んで救霊を危くするからである。其侭に死んだ人には公教会では宗教的葬式を禁じられてある程である。
219◯御復活祭の頃に聖体を授からぬ者は如何せねばなりませぬか
△一日も早く聖体を授かるやうに為ねばなりませぬ。
司祭不足する地方で、御復活祭の頃に聖体を拜領し得ぬのは、已を得ぬ事であって罪にはならぬが、併し少くとも年に一度の律令は其時によって無くなるものではないから、極った時に已を得ず或は怠って秘跡を授かるやうにすべき筈である然もなければ大罪に成るに相違ない。