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公教要理説明/02-15

提供:Wikisource


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だい三十九くわ だい一とだい二との律令おきて

211●教会けうくわいだい一の律令おきてぶん如何いかゞ

まもるべき祝日しゅくじつせいとすべし。

祝日

とは、祝日いはひゞことあだか國祭日こくさいじつまうけて、國家こくか功績こうせきあったひとおよ芽出度事柄めでたきことがらいはふがごとく、公教会こうけうくゎいでは天主てんしゅ舊約時代きうやくじだいさだたまふたれいならひ、天主てんしゅイエズス、キリスト聖人等せいじんなどたふとために、種々いろゝゝ祝日しゅくじつまうけたのである。其目的そのもくてきは、(一)キリスト及聖人およびせいじんわすれることなく、益々天主ますゝゝてんしゅ御恩ごおんありがたり、(二)其鑑そのかゞみもっ信者しんじゃ熱心ねっしん奮ふる{{{2}}}はせ、(三)恩惠おんめぐみ尚潤澤なほじゅんたくいたゞかせるためであるが、祝日しゅくじつ年中毎日ねんぢうまいにちある。しか皆守みなまもるべきものではない。各々おのゝゝ信心しんじんまかせてある。まもるべき祝日しゅくじつだけは、主日しゅじつ同様どうやう労働らうどうやすんで、

聖日せいじつとすべき

ものである。

212●主日しゅじつほかまもらねばならぬ祝日しゅくじつ幾日いくにちあるか

日本にっぽんでは四あります。すなはイエズス、キリスト御降誕祭ごかうたんさい(十二月廿五日)御昇天祭ごせうてんさい聖母せいぼマリア被昇天祭ひせうてんさい

[下段]

(八月十五日)、諸聖人祭しょせいじんさい(十一月一日)であります。

日本にっぽんでは四

あるが、全教会ぜんけうくわいめいぜられてあるのは、尚外なほほかに六ある、すなはイエズス御割礼ごかつれい(一月一日)、御公現ごこうげん(一月六日)、聖母原罪せいぼげんざいなき御孕おんやどり(十二月八日)、せいペトロせいパウロ(六月廿九日)聖体せいたい祝日しゅくじつせいヨゼフ祝日しゅくじつとである。

ほか御復活祭ごふくくわつさい聖霊降臨祭せいれいかうりんさいとの二大祝日だいしゅくじつあれど、つね主日しゅじつあたるから、こゝには

主日しゅじつほか

はれたのである。

御復活祭ごふくくゎつさい月日つきひきまらぬのはキリストきうぐゎつ満月まんげつつぎ日曜日にちえうび復活ふくくゎつたまふたので、いま其祝日そのしゅくじつ陰暦いんれきによるからである、さうして御昇天祭ごせうてんさい其後そのゝち四十日目にちめ聖霊後臨せいれいかうりんは五十日目にちめしゅくせられる。祝日しゅくじつにも公教会こうけうくゎい聖職者せいしょくしゃは、入用次第いりようしだい個人こじん労働らうどうゆること出来できれど、御降誕祭ごかうたんさい御復活祭ごふくくゎつさい聖霊降臨祭せいれいかうりんさい聖母被昇天祭せいぼひせうてんさいの四大祝日だいしゅくじつには、ゆること出来できぬ。(だい百六十二のとひよ)

ちゅう祝日しゅくじつ聖日せいじつとするには仕事しごとやすみミサにあづかりさへすればつみまぬがれるけれど、公教会こうけうくわいもっぱのぞところ祝日しゅくじつもっ信者しんじゃ

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熱心ねっしんふるはすことである。それイエズス、キリスト御生涯ごせうがひ毎年繰返まいねんくりかへ思起おもひおこさせ御恩ごおんさとらせ、その模範もはんしたがはせたいとのことなれば、祝日しゅくじつ利用りようするのは霊魂れいこん非常ひぜう進歩しんぽみちりながらこと心掛こゝろがくべきは、

だい一、祝日しゅくじつ準備じゅんびこと御降誕祭ごこうたんさいまへには待降節たいこうせつとて、キリスト来臨らいりんあふぐ四週間しゅうかんあり、御復活祭ごふっかつさいまへには四旬節じゅんせつ叉御受難節またごじゅなんせつあり、聖霊降臨祭せいれいこうりんさいまへには九日間かかん祈祷いのりあり、大祝日だいしゅくじつ前日ぜんじつには大斎小斎だいさいせうさいめいぜられるのは皆精神みなせいしん準備じゅんびうながためであって信者しんじゃ大祝日だいしゅくじつちかづくにしたがってこゝろ入替いれかへ、悔悛くわいしゅん秘跡ひせきもっつみゆるしねがひ、聖体せいたい拝領はいれうしてなほイエズス、キリストと一するやうにはげめばなによりの祝日しゅくじつ効果かうくわげるにちがひない。

だい二、信心しんじんもっ祝日しゅくじつすごこと祝日しゅくじつ目的もくてき天主てんしゅ御恩ごおん感謝かんしゃするこゝろおこさせるためであるから、祝日しゅくじつ表面うはべとゞまらず、記念きねんせられる事柄ことがらをばのあたりにながら、しんこれありがたがり、其効果そのかうくわいたゞたいのぞこと肝要かんえうである。

だい三、出来できるだけ祝日しゅくじつ精神せいしんおぼえるやうにつとめること

[下段]

たとへば御降誕祭ごこうたんさいにはイエズスうまたまふたうまやってるがごとく、御模範おんもはんしたがって謙遜けんそん清貧せいひん堪忍かんにんこゝろおこし、御受難ごじゅなんときにはしんイエズス御苦おんくるしみいたはり、其原そのもとおのつみ悔改くいあらため、御復活祭ごふくくわつさいにはキリストともいきがへことつとめ、御昇天祭ごせいてんさいには使徒等しとたちごと聖霊せいれいめぐみ叉各祝日またかくしゅくじつ似合にあったこゝろざしおこさばいちじるしく其効果そのかうくわかうむる。

だい四、大祝日だいしゅくじつは一等祝日とうしゅくじつせうせられてやく日間続かかんつゞくもので、これ相当さうたうするこゝろざしながたもち、実行的じっかうてき其効果そのかうくわあらはこと注意ちういすべきである。

だい五、祝日しゅくじつには肉身上にくしんぜうにも祝日しゅくじつしるしとして相当さうたう衣服いふくちゃく御馳走ごちさう無害むがい娯楽ごらくすは適当てきたうなれど、酩酊争闘騒擾等めいていあらそひさわぎなどもっ他人たにんしきかゞみとならず、純潔じゅんけつこゝろよろこびあらはすが肝要かんえうである。

213●教会けうくわいだい二の律令おきてぶん如何いかゞ

主日しゅじつ

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祝日しゅくじつとにはつゝしんでミサにあづかるべし。

ミサ聖祭せいさいことだい三百二十九とひえるが、

つゝしんでミサにあづかる

とは、けてミサ聖祭せいさいあづかことである。主日祝日しゅじつしゅくじつまもるにはげふやすほか大事だいじとしてめいぜられているのはミサ聖祭せいさいあづかることである。

儀式ぎしきあづかことくも厳重げんじうめいぜられたのはなんわけであるかとひとあらば(一)づミサ聖祭せいさい普通ふつう儀式ぎしき見做みなしては大間違おほまちがひである。儀式ぎしきばかりでない、犠牲ぎせいである、しかも十字架上じかぜう犠牲ぎせいおなじものであって、宗教上凡しうけうぜうすべてのげふ中心ちうしんでありもっとすぐらたものであるから、聖日毎せいじつごとこれあづかこと厳重げんじうめいぜられたのである。

(二)うしてミサ聖祭せいさいは十字架上じかぜう犠牲ぎせいおなじものなれば、信者しんじゃ聖日毎せいじつごと殊更ことさらそれされるのは、あだかも十字架じかもと呼寄よびよせられると同様どうやうで、キリスト御受難御死去ごじゅなんごしきょもっひとあがなはれたることを記念きねんし、これしんありがたがる表徴しるしとして我等われらために十字架上じかぜうさゝたまふた御体おんからだながされた御血おんちをば、せい

[下段]

たいうちをがたてまつためまねかれるのである。

(三)尚叉なほまたミサ聖祭せいさい御贖おんあがなひ目的もくてきまったうして、我等われら礼拝れいはい感謝かんしゃ不足ふそくおきなひ、つみつぐのひ、御恵おんめぐみもとめるになにより重宝てうほうみちであるから、これもって、有勝ありがち不足ふそくあやまち聖日毎せいじつごとあがなひ、過去すぎさった苦労くらう悲哀かなしみ心配しんぱい重荷おもにを十字架じかもとおろし、こゝろ入替いれかへる機会きかいあたへられるので、かなら忽諸おろそかにしてはならぬ。

(四)つひイエズス、キリスト犠牲ぎせいあはせておのれをも犠牲ぎせいけうし、以後いご尚能なほよ本分ほんぶんつくしたい、おしまずはげみたいとののぞみおこし、其力そのちからを一しんねがへばこれぞミサ聖祭せいさいあづかおきてまもみちであって非常ひぜうちから歓喜くゎんきとをあたへられるのである。

(五)尚更なほさらにミサ聖祭せいさい犠牲ぎせい効果かうくゎ潤沢じゅんたくかうむためさだめられた(だい三百三十五以下いかとひる)聖体拝領せいたいはいれう相当そうたうこゝろざし準備じゅんびとをもってすれば、これこそイエズス、キリストとの一ますまかため、生変うまれかはったやうに如何どん義務ぎむにもにもふるちからいたゞからる。して一人々々ひとりゝゝゝばかりでなく一家挙かこぞってミサ聖祭せいさいあづかった度毎たびごとに、これもっはげますならば、親子おやこますまむつみ、尚能なほよつとめるものり、ミサ聖祭せいさい妙薬めうやくごとくに、円満えんまん

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ていらせ、福音ふくいんけるさいはひかうむるにいたらせることうたがひない。

かまはずにミサ聖祭せいさいおこたらば、イエズス、キリスト御恩ごおんらず、御恵おんめぐみかうむみち救霊たすかりいたみちみずかとほざかるのである。またミサ聖祭せいさいってもからだばかりで、キリストこゝろあはせていのことつとめぬならば、たからやまってむなしくしてかへものおなじである。

214●如何どんひと教会けうくわいだい二の律令おきてそむくか

主日及しゅじつおよまもるべき祝日しゅくじつにミサ聖祭せいさいおこたり、あるひはミサのおもなる部分ぶぶんき、あるひはミサの間心あひだこゝろちらし、不敬ふけいひとだい二の律令おきてそむきます。

ミサ聖祭せいさいおこた

とは、ミサ聖祭せいさいかれるのに聖祭せいさい

[下段]

かぬことである。かぬでもつみらぬ場合ばあいだい百六十二のとひいてべたが、これつゞめてへば、信者しんじゃが「わたし実際じっさいミサ聖祭せいさいきたいのは、天主てんしゅ御存ごぞんじでありますが、うもかれぬのは残念ざんねんだ」と、真面目まじめはれるときつみまぬがれる。

ミサ聖祭せいさいおもなる部分ぶぶん

とは、づミサ聖祭せいさいおもなる部分ぶぶんは三、すなは奉献ほうけん聖別せいべつ拝領はいれうとである。ひと其一そのいつこと大罪だいざいなれども、小部分せうぶぶんおこたってもつみらぬとおもふならたいした間違まちがひである。何故なぜなれば、あづかるべきはミサ聖祭全体せいさいぜんたいで、はじめからをはりまでゞあるゆゑはじめからあづかり、をはらぬうちには聖堂せいどうてはならぬ、等閑なおざりにしてこれいたときは、多少たせうつみまぬがれぬ。おもなる部分ぶぶんいたときは、出来できるだけほかのミサ聖祭せいさいあづかるのが本当ほんたうである。

ミサ聖祭せいさい間心あひだこゝろちら

とは、こゝろことちがって、自然しぜんことまぬがれるが、茫然ぼんやりして祭壇さいだんほか彼方此方見あちこちみたり、ほんんだり、観見ものみたやうな態度たいどでミサ聖祭せいさい心掛こころがけぬなら、つゝしんであづかるとははれず、つみ

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る。

不敬ふけい

とは、あるひ不行儀ふげうぎし、あるひかたったりわらったりして、ひとしきかゞみり、ひと信心しんゞゝさまたげる事等ことなども、つゝしんでミサ聖祭せいさいあづかるとの律令おきてやぶるに相違さうゐない。イエズス、キリスト祭壇さいだん御降おくだりになって、十字架上じかぜうけるごとく、さゝたまふのにこれ不敬ふけいれば、はなはだしき侮辱ぶじょくるから、うか出来できるだけ聖祭せいさい注意ちういして、みなイエズス、キリストともに、こころあはせて祈禱いのりさゝぐべきである。