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第三十八課 公教会の六つの律令
209●天主の十誡の外に尚守らねばならぬ律令があるか
▲然り、公教会の律令をも亦守らねばなりませぬ。
公教会の律令
とは、イエズス、キリストの命令を守らせ、悪弊を除き、信者を救霊に導く為に、使徒及び其相続
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者が立てる規則や命令、誡等である。
即ちイエズス御昇天前に使徒等に命じて「往きて万民に教へ我が汝等に命ぜし事を悉く守るべく教へよ」。と(マ テ オ二八。二十)仰しゃったので公教会では律令を立てゝ(一)先づイエズスの命令を守る道を明かにするのである。例へば悔悛、聖体の秘跡を定め給ふたれど、何時領くべしとは仰しゃらぬので、公教会では、少くとも年に一度との律令を立て、(二)叉断食せよとイエズス、キリストは仰しゃったが、公教会は其方法を示して、大斎小斎の律令を設けられたのである。
(三)併し其ばかりでない、使徒等には殊更に「汝等が地上にて繋がん所は天にても繋がるべし」と(マ テ オ一八。十八)云はれたが、繋ぐと云ふ詞は無論規則や律令を立てるとの意味で、人間を救霊に導く任に当れば、其が為に全権を受けて、使徒等及び相続者は、教会を治め、信者の取締に必要と認める規則や律令を立てる事を委ねられたに相違ない、公教会の第一第二の律令は其類である。
(四)其語に次いでイエズス、キリストは叉「汝等が地上にて
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釈かん所は、天にても釈かるべし。」と仰しゃったから、律令を立てるの権と共に、入用次第に其律令を改め、寛め、叉免すの権を賜ふたに相違ない。其時に天に於ても是認せられるとの御約束なれば、使徒及び相続者は、実際に律令を制定め得ることは疑ない。公教会で日曜日に働く免を与へ得るのは其訳に基くのである。
公教会の律令をも亦守らねばなりませぬ
とは、イエズス殊更に、「人が教会に聴かずば、異教人、税吏の如く見做すべし」(マ テ オ十八。十七)叉「汝等に聴く人は我に聴き、汝等を軽んずる人は我を軽んずる」(ル カ十。十六)等仰せられたからであります。然う云はれたのは十二使徒であって、其相続者は公教会の外になしと知らねばならぬ。
律令を立てる権ある以上、公教会は叉之を守らせる方法をも設ける事が出来る筈。例へば守らぬ者には秘跡を拒む事、教会から破門する事、キリスト教的葬礼を禁ずる事等は其訳である。
(註)天主の十誡と公教会の律令の異ふ所は、(一)十誡は人
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皆之を守るべきに、公教会の律令はキリスト信者だけに止る。(二)十誡は何時も何処も同じものであるのに、公教会の律令は命令であるから其時が極って居る、叉叶はぬ時には守らぬでも可い。
210◯公教会の律令は幾つあるか
△公教会の一般の律令は主なるものは六あります。
一般の律令
とは、誰彼に拘らず、信者皆に係る律令であって、
六つあります。
尚司祭、修道者、教会の裁判、規律、儀式等に関する律令は、大昔から種々立てられて、法律のやうに夥しい。
(註)公教会の律令は、何処でも異る事がないけれど、信者に殊更に記憶させねばならぬ事が国によって異るから、従って律令の称方も国によって幾許か違ふ。例へば日本に現今採用する文は、仏国あたりのものに似て、律令の第一第二は聖
[下段]
日を守り、第三第四は大事な秘跡を授り、第五第六は斎を為るに関するもので、独逸も然うであるが、羅馬では、第一と第二、第三と第四、第五と第六を合せて三にし、其次第四には、法令及び慣習に従って、献金を以て教会の入用に応ずべし、第五には、禁止の時に婚姻の公式を執行すべからず、とあるだけである。英国米国等では、第一と第二、第五と第六を合せて二つとし、第三と第四を其侭に置き、第五には我司牧者等の生活費を分担すべし、第六には、婚姻は血族禁等内及び他の障碍ある者の間には結ばず、叉禁止の時に其公式を執行すべからず、との事である。
其で律令の文に載せて無いから律令に成らぬと云ふ訳には行かぬ、律定は文面に限ったものではない、叉其文は教会の頭に必要と認められる時は、何時でも之を訂正する事が出来る。