-108-
第二十四課 肉身の復活と公審判
133●人の肉体は復活せぬか
▲人の肉体は世の終に公審判を受ける為に復活し、霊魂と共に終なく賞罰を受ける筈であります。
使徒信経に「肉身の復活を信じ奉る」とあるのは、イエズ
[下段]
ス、キリストの度々仰しゃった言に従って、面々の体は一旦腐敗しても、必ず
世の終に復活
すると云ふ事であります。其訳は人は霊魂ばかりでない、霊魂に体あってこそ、汗水を流して働き、且様々に苦み、身を惜まず人の道を尽したもの、或は重に骨折を惜み、肉身の快楽に引かされて悪事を為したもの故、矢張体と共に
賞罰を受ける
が至当であります。然るに体の部分は散々に成り、他の物にも変じて居るのに、何うして再び集められようか。兼て我体と云ったのは、元来絶間なく同じ部分、同じ分子、同じ物質あっての我体ではない、学者の云ふ通り、生れてから死ぬる迄に、其分子は幾度となく入替ったにも拘らず、我体と云はれたのは分子でなく、其全体であって、我物と意識してこそ我体であった故、復活した時も矢張其通り、物質の分子が皆異っても、我物、我体とならば不足はない。其で復活する体は霊魂に似合ったものであって、唯善人の体は光栄を帯び、悪人の体は卑しく見えるに相違ありませぬ。
-109-
134●公審判とは何であるか
▲公審判は世の終に当り人間皆復活して、イエズス、キリストから公に善悪を糺される事であります。
公審判
とは公の審判の意味、叉「総審判」とも云ふが、矢張
人間皆
残らず之を受ける訳であります。
公審判あるべき事をイエズス、キリストは幾度も仰しゃったが、私審判では一人宛に十分であるにしても、社会には、即ち人間一般には不十分であるからであります。第九十九の問に一寸云ったが、尚試に想へ、
第一、人の善悪の影響は其一代に限らず直進と相続き、幾許親が子等を、教師は弟子を、著書は読人を、人の鏡は真似る人を善く或は悪く成らせたかは直に知れず。
第二、善人は却て悪人と見做され、辱められ、苦しめられ、或は一般に不自由な目に遇ったのに、之に反して悪人は成功して大に栄え、我侭を通し、快楽を極めて世を過したやうに思はれる。
[下段]
第三、善悪を働いた体は私審判の時に賞罰を受け得ず。
第四、イエズス、キリストさへも、非常に愛せられ給ふた事もあれば、大に嫌はれ給ふた事もあって、実際の資格は世に認められて居らず、信者不信者の優劣は明瞭せず。
第五、此世に善悪相当の賞罰を施されず、天主の御計は度々不公平なやうに譏られる事等が常にあるではないか。其天主の公平を公に知らせる為に、公審判の行はれる筈であります。然りながら第二十三の問に云はれた如く、時間の要る事ではない、瞬く間にでも公に発表されるものであります。
135●人は四終の事を屡々思はねばならぬか
▲然り、悪を避け善を励む為に屡四終の事を思はねばなりませぬ。
四終の事を思ふ
とは、人間一般に就いてよりは、自分に就いて早かれ晩かれ是非死ぬべき事、然れば齷齪求めつゝある財産等は否応なしに手離に成る筈、今余り大切にする
-110-
体は目も当られぬほど醜く成り、寄付かれぬほど臭く成り、腐って了ふ筈、今粗末にする霊魂だけ活残る筈、叉何に就いても必ず審判を受け、天の網は迯れる事出来ぬ、聊の善でも僅の悪でも、必ず賞罰の種に成る事を実際的に屡考へる事であります。
是は
悪を避け
る為で、之に勝る道はない、聖書に「凡ての業に於て己の結局を記憶せよ、然らば何時までも罪を犯す事あるまい」と(集会書 七。四〇)あるが如し。悪に負けやうかとする時に、若し今犯す罪は隠さうとしても必ず綿密に天主より問はれる、其罰は何うしても免れまいと能く思ったならば、争で罪を犯されやうか、叉
善を励む為、
即ち気が弱くて能く務めきらぬと思ふ時、若し此一時の困難に打勝つならば天主の御心に叶ひ、其代に何時までも天国に於て喜び楽むに相違ないと考へれば、必ず励が付いて何事も出来ぬ事はない。
然りながら「雇はれ人の根性」のやうに、己が損益を計り考へて務めるのは上策でない、例へば若し天国或は地獄が無か
[下段]
ったならば務めまいと思ふが如き心は愛ではない寧ろ私欲である。然らば天に在す御父に対し、イエズス、キリストの御苦難に対して、己に克ち、日々気を励し、力を尽して、凡ての義務を果すやうにするのが信者の本分である。義務の人と成り、天主の良き子等と成り、イエズス、キリストの忠実な信者と成るのは我々の天職である。
幾ら尽しても万の一にも成るまいけれども、報酬を顧みず万事天父に打任せて専ら御心に叶ふ為に励むならば、身に余り、望に余って、万層倍に報いられる事を忘れてはならぬ。