公教要理説明/01-23

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だい二十三くわ 天国てんごく地獄及ぢごくおよ煉獄れんごく

127●天国てんごくとはなんであるか

天国てんごく天主てんしゅ見奉みたてまつりて、天主てんしゅあいせられ、をはりなくたのしところであります。

天主てんしゅ見奉みたてまつ

とは、来世らいせれいれいるのは、現世げんせかほかほとを見合みあごとくであるから、てんましま我等われらちゝたてまつりました天主てんしゅの三ばかりでなく、我主わがしゅイエズス、キリストをも、聖母せいぼマリア諸天使しょてんし諸聖人しょせいじん霊魂れいこんをもこと出来できませう。

天主てんしゅあいせられる

とは、子等こどもおやからあいせられるよりも、国王こくわうから子等こどものやうにあいせられるよりも、尚有なほありがた

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い、尚嬉なほうれしいことでありませう。せいパウロいはく「天主かみこれあいたてまつ人々ひとゞゝそなたまふたことは、これず、みゝこれかず、ひとこゝろにも考出かんがへだ事到底出来ことたうていできぬ」と(コリント前書二。九)天主てんしゅ天主てんしゅよりあいせられるのは天国てんごく福楽さいはひであって、それ出来できれば何処どこっても矢張天国やはりてんごくります。たとへてへば一国いっこく王様わうさま拝顔はいがんるにはたれってもふかのぞところよろこところ名誉めいよとするところで、これためにはちからつくし、つてもとめ、機会きかいさぐるがつねであって、たまた行幸げうかうでもあるときみち遠近えんきんはず、さながらありむらがごとく四ほうから駈集かけあつまり、ひとやまきづくが、しも此時拝顔このときはいがんばかりでなく、御目おめとまって格別かくべつあいせられるやうなことがあったならばなんともはれぬあま幸福こうふくとしてありがたがり、感泣かんきうするではあるまいか。

天国てんごくそれよりも尚有なほありがたく、尚身なおみあま幸福こうふくでありまして、全世界ぜんせかいの一番珍ばんめづらしいものとき天主てんしゅかぎりなき美善美徳びぜんびとく見奉みたてまつるにくらべれば、大海たいかい一滴いってきぎぬとってもらぬたとへであります。いまよりやく八十年前ねんぜん(一八五八年)ルゝドおいベルナデッタ処女むすめは、十八くわい聖母せいぼマリア

[下段]

るの幸福さいはひときおのれわすれ、見蕩みとれて、きずつけられるをもおぼえず、容子ようすかはってほとん天国てんごくるやうな姿すがたであったが、これでも未々天国まだゝゞてんごくではない、玄関げんくわんぎぬのであった。ことなく、いさゝ不満足ふまんぞくくもりもなく、楽尽たのしみつきず、あらたってこそ天国てんごくはれる。しか天国てんごくって皆同みなおなじく天主てんしゅ天主てんしゅあいせられたてまつるとっても、皆身みなみあまるほど快楽くわいらくへぬけれども一様いちやうではない、此世このよあいたてまつりました次第しだい天主てんしゅためをしまず、おのれち、つくした程々ほどゝゞこと片時かたときわすれてはならぬ。それで一はたらきくるしみ奮発等ふんぱつなどもっをはりなき天国てんごくたねゑられるをよろこび、毎度之まいどこれふやすやうにはげむべきものであります。

128●如何どんひと天国てんごくるか

成聖せいゝゝ聖寵せいてうもっんだひと天国てんごくります。

成聖せいゝゝ聖寵せいてうことだい二百七十八のとひ説明せつめいするが、天国てんごくかれるのは

成聖せいゝゝ聖寵せいてうもっんだひと

かぎる、すなは天主てんしゅしんじ、且希望かつきぼうし、且愛敬かつあいけいたてまつりながら此世このよったひとばかりであります。

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129●地獄ぢごくとはなんであるか

地獄ぢごく悪人あくにん天主てんしゅからてられて悪魔あくまともをはりなくくるしところであります。

悪人あくにん地獄ぢごくしょせられるときのろはれたものよ、われはなれてをはりなきけ」と(マ テ オ二五。四一)はれるはずと、イエズス、キリストおっしゃった。これれば地獄ぢごくばつは、「損失そんしつばつすなは

天主てんしゅからてられ

ことと「苦痛くつうばつすなは

をはりなくくるし

こととのふたつきはまる。

だい一、損失そんしつばつ天主てんしゅよりてられるのは何程憂どれほどつらいかとことは、様々さまゞゝまよひくらまされる此世このよなかではさとりかねるも、霊魂れいこん肉身にくしんはなれるやぐ、天主てんしゅ如何いかほどあいすべきか、自分じぶん天主てんしゅためのみにつくられて天主てんしゅほかよろこびるものはないとあきらかにさとって、しきり見奉みたてまつりたい、あいたてまつりたいとおもへども暗無むやみてられてしまふのは、くるしみよりもつらく、乳房ちぶさ強請ねだ小児こどもおやから撥付はねつけられるよりは幾層倍いくそうばいつらいに相違さうゐない。

……

[下段]

……………………

ちゅう地獄ぢごく刑罰けいばつをはりことは、つみ悔改くいあらたむべき恩寵おんてうなく、叉強情またごうぜうひとくっせしめるに、ほかみちがないからである。うあっても天主てんしゅしたがはずとするときに、をはりなく其刑罰そのけいばつしのほかはない。

130●如何どんひと地獄ぢごくるか

……

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……………

ちゅうりながら大罪だいざい如何いかなるものかとことれゝど、おのゝゝって何程どれほどつみるかは、心中しんちゅう看行みそなわ天主てんしゅほかものなきをもって、ひといよい地獄ぢごくったとこと断言だんげんしかねる。たゞユダついてはイエズスが「此人このひとうまれぬほうかった」とおっしゃったによって、地獄ぢごくことおもはれる、地獄ぢごくまぬがれたならばうまれた甲斐かひがあるからであります。つねひといてれぬのは、其愛人そのあいじん暗無むやみかなしみ、叉失望またしつぼうすることのないためかとおもはれる。

131●煉獄れんごくとはなんであるか

煉獄れんごくつみつぐのひはたすまで霊魂れいこんくるしところであります。

イエズス地獄ぢごく煉獄れんごくとをけておっしゃらず、たゞのち

[下段]

ゆるされぬつみがある」と(マ テ オ十二。三二)おっしゃったばかりであります。しかゆるされぬつみがあるとすれば、叉赦またゆるされるつみもあるはず其処そこあきらかにけるために、ゆるされぬつみばつせられるのをもっぱら「地獄ぢごく」とひ、ゆるされるつみばっせられるのを「煉獄れんごく」となづけた。それ

煉獄れんごく

小罪せうざいつぐのひ、あるひ罪赦つみゆるされても其償そのつぐのひ不足ふそくおぎなために、

霊魂れいこんくるしところ

はれる。

イエズス御言おことばとほりに、煉獄れんごく地獄ぢごくとのくるしみちがはぬにしても、地獄ぢごくではをはりなくてられて、あい希望きぼう出来できぬのに、煉獄れんごくでは信望愛しんぼうあいあって、如何いかほどくるしんでも道理もっともことである、やが天国てんごくのぼはずってれば、地獄ぢごくとは天地てんちちがひる。

132●聖寵せいてうもっんだひと皆直みなすぐ天国てんごくるか

いな小罪せうざいあるかあるひつみつぐのひはたさぬ霊魂れいこん煉獄れんごくります。

ゆめにもわすれてはならぬのは、天主てんしゅ御心みこゝろかなはぬことはゞいさゝかつみでもあるあひだ其侭決そのまゝけっして天国てんごく事出来ことできぬ。それ

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わずかつみでも、所謂小罪いはゆるせうざいでも、さきつぐなってらねばならぬ。叉假命赦またたとひゆるされたつみでも、其傷そのきずまったなほってらぬあひだは、うしても天国てんごくぬ。をかしたつみ一心いっしんくやきらって、これ立派りっぱつぐのふやうに精一杯励せいいっぱいはげんだときは、かならつみとも其罰そのばつことゞゝゆるされてしまことうたがひない。雖然痛悔激けれどもつうくわいはげしからず、改心鈍かいしんぬるくして、つぐのひぶんであったときには、假令罪たとひつみゆるしけて、をはりなきばつまぬがれても、未償まだつぐのふべきところのこことおほい(三百八十四のとひ尚詳なほくはしくえる)。そこ聖寵せいてうちながらんでも、すぐ天国てんごくかれぬとわけであります。