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第二十二課 死と私審判
120●終に人の免れぬ事は何であるか
▲人の免れぬ事は四あります。死去、審判、天国、或は地獄であって、是を四終と云ひます。
幾許金持でも、英雄豪傑でも、国王でも、逃れたいとて何ほど手を尽しても、詰り逃れられぬものは四。其が人の行先で其為に道が要るのであります。
四終
と云はれるのは、結局に是非行止る筈のものだからである。
[下段]
121●人の死ぬとは何であるか
▲人の死ぬとは霊魂と肉体と相離れる事であります。
毎日のやうに、彼が死んだ、誰が死んだと云はれるが、早かれ晩かれ然う云はれぬ者は一人もない。往って見れば、体は尚だ見えるけれども、動かず、言はれても聞えず、是まで相焦れた者でも、猫に小判のやう、薩張無頓着に成って了った、味気ない事である。其所が死んだと云ふ事なれば、死は果して何であるか、矢張唯
霊魂と肉体と相離れる事であります。
122●人が死ねば如何なるか
▲人が死ねば肉体は腐敗し、霊魂は天主の審判を受けます。
霊魂が離れゝば
肉体
は直ぐ死骸と成って
腐敗
しかゝる。
固より相合はぬ種々の分子が、唯生命の本なる霊魂を以て合せられて居ったから、其が抜ければ忽ち分離する。腐敗するのは、殆ど死亡の一の確な証拠に成ると云ふ程である。然て今日まで霊魂を後にして、専ら大切にした肉身は、然う成る
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に決ってあれば実に考へものである、何うすれば宜いかと思はねばならぬ。
霊魂は
直ぐ
天主の審判を受けます。
今まで体の目耳を以て見たり聞いたりして居った霊魂は、恰ど蛹が抜殻を置くが如く、唯霊たるの働を為し、別世界に成って、彼の肉身に入って居った間に何うしたのかとの調を受ける。
123●審判とは何であるか
▲審判とは生涯の善悪を天主から糺される事であります。
審判
とは捌、即ち理非を判断し、曲直を裁決する事。
生涯の善悪。
各善悪を弁(辨)別する時から、何う云ふ事を為たか、何の通りに人の道を守ったか、人の目を忍んで何う云ふ悪い事を為たか、即ち善悪ばかり、忘れた善も、一旦赦を受けた悪も、一々問はれる。
時間の掛る調ではない、恰ど杜秤に物を掛けて上げ下しすれば、直ぐ上り下りして其重さが知れる如く、善悪次第に霊魂の価値が一々上ったり下ったりする。誉に成るのも、瑕や汚
[下段]
に成るのも、残らず霊魂に付く、赦された罪でも、必ず瑕跡が残る。其で原罪も自罪も……聖母マリアと、罪の女と名けられて罪を全く赦されたマグダレナ・マリアとは、何時までも雲泥の差でありませう。罪は赦された以上恥には成りますまい、唯斯う云ふ人であった、是ほど天主の御憐を蒙った、併し何の通りに其罪を償ったか、罪の代に倍にでも熱心に励んだかと云ふ事は全然見える。償の足らなかった時は借財が残る訳であります。恰ど種々の物は夜中電光すれば一遍に見えるが如く、或は瞬く間に写真に現出るが如くに、生涯の善悪は一遍に悉く霊魂に着いて現れる、其が審判であります。
124●審判は幾つあるか
△審判は二つあります、私審判と公審判とであります。
私審判
とは、私の審判との意味で、面々一人づゝ受ける審判である。
公審判
とは、公の審判で、人皆一緒に審判を受ける事であります。
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両方とも宣告は異はぬ、唯私審判の時は本人ばかりに知れるのに、公審判の時は公に発表されて、人の善悪と其賞罰とは、一般に知れる事に成る。
125●私審判とは何であるか
▲私審判は人が各死んで直に受ける審判であります。
各
即ち一人一人。
死んで直
とは、霊魂が肉身を抜けるや其塲で、第百二十三の問に云はれた通りに成る、其で私審判即ち一人宛の審判と名けてあります。
126●私審判の後霊魂は如何なるか
▲私審判の後霊魂は或は天国、或は煉獄、或は地獄に入ります。
世の裁判所では罪人が中々宣告に帰服せぬ事があって、之を執行するには、看守やら警官やら種々の役人が要るが、私審判には其が全く無用である。何故なれば霊魂が確呼と自分の価値を明かに知り、善悪を能く分って、夢にも其処分に不服や弁(辯)疏を為たいと思はず全く承認して居れば、善人は恰ど鉄が磁石に吸はれる通りに、兼て信愛し奉りました天主へ上
[下段]
り、悪人は岩が山から崩れて転ぶよりも早く、恐れ入り恥入って、刑罰に飛込むのであります。乃で行先は三、
天国、地獄、或は煉獄
であります、否応なしに如何な人間でも何方かに行く筈である。