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第二十一課 諸聖人の通功と罪の赦免
114●公教会に属する者は相互に功を通じて相助ける事出来るか
▲然り、公教会に属する者は相互に功を通じて相助ける事出来ます。之を諸聖人の通功と云ひます。
公教会はキリストを頭に戴く一の体なれば、看よ体の中一
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所痛む時は、其痛全体に響き、足を止め、目を着け、手を掛け、癒る迄は体の部分皆助合ふのである。公教会は叉天主を家長に戴く一家の如くなれば、看よ好く斉った家の内に、兄弟相愛し、相喜ばせ、心と力とを合せて相助けるのを楽にする筈ではないか。其で公教会に属する者は、假令天国、或は煉獄、或は此世に分れて居っても、一体の部分の如く、一家の兄弟の如く、御父を喜ばせ奉る為に、助合ふ事を努める、是をば「諸聖人の通功」と呼ばれた。
聖人
とは、(一)既に天国で喜ぶ霊魂を専ら云ふけれども(二)叉天国に喜に往掛けに罪の償を果す霊魂をも云ふのみならず、(三)熱心に務める此世の人々まで聖人と名けた。
通功
とは、功を通じ、即ち功を通ずると云ふ意味、互に
[下段]
功を通じ、之を以て相助けると云ふ事である、一家の中に勲章でも貰った人あらば、家中の名誉と成るやうな訳であります。併し勲章を親兄弟に譲ると云ふ訳には行かぬ如くに、信者の善業の功は他人に譲られぬ所もあれば、叉譲られる所もある。詳しく云へば聖寵を有って居る人は、天主に対して善業を行ふ時は三の好果がある、其善業は、
第一、勲に成り、本人に取って必ず報酬の原となる。之は自業自徳で、他人には譲られぬ。
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119●罪を犯した時は赦され得るか
△然り、如何な罪でも是を悔い改め、イエズス、キリストの功徳に依頼めば、公教会に於て其罪と罰とを赦され得ます。
罪を犯さぬやうに励まねばならぬのは勿論である。然れど浅ましい人間で、悪魔の策略、世間の誘惑、己の邪欲に負ける事あった時に、決して失望してはならぬ。
如何な罪でも、
假令ユダの罪でも、必ず赦を蒙る道がある。然りながら、罪を告白さへすれば赦されると思っては大変な間違、或は赦される事を見込んで犯すやうな事あっては、却て打棄てられて了ふ道に成る。赦されるに何より必要なのは
悔ひ改め、
即ち罪を犯したのを心から悔む事叉全然と心を改めて、仕方をも改める事である。真に悔い改める事なければ聊の罪でも決して赦されぬ。叉天主は専ら心の底を看行すから、上面では中々足らぬ、余程大切な事である。其でイエズス、キリストが専ら教へ給ふたのは改心、即ち心を入替る事であ
[下段]
る。
第二に要るのは、
イエズス、キリストの御功徳に依頼む
事、即ち自分で天主を棄てた時、泣いても喚いても天主から棄てられる外はない筈。唯イエズス、キリストは罪人の身代に苦を受け、死し給ふたによって、御足下に平伏し、御傷と御死去に対して、頻に赦を願ひ、以後は一層熱心に励まねばなりません。
公教会に於て罪を赦される。
何となれば罪を赦すの権のみならず、罪を止めるの権までもイエズス、キリストの立て給ふた公教会ばかりに与へられて、外に其権を与へられたものはない。其で他の道を以て罪を赦されたと思っても、自分の感情ばかりで、イエズス、キリストの御言に基くものではない。他の教会は、人の立てたもので、御約束を譲られた証拠は更にない。
罪の罰も赦され得ます。
能く気を付けて、必ず赦されると云ふのでなく、唯赦され得ます、即ち致すべき事
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を致し、罪を一心に悔み改め、イエズス、キリストに深く依頼み、公教会の指図に能く従ってこそ、罪を赦されると共に其罰も赦される。若し志が不十分ならば、終なき罰は赦されても、尚償ふべき所の残される事がたびゝゝある、之を決して忘れてはなりません。
- 第十一条及び第十二条 肉身の復活、終なき生命を信じ奉る。