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第十四課 救 世(二)
85●イエズス、キリストは何と云ふ処で死に給ふたか
▲ヱルザレムの近傍なるカルワリヨと云ふ処であります。
ヱルザレム
はユデア国の都で、至極美麗な聖殿(天主堂)を以て名高い市街であったが、近傍に第八十二の問に云はれたカルワリヨと云ふ死刑場があって、イエズスは其処で磔にせられ給ふた。其時カルワリヨは市街の砦の外にあったけれど、後砦を延長した為に今では市街に編入されてあります。
(註)イエズスは生れるに片田舎の厩を選み給ふたに、侮辱の極なる死刑を受けるに都を選み給ふたのは、名誉を求める人の正反対で、感ずべき事ではないか。実に尽される丈は尽し給ふたのであります。
86●イエズス、キリストを死刑に定めたのは誰であるか
ユデア国の総督ポンショ、ピラトであります。
ユデア
は其時独立の状態なるも、実際羅馬帝国の属国で、総督を以て支配され、総督のみ死刑に処する権があった。時の
総督
の名は
ポンショ、ピラト
であったが、イエズス前に司祭長カイファ(カヤファ)の裁判所で、天主の御子なる事を曰ふた為、「神の御名を汚して死刑に価する」と云はれたれど、其宣告を受ける為、ピラトの裁判所に送られ給ふた。ピラトは尋問して、無罪なる事を認め、敵の嫉の為に斯く付された事を覚って、何うかしたいと思った。其でイエズスのガリラヤ人なるを聞くや、ガリラヤ国王ヘロデが当時ヱルザレムに居るのを幸に、其処にイエズスを送った。
イエズス、ヘロデの処で嘲られた計りでピラトの送返され給ふたたれば、ピラトは第二の策を試みた。即ち大祝日の為に一人の罪人を免す筈ゆゑ、イエズスを免して遣りたいと云った。が人民は教師等から煽動られて、寧ろ大罪人バラバの免される事を願った。第三の策としてピラトはイエズスを憫然な目に遇はせたなら、人民が之で宥まるであらう
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と思って鞭たせたれど尚「殺せゝゝゝ、免ならば帝王の忠友でない」と叫ばれたので、是に懼れて、自分は其罪を蒙らぬとの徴に、皆の前で手を洗ひ、イエズスを死刑に定めた者と云はれて居る
87●イエズス、キリストの死に給ふたのは何曜日でありますか
▲イエズス、キリストの死に給ふたのは金曜日の午後三時頃であります。イエズスが
金曜日
に死し給ふたから、公教信者は金曜日毎に小斎して鳥獣の肉を食ないことになっております。
イエズスが十字架に上げられ給ふたのは正午で、息絶え給ふたのは
午後三時頃で
あったが、其時代に時間を数へるのは六時から六時までゞあった故聖福音書には正午を第六時と云ひ、午後三時を九時と書いてある。
88●イエズス、キリストの死に給ふ時如
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何な不思議がありましたか
△イエズス、キリストの死に給ふ時には、日俄に暗み、地震ひ、岩破れ、墓開け、死人甦る等の事がありました。
日俄に暗み
ましたのは決して日蝕ではない。日蝕は新月の時に限るが、イエズスの御死去は過越と云ふ大祝日の前日で、満月の時でありました。叉日蝕は五分間も続かぬのに其時の暗は十二時から三時まで続きました。
地震ひ。
即ち甚い地震がした。百夫長はこの有様を見て驚き「此方は天主の御子であったものを」と云って、胸を打ちながら帰った。
岩破れ。
石理に反して破れたのは、今でも見えると云ふ話である。
墓開け。
其国の墓は、凡て岩で出来、若くは掘られた穴であったから、地震の為に墓の開ける事があった。
死人甦る。
或聖人甦って、御復活の後、都に現れたと、聖福音書に書いてあります。
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等
とあるが、例へば天主堂に聖所と至聖所とを分けてあった大きな幕は上から下まで裂けたと云ふ事もある。
89●信者の記号(號)はないか
△あります、十字架の記号であります。
公教信者たる記号は種々ある中に、最も簡便なのは
十字架の記号
である。何の国でも、假令言語は通じなくても、其ばかりで信者が知れる。叉人が公教信者と名乗って来た時、十字架の記号をさへ知らぬならば信用されぬ。
90●如何して十字架の記号を為るか
△「聖父と聖子と聖霊との御名に因りて、アメン」、と唱へながら、右の手を額に当て、胸の下に下し、左の肩より右の肩へ引きます。
己に十字架を描く時に然うであるが、外の仕方が叉主に二ある。
第一、他人に、或は何ものかに向って手を伸べ、空に十字を描く事、例へば祝福、祝別する時等。第二、大指の先ばかりで、或は之に聖油を付けて、体或は何かに十字を小く
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描く事、例へばミサに於て聖福音を読始める際、其書物に、或は己が額と口と胸とに十字を描く時、叉は洗礼、堅振、終油等の秘跡を授ける為に、聖油を付ける時等であります
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第五條 古聖所に降りて三日目に死者の中より蘇り