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公教要理説明/01-03

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第(だい)三課(くゎ) 創造及(さうぞうおよ)び主宰(しゅさい)

20●何故天主(なぜてんしゅ)を天地(てんち)の創造主(さうぞうしゅ)と申(まう)しますか

▲天地万物(てんちばんぶつ)を無(む)より造(つく)り給(たま)ふたに因(よ)って、天地(てんち)の創造主(さうぞうしゅ)と申(まを)します。

使徒信経(しとしんけう)に、「天地(てんち)の創造主(さうぞうしゅ)」と書(か)いてあるので、其言(そのことば)の訳(わけ)を尋(たづ)ねるのである。答(こたへ)にある

天地万物(てんちばんぶつ)

の意味(いみ)は、第(だい)十三番(ばん)の問(とひ)に見(み)える。

無(む)より

とは、無(な)かったのに、無(な)い所(ところ)から、何(なに)も無(な)しにとの意味(いみ)。創造(さうぞう)とは、創(はじ)め造(つく)る、叉何(またなに)も無(な)しにとの意味(いみ)で、

創造主(さうぞうしゅ)

とは、何(なに)も無(な)しに造(つく)り給(たま)ふた御主(おんあるじ)と云(い)ふ意味(いみ)である。人間(にんげん)が物(もの)を造(つく)るのは、何(なに)も無(な)しに造(つく)るのではなく、必(かなら)ず何(なに)かを以(もっ)て造(つく)るから、創造(さうぞう)とは云(い)はず、大抵製造(たいていせいぞう)

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と云(いふ)。

21●天主(てんしゅ)は如何(どう)して天地万物(てんちばんぶつ)を無(む)より造(つく)り給(たま)ふたか

▲天主(てんしゅ)は其全能(そのぜんのう)を以(もっ)て天地万物(てんちばんぶつ)を無(む)より出来(でか)し給(たま)ふたのであります。

人(ひと)は何(なに)も無(な)しに造(つく)る事出来(ことでき)ぬのに、如何(どう)して天主(てんしゅ)は造(つく)り給(たま)ふたかと云(い)ふに、其全能(そのぜんのう)、即(すなは)ち限(かぎり)なき御力(おんちから)によって出来(でか)し給(たま)ふたと云(い)ふ外(ほか)はない、人(ひと)に出来(でき)ぬのは、其(それ)だけの力(ちから)が無(な)いからである。

(註(ちゅう))聖書(せいしょ)を見(み)れば天主(てんしゅ)は命(めい)じ給(たま)ふたので物(もの)が出来(でき)たとあるが、霊(れい)にて在(ましま)せば声(こゑ)の如(ごと)きものを出(だ)し給(たま)ふたのではなく思召(おぼしめし)を実際(じっさい)に顕(あらは)し給(たま)ふた訳(わけ)である。叉六日(またむいか)の間(あいだ)に地上(ちぜう)の万物(ばんぶつ)を造(つく)り給(たま)ふたとはあれど、今日(こんにち)のやうな二十四時間(じかん)の六日(むいか)ではない、週間制度(しうかんせいど)を定(さだ)める為(ため)に、長(なが)い年数(ねんすう)を六日(むいか)に譬(たと)へたに過(す)ぎぬ。叉動植物(またどうしょくぶつ)の各種類(かくしゅるゐ)を一々直接(いちゝゝちょくせつ)に造(つく)り給(たま)ふたと云(い)ふ人(ひと)あれども、其(それ)には限(かぎ)らぬ。其次第(そのしだい)は寧(むし)ろ学者(がくしゃ)の研究(けんきう)に任(まか)せられた事(こと)である。進化(しんくわ)したと云(い)っても、其進化(そのしんくわ)が

[下段]

自然(しぜん)とは云(い)はず、天然(てんねん)、即(すなは)ち天主(てんしゅ)の御定(おんさだめ)によって然(さ)うなったと云(い)へば、公教会(こうけうくゎい)の信仰箇条(しんかうかでう)に反(そむ)かぬ。信仰箇条(しんかうかでう)は、万物(ばんぶつ)に初(はじめ)ある事(こと)との二点(てん)に過(す)ぎぬのである。

22●天主(てんしゅ)は天地万物(てんちばんぶつ)を造(つく)り給(たま)ふた計(ばか)りでありますか

▲天主(てんしゅ)は天地万物(てんちばんぶつ)を造(つく)り給(たま)うた計(ばか)りでなく、常(つね)に之(これ)を保存(たも)ち、且主宰(かつつかさど)り給(たま)ふのである。

天主(てんしゅ)は折角出来(せっかくでか)し給(たま)ふた

万物(ばんぶつ)を

放(ほ)って置(お)き給(たま)ふものではない、絶間(たえま)なく之(これ)を

保存(たも)ち、

叉万物(またばんぶつ)に釣合(つりあ)った法則(はふそく)を立(た)て、之(これ)に応(おう)じて絶(た)えず

主宰(つかさど)り給(たま)ふ。

目(め)に見(み)えかねる小(ちいさ)い虫(むし)に至(いた)る迄(まで)、各々其目的(おのゝゝそのもくてき)を遂(と)げるために、奇妙(きめう)に粧(よそほ)はせ給(た[ま])ふ。

(註(ちゅう))天主(てんしゅ)が万物(ばんぶつ)を其目的(そのもくてき)に合(あは)せて計(はから)ひ給(たま)ふ物(こと)を天主(てんしゅ)の「摂理(せつり)」、叉(また)は「御計(おはからひ)」と申(まを)す。天主(てんしゅ)の摂理(せつり)によらでは髪毛一本(かみのけいっぽん)も抜(ぬ)けず、雀一羽(すずめいちは)でも無(な)くなる事(こと)はないと、イエズス、キリストは仰(おっ)しゃったのである。

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然(さ)りながら御摂理(ごせつり)は命令(めいれい)に限(かぎ)るのではない、之(これ)に二種(ふたどほり)あって、(一)命令(めいれい)もあれば、叉(また)(二)措(さしお)き給(たま)ふ計(ばか)りの事(こと)もある。(一)万物(ばんぶつ)に相当(さうたう)する法則(はふそく)を立(た)て給(たま)ふたによって、是非(ぜひ)なく之(これ)を守(まも)らせ給(たま)ふのは命令(めいれい)である。法則外(はふそくぐわい)の出来事(できごと)は特別(とくべつ)の思召(おぼしめし)の徴(しるし)であって奇跡(きせき)と申(まを)す。(二)悪事(あくじ)は天主(てんしゅ)の誡(いまし)め給(たま)ふ所(ところ)なれば、薩張(さつぱり)と出来(でき)ぬやうに止(と)めさうなものと思(おも)はるれど、如何(いかん)せん辱(かたじけな)き思召(おぼしめし)によって、人間(にんげん)に自由(じゆう)を与(あた)へ、動物(どうぶつ)の各種類(かくしゅるゐ)に本能(ほんのう)を与(あた)へ、万物(ばんぶつ)に様々(さまゞゝ)の法則(はふそく)を定(き)め、一般(いっぱん)に原因結果(げんいんけっくわ)の釣合(つりあひ)を立(た)て給(たま)ふたによって、一々悪事(いちゝゝあくじ)を止(と)めれば、絶(た)えず御定(おんさだめ)を破(やぶ)らねばならぬから、寧(むし)ろ一時措(いちじさしお)いて必竟為(つまりため)になるやうに計(はから)ふが宜(よ)いと、全知(ぜんち)を以(もっ)て慮(おもんぱか)り給(たま)ふたのである。聖(せい)パウロ曰(いは)く「嗟人(あゝひと)よ汝(なんぢ)は誰(たれ)なれば神(かみ)に言逆(いひさから)ふぞ。土器(どき)は己(おのれ)を造(つく)った人(ひと)に向(むか)って、何故我(なぜわれ)を此通(このとほ)り造(つく)ったぞと云(い)ふか。陶器師(やきものし)は同(おな)じ塊(つちくれ)を以(もっ)て、一(ひとつ)の器(うつは)を貴(たっと)い用(よう)の為(ため)、一(ひとつ)の器(うつは)を賎(いや)しい用(よう)の為(ため)に造(つく)る権(けん)あるではないか」と(ロ マ 書九。二十)

[下段]

23●天主(てんしゅ)は格段(かくだん)に人(ひと)の事(こと)を計(はから)ひ給(たま)ふか

▲天主(てんしゅ)は親(おや)が其子(そのこ)に対(たい)する如(ごと)く人(ひと)の事(こと)を計(はから)ひ給(たま)ふのであります。

第(だい)一、世間(せけん)で云(い)ふ如(ごと)く、天主(てんしゅ)は人間(にんげん)を万物(ばんぶつ)の霊長(れいてう)、即(すなは)ち長(かしら)に定(さだ)め、万物(ばんぶつ)を之(これ)に任(まか)せ給(たま)ふた計(ばか)りでない。

第(だい)二、天主(てんしゅ)は人(ひと)の父(ちゝ)たる事(こと)を仰(おっ)しゃって、万事人(ばんじひと)の為(ため)に父(ちゝ)の如(ごと)く計(はから)ふ事(こと)を示(しめ)し給(たま)ふたのであります。

第(だい)三、然(さ)りながら世間(せけん)の親(おや)の如(ごと)く、此世(このよ)の為(ため)にのみ計(はから)ひ給(たま)ふのでない、寧(むし)ろ後(のち)の世(よ)の為(ため)、人(ひと)に何(なに)より大事(だいじ)な救霊(たすかり)の為(ため)に専(もっぱ)ら計(はから)ひ給(たま)ふ。聖(せい)パウロ曰(いは)く「神(かみ)を愛(あい)する者(もの)………には万事共(ばんじとも)に働(はたら)いて其為(そのため)に益(えき)と成(な)らぬはない」と(ロ マ 書八。二八)。其(それ)で禍(はざはひ)でも、損害(そんがい)でも、過失(あやまち)に至(いた)るまで、救霊(たすかり)の為(ため)に利用(りよう)されぬものはない。

24●天主(てんしゅ)は斯(か)く愛深(あいふか)き父(ちゝ)なれば人(ひと)は天主(てんしゅ)に対(たい)して如何(どう)せねばならぬか

△人(ひと)は良(よ)い子(こ)の如(ごと)く天主(てんしゅ)に孝(こう)を尽(つく)し、万事(ばんじ)に越(こ)えて愛(あい)し奉(たてまつ)らねばなりませぬ。

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天主(てんしゅ)が父(ちゝ)らしくし給(たま)ふのは、我々(われゝゝ)が子(こ)らしくする次第(しだい)である。子(こ)らしくすれば、天主(てんしゅ)の恵(めぐみ)を戴(いたゞ)く、子(こ)らしく務(つと)めぬならば、勘当(かんだう)を受(う)けて棄(す)てられる筈(はず)。然(さ)れば我々(われゝゝ)は己(おのれ)を棄(す)て、天主(てんしゅ)の

良(よ)い子(こ)

等(ども)に成(な)らねばならぬ。身(み)を惜(おし)まず

孝(かう)を尽(つく)す

やうに工面(くめん)せねばならぬ。

万事(ばんじ)に超(こ)えて

即(すなは)ち誰彼(たれかれ)よりも、何(なに)よりも、心(こゝろ)から

愛(あい)し

奉(たてまつ)り、御命令(おいひつけ)御誡(おいましめ)を守(まも)る計(ばか)りでなく、御喜(およろこび)に成(な)るやうに励(はげ)まねばならぬのである。

25●天主(てんしゅ)は人(ひと)の父(ちゝ)であるのに何故人(なぜひと)の禍(わざはひ)を取除(とりの)け給(たま)はぬか

▲人(ひと)に禍(わざはひ)ある訳(わけ)は主(おも)に三(みつ)、即(すなは)ち或(あるひ)は試(ためし)と成(な)り、或(あるひ)は罪(つみ)の償(つぐのひ)となり、或(あるひ)は未来(みらい)の幸(さいはひ)の種(たね)と成(な)るからであります。人間(にんげん)は自分(じぶん)の事(こと)ばかりを思(おも)ふに、天主(てんしゅ)は万物(ばんぶつ)を総体(そうたい)に計(はから)ひ給(たま)ふ。人間(にんげん)は此世(このよ)の事(こと)ばかりを考(かんが)へるに、天主(てんしゅ)は後(のち)の世(よ)を専(もっぱ)ら慮(おもんぱか)り給(たま)ふ。人間(にんげん)は因縁(いんえん)の事(こと)を忘(わす)れ易(やす)いに、天主(てんしゅ)は原因結果(げんいんけっくわ)の釣合(つりあひ)を堅(かた)く保(たも)たせ給(たま)ふ。其(それ)で禍(わざはひ)ある時(とき)に人(ひと)が周章(うろた)へて其訳(そのわけ)を考(かんが)へず、無暗(むやみ)に呟(つぶや)く、然(さ)りながら如何(どん)な禍(わざはひ)で

[下段]

も其訳(そのわけ)を尋(たづ)ねれば、大抵次(たいていつぎ)の三(みつ)の訳(わけ)によらぬものは滅多(めった)にない。

第(だい)一、

禍(わざはひ)は試(ためし)と成(な)る。

此世(このよ)は殊更(ことさら)に試(ためし)の世(よ)である、即(すなは)ち楽(らく)にあっても苦(く)にあっても、存分(ぞんぶん)に与(あた)へられても奪(うば)はれても、天主(てんしゅ)の思召(おぼしめし)を重(おもん)ずるか、其主権(そのしゅけん)に帰服(きふく)するかと、試(こゝろ)みられる事(こと)が多(おほ)い。昔(むかし)ヨブと云(い)ふ人(ひと)は何不足(なにふそく)なく大層立派(たいそうりっぱ)な生活(くらし)をして居(ゐ)たのに突然試(とつぜんためし)に遇(あ)って、子女(むすこむすめ)に皆死(みなし)なれ、夥(おびたゞ)しい財産(ざいさん)を失(うしな)ひ、自分(じぶん)は甚(ひど)い醜(みにく)い病気(びゃうき)に罹(かゝ)り、辛(つら)い目(め)に合(あ)はせられた所(ところ)、妻(つま)から馬鹿(ばか)にされて、天主(てんしゅ)ぞ罵(のゝし)る事(こと)を勧(すゝ)められたれど、専(もっぱ)ら「天主(てんしゅ)が与(あた)へて天主(てんしゅ)が奪(うば)ひ給(たま)ふた、天主祝(てんしゅしゅく)せられ給(たま)へかし」と云(い)って、万民(ばんみん)に最(もっと)も感(かん)ずべき鑑(かゞみ)と成(な)ったが、遂(つひ)に前(まへ)より倍(ばい)にも財産等(ざいさんなど)を回復(くわいふく)したのは名高(なだか)い試(ためし)である。

第(だい)二、禍(わざはひ)は

罪(つみ)の償(つぐのひ)と成(な)

る。固(もと)より償(つぐのひ)と罰(ばつ)とは違(ちが)ふ。罰(ばつ)は罪(つみ)の代(かはり)に成(な)る計(ばか)りであるのに、償(つぐのひ)は罪(つみ)の代(かはり)にも成(な)れば、叉能(またよ)く耐(こら)へた丈(だ)け先(さき)の為(ため)に功(てがら)にも成(な)る。後(のち)の世(よ)は賞罰(しゃうばつ)の世(よ)であるから幾何苦(いくらくるし)んでも仕方(しかた)ないが、此世(このよ)では寧(むし)ろ償(つぐのひ)に

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成(な)り、耐次第(こらへしだい)で叉功(またてがら)にも成(な)る。

偖(さ)て多(おほ)くの禍(わざはひ)は一身上(いっしんじゃう)、財産上(ざいさんじゃう)に拘(かゝは)らず、自分(じぶん)や親先祖(おやせんぞ)の罪(つみ)、或(あるひ)は怠慢(おこたり)、不注意(ふちゅうい)、為損等(しそこないなど)より起(おこ)るが、悪(わる)い原因(げんいん)あった時(とき)に、悪(わる)い結果(けっくわ)を生(しゃう)じるのは当然(あたりまへ)である。天主其(てんしゅその)禍(わざはひ)を一々取除(いちゝゝとりの)け給(たま)ふとすれば、万物(ばんぶつ)の釣合(つりあひ)、秩序(ちつじょ)、法則等(はふそくなど)は一々破(いちゝゝやぶ)らねばならぬ、其(それ)で寧(むし)ろ罪(つみ)の償(つぐのひ)、叉功(またてがら)に成(な)らせる為(ため)に、取除(とりのぞ)かぬ方(ほう)が宜(よ)いとの思召(おぼしめし)である。地獄(じごく)や煉獄(れんごく)で罰(ばつ)せられるよりは、寧(むし)ろ此世(このよ)で罪(つみ)の償(つぐのひ)として、快(こゝろよ)く苦(くるし)むこそ仕合(しあはせ)である。

第(だい)三、禍(わざはひ)は

未来(みらい)の幸福(さいはひ)の種(たね)と成(な)

る。諺(ことわざ)に「苦(く)は楽(らく)の種(たね)」と云(い)ふが、イエズス、キリストに取(と)っても然(さ)うであった、聖(せい)パウロ曰(いは)く「キリストは自(みずか)ら謙(へりくだ)って死(し)し、而(しか)も十字架上(じふじかじゃう)の死(し)に至(いた)る迄(まで)、従(したが)ふ者(もの)と成(な)り給(たま)ふた。此故(このゆゑ)に神(かみ)も亦(ま)た之(これ)を最上(さいじゃう)に挙(あ)げて、一切(いっさい)の名(な)に優(まさ)る名(な)を賜(たま)ふた」と(フィリッピ書二。八、九)。叉曰(またいは)く「其(それ)は我等(われら)の短(みじか)く軽(かる)い現在(げんざい)の患難(くわんなん)が、我等(われら)に永遠(えいゑん)重大(ぢゅうだい)にして無比(むひ)の光栄(くわうえい)を準備(じゅんび)するからである」と(コリント後書四。一七)

[下段]

禍(わざはひ)に罹(かゝ)った時(とき)、此三(このみつ)の訳(わけ)を考(かんが)へれば、天主(てんしゅ)の御計(おはからひ)を呟(つぶや)くよりは、寧(むし)ろ然(さ)うもあるべき事(こと)を悟(さと)って、余(よ)ほど凌(しの)ぎ易(やす)く成(な)る。天主(てんしゅ)は此世(このよ)で人(ひと)の善悪(ぜんあく)に拘(かゝは)らず、幸不幸(かうふかう)を下(くだ)し給(たま)ふ如(ごと)くに見(み)ゆれど、実際其訳(じっさいそのわけ)と結果(けっくわ)とは各人(かくじん)に取(と)りて天地(てんち)の相違(ちがひ)である。兎(と)も角何(かくなに)に於(おい)ても、天主(てんしゅ)の全知(ぜんち)の見所(みどころ)と、我々(われわれ)の浅知恵(あさぢゑ)の見所(みどころ)と異(ちが)ふ筈(はづ)と片時(かたとき)も忘(わす)れてはならぬ。