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第二課 天 主
13●天主とは誰でありますか
▲天主は、天地万物を創造り、且主宰り給ふ者であります
天主
とは、天の御主と云ふ意味であります。世間では之を天と計り名ける事あれども、我々信者に取っては事足らぬ。
天
とは、此世界の外が何処も天。上ばかりでない、下も周囲も天である。
地
とは、此世界。
万物
とは、万の物と云って、天に在るもの日、月、星、
[下段]
地に在るもの海、山、木、草、獣、人間、何も角も万物の中である。
創造り
とは、出来し、あらしめ給ふたと云ふ事である。
主宰り給ふ
とは、計ひ治め給ふとの意味。
天地万物は因から有るものでない。因は無かったのに、天主が之を造り給ふたのである。併し職人が物を造る如くでない、寧ろあらしめた、出来した、即ち出来る道、出来る法則を立てゝ、其道其法則に従って出来るやうに致し給ふたのである。乃で天主を世の造主、世間では又造物主、造物者とも名ける。天主は万物を出来し給ふた計りでなく、立て給ふた種々の法則に従って万物を計ひ給ふのである。星の廻るのも、雨の降るのも、風の吹くのも、稲、麦、木、草、獣、人間の出来るのも、皆天主の御計である。世間でも「死、生、命あり」と云ふが、殊更に人の死ぬのも、生れて生きるのも、皆所謂「天の命」即ち天主の御計によるとの意味である。
其で天主は何も角も出来し、且計ひ給ふ御者なれば、之ぞ
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真の神、即ち実際凡てのものゝ上にあって、最上のもの、此上のない御主である、之に並ぶものは決してない、並べようとするのは甚だ無理である。
14●天主は見え給ふものでありますか
▲天主は、霊でありまして、形がないから、肉眼に見え給ふものではありませぬ。
我々の霊魂も霊であるから、之に就いて考へれば解り易く成る。
先づ
霊
とは何う云ふものであるか、霊は無形で即ち色形なくして、知恵と生命のあるものである。色は例へば白いとか黒いとか云ふもの、形は例へば円いとか四角とか長いとか短いとか云ふものであるが、霊は白い黒い長い短い大い小い等と云ふやうなものではない、全く色
形がない
ものである。又風の如く肌に当り、香の如く鼻で嗅がれ、音の如く耳に聞えるものではない。其な物とは違って、知恵があって物が解る、又活きたものである。
人の霊魂は其通りで、眼には見えねど働く事が見える。人
[下段]
が動いたり物を解ったりすれば、霊魂があると知れ、死んで物を解らず動かぬやうになれば、霊魂が抜けたと知れる天主も見え給はぬのに、其働が見える、天主がなければ天地万物は決してあるまいとの訳である。
肉眼
即ち肉身の目に見えるのは色形ばかりであるから、霊魂は更に見えず、天主も肉眼に見え給ふものではない。其なら天主が全く見え給はぬかと云ふに、肉眼に見えねど心の眼に見え給ふ。聖パウロ曰く「天主の見得べからざる所、其永遠の能力も神性も、世界創造以来造られたものによって覚られ、明かに見えるが故に、人々弁解する事を得ず」と(ロマ書一ノ廿)。天主を認めぬのは、多く心の眼が邪欲の為に暗まされてある訳による、其でイエズス、キリストは「福なるかな心の潔き人、彼等は天主を見奉るからである」と(マテオ五ノ八)曰ふた。其は此世からの事であるが、死んだ時霊魂が肉体を離れてから、天国に於て直接に天主が見え給ふに相違ない。併し此事は後で天国に就いて(第百二十七の問に)説明す。
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(註)霊のやうに形の無い事を無形と云ひ、其なものを無形物と云ふ。之に反して形の有る事を有形と云ひ、其なものを有形物と云ふが、又之を一般に物体、物質とも云ふ。物質は霊の反対で部分があって、出来たり崩れたりする、霊は部分なくして滅する事なし。
15●天主には始がありますか
▲天主は、始もなく、終もなくして永遠に在す者であります。
何ものでも出来る時が其ものゝ始で、無くなる時が終である。
天主
は出来たものでないから
始なく、
又無くなるものでないから
終もない。
始終のない事は永遠と云ふ、其で天主は
永遠に在す
と申す。
天主の外に、始のないものはない。太古人間、獣、木、草、此世界さへも無かったと云ふ事は明かに知れる、其で皆始がある、又終があらう。
16●天主は何処に在すか
[下段]
▲天主は、天にも、地にも、何処にもも在さぬ所はありません。
天主が
何処にも在す、
のは、霊魂が体の中に一杯あるが如くである。
然れば天主は地獄にもお居でになる、唯罪人は打棄てられ天主を見る事の出来ぬのが、地獄の一の苦である。天主は人の心にもお居でになる、唯善人の心には、愛深き父の如くお居でになるに、悪人の心には、之を罰すべき判事の如くであります。
17●天主には知り給はぬ事がありますか
▲天主は知り給はぬ事がありませぬ、是を全知と申します天主は何処にも在すによって、何処の事でも
知り給はぬ事がありませぬ。
其で人が如何に隠して何事かを為ようとしても決して隠す事は出来ぬ、人に隠しても天主には決して隠し得ぬ。人の最も密な思でも望でも皆知って、其善悪次第で必ず褒美或は罰を与へ給ふ筈。
天主は又何時も変る事なくお居でになるによって、何時の
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事でも能く御存じで、即ち過去と云って、過去った事、昔の事、現在と云って、今何処にでもある事、未来と云って未だ無い事、先々ある筈の事を御存じである。天主の何事も知りならざるのを
全知、
即ち全き知恵、限なき知恵
と申し
ます人が主に目で見る事を知るから、天主も人に似たやうに、何事も見給ふとは云ふが、霊でありますから、目の無いのは申すまでもない事である。
18●天主には能なさらぬ事がありますか
▲天主には能なさらぬ事がありませぬ、是を全能と申します。
天主は天地万物を出来しなさったによって、何でも御望の通り容易く出来なさる、
能なさらぬ事がありませぬ。是を全能、
即ち全き力、限なき力と
申します。
其で此世界を亡す事でも、別の世界を造る事でも、容易く出来なさるに相違ない。
其なら無理な事、人を欺く事等出来るかと云ふに、其な事は力ではない、不足であるから、天主には出来ぬ。又理に
[下段]
合はぬ事、例へば四角な球を造る事が出来るかと云ふに、天主には出来ぬと云ふよりは、其なものは出来ぬ、有るに有られぬと云ふが本当である。因より球ならば四角でない四角なものは球でないからである。
19●何に由って天主の在す事を知りますか
▲天主の在す事は天主の示に由って信じます、又道理に依っても知れます。
茲で
天主の在す
とは、愈よ天主が在ると云ふ事で、言を換へて云へば「天主の存在」と云ひます。
何に由って
知るかと尋ねたのに返事は二に分れる。
一方は
信ずる、
一方は
知れる
と云ふことであるがこれを能く見分けて貰ひたい。何故なれば信ずるとは信仰の事で天主の啓示に由って、我々が天主の在ることがわかり知れるのは即ち何う云ふ人でも道理に由って熟く考へたならば、天主の在る事がわかるからである。大切であるから両方少し詳しく述べねばなるまい、小児の為ばかりでな
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く、然う云ふ話が度々出る故である。
(一)我々の信仰の訳は外でない、
天主の啓示に由る。
天主の示とは第九の問に述べた如く天啓と云って、天主が知らせ給ふた事を云ふ。天啓を知らぬでも天主の在る事を認めた人が幾千もあるけれども、人が無知の為、種々の情欲の為、目を暗され易いから、其に拘らず何う云ふ人でも皆容易しく、疑念なく、錯誤なく知る事の出来るやうに、天主は殊更に御自分の事を知らせ給ふたのである。其は一遍でなく幾度にも分ちて、人祖アダムを初め、代々の子孫殊にセット、エノク、ノエ、アブラハム、イザアク、ヤコブ等、又殊更にモイゼと云ふ聖人、又数多の予言者に漸々敎を顕し、終に聖子イエズス、キリストを以て教へ給ふたのである。是皆天啓の部分で、其事実は凡そ旧新両約の聖書に載せて、愈よ真であるとの証拠に夥しい奇跡及び予言が行はれ、全知全能の印判のやうなものを以て保証せられた。又公教会を以て万国万民に伝へられるものであるが、之ぞ我々の信仰の基礎である。
[下段]
其で世間では、キリスト信者の天主を信ずるのは詮方なしで、外に此世界の在る訳を説く事出来ぬからであると云ふ話あれども、決して然うではない、我々の信仰は専ら天啓に基く、即ち天主が親く知らせ給ふたからである。恰ど親を知るのは、親から育てられて、教はるからであるのと同じ道理である。
(二)尚
又道理に依っても
天主の在す事は
知れる。
道理とは、当然の人ならば早く解る筈の話である。道理に依って知れるとは、道理を推して見れば、種々の事を考へれば、天主の在す事を覚る筈と云ふ意味。
偖て現に人間を初め、数へられぬ程の種類に分れた木、草獣等見えるが、是皆何うして出来たものであらうか。何時も何時も斯うであったとすれば兎も角も、日に日に移り変って行くので、原無かったに相違ない。原無かったなら何うして出来たか、出来した者は誰であらうか。又科学を以て中々見尽す事出来ぬ珍しい釣合、法則等見えるが、誰の制定であらうか、自然とは云ふけれども、然う云った計で
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足るか。又面々の心に省みれば、人ではなけれど中々争はれぬ声のやうなものがあって、斯うしてはならぬと誡めるのは、誰の声であらうか。何に就いても遡って道理を推せば、必ず天主の在る事を認めねばならぬやうに成る。何うか然う云ふ訳を少々述べて置きたい。
- 道理上天主の存在を証する訳
第一、万物の大原因。学者の専ら云ふ所によれば、此世界に見える草木の種族は五十万以上、動物昆虫の種族は六十万以上知れて居る。又大地と呼ばれた我地球は、数百の遊星と共に絶えず太陽の周囲を回転する。昔から太陽は地球より往来されるもの、剰へ地球より主宰に往かれるもの天の岩戸にでも隠れた位のものと思はれたに、実際は百三十五万倍ばかり地球より大きくして、米七斗に一粒を比べる程である。小く見えるのは、三千八百万里ほど走る汽車でも、四十五年も掛る位である。又金の釘のやうに空に輝く星は凡そ太陽の如きものであって、目で見えるのは一憶ばかり
[下段]
なれど、望遠鏡で見れば十憶を下らぬと云ふ。偖て此天地万物は何うして有るものであらうか、固より恒も此通り有ったものか、將た出来たものか二に極る。所が漸々変って行く容子を見れば、恒も斯うであったとは何うしても云はれぬ、愈よ出来たもの、現に出来つゝあるものであると云ふ事は、科学上で明かに知れて居る。其なら出来たものならば自然に出来たか、或は出来したものがあるか、其所が問題である。然るに自然に出来たものは決してない、必ず出来すものがある。何ものでも他のものから、即ち或は親から、或は種から、或は化合から出来る外はない。家や時計が自然に出来たと云はれようか、之を出来す丈の知恵能力のある者を要すれば、此万物の出来るには況して然うである。其で何国にも云はれる通り造物主とか神とか称するものがあって、万物を出来すに相違ない、実に有らゆる物は残らず造物主即ち天主のある事を証するのである。
第二、運動の原因。日、月、星、地球、金、石の如く、生きて居らぬ物を死物と云ふ。木、草、鳥、獣のやうに、生
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きて居る物を生物と云ふ。然て死物は、惰性と云って、外から動されぬならば、何時までも、自ら動き出す事は出来ぬ。叉死物は生物に成らず生物は必ず同類の親、或は卵から出来る外はない。此二の事は、極り切った道理である。
所が日、月、星、地球等は、死物ながら皆動いて居る、非常な速力を以て動いて居る事は、天文学を以て能く知れる。地球だけの事でも聞けば、自転とて独楽の如く毎日一遍旋然と廻るが、其ばかりでも赤道あたりの処は、一日に一万里あまり走る。其上公転とて毎年太陽の周囲を一周するが一日の走方は六十五万里、即ち一秒時間(瞬間)に七里程であって、特別急行列車よりも千層倍以上迅速ものである。誰でも聞馴れた此二の運転の外に、天文学者は尚十許り重なる運転を認めて居るが、到底素人では夢にも解らぬ話に成る唯我々の目で斯も混雑極るべき運転あるのに、殆ど地球が動かぬと思はれる程に奇妙に調和されてあるのは、偶然の事であらうか。時計や機械の廻るのは、偶然の出来事
[下段]
であるか。造物主の奇妙不思議な全知全能の業と云ふ外はない。或学者は神の業と云ふ事を否んで、誰か爪弾した者があると云ったが、兎も角も運転させるものがなければ、天体は自ら動き出す事は出来ぬ故、運転させるものは誰であらうか。
第三、生命の原因。叉生物皆親から出来ると云へば、素々如何であったか、獣、人間等の無かった時に、如何して初めて出来たか、例へば鳥は卵から生れるが、一番前は鳥であったか、卵であったか、鳥の無いのに如何して卵が出来たらう、卵の無いのに、如何して鳥が出来たらう。木草の初は木草であったか、種物であったか、木草の無いのに、如何して木草が出来たらう、「蒔かぬ種は生えぬ」と云ふではないか。人あって、春夏秋冬は初なく、年々同じやうに続く、何時始ったか知れぬと云へば、然う思はるれど、如何しても初がある筈。今年は昭和十五年なら、昨年は十四年であったに相違ない。假令十五年の代に、十五万年と云っても何時
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か元年がある筈。年々数が殖えれば、遡る時に必ず初がある、本のない木には登られぬ。
人あって、何でも進化説に従って、自然に進化したと云はうか。併し愈よ進化して、別の類が出来たとの確な証拠は何処にあらうか、瓜の種に茄子の生えぬのは、素からの道理。縦し原詰らぬ物が漸々進化して来たと云っても、其詰らぬ物の先づ出来るには、出来した者が要る。叉進化するにも、方法があるから、其方法を立てた者、其方法に従って進化させる者も要る。試に人間は猿に成りたいと思っても、無論出来ぬのに、猿が人間に成りたい時には尚更然うである。猿は人間に三本毛が足らぬと云へば、人間に成るには、誰か足らぬ所を施す者がなければ、到底出来る筈はない。可笑な話と云はれても道理は道理である。人あって、虫でも黴でも、種なしには決して出来ぬと、科学上解り切った事である。世間で自然と云ふのは、天然と云ふが本当であって、天然は天主の然らしめ
[下段]
たとの替名である。
死物の運動も、生物の生命も、素必ず天主が与へ給ふたものである。素与へたものがなければ、決して自然に出来る筈はない。
第四、万物の順序。何より珍しいのは、万物の順序、叉釣合である。素人は其上辺を見て、不思議に思ふが、科学で之を研究すればする程、尚々感嘆に耐へぬのである。例へば人間の目は、如何にも込入った立派な機械で、物を見るに能く釣合った事は、学者が幾ら力を尽して研究して見ても、万の一をも解り尽す事は出来ぬ。感心な写真機等は、僅に些と目を手本にした計りである。而も人間だけではなく、鳥、魚、獣、顕微鏡で漸く見える小さい虫、叉顕微鏡でも見えぬ細かい虫、黴菌に至る迄、矢張皆目がある。夜でも見えるもの、叉闇ばかりに見えるものがあって、各違って居るけれども、身には立派に釣合って居る。目は全体の中些とした部分で、尚耳、鼻、口、手、足等があり、叉骨組、筋肉、血脈、神経、内臓、種々の機関があって、
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其組織、其作用は却々言語に尽されず、人間も細かい虫も小さい世界のやうなもので、如何にも奇妙不思議なものである。叉数十万に亘る木草の類は、皆似て居るけれども、其形象、其生育、其質、其向く所、其使はれる所、相異なって居る。大木でも小さい種から生じて、同類の物は立派に似て居るが、其枝も葉も、全く似た物はない。之を動物学、植物学等で研究すれば、誠に奇妙で、到底言葉に云ひ尽されぬものである。
是皆偶然出来た物、自然に出来た物と云はれようか、時計でも機械でも、自然に出来たと云ふのと同じ理屈に成る。例へば物皆火事の為に灰や煙に化して、原の分子は一も失せて居らぬにせよ、叉自然に原の通りに返り得るか。万物皆全知全能の天主の御計によって出来た物に相違ない、然て斯く出来た物を悟った計りで大学者と云はるれば、况して素より之を出来し給ふた造物主をや。世を驚かす発明は天然物を研究して其力を応用する計である。空を飛び水を泳ぐ詰らぬ虫でも流石の飛行機や潜航艇より何程巧妙に出
[下段]
来て居るか。
第五、宗教の原因。万物の上に誰か在って之を出来し、叉は主宰ると云ふ事は、人類一般に太古から合点して居る。合点して居ればこそ、何の国でも宗教のないと云ふ国はない。成程天とか天帝とか、造物主とか、神とか仏とか、種々の名を付けてある。叉如何なものであるかと云ふ事に至っても、様々に解せられるけれども、兎角人間の拝むべく尊むべく、謝すべく、祈るべきものがあると思へばこそ、其が為に堂、宮、寺等を建て、祭典、祈禱、供物等を設けたものである。是は門違ばかりで、人類一般に天主の存在を気差して居る事を証するに相違ない。
此五の訳は、万物を見て道理を押した時に、天主の存在を証するものであるが、己に就いて考へても、亦之を悟る筈。
即ち
第六、一身上の道理。昔から「死生、命あり」との名言の通、如何な人でも自分は親のものでもなければ、己のものでもない事は明かである。即ち親から生れても、親は如何
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な子が出来るか、何時生れるか、何時まで生きるかは知らず、叉髪毛一本でも我が勝手に成らぬ身なれば、死生、即ち生れて死ぬる計りでなく、生涯も全く「天の命」によると云ふ事は疑はれぬ。天とは天主の替代である。万事天主の御計による事は明かであって、人が己の上を考へれば、死生ばかりでなく、生涯天主の命によるべき事を悟る筈である。
第七、良心の証明。面々の心を省みれば叉、善を命じ悪を誡め給ふ天主のある事を悟る筈。其訳は、乃公が自由と云ひながら、何かを為ようとすれば、心の中に声のやうなものがあって、是は悪い、其は善い、斯う為るな、然う為よと、頻に勧める。否でも之に従った時は、其声は、善い事を為た、是が善かったと誉めて嬉しがらせる。若しも其声に反いてしたならば、見た人はなくても頻に咎めて、赦を受けるまでは安心ならず、其呵責を以て、早かれ晩かれ其罰の免れぬ事を諭される。其声は面々に生付いた良心と云ふものであるが、人の差図ではない、善悪の区別を立てゝ
[下段]
善を命じ悪を誡める「天の命」である。是こそ人間の上に物を命じ善悪を賞罰し給ふ天主の在る事を立派に証するものである。
第八、無神論の証明。是までの話は、表からの道理であるが、衷から論じても同じ事で、天主が無いとすれば、此世は全く説明が出来ぬ。道楽人、悪党の世に成って、最う此世に居られぬと云ふ程に成る。
天主が無いならば、万物が偶然自然に出来た物で、別に計ふ者はなし。叉法律の外に、悪を誡める者なく、幾ら悪事を為ても、警官の目さへ逃るれば、何も恐るべきものは無いやうに成る。宗教は固より要らぬ、叉未来を希望する筈はないから、悪党の如く、飲めや歌へや一寸先は闇の夜と無暗に謳ふが当然に成る。尚欲を圧へ、義務を果し、身を犠牲に為る等には及ばず、善を為ても悪を為ても、畢竟違はぬから、善悪を構はず、出来るなら飽くまで情欲を満して此世で楽むやうに為るが宜い、死ねば其限り。叉優勝劣敗の世の中なれば、難儀な人は依頼む者なく、生きるのが
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厭ならば、自害しても損はない、何と恐しい話ではないか。然りながら幾何卑劣な話、人の道に欠ける事とは云へ、今各国を悩しつゝある悪党、無政府党、社会主義者等の専ら云ふ所は、皆無神論、即ち神無しとの論の結果ではないか、結果を無理とすれば、基く所も無理と云はねばならぬ。若し天主が無いならば、全く宗教は要らず、宗教心が無ければ、人間でも動物に劣る者と成る。此訳を能よく推して見たならば、必ず天主の存在を能く認める筈である。真正の宗教は決して仏教に所謂「勧善懲悪の方便」ではない、必ず真理である。
天主存在を証する所を稍長たらしく述べたが、なかなか尽した所でない、有りと在らゆるものは残らず異口同音に造物主の有る事を証する、木の葉一枚でも草一本でも証せざるはない。之に反して広い世界には造物主の無いと云ふ証拠は一でもあらうか、決してある事なし。此論の基く点は重に二、第一、原因なき結果なし、第二、作を見て作者の技量が知れる。何に就いても真心で論じて見れば、必ず
[下段]
天主の全知全能の如何に感ずべく、謝すべく、愛すべきかを知るに至る。此証拠を稽古の子供に必ず聞かせねばならぬと云ふ訳ではない、都合次第に用ゐるが宜い。