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6●如何な宗教でも人の道を全うし、真の幸福を得るか
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▲否真の宗教に限ります。
世間には種々様々の宗教があって、日本ばかりでも其主なるもの仏教十四宗の諸派、宗派神道十三派、叉キリスト教には公教、正教、新教の種々の分派がある。之を以て或は宗教は皆空言と云ふ人もあれば、或は皆同じ事と云ふ人もあるが、両方の批評は極端で誤謬である。併し宗教の多いのは、先づ宗教が要る、宗教なしには居られぬとの証拠である。
叉其宗教は幾ら違っても、違はぬ所が二ある。
第一違はぬのは、名け方こそ異なれ、誰か人間の上に在って、世の運命を計ひ、善悪を賞罸するもの、即ち人間最上の主、最上の父とも云ふべきものがあるから人は必ず之を有がたがって、尊び、拝み、之に祈り且従はねばならぬものと何の宗教も教へる。併し拝むべきもの、最上の親、最上の君のある事を知るよりは、其が何方であるかと、確に知る事は一層大切ではないか、我々に取って、親がある、
[下段]
と云ふ事よりは、其親は誰と知る事が肝要ではないか、親でなければ、孝行を為ても孝行にならず、君でなければ、忠義を為ても忠義にならぬのである。
本当の親君のあるのに、外の者を親君とすれば、本当の親君に対しては不孝不忠の罪に成るに相違ない。其処が宗教各違ふ所であって、執が真であるかと云ふ事を調べるのは、何より必要である。
第二何の宗教にも違はぬのは、人が死んでも魂は死なぬ、極楽とか云って、行く道が違へば行先が違ふと云ふ事である。其なればこそ神とか仏とか名けて、幾千年前に死んだ人の魂を今でも尊び、之に祈るのである。之は取りも直さず人性の声で、見えぬ乍らも魂は決して無く成らぬと頻に教へるのである。
其通りに名けやうが違っても、道理の変らぬのは、愈よ実際然うであるとの証拠に成る。宗教嫌の人は、人間は死んで了ふとは云ふけれども、人が死ねば宗教を以て其死骸を送り、位牌を以て其魂を祭り、叉仏法や神道で仏壇、神
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棚を儲け、叉一般に招魂祭と云って、国の為に死んだ人々の魂を招いて祭るではないか。斯く死んだ人を尊ぶのは死んでから後世があることの証拠に成る事疑なし。
偖て死んでから行先のある事を知るよりは、そこへ行く道のある事を大切ではないか。其道の話は叉宗教によって違ふから、皆真とは云はれぬ。何処にか行かうとするに、道は右方である、否や左手である、向ふである、否や後であると云はれゝば、皆真とは思はれまい、執が真であるかと確めるのは必要であらう。
其通り宗教は皆真とは云はれぬ。真の天主を教へ、救霊の真の道を教へるのは、唯一つ真の宗教であって、之を守るに限る筈。是ばかりで人の道を全うし、真の幸福を得られるからである。
7●真の宗教は多数あるか
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▲否、真の神即ち天主一、真理一、人の道一なるが故に、真の宗教も唯一の外ありませぬ。
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種々ない訳は、
第一、我々の頻に云ふ通り、
真の神即ち天主は一
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しかないからである。其に神道では、神は八百万とて、八百万あると云ふ。其種々の神の中に人間、鳥、獣、木、草などがあるから、真の神とは云はれぬ、真の神即ち、天主たるには神性、即ち限なき徳あるを要するからである。叉日の神、月の神、日本の神、西洋の神など、別々にあるとも云はれぬ、日本も西洋も同じ一の太陽に照され、一の世界であるからである。
叉人間は「四海兄弟」とて皆兄弟と云はれゝば、同じ独一の親がある筈。之こそ真の神であって、神道と云ふ種々のものは、決して真の神でない。真の神は唯一の外あられぬ全世界を照らすに一の太陽、家には一人の主人、国には一人の皇帝あるが如し。
第二、叉
真理とは真と云ふ事であるが、同じ一の事に就いて真は種々あるのではない。例へば二に二
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を加へれば幾許に成るかと云ふに、三に成る、四に成る、五に成ると、人が幾許何百通に云っても、四に成ると云ふのだけは真で、外の種々の話は皆間違である。
第三、叉
前に云った通り、人は皆同じ人間であって、出処は真の神、行先は真の神なれば、道も亦真の神による外はない。試に思へ、一般に親に孝行せねばならず、人を殺してはならず、物を盗んではならぬのに何処にか孝行は要らぬ、殺しても可い、盗んでも可いと云ふ処があらうか。天主を尊ばねばならぬのに、構はぬでも可いと云ふ処があらうか、決して然うでない。人間皆出処一、行先一なれば、道も一の外ないのである。
其で
真の宗教も唯一の外ありませぬ。
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キリスト教では神は唯一、神道では否や八百万あると云ふ仏法では神はない、仏あるが、仏は一と云ふ人もあれば三千仏と云ふ人もある。兎角皆真の宗教とは云はれぬ。仏法が真ならば神道もキリスト教も間違であらう。神道が真ならば、仏法もキリスト教も間違であらう。併し我々の云ふ
[下段]
通り、真の神は一、真理は一、人の道も一なれば、仏法も神道も間違であって、我々の宗教は真であるから、外に真の宗教はない筈である。
8●真の宗教は孰であるか
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▲真の宗教は天主公教であります。我々の宗教の名は
であると忘れるな。
支那あたりでは、之を天主教と名けるが、然うも云はれるけれども、西洋などに通らぬ詞である。世界一般には、之を「カトリック」教と名けるが、万国万代の教と云ふ意味であって、之を「公教」と訳したのである。然り乍ら支那で然う云ふから、日本では縁を現す為に譲合って、「天主公教」と名けてある。兎角新教から、旧教と云はれる事あれど、旧(舊)は殆ど廃物の意味なれば、イエズスに至る迄の教は旧(舊)教と云はるれど、イエズスの教に就いては決して云はれぬ。本当の名は公教と云ふ外にはない。
9●公教とは何であるか
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▲公教は、天主即ち真の神が、世の始から顕して、万民の
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救霊の為に、授け給ふた教であります。
人の造った教でない、固から有るのに人が知らぬのを天主が顕し、即ち知らせ給ふたのである。人の造った教は人為教と名け、天主が教を顕し給ふたのは「天啓」即ち天主の示と云ひ、其教を「天啓教」、即ち天主の知らせ給ふた教と云ふ。
然りながら、天主は何も角も一遍に教へ給ふたのではなく、漸々に教へ、恰ど親が子等を漸々に教へて、其子が次第々々に、小学校、中学校、大学校で教はるが如くである。其で
天主が世の始から
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アダム、エワに教へ、後にはノエ、アバラハム、モイゼと云ふ人等に教へ、叉数多の予言者に教へ給ふたのである。而して愈よ天主の教であると云ふ事は、数多の奇跡及び預言を以て証せられた。
即ち奇跡は人の力で出来ぬ不思議な事であって、天主の全能の印証と成り、預言は人の知恵で到底知られぬ事を前以て告げる事であって、天主の全知の印証となる。奇跡と預言とは天啓教の著しき証拠である。
[下段]
イエズス、キリストに至る迄の教は、旧約と名けるが、旧約は天主が人間に対して、一番先になされた御約束である。其時の教は旧(舊)教と云はれる。イエズス、キリストが其教を全備して、新に授け給ふたによって、之をイエズス教或はキリスト教と名けるが、旧約の代に新しい御約束をなされたから、新約と云ふ。新約は旧約の如くに更る事なく、世の終まで続く筈である。旧(舊)約と新約と違はぬのは、恰ど同じものが、先づ蕾と成り、花と成り、果と成るが如し。此教は天主から、万国
万民の救霊の為に
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顕されたものであるによって、之を公教と名ける。救霊とは、死んでから先、天国即ち極楽の終なき福楽を受ける事であるが、救霊の道は公教の外にない。
其でも人あって公教を少しも知らず、詮方なしに他の教を真と思って、真心を以て守った時は、罪さへなければ、天主の御憐によって、救霊を得る事あるとも、救霊の道が幾個もあると云ふ訳ではない、真心があったからである。即ち真の道を知らず、詮方なしに他の教を真の道と思って
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真心を以て守ったからである。救霊の道として、真の神から定められたのは、公教の外にない。其で救霊を得る為には、是非之に入らねばならぬ。
10●公教の教へる所は、幾部に分つか
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△凡そ三部に分つ、第一、信ずべき事、第二、守るべき事、第三、聖寵を受ける方法であります。
前に云った通り、道を先づ知らねばならず、而して歩まねばならぬものなれば、公教も其通りで、第一部は道を知らせて、
を教へる。第二部は道を歩む事、
即ち
を教へる。第三部は
聖寵を受ける方法
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即ち天主の御心に叶ふ道、罪の赦を受け、恩寵を戴く道を教へるのである。其三部に従って此説明を上中下の三部に分つ。