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シリヤの聖エフレム教訓/第3講話

第3講話

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<< 神(かみ)の書(しょ)を勉強(べんきょう)して読(よ)む事(こと)。 >>


喇叭(らっぱ)はそのひびきを以(もつ)て、戦士(せんし)をあつむるがごとく、神(かみ)の書(しょ)も我(われ)等(ら)をよびて、われらの思(おもい)を神(かみ)をおそるる畏(おそ)れにみちびかん、何故(なにゆえ)ならば我(われ)等(ら)の思(おもい)は戦士(せんし)の如(ごと)く王(おう)の敵(てき)とたたかへばなり。又(また)喇叭(らっぱ)はそのひびきを以(もつ)て、戦時(せんじ)に少壮(しょうそう)なる戦闘者(せんとうしゃ)をはげまし、敵(てき)に向(むか)つて進(すす)むの用意(ようい)をなさしむる如(ごと)く、神(かみ)の書(しょ)も善(ぜん)に向(むか)ふ汝(なんぢ)の熱心(ねっしん)をはげまして、なんぢを諸慾(しょよく)とたたかふに固(かた)むるなり。故(ゆえ)に己(おのれ)の力(ちから)に応(おう)じ、みづからつとめて、出来(でき)るだけしきりに聖書(せいしょ)を読(よ)むべし、これ敵(てき)がその奸策(かんさく)を用(もち)いて、或(あるい)は汝(なんぢ)にしばしば憂(うれい)をかうむらしめ、或(あるい)は汝(なんぢ)に進歩(しんぽ)と生活(せいかつ)の便(べん)とを多(おほ)く得(え)せしむるその間(あいだ)に、汝(なんぢ)に悪念(あくねん)を入(い)れて散(ち)らす所(ところ)の汝(なんぢ)の思念(おもい)を集中(しゅうちゅう)せんが為(ため)なり、いかんとなれば敵(てき)はその奸悪(かんあく)により人(ひと)を神(かみ)より遠(とお)ざけんと欲(ほっ)してこれをなせばなり。けだし彼(かれ)は人(ひと)を悪(あく)にみちびきて、思(おもい)を貶(おと)さしむるあたはざるときは、これに次(つい)でその霊智(れいち)をくらまさんが為(ため)に人(ひと)に憂(うれい)をかうむらしむることしばしばこれありて、その後(のち)彼(かれ)はもはや欲(ほっ)する所(ところ)を人(ひと)に種(ま)くことを得(え)んとす、されば彼(かれ)は漸々(ぜんぜん)左(さ)の如(ごと)き念慮(ねんりょ)をすすめ入(い)れ、且(かつ)誓(ちかい)を以(もつ)てこれを反復(はんぷく)せしめん、曰(いは)く『我(わ)れ善(ぜん)の為(ため)にたたかひはじめしより以来(いらい)悪日(あくじつ)を見(み)たり、されば余(よ)は善(ぜん)を来(きた)さんが為(ため)に悪(あく)をなさん』と。時(とき)にもし誰(たれ)か儆醒(けいせい)することなくんば、敵(てき)は此(これ)を以(もつ)ても悪(あく)にいざなふことあたはざるときは、人(ひと)に生活(せいかつ)のあらゆる便利(べんり)をあたへ、かれを驕(おご)らしめて、大(おおい)なるいざなひにみちびき入(い)れん、これすべての情慾(じょうよく)より更(さら)に危険(きけん)に更(さら)に悪(あく)なるものとなす、けだし人(ひと)を驕傲(きょうごう)なるものとなし、無智(むち)なる者(もの)となし、智識(ちしき)を慾(よく)の深淵(しんえん)にみちびきいれて、人(ひと)は天(てん)に向(むか)ひ謗瀆(ぼうとく)の口(くち)をひらくを為(な)せばなり、けだしいふあり『その口(くち)を天(てん)にあぐ』〔聖詠七十二の九〕、人(ひと)は神(かみ)を知(し)らず、己(おのれ)の弱(よわ)きをしらずして死(し)する日(ひ)の事(こと)をおもはざるにいたらんとす。此(こ)のいざなひはもろもろの悪(あく)に入(い)るの途(みち)とならん。誰(たれ)か此(こ)の途(みち)を行(ゆ)くを愛(あい)さば、死(し)の測(はか)るべからざる処(ところ)に至(いた)らん。これぞ主(しゅ)のいはゆる亡(ほろ)びにみちびくの途(みち)にして〔馬太(マトフェイ)七の十三〕寛(ひろ)くして大(おおい)なる途(みち)なり。視(み)よ、敵(てき)は時(とき)として生活(せいかつ)の便(べん)をおくり、又時(またとき)として憂(うれい)をみちびくは何故(なにゆえ)なるを汝(なんぢ)はきけり。彼(かれ)は人(ひと)に於(おい)てその心(こころ)の傾(かたぶ)きのいづれにあるを探知(たんち)し、己(おのれ)の不義(ふぎ)を以(もつ)て抵抗(ていこう)せんが為(ため)にこれに向(むかっ)て武備(そな)ふるなり。

故(ゆえ)に全(まった)く警戒(けいかい)して清醒(せいせい)なるべし、つねに勉強(べんきょう)して読(よ)むに専(もっぱ)らならんことをつとむべし、さらば彼(かれ)は当然(とうぜん)に汝(なんぢ)を教(おし)へて、敵(てき)の網(あみ)をさけ、永生(えいせい)に達(たっ)せしめん、何故(なにゆえ)なれば神(かみ)の書(しょ)をよむは、まよへる智識(ちしき)を集中(しゅうちゅう)して、神(かみ)を識(し)るをたまへばなり。けだし録(しる)されたり『汝(なんぢ)等(ら)とどまりてわれの神(かみ)たるを識(し)れ』〔聖詠四十五の十一〕。きよき心(こころ)を以(もつ)て神(かみ)の書(しょ)を読(よ)むに練習(れんしゅう)する者(もの)は神(かみ)を知(し)るの知識(ちしき)を得(う)る所以(ゆえん)を汝(なんぢ)はきけり。故(ゆえ)に己(おの)が霊魂(たましい)をなほざりにするなかれ、読(よ)むと、祈祷(きとう)とに練習(れんしゅう)せよ、汝(なんぢ)の智識(ちしき)の照(てら)されんが為(ため)なり、且(かつ)汝(なんぢ)は『まったく且(かつ)そなはりて欠(か)くる所(ところ)なきものとならんが為(ため)なり』〔イアコフ一の四〕。或者(あるもの)は大臣(だいじん)、太公(たいこう)又(また)は王(おう)と談話(だんわ)するを以(もつ)て自(みづ)から誇(ほこ)らん、されども汝(なんぢ)は神(かみ)の使(つかい)の前(まえ)に於(おい)て、聖書(せいしょ)により、聖神(せいしん)と談話(だんわ)するを以(もつ)て自(みづ)から誇(ほこ)るべし、いかんとなれば聖神(せいしん)は聖書(せいしょ)によりて語(かた)りたまへばなり、故(ゆえ)に神(かみ)の書(しょ)をよむをつとめ、常(つね)に祈祷(きとう)に止(とどま)るべし。けだしこれによりて神(かみ)と談話(だんわ)するごとに汝(なんぢ)の体(からだ)と霊(たましい)とは聖(せい)にせらるればなり。ゆえにこれを知(し)りてしきりにこれを練習(れんしゅう)せよ。もし手(て)に遑(いとま)なくんば心(こころ)にていのれ。預言者(よげんしゃ)サムイルの母(はは)、福(ふく)なるアンナもかくの如(ごと)くいのり、『彼(かれ)の口(くち)はうごくのみなりき』〔サムイル前一の十三〕。さりながら彼(かれ)の祈祷(きとう)は万軍(ばんぐん)の主(しゅ)の耳(みみ)にいりて、彼(かれ)にその願(ねがい)をあたへられたり〔二十七節〕。故(ゆえ)にたとへ汝(なんぢ)の手(て)は遑(いとま)あらずといへども、心(こころ)にて祈祷(きとう)せよ。然(さ)れども汝(なんぢ)はよむことを能(よ)くせずんば、彼(か)のききて益(えき)をうくべき処(ところ)よりはなるることなかれ、けだし録(しる)していへるあり『もし智者(ちしゃ)を見(み)ば、早朝(そうちょう)よりかれに至(いた)れ、汝(なんぢ)の足(あし)はその門(もん)の閾(しきみ)を摩耗(すりへら)すべし』〔シラフ六の三十六〕。これただ読(よ)むを能(よ)くせざる者(もの)に益(えき)あるのみならず、能(よ)くする者(もの)にも益(えき)あり、いかんとなれば多(おほ)くの人(ひと)は読(よ)むも、読(よ)む所(ところ)の何(なに)たるを知(し)らざればなり。

故(ゆえ)につつしめよ、ハリストスの賜(たまもの)によりて汝(なんぢ)にあたへられたる己(おのれ)の才能(さいのう)をおろそかにするなかれ。念々(ねんねん)心掛(こころが)けて、神(かみ)を喜(よろこ)ばすを得(う)べき所以(ゆえん)を尋(たず)ねよ、聖者(せいしゃ)の福(さいわい)をうけんが為(ため)なり。けだし録(しる)していへるあり、『彼(かれ)の啓示(けいじ)をまもり、心(こころ)をつくして彼(かれ)を尋(たず)ぬる者(もの)は福(さいわい)なり』〔聖詠百十八の二〕。慎(つつし)めよ、恐(おそ)らくは汝(なんぢ)読(よ)まんと欲(ほっ)する時(とき)、敵(てき)は汝(なんぢ)を遮(さえぎ)りて汝(なんぢ)を憂愁(ゆうしゅう)にみちびき、汝(なんぢ)を放心(ほうしん)におとしいれて左(さ)の如(ごと)くいはん、『これこれの事(こと)は大(だい)ならざるにより先(ま)づこれを為(な)せ、さらばその後(のち)安静(あんせい)の心(こころ)を以(もつ)てよむを得(え)ん』と。敵(てき)が此(この)事(こと)をひそかにいひふくめて、手業(てしごと)に熱心(ねっしん)を増(ま)さしむる時(とき)はこれを思(おもい)にみちびき入(い)れ、汝(なんぢ)をいざなふて読(よ)むを廃(はい)せしめんとす。けだし誰(たれ)か勉強(べんきょう)してよみ、これより益(えき)を引出(ひきいだ)さんとするを見(み)るときは、彼(かれ)はつとめて此(これ)らの託言(かこつけ)をもて妨(さまた)げてその者(もの)を襲(おそ)はんとす。ゆえに彼(かれ)を信(しん)ずるなかれ、渇(かつ)して水源(すいげん)につかんと欲(ほっ)する鹿(しか)の如(ごと)く、神(かみ)の書(しょ)につくべし、汝(なんぢ)これを飲(の)みて、情慾(じょうよく)にやかるる己(おのれ)の渇(かわき)をとどめんがためなり。

さりながら我(われ)はかくいはん、汝(なんぢ)はまた神(かみ)の書(しょ)より益(えき)をも吸(すい)取(と)り、主(しゅ)が汝(なんぢ)に読(よ)みて書中(しょちゅう)の或(ある)言(ことば)を悟(さと)るを賜(たま)ふときは、怱々(そうそう)に読(よみ)過(す)ぎず、己(おのれ)の智識(ちしき)を以(もつ)てうけ、これを己(おのれ)の心(こころ)に銘(きざ)みて、消滅(しょうめつ)しがたくこれを記憶(きおく)に蔵(おさ)むるを致(いた)すべし。蓋(けだし)しるしていふあり『汝(なんぢ)の稱義(しょうぎ)をまなぶ』〔聖詠百十八の十六〕、又(また)いふあり『少者(しょうしゃ)は何(なに)を以(もつ)て己(おのれ)の道(みち)を潔(きよ)く守(まも)るや、汝(なんぢ)の言(ことば)に循(したがつ)て己(おのれ)を修(おさ)むるを以(もつ)てす』〔同九〕、見(み)るべし人(ひと)は彼(かれ)の言(ことば)を記憶(きおく)するを以(もつ)て己(おのれ)の道(みち)を修(おさ)むるを。

誰(たれ)か神(かみ)の言(ことば)を記憶(きおく)して己(おのれ)の修(おさ)まらざる者(もの)ありや、これただ未熟(みじゅく)にしてあはれむべき人(ひと)なるのみ。さりながらかくの如(ごと)きものはまつたく何(なに)も記憶(きおく)せざるなり、かへつて彼(かれ)は己(おのれ)を記憶(きおく)する者(もの)と想(おも)ふことさへも忘(わす)れたるなり。此(かく)の如(ごと)き人(ひと)に神(かみ)はつげて『汝(なんぢ)なんすれぞ我(わ)が稱義(しょうぎ)をつたへ我(わ)が約(やく)を汝(なんぢ)の口(くち)に置(お)くか』〔聖詠四十九の十六〕といはん。故(ゆえ)にかれが自(みづ)から思(おも)ふ如(ごと)く己(おの)れに有(あ)る所(ところ)のものをも彼(かれ)より奪(うば)ふを命(めい)ずるなり、かくの如(ごと)き者(もの)は己(おのれ)を「ハリステアニン」と名(な)づくるにより己(おのれ)を信仰(しんこう)有(あ)るものと思(おも)ふ、さりながら実行(じっこう)を以(もつ)てこれを打(うち)消(け)すなり、さらば彼(かれ)は不信者(ふしんじゃ)よりあしし、故(ゆえ)に神(かみ)は彼(かれ)の自(みづ)から思(おも)ふ如(ごと)く救(すくい)の日(ひ)にうけて己(おの)れに有(あ)るところの聖神(せいしん)を彼(かれ)よりうばふを命(めい)ずるなり。さればかくの如(ごと)き人(ひと)は、酒(さけ)を盛(も)る土器(どき)に罅隙(すきま)の生(しょう)じ、これによりて酒(さけ)をうしなひしものに似(に)たるあり。およそこれを見(み)てその罅隙(すきま)の生(しょう)ぜしを知(し)らざる者(もの)は思(おも)へらく器(うつわ)は充(みち)満(み)てりと。然(さ)れども実地(じっち)を撿(けん)するに及(およ)びて、彼(かれ)の虚(むな)しきことは衆人(しゅうじん)に明(あきらか)ならん。かくの如(ごと)く此人(このひと)も、審判(しんぱん)の日(ひ)に於(おい)て、糺明(きゅうめい)の後(のち)、虚(むな)しきものとなりてあらはれん。その時彼(ときかれ)のいかなるものたりしことは衆人(しゅうじん)に明(あきらか)なるべし。かかる人々(ひとびと)は当日(とうじつ)王(おう)につげていはん『主(しゅ)よ、われら汝(なんぢ)の名(な)を以(もつ)て預言(よげん)し、汝(なんぢ)の名(な)を以(もつ)て衆多(あまた)の奇蹟(きせき)をおこなひしにあらずや』〔馬太(マトフェイ)七の二十二〕といはん。然(さ)れども王(おう)はかれらに答(こた)へていはん『誠(まこと)に汝(なんぢ)等(ら)に告(つ)ぐ、我(わ)れ汝(なんぢ)等(ら)を知(し)らず』と。

かくの如(ごと)き人(ひと)の全(まった)く何(なに)も有(も)たざるを見(み)るか。故(ゆえ)にきく所(ところ)の言(ことば)を記憶(きおく)して、己(おのれ)の道(みち)を修(おさ)むべし、つつしみて、天空(そら)の鳥(とり)に飛(と)んで神(かみ)の子(こ)の種子(たね)を啄(ついば)ましむるなかれ。けだし主(しゅ)は自(みづ)からいへり、『種子(たね)はきくところの言(ことば)なり』と〔ルカ八の十八〕。種子(たね)を地(ち)の中(うち)に蔵(おさ)めよ、汝(なんぢ)恐(おそ)れて主(しゅ)に果(み)をささぐるを得(え)んが為(ため)なり。さて汝(なんぢ)よむときは熱心(ねっしん)に勉強(べんきょう)して読(よ)むべし、大(おおい)に心(こころ)を用(もち)ひて句(く)毎(ごと)に注意(ちゅうい)すべし、ただ紙葉(しよう)をひるがへさんことをつとむるなかれ。されど必要(ひつよう)あるときは一句(いっく)を二度も三度も或(あるい)は幾度(いくど)となく反復(はんぷく)通読(つうどく)するを怠(おこた)るなかれ、その旨(むね)を理会(りかい)せんが為(ため)なり。

且(かつ)や汝(なんぢ)は座(ざ)してよみ、或(あるい)はよむをきく時(とき)は、まづ神(かみ)に祈(いの)りて、次(つぎ)の如(ごと)くいふべし、曰(いは)く主(しゅ)イイスス ハリストスや、我(わ)が心(こころ)の耳(みみ)と目(め)とをひらきたまへ、我(わ)れ汝(なんぢ)の言(ことば)をききて汝(なんぢ)の旨(むね)をおこなふを得(え)んが為(ため)なり、いかんとなれば『我(われ)は地(ち)にありて旅客(たびびと)なり、主(しゅ)よ、汝(なんぢ)の誡(いましめ)を我(われ)にかくすなかれ、我(わ)が目(め)をひらきたまへ、然(しか)らば我(わ)れ汝(なんぢ)の法中(おきてのうち)の奇蹟(きせき)を観(み)ん』〔聖詠百十八の十八、十九〕。けだし我(わ)が神(かみ)や、我(わ)れ汝(なんぢ)を望(のぞ)む、汝(なんぢ)我(わ)が心(こころ)を照(てら)さんが為(ため)なりと。

汝(なんぢ)に勧(すす)む、願(ねが)はくはつねにかくの如(ごと)く神(かみ)にいのらんことを、かれ汝(なんぢ)の智識(ちしき)をてらして、汝(なんぢ)にその言(ことば)の旨趣(ししゅ)をあらはさんが為(ため)なり、いかんとなれば多(おほ)くの者(もの)は己(おのれ)の理解(りかい)を頼(たの)みて、迷(まよい)にかかり、『自(みづ)から智(ち)と称(とな)へて愚魯(おろか)なる者(もの)となり』〔ローマ一の二十二〕、しるされし所(ところ)のものを了解(りょうかい)せず、悪(あく)におちいりて亡(ほろ)ぶればなり。故(ゆえ)に読(よ)む時(とき)は解(かい)し易(やす)からざる言(ことば)にあはば、注意(ちゅうい)せよ、悪者(あくしゃ)の汝(なんぢ)を教(おし)へて自(みづ)から次(つぎ)の如(ごと)くいはざらんが為(ため)なり、曰(いは)く『こはかくの如(ごと)くいはれしにはあらざらん、けだしかくの如(ごと)く言(い)ひ、或(あるい)はかやうなることをいひあらはすを得(え)んや』と。返(かえ)つて汝(なんぢ)は神(かみ)を信(しん)ずるならばその言(ことば)をも信(しん)ずべし。されば悪者(あくしゃ)につげて次(つぎ)の如(ごと)くいふべし、曰(いは)く『サタナ退(しりぞ)け。我(わ)れ知(し)る、神の言(ことば)は浄(きよ)き言(ことば)なり爐中(ろちゅう)にありて土(つち)よりきよめられ、七次(ななたび)練(ね)られたる銀(ぎん)なり』〔聖詠十一の七〕、『その中(うち)には虚偽(いつわり)と奸邪(よこしま)とあることなし、是(これ)みな智者(ちしゃ)の明(あきらか)にするところ、智識(ちしき)をうる者(もの)の正(ただ)しとする所(ところ)なり』〔箴言八の八〕、されども我(われ)は愚(ぐ)にして了解(りょうかい)せず、ゆえにわれ知(し)る、神(しん)にてしるされたるを。けだし使徒(しと)はいへり『律法(おきて)は神(しん)に属(ぞく)す』と〔ローマ七の十四〕、或(あるい)は又天(またてん)を仰(あお)ぎて次(つぎ)の如(ごと)くいふべし、曰(いは)く『主(しゅ)や、われ汝(なんぢ)の言(ことば)を信(しん)じてさからはず、我(われ)は聖神(せいしん)の言(ことば)を疑(うたがい)なく信(しん)ず。ゆえに主(しゅ)や、汝(なんぢ)は我(われ)をすくひ給(たま)へ、われ汝(なんぢ)の前(まえ)に恩寵(おんちょう)を得(え)んが為(ため)なり、然(しか)れども善心(ぜんしん)なる者(もの)や、我(われ)は一(いつ)の救(すくい)の外(ほか)何(なに)も他(た)に求(もと)めず、汝(なんぢ)のあはれみをうくるに堪(た)へんが為(ため)なり』と。