<< 祈祷の事。 >>
実に福なるは罪ををかさざるにあり、さりながら罪ををかす所の者にありては失望せずして、そのをかしたる事の為に泣き、涙を以て幸福を再び捉へ得るにあり。ゆえに主ののたまふ如く『恒に祈祷して倦まざる』〔ルカ十八の一〕は太だ美し。使徒もいへり『不断に祈祷すべし』〔ソルン前五の十八〕と。これいふ意は夜も昼もいづれの時にも祈祷せよとなり。ただ聖堂に入りし時のみならず、他の時にも此の心掛けをわするるなかれ、かへつて働かんか、寝ねんか、或は路にあらんか、或は食はんか、或は飲まんか、或は息まんか、祈祷をやむるなかれ、けだし汝の魂をもとむる者は何時来らんも知るべからざればなり。主日或は祭日をまつなかれ、場所の区別を為すなかれ、預言者太闢のいふがごとく、『一切治むる処に於て』祈祷せよ〔聖詠百二の二十二〕。故に汝は聖堂にあらんか、或は己の家にあらんか、或は田にあらんか、羊を牧せんか、建築を為さんか、宴会にあらんか、祈祷をすつるなかれ、能くする時には膝をかがめよ、さりながら能くせざる時には心にていのれ、晩にも朝にも又日中にも、もし祈祷をして事に先だたしめ、床より起きてその第一の動作を祈祷にささぐるならば、罪は霊魂に近づかざらん。祈祷は貞潔の為に預防方法なり、心の練習なり、ほこりを抑へ、うらみをのぞき、そねみの心を絶ち、不正を改むるなり。祈祷は身の強健なり、家の安全なり、市の整頓なり、国の勢力なり、戦時に於ては勝利の兆なり、平和の固めなり。祈祷は童貞の信印なり、婚配の信実なり、旅行者の武器なり、寝る者の番兵なり、醒むる者の希望なり、耕す者の豊饒なり、航海者の救助なり、祈祷は裁判せらるる者の保護者なり、禁錮せられたる者の撫恤なり、憂ふる者を慰め、喜ぶ者を楽ませ、哀む者をすすめはげますなり、生日に於ての祝賀なり、夫婦の栄冠なり、死者の埋葬なり。祈祷は神と談話するなり、天使と同尊なり、善に進み、悪を避くるなり、罪を犯す者を改心せしむるなり。祈祷はイオナの為に巨魚を家となさしめ、エゼキイを死の門より生にかへし、ワビロンに於て童子に火焔を露気に変ぜしめたり〔ダニイル三の五十ギリシヤ原文に依る〕。祈祷によりてイリヤは天をとざし『三年六ケ月雨ふらざらしめたり』〔イアコフ五の十七〕。兄弟や、祈祷のいかなる勢力あるを見よ。人の一生の間に祈祷よりたふとき他の宝はあるなし。されば決してこれより遠ざかるなかれ、決してこれをすつるなかれ、我らの主がいひし如く祈祷せん、我らの労はいたづらにならざるべし〔馬太六の六〕。