シリヤの聖エフレム教訓/第2講話

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第2講話[編集]

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じつさいわいなるはつみををかさざるにあり、さりながらつみををかすところものにありてはしつぼうせずして、そのをかしたることためき、なみだもつこうふくふたたとらるにあり。ゆえにしゅののたまふごとく『つねきとうしてまざる』〔ルカ十八の一〕ははなはし。しともいへり『ふだんきとうすべし』〔ソルン前五の十八〕と。これいふこころよるひるもいづれのときにもきとうせよとなり。ただせいどうりしときのみならず、ときにもこころがけをわするるなかれ、かへつてはたらかんか、ねんか、あるいみちにあらんか、あるいくらはんか、あるいまんか、あるいやすまんか、きとうをやむるなかれ、けだしなんぢたましいをもとむるものいつきたらんもるべからざればなり。しゅじつあるいさいじつをまつなかれ、ばしょくべつすなかれ、よげんしゃダワィドのいふがごとく、『すべておさむるところおいて』きとうせよ〔聖詠百二の二十二〕。ゆえなんぢせいどうにあらんか、あるいおのれいえにあらんか、あるいにあらんか、ひつじぼくせんか、けんちくさんか、えんかいにあらんか、きとうをすつるなかれ、くするとくにはひざをかがめよ、さりながらくせざるときにはこころにていのれ、ばんにもあさにもまたにっちゅうにも、もしきとうをしてことさきだたしめ、とこよりきてそのだいいちどうさきとうにささぐるならば、つみたましいちかづかざらん。きとうていけつためぼうほうほうなり、こころれんしゅうなり、ほこりをおさへ、うらみをのぞき、そねみのこころち、ふせいあらたむるなり。きとうきょうけんなり、いえあんぜんなり、まちせいとんなり、くにせいりょくなり、せんじおいてはしょうりしるしなり、へいわかためなり。きとうどうていしんいんなり、こんぱいしんじつなり、りょこうしゃぶきなり、いぬものばんぺいなり、むるものきぼうなり、たがやものほうにょうなり、こうかいしゃきゅうじょなり、きとうさいばんせらるるものほごしゃなり、きんこせられたるものぶじゅつなり、うれふるものなぐさめ、よろこものたのしませ、かなしものをすすめはげますなり、せいじつおいてのしゅくがなり、ふうふえいかんなり、ししゃまいそうなり。きとうかみだんわするなり、てんしどうそんなり、ぜんすすみ、あくくるなり、つみおかものかいしんせしむるなり。きとうイオナためきょぎょいえとなさしめ、エゼキイもんよりせいにかへし、ワビロンにおいどうじかえんつゆへんぜしめたり〔ダニイル三の五十ギリシヤ原文に依る〕。きとうによりてイリヤてんをとざし『三年六ケつきあめふらざらしめたり』〔イアコフ五の十七〕。きょうだいや、きとうのいかなるせいりょくあるをよ。ひといっしょうあいだきとうよりたふときたからはあるなし。さればけっしてこれよりとおざかるなかれ、けっしてこれをすつるなかれ、われらのしゅがいひしごときとうせん、われらのろうはいたづらにならざるべし〔マトフェイ六の六〕。