シリヤの聖イサアク全書/第四十八説教

提供:Wikisource

第48説教[編集]

<< 道徳どうとく各種かくしゅおよおよそみちかん >>


およみち完備かんび悔改かいかい浄潔じょうけつおのれ成全せいぜんするとにあり。悔改かいかいとはなんぞや、先非せんひててこれためかなしむなり。浄潔じょうけつとはなんぞや、簡短かんたんへばすべてぞうけたる万物ばんぶついつくしむのこころなり。おのれ成全せいぜんすとはなんぞや、謙遜けんそんふかきなり、すなはちすべてゆるものとえざるものゆるものとはすべて物体ぶったいぞくするものをひ、えざるものとは思想しそうぞくするものをいふ〉とそのもののためおもんばかるとをすつることなり。

他日たじつふたたはれけるは『悔改かいかいとはなんぞや』と、こたへてへり『くだけてへりくだこころなり』と。『謙遜けんそんとはなんぞや』とはれければこたへてへり『一切いっさいため死者ししゃごとくなる性状せいじょうあまんじておのれにけてこればいするなり』。『いつくしこころとはなんぞや』とはれければこたえてへり、『一切いっさい造物ぞうぶつため人々ひとびとため禽鳥きんちょうため獣類じゅうるいため魔鬼まきためおよ如何いかなる受造物じゅぞうぶつためにもひとこころゆるなり。かれらを想起そうきするにより、またこれ看望かんぼうするによりひとなみだながさん。こころ包容ほうようするおほいにしてつよ憐憫れんびんと、だいなる忍耐にんたいとにより、ひとこころやわらげられて受造物じゅぞうぶつくるところ如何いかなるがいをもしょうなるかなしみをも、あるいあるいるにふるあたはざるべし。ゆえ無言むごんなるものためにも、しんてきためにも、これがいものためにも毎々まいまいなみだもっ祈祷きとうをささげて、かれらのまもかつあわれまれんことをねがひ、また爬虫類はちゅうるいためにもおなじくだいなる憐憫れんびんもっいのり、その憐憫れんびんはその心中しんちゅうりょう喚起かんきせられてかみるにいたらん。』

また祈祷きとうとはなんぞや』とはれければ、つぎごとこたへり、『すべてこのところにあるものより自由じゆうづるなり、すなはちこころ未来みらいのぞところのものを願望がんぼうしてそのまったこれむかはしむるなり。しかれどもこれよりとおざかるものは、れその混合こんごうしたる種子たねものにして、かれうしうさぎうまとをともくびきつなものおなじかるべし』〔復傳律令ふくでんりつれい二十二の十〕。

また如何いかんしてひと謙遜けんそんもとむべきか』とはれければ、しもごとこたへり『つみ不断ふだん記憶きおくすると、ちかづくののぞみと、まづしき衣服いふくとをもっべし』。これもっかれいづれのときにも末座まつざえらぶべく、如何いかなる場合ばあいにもきわめて些細ささいなる賎業せんぎょうあまんじておのれにになひ、従順じゅうじゅんなるものとならず、不断ふだん沈黙ちんもくまもりて、集会しゅうかいづるをこのまず、ひとられずして、何事なにごとにもえらばれざるものとなりてそんせんことをねがひ、何物なにものをもおさへてとどめてみづから充分じゅうぶん指揮しきをなさず、おほくの人物じんぶつまじはるをきらひ、利益りえきこのまざるべし。しかのみならずそのこころ何等なにら人々ひとびと非謗ひぼう讒誣ざんぶよりもたかうえにあり、嫉妬しっとよりもうえにありて、その衆人しゅうじんりて衆人しゅうじんおのれにごとくなるひととならず、ひと寂地せきちりておのれぎょうつとめ、自己じこおもんばかるのほか何事なにごとをもみづからおもんばからざるべし。簡短かんたんこれへば旅行りょこう生活せいかつ赤貧せきひん寂地せきちとどまるとにるなり、よ、謙遜けんそんこれよりしょうじてこころきよめらるるなり。

完全かんぜんたっしたるもの徴候ちょうこうごとし、すなはち人々ひとびとあいするがためじゅうかいせらるるともかざらんこと、モイセイしゅひしごとくなるべし、いはく『もしかなはばかれらのつみゆるたまへ、しからずばなんぢがしるしたまへる書中しょちゅうよりりたまへ』〔しゅつ埃及エジプト記三十二の三十二〕。またふくなるパウェルごとくなるべし、いはく『わが兄弟けいていためにはみづからハリストスよりたれんことをもあるいねがふなり』〔ロマ九の三〕。またふあり、『いまわれなんぢら〔邦人ほうじん〕のためくるところくるしみよろこぶ』〔コロサイ一の二十四〕、使徒しとらも人々ひとびと生命せいめいあいするがため種々しゅじゅけたりき。

一切いっさいおわりこれかみしゅとにぶ。かれ人間にんげんあいするによりその十字架じゅうじかわたたまへり。けだしかみあいしてその独生どくせいたまため十字架じゅうじかわたたまへるは〔イオアン三の十六方法ほうほうもっわれらをあがなあたはざるによるにあらず、これもってその豊富ほうふなるあいわれらにおしへ、その独生どくせいもっわれらをかみちかづけんためなり。しかれどももしかれさら貴重きちょうなるものがありしならば、われ諸族しょぞくんがためにそのものをもわれらにあたたまひしならん。かれはそのだいなるあいによりわれらの自由じゆうしへたぐるをよろこたまはず、かれこれるにもかかはらず、われ自心じしんあいもっかれちかづかんことをよろこべり。さればハリストスみづからわれらをあいするにより、そのちち従順じゅうじゅんし、罵詈ばりかなしみとをよろこんでおのれにけしこと、聖書せいしょごとし、いはく『そのまえにあるよろこびにへてはずかしめとせず十字架じゅうじかしのたまへり』〔エウレイ十二の二〕、ゆえにしゅはそのわたさるるおいへり、いはく『これわれたいためあたへてせいせしむるものなり』〔ルカ二十二の十九〕、またへり、『これわれおほくのひとためながさるるものつみゆるしをるをいたす』〔マトフェイ二十六の二十八〕、またふ『われかれらのためおのれせいにす』〔イオアン十七の十九〕。ことごとくの聖人せいじん成全せいぜんなるものとなり、そのあいじんとを衆人しゅうじんそそぐをもっかみるときはまたかくのごとくにしてこの完全かんぜんたっす。諸聖人しょせいじんはこの徴候ちょうこう切願せつがんす、すなはち近者きんしゃあいするの完全かんぜんもっかみんことを切願せつがんす。われらが諸父しょふ修道士しゅうどうしらもこの完全かんぜんためわれらがしゅイイスス ハリストス生命せいめいたされて、つねこれんとするときは、またかくごとくに行為こういしたりき。つたふ、ふくなるアントニイ近者きんしゃためよりもかれ自身じしんためえきあることはけっして断行だんこうせずして、近者きんしゃ利益りえきかれため最良さいりょう業務ぎょうむたらんことをこいねがふと。これおなじくちちアカフォンことをもふあり、いはく『は、らいしゃたづね、かれよりそのたいりてかれおのれたいあたへんをねがふ』と。完全かんぜんなるあいるか。またかれ自身じしんほか何物なにものをか所有しょゆうするあいだは、れをもっ近者きんしゃやすんぜしめざるにふるあたはざりき。かれ小刀しょうとうあり、兄弟けいていきたりてこれんことをねがひけるに、ちち小刀しょうとうかれたしめずしてそのいおりよりいださざりき。そのかくのごと人々ひとびとことしるしたるものもこれ同様どうようなり。しかれどもなんふにらん。かれらのおほくは近者きんしゃためおのれたい猛獣もうじゅうつるぎと、とにわたしたりき。もし自己じこ希望きぼうひそかにかんずるあらずんば、たれあい階段かいだんのぼあたはざるべし。ゆえにこのあいするもの人々ひとびとたいするあいあたはざるべし。たれあいるならば、かみそのものをるなり。しかしてかみたるものかならかみとも何物なにものをもんことをがえんぜざるのみならず、おのれたいをもざるべし。もしたれあいするをもっこのこの生命いのちとをるならば、これてざるあいだかみざるべし。けだしかみみづから此事このこと証明しょうめいす、いはく『もしたれ一切いっさいてず、おのれ生命いのちをもにくまずば、わが門徒もんととなるあたはず』と〔ルカ十四の二十六〕。ただにこれつるのみならず、これにくまむこと肝要かんようなり。これはんしてたれしゅ門徒もんととなるあたはずんば、如何いかんしてしゅかれやどたまはんや。

問 希望きぼうはかくのごとにして、希望きぼう生涯しょうがいとその行為こういとはやすく、かつその行為こういすみやか心中しんちゅう成就じょうじゅするは何故なにゆえなるか。

答 此時このとき聖者せいしゃ心中しんちゅう天然てんねん欲望よくぼうおこり、かれらにこのさかづきましめて、かれらをはしむるによる。ゆえにかれらはもはや労苦ろうくかんぜずして、患難かんなんため感覚かんかくとなり、すべて進行しんこうつづくるあいだおいかれらはおもふなるべし、進行しんこう空気くうきりてり、人間にんげんあしもってせずと、けだしみち艱難かんなんかれらのためえずして、かれらのまえには丘陵きゅうりょうもなく、急流きゅうりゅうもなくみち崎嶇きくたいらげられん云々うんぬんイサイヤ四十の四〕、しかして毎時まいじ毎刻まいこくその注意ちゅういちちふところむかはしむるによる、さればその希望きぼうかれらにとおへだたりてえざるものをも瞬間しゅうかん指示さししめごとく、神秘しんぴなる信仰しんこうもっじゅくするものこれ察知さっちせしむるにたり、けだし遼遠りょうえんなるものをのぞ希望きぼうため心霊しんれい部分ぶぶんことごとかるることもってするがごとく、らざるところのものもかれらのためには現在げんざいするものとなるなり。かれらはその思念しねんまった彼処かしこひきばして、つね彼処かしこたっするにきゅうなり、しかして道徳どうとくすにちかづくや、ひとつのためろうせず、ことごとくの道徳どうとく総合そうごうしていちまったこれす、なんとなればこれらのじんはその進行しんこうすに人々ひとびとごとたいらずして、みづから捷径しょうけいえらぶによる、著名ちょめいなるものらのすみやか住所じゅうしょたっする所以ゆえんなり。この希望きぼうかれらをくことごとし、さればかれらはいそぎてまざる進行しんこう休息きゅうそくあたふるあたはずして、よろこんでこれす。イエレミヤところのものはかれらにもこれあらん、いはく『かれ想起そうきせず、またかれによりてはず、しかるにこころにありてゆるごとほねとおる』〔イエレミヤ二十の九かみわすれざる記憶きおくかみ約束やくそくのぞ希望きぼうためはしめらるるかれらの心中しんちゅうかくごと活動かつどうす。

道徳どうとく捷径しょうけい近親的きんしんてき道徳どうとくなり、なんとなればこうけいよりおつけいいた生涯しょうがいおほくの経路けいろあいだにはだいなる距離きょりあらず、場所ばしょ時間じかんようせず、浪費ろうひゆるさず、ただちにこと着手ちゃくしゅしてこれを成就じょうじゅすればなり。

問 人間にんげんよくとはなんぞや。

答 よくとはただよくかんぜざるのみにあるにあらず、これおのれにけざるにあり。諸聖人しょせいじんたるところかくあらはれたる許多きょた各種かくしゅ道徳どうとくり、よくかれらに衰弱すいじゃくして、たやすくおこあたはず。よく関係かんけいして不断ふだん注意ちゅういするの必要ひつようあらざるべし、なんとなれば卓越たくえつなる品行ひんこうことおもかつだんするにより、自覚じかくともしたがひて惹起じゃっきせらるる思想しそうもっいづれのときたさるればなり。さればよくおこるや、理会りかいのぞむによりよくしたしむよりただちにうばらるべくして、ふくなるマルクひしごとよく閑散かんさんにしてきもののごとそんせん。

かみ恩寵おんちょうにより道徳的どうとくてき練習れんしゅうたされつつ知識ちしき接近せっきんするにより、霊魂れいこん陋劣ろうれつどんなる部分ぶぶんぞくするものをかんずること尠少せんしょうなり。けだし知識ちしきかれたかきにとりりて、すべてにあるところのものよりとおざくるによる。ゆえに聖者せいしゃ無玷むてんなると、その機微きびんなると、うつやすきと、鋭敏えいびんなるとにるも、またその苦行くぎょうるも、かれらがきよめられて、その肉体にくたいるるにより清明せいめいなるものとなるなり。しかしてかれらは黙想もくそう練習れんしゅうし、これひさしくとどまるにり、おのおの内部ないぶ直覚ちょっかくたやすくかつすみやかあたへらるるべくして、その直覚ちょっかくするところのものはかれらをおどろかさん。これかれらは居常きょじょう直覚ちょっかくみて、その理解りかいするところものけっして不足ふそくせざるべく、また霊果れいかさんするところのものもけっしてくんばあらざるなり。心中しんちゅうよく喚起かんきせらるべき記憶きおくながあいだ習慣しゅうかんもって、かれらの心中しんちゅうよりぬぐらるべくして、魔鬼まき権力けんりょくおとろへん。けだし霊魂れいこんよくおもふてこれしたしむをさざるときは、掛念けねんため占有せんゆうせらるるにより、よくちから霊的れいてき感覚かんかくをそのつめくることあたはざるべし。

問 謙遜けんそん特質とくしつ如何いかなるか。

答 それ自負じふ霊魂れいこんをその妄想もうそうにより敗壊はいかいし、これたかきにもちりて、これにより霊魂れいこんんで思念しねんくもるをささへざらん。りて霊魂れいこんはすべての造物ぞうぶつしたがひて旋転せんてんす。かくのごと謙遜けんそん黙想もくそうもっ霊魂れいこん一所いっしょまとめて、霊魂れいこん自己じこ集中しゅうちゅうするなり。霊魂れいこん肉体にくたいにてはみとめられず、られざるごとく、謙遜けんそんなるもの人中じんちゅうみとめられざるなり。また霊魂れいこん身体しんたい内部ないぶかくれてえず、すべてのひとまじはらざるごとく、じつ謙遜けんそんなるひと衆人しゅうじんよりはなれ、すべてに欠如けつじょするがゆえに、人々ひとびとらるるとらるるとをねがはざるのみならず、そののぞみはごとくなるべし、すなはちくするならば自己じこ内部ないぶ埋没まいぼつし、黙想もくそうりて、これとどまり、その従前じゅうぜん思想しそう感情かんじょうとをすべてまったてて、あたか造物ぞうぶつうちらざるものごとくなると、いまかつ存在そんざいせざるものごとくなると、おの霊魂れいこんにさへもまったられざるものごとくならんをねがふ。ゆえにかくのごとひとみづからひそかかくれ、おのれとざして、はなるるあいだまった主宰しゅさいかたわらにらん。

謙遜けんそんなるもの節制せっせいおこるべき集会しゅうかいと、人々ひとびと集合しゅうごう騒擾そうじょう喧騒けんそう遊歩ゆうほ周旋しゅうせんまた娯楽ごらくなどを一見いっけんするも、けっしてこれささへられざるべく言語げんご談話だんわ喚呼かんこおよ排欝はいうつには注意ちゅういけざるべし。これはん独居どくきょしてすべてのひととおざかり、寂寞せきばくたるりて自己じこため配慮はいりょしつつ、黙想もくそうもっ衆人しゅうじん絶縁ぜつえんするをもっともあいするなり。すべてを縮少しゅくしょうすると、所求しょきゅう欠乏けつぼう赤貧せきひんとはかれためおほいほっするところなり。かれためねがはしきはおのれにおほくのことゆうして、間断かんだんなく動作どうさするにあるにはあらずして、いづれのときにも自由じゆうにしてそんして、掛念けねんゆうせず、こののことにみだされず、かくのごとくしてその思念しねんほかいださざるにあり。けだしおほくのことたちるならば、思念しねんみださずしてあたはざるべきをかれ信認しんにんす、なんとなればおほくの行為こういにはおほくの掛慮けいりょおほくの複雑ふくざつなる思念しねん集合しゅうごうするあり、ゆえにひともっともべからざる些少さしょう必要ひつようのぞくのほか思念しねん平安へいあんもっことごと世慮せいりょほかるのこと最早もはやむべくして、きわめて善良ぜんりょうなる思念しねんもっ只管ひたすら配慮はいりょする思想しそうをば放下ほうかせん。しかしてその要求ようきゅうひときわめて善良ぜんりょうなる思念しねんさえぎりてまざるときは、ひとかつしのかつがいする状態じょうたいにあらん。すなはちこのときよりよくためもんひらけて、しずかに思慮しりょすることはとおざかり、謙遜けんそん逃亡とうぼうして、平和へいわもんざさるるなり。のすべてののち謙遜けんそんなるものはすべての多事たじよりおのれ不断ふだん保護ほごす、そのときかれいづれのときにも寧静ねいせい安息あんそく平和へいわ温柔おんじゅう恭敬きょうけいとにるをみとめられん。

謙遜けんそんなるものには性急せいきゅうも、祖卒そそつも、擾乱じょうらんも、短気たんきにして軽浮けいふなるおもひもけっしてあらずして、いづれのときにもかれ平安へいあんる。もしてんせっすることありとも、謙遜けんそんなるものおどろかざるべし。すべての沈黙者ちんもくしゃ謙遜けんそんなるものあらず、されどすべての謙遜けんそんなるもの沈黙者ちんもくしゃなり。謙遜けんそんならざるものおのれせっせず、しかれどもおのれせっするの謙遜者けんそんしゃおほるべし。温柔おんじゅうにして謙遜けんそんなるしゅたまひしものはまたこれ意味いみす。いはく、『われ温柔おんじゅうにして謙遜けんそんなればわれまなべ、なんぢらはそのたましひ安息あんそくん』〔マトフェイ十一の二十九謙遜けんそんなるものいづれのときにも平安へいあんる、なんとなればかれこころ揺撼ようかんあるいおどろかすものあらざればなり。何人なんびとやまおそらすことあたはざるごとく、かれこころおそれざるなり。ゆえにもしべくんば、〈けだしふは適当てきとうにあらざるべし〉謙遜けんそんなるものはこのぞくせずといふべし、〔イオアン八の二十三なんとなればかなしみにもおそれず、へんせず、またたのしみにもおどろかず、おごらずして、そのすべてのたのしみまことよろこびとは主宰しゅさいてきするものなるによる。謙遜けんそんには温柔おんじゅう自己じこ集中しゅうちゅうするとをともなふ。すなはち感覚かんかく浄潔じょうけつ聲音せいおん諧調かいちょうと、寡言かげんと、おのれに菲薄ひはくなると、まづしき衣服いふくと、倨傲きょごうならざる遊歩ゆうほと、したるると、慈悲じひぬきんずると、なみだただちにくだると、しずかなるれいと、くだけたるこころと、いかりをうつさざると、官能かんのう濫用らんようせざると、所有物しょゆうぶつすくなうすると、すべての需要じゅようげんずると、すべてを堪忍かんにんすると、忍耐にんたいと、おそれざると、いち生活せいかつにくむよりしょうずるこころ堅固けんごと、試惑しわく忍耐にんたいすると、おもくしてかろからざる意思いしと、雑念ざつねんすと、貞潔ていけつ奥密おうみつまもると、羞恥しゅうちと、恭敬きょうけいとをともなふべく、かつのすべてのほか不断ふだん沈黙ちんもくするとつねおのれ無知むちうつたふるとをともなふなり。

謙遜けんそんなるものにはかれ擾動じょうどう撹乱かくらんせしめんとする切迫せっぱくなることけっしてあらず、謙遜けんそんなるものかみ祈願きがんすることをも、あるい祈祷きとう着手ちゃくしゅするや祈祷きとうたまはることをも、あるい何物なにものをかねがふことをもあえてせずしてなに祈祷きとうするをもらざるにあり、ただかれはそのおもて俯伏ふふくするやその崇拝そうはいするところ尊厳者そんげんしゃおもてよりかれためづるひとつあわれみとめぐみとをち、ことごとくの思念しねん緘黙かんもくして、そのこころ内部ないぶ至聖所しせいしょ讃美さんびもんのぼせらるるなり、彼処かしこさと冥闇めいあんにして、そのまえにはセラフィムふさがり、その仁惠じんけい軍隊レギオンはげましその祝讃しゅくさんたしめて、かれらのことごとくの品位ひんいもくせしめん。しかしてただごとふをあえてせん、いはく『ねがはくはしゅなんぢむねごとくにらん』と、われらも自己じこことかれおなじくはん。「アミン」。