<< 道徳の各種、及び凡の道の完備 >>
凡そ道の完備は悔改と浄潔と己を成全するとにあり。悔改とは何ぞや、先非を棄てて之が為に哀むなり。浄潔とは何ぞや、簡短に言へばすべて造を受けたる万物を慈むの心なり。己を成全すとは何ぞや、謙遜の深きなり、即すべて見ゆるものと見えざるもの〈見ゆるものとはすべて物体に属するものを言ひ、見えざるものとは思想に属するものをいふ〉とそのものの為に慮るとを棄ることなり。
他日再び問はれけるは『悔改とは何ぞや』と、答へて言へり『砕けて謙る心なり』と。『謙遜とは何ぞや』と問はれければ答へて言へり『一切の為に死者の如くなる性状を甘んじて己れに受けて之を倍するなり』。『慈む心とは何ぞや』と問はれければ答えて言へり、『一切の造物の為、人々の為、禽鳥の為、獣類の為、魔鬼の為、及び如何なる受造物の為にも人の心の燃ゆるなり。彼らを想起するにより、又は之を看望するにより人の目は涙を流さん。心を包容する大にして強き憐憫と、大なる忍耐とにより、人の心は和らげられて受造物が受くる所の如何なる害をも小なる哀みをも、或は聞き或は見るに堪ふる能はざるべし。故に無言なる者の為にも、真理の敵の為にも、之に害を為す者の為にも毎々涙を以て祈祷をささげて、彼らの守り且憐まれんことを願ひ、又爬虫類の為にも同じく大なる憐憫を以て祈り、その憐憫はその心中に無量に喚起せられて神に似るに至らん。』
又『祈祷とは何ぞや』と問はれければ、次の如く答へり、『すべて此処にあるものより自由を得て智を閉づるなり、即心は未来に望む所のものを願望してその眼を全く之に向はしむるなり。しかれども此より遠ざかる者は、是れその田に混合したる種子を種く者にして、彼は牛と驢とを共に軛に繋ぐ者と同じかるべし』〔復傳律令二十二の十〕。
又『如何して人は謙遜を求むべきか』と問はれければ、下の如く答へり『罪を不断に記憶すると、死に近づくの望みと、貧しき衣服とを以て得べし』。之を以て彼は何れの時にも末座を擇ぶべく、如何なる場合にも極めて些細なる賎業を甘んじて己れに任ひ、不従順なる者とならず、不断に沈黙を守りて、集会に出づるを好まず、人に知られずして、何事にも選ばれざる者となりて存せんことを願ひ、何物をも制へて止めて自から充分の指揮をなさず、多くの人物と交はるを嫌ひ、利益を好まざるべし。然のみならずその心は何等の人々の非謗讒誣よりも高く上にあり、嫉妬よりも上にありて、その手は衆人に在りて衆人の手は己れに在る如くなる人とならず、独り寂地に在りて己の業を務め、自己を慮るの外世の何事をも自から慮らざるべし。簡短に之を言へば旅行の生活と赤貧と寂地に止まるとに在るなり、視よ、謙遜は是より生じて心は浄めらるるなり。
完全に達したる者の徴候は左の如し、即人々を愛するが為に日に十回火に付せらるるとも厭かざらんこと、モイセイの主に言ひし如くなるべし、曰く『もしかなはば彼らの罪を赦し給へ、然らずば汝がしるしたまへる書中より吾が名を抹し去りたまへ』〔出埃及記三十二の三十二〕。又福なるパウェルの言ふ如くなるべし、曰く『わが兄弟の為には自からハリストスより絶たれんことをも或は願ふなり』〔ロマ九の三〕。又言ふあり、『今我は汝ら〔異邦人〕の為に受くる所の苦を喜ぶ』〔コロサイ一の二十四〕、他の使徒らも人々の生命を愛するが為に種々の死を受けたりき。
此の一切の終は之を神と主とに統ぶ。彼は人間を愛するによりその子を十字架の死に付し給へり。けだし神が世を愛してその独生の子を賜ひ世の為に十字架の死に付し給へるは〔イオアン三の十六〕他の方法を以て我らを贖ふ能はざるによるに非ず、之を以てその豊富なる愛を我らに教へ、その独生の子の死を以て我らを神に近づけん為なり。しかれどももし彼に更に貴重なるものがありしならば、我ら諸族を得んが為にそのものをも我らに與へ給ひしならん。彼はその大なる愛により我らの自由を虐ぐるを喜び給はず、彼は之を為し得るにも拘はらず、我ら自心の愛を以て彼に近づかんことを喜べり。さればハリストスは自から我らを愛するにより、その父に従順し、罵詈と哀みとを喜んで己れに受けしこと、聖書に言ふ如し、曰く『その前にある喜びに易へて辱を意とせず十字架を忍び給へり』〔エウレイ十二の二〕、ゆえに主はその付さるる夜に於て言へり、曰く『是我の體世の為に與へて生を得せしむる者なり』〔ルカ二十二の十九〕、又言へり、『是れ我の血、衆くの人の為に流さるる者罪の赦しを得るを致す』〔マトフェイ二十六の二十八〕、又言ふ『我彼らの為に己を聖にす』〔イオアン十七の十九〕。悉くの聖人も成全なる者となり、その愛と仁慈とを衆人に注ぐを以て神に似るときは亦かくの如くにしてこの完全に達す。諸聖人はこの徴候を切願す、即近者を愛するの完全を以て神に似んことを切願す。我らが諸父と修道士らも此完全の為に我らが主イイスス ハリストスの生命に充たされて、常に之に似んとするときは、亦此の如くに行為したりき。伝へ言ふ、福なるアントニイは近者の為よりも彼自身の為に益あることは決して断行せずして、近者の利益が彼の為に最良の業務たらんことを希ふと。之と同じく父アカフォンの事をも言ふあり、曰く『余は、らい者を尋ね、彼よりその体を取りて彼に己の体を與へんを願ふ』と。完全なる愛を見るか。又彼は自身の外何物をか所有する間は、此れを以て近者を安んぜしめざるに堪ふる能はざりき。彼に小刀あり、兄弟来りて之を得んことを願ひけるに、父は此の小刀を彼に持たしめずしてその庵より出さざりき。その他かくの如き人々の事を書したるものも之と同様なり。然れども是れ何ぞ言ふに足らん。彼らの多くは近者の為に己の体を猛獣と剣と、火とに付したりき。もし自己の希望を窃かに感ずるあらずんば、誰も此の愛の階段に昇る能はざるべし。ゆえに此世を愛する者は人々に対する愛を得る能はざるべし。誰か愛を得るならば、神そのものを衣るなり。然して神を得たる者は必ず神と共に他の何物をも得んことを肯んぜざるのみならず、己の体をも衣ざるべし。もし誰か世を愛するを以て此世と此生命とを衣るならば、之を棄てざる間は神を衣ざるべし。けだし神は自から此事を証明す、曰く『もし誰か一切を棄てず、己の生命をも憎まずば、わが門徒となる能はず』と〔ルカ十四の二十六〕。ただに之を棄つるのみならず、之を憎まむこと肝要なり。之に反して誰か主の門徒となる能はずんば、如何して主は彼に寓り給はんや。
問 希望はかくの如く美にして、希望の生涯とその行為とは易く、且その行為は速に心中に成就するは何故なるか。
答 此時聖者の心中に天然の欲望起り、彼らに此杯を飲ましめて、彼らを酔はしむるによる。ゆえに彼らはもはや労苦を感ぜずして、患難の為に無感覚となり、すべて進行を続くる間に於て彼らは思ふなるべし、進行は空気に依りて成り、人間の足を以てせずと、けだし路の艱難は彼らの為に見えずして、彼らの前には丘陵もなく、急流もなく路の崎嶇は坦げられん云々〔イサイヤ四十の四〕、而して毎時毎刻その注意を父の懐に向はしむるによる、さればその希望は彼らに遠く隔たりて見えざるものをも瞬間に指示す如く、神秘なる信仰の眼を以て熟視する者に之を察知せしむるに似たり、けだし遼遠なるものを望む希望の為に心霊の部分を悉く焼かるること火を以てするが如く、在らざる所のものも彼らの為には現在するものとなるなり。彼らはその思念を全く彼処に引伸ばして、常に彼処に達するに急なり、而して或る道徳を成すに近づくや、彼れ一つの為に労せず、悉くの道徳を総合して一時に全く之を成す、何となれば此らの偉人はその進行を成すに他の人々の如く大路に由らずして、自から捷径を選ぶによる、是れ或る著名なる者らの速に住所に達する所以なり。此希望は彼らを焼くこと火の如し、されば彼らは急ぎて已まざる進行に休息を與ふる能はずして、喜んで之を成す。イエレミヤが言ふ所のものは彼らにも之あらん、曰く『我れ彼の名を想起せず、又彼の名によりて言はず、然るに我が心にありて燃ゆる火の如く我が骨に透る』〔イエレミヤ二十の九〕神を忘れざる記憶は神の約束を望む希望の為に酔はしめらるる彼らの心中に此の如く活動す。
道徳の捷径は近親的道徳なり、何となれば甲の径より乙の径に至る生涯の多くの経路の間には大なる距離あらず、場所も時間も要せず、浪費も許さず、直ちに事に着手してこれを成就すればなり。
問 人間の無慾とは何ぞや。
答 無慾とはただ慾を感ぜざるのみにあるに非ず、之を己れに受けざるにあり。諸聖人が得たる所の隠れ現はれたる許多各種の道徳に因り、慾は彼らに衰弱して、易すく起る能はず。智は慾に関係して不断注意するの必要あらざるべし、何となれば卓越なる品行の事を思ひ且談するにより、自覚と共に理に循ひて惹起せらるる思想を以て何れの時も満たさるればなり。されば慾の起るや、智は或る理会の臨むにより慾と親しむより直ちに奪ひ去らるべくして、福なるマルクの言ひし如く慾は閑散にして為す無きものの如く存せん。
智は神の恩寵により道徳的練習に満たされつつ知識に接近するにより、霊魂の陋劣愚鈍なる部分に属するものを感ずること尠少なり。けだし知識は彼を高きに取去りて、すべて世にある所のものより遠ざくるによる。ゆえに聖者の無玷なると、その智の機微なると、移し易きと、鋭敏なるとに因るも、又その苦行に因るも、彼らが智は潔められて、その肉体の枯るるにより清明なるものとなるなり。而して彼らは黙想に練習し、之に久しく止まるに因り、おのおの内部の直覚を易すく且速に與へらるるべくして、その直覚する所のものは彼らを驚かさん。之に由り彼らは居常直覚に富みて、その智は理解する所の物に決して不足せざるべく、又霊果を産する所のものも決して無くんばあらざるなり。心中に慾を喚起せらるべき記憶は長き間の習慣を以て、彼らの心中より拭ひ去らるべくして、魔鬼の権力は衰へん。けだし霊魂は慾を思ふて之と親しむを為さざる時は、他の掛念の為に占有せらるるにより、慾の力は霊的感覚をその爪に鉤くること能はざるべし。
問 謙遜の特質は如何なるか。
答 それ自負は霊魂をその妄想により敗壊し、之を高きに持去りて、之により霊魂が飛んで思念の雲に入るを礎へざらん。因りて霊魂はすべての造物に循ひて旋転す。かくの如く謙遜も黙想を以て霊魂を一所に纏めて、霊魂は自己に集中するなり。霊魂は肉体の目にては認められず、見られざる如く、謙遜なる者も人中に認められざるなり。又霊魂は身体の内部に隠れて見えず、すべての人と交はらざる如く、実に謙遜なる人も衆人より離れ、すべてに欠如するが故に、人々に見らるると知らるるとを願はざるのみならず、その望みは左の如くなるべし、即能くするならば自己の内部に埋没し、黙想に入りて、之に止り、その従前の思想と感情とをすべて全く棄てて、恰も造物の中に居らざる者の如くなると、未だ嘗て存在せざる者の如くなると、己が霊魂にさへも全く知られざる者の如くならんを願ふ。ゆえにかくの如き人は自から密に隠れ、己を閉して、世と離るる間は全く主宰の傍らに居らん。
謙遜なる者は不節制の起るべき集会と、人々の集合、騒擾、喧騒、遊歩、周旋又は娯楽などを一見するも、決して之に礎へられざるべく言語、談話、喚呼及び排欝には注意を向けざるべし。之に反し独居してすべての人に遠ざかり、寂寞たる地に在りて自己の為に配慮しつつ、黙想を以て衆人と絶縁するを最愛するなり。すべてを縮少すると、無所求と欠乏と赤貧とは彼の為に大に欲する所なり。彼の為に願はしきは己れに多くの事を有して、間断なく動作するにあるには非ずして、何れの時にも自由にして存して、掛念を有せず、此世のことに擾されず、かくの如くしてその思念を外に出さざるにあり。けだし多くの事に立入るならば、思念を擾さずして居る能はざるべきを彼は信認す、何となれば多くの行為には多くの掛慮と多くの複雑なる思念の集合するあり、ゆえに人は最欠く可らざる些少の必要を除くの外、思念の平安を以て悉く世慮の外に在るの事は最早止むべくして、極めて善良なる思念を以て只管に配慮する思想をば放下せん。然してその要求が人の極めて善良なる思念を遮りて已まざるときは、人は且忍び且害する状態にあらん。即是時より慾の為に門は開けて、静かに思慮することは遠ざかり、謙遜は逃亡して、平和の門は閉ざさるるなり。此のすべての後に謙遜なる者はすべての多事より己を不断保護す、その時は彼は何れの時にも寧静と安息と平和と温柔と恭敬とに居るを認められん。
謙遜なる者には性急も、祖卒も、擾乱も、短気にして軽浮なる思ひも決してあらずして、何れの時にも彼は平安に居る。もし天の地に接することありとも、謙遜なる者は驚かざるべし。凡ての沈黙者は謙遜なる者に非ず、されど凡ての謙遜なる者は沈黙者なり。謙遜ならざる者は己を節せず、然れども己を節するの不謙遜者を多く見るべし。温柔にして謙遜なる主の言ひ給ひしものは亦此を意味す。曰く、『我は温柔にして謙遜なれば我に学べ、汝らはその霊に安息を獲ん』〔マトフェイ十一の二十九〕謙遜なる者は何れの時にも平安に居る、何となれば彼の心を揺撼し或は驚かすものあらざればなり。何人も山を恐らすこと能はざる如く、彼の心も畏れざるなり。ゆえにもし言ひ得べくんば、〈けだし此く言ふは不適当にあらざるべし〉謙遜なる者はこの世に属せずといふべし、〔イオアン八の二十三〕何となれば哀みにも恐れず、変せず、又楽みにも驚かず、驕らずして、そのすべての楽と真の喜びとは主宰の意に適するものなるによる。謙遜には温柔と自己に集中するとを伴ふ。即感覚の浄潔と聲音の諧調と、寡言と、己れに菲薄なると、貧しき衣服と、倨傲ならざる遊歩と、目を下に垂るると、慈悲に抽んずると、涙の直ちに下ると、静かなる霊と、砕けたる心と、怒りを遷さざると、官能を濫用せざると、所有物を少うすると、すべての需要を減ずると、すべてを堪忍すると、忍耐と、恐れざると、一時の生活を憎むより生ずる心の堅固と、試惑を忍耐すると、重くして軽からざる意思と、雑念を消すと、貞潔の奥密を守ると、羞恥と、恭敬とを伴ふべく、且此のすべての外不断に沈黙すると常に己の無知を訴ふるとを伴ふなり。
謙遜なる者には彼を擾動撹乱せしめんとする切迫なる事は決してあらず、謙遜なる者は神に祈願することをも、或は祈祷に着手するや祈祷を賜はることをも、或は他の何物をか願ふことをも敢てせずして何を祈祷するをも知らざるにあり、ただ彼はその面を地に俯伏するやその崇拝する所の尊厳者の面より彼の為に出づる一の憐みと惠みとを待ち、悉くの思念を緘黙して、その心の内部の眼は至聖所の讃美の門に昇せらるるなり、彼処の里は冥闇にして、その前にはセラフィムの目も塞がり、その仁惠は軍隊を励ましその祝讃に立たしめて、彼らの悉くの品位を黙せしめん。而してただ左の如く言ふを敢てせん、曰く『願はくは主よ汝の旨の如くに成らん』と、我らも自己の事を彼と同じく言はん。「アミン」。