<< 此の章の意義及び祈祷の事。 >>
簡短に顕はせる此章の意は左の如し、我らは此の二十四時間の中、昼も夜も悔改に必要を有するを時々記憶せんを要すること是なり。悔改といふ言の意味は例へば我らは物を真実の性質により確知する如く、悔改も既往の罪を赦されん為、悔悟の念に充ち満てる祈祷を以て神に近づく弱らざる請願と、将来を守るが為の悲哀とにあり。故に我らの主も我らが薄弱の為にその支柱を祈祷に於て示し給へり、曰く『儆醒せよ祈祷せよ誘惑に入らざらんが為なり』〔マトフェイ二十六の四十一〕。祈祷せよ、怠慢なるなかれ、如何なる時にも『儆醒し且感謝せよ』〔コロサイ四の二、三〕、『求めよ、然らば得ん、尋ねよ、然らば遇はん、門を叩けよ、然らば汝らの為に啓かれん、けだし凡そ求むる者は得、尋ぬる者は遇ひ、門を叩く者には啓かれん』〔マトフェイ七の七、八〕。然して殊にその言を証定するが為に夜半来りて餅を求めたる友の喩を以て我らを大なる勉励に進ましめ給へり、主は言へり誠に『汝らに語ぐ、彼は友なるが故に起きて彼に與へざるも、その切迫に依りて、需むる如く彼に與へん』〔ルカ十一の八〕故に汝ら祈祷せよ、怠慢なるなかれと。吁勇気の為に得も言はれざる何等の奨励なるや。施与者が我らを勉励して求めしむるは、神聖なる賜を我らに與へんが為なり。それ彼は彼らの為に慈恵なるものをば、その自から知る如く、すべて摂理し給ふならば、彼の此言は我らを勇気と希望とに励ます為に大なる力を満たさるるなり。けだし主は背離の出来得べきことを死する以前に我らより奪はずして、徳行より邪悪に移るべき此変化は我らに甚だ近くして人と人の性は反対なるものを自己に受け易きを知るにより、不断祈祷に勉励して奮闘すべきを命じ給へり。もしも此世に保証の国のあるならば、人の此国に達するや、その性は是時直ちに要求より上にあるべく、その為す所も畏懼より上にあるべく、而して神はその照管を以て之を遂げしめて、祈祷に奮闘すべきことは命じ給はざりしならん。けだし来世に於ては或事の請願を以て神に祈祷を献げざるべければなり。此の自由の郷に在りては我らが性は反対を恐るる畏懼の下にありて、変化と背離とを受けざるべし、何となればすべてに完全すればなり。此故に主の命じ給ひしは、ただ祈祷と自己を守るが為のみにあらずして、我らの為に常々起る所のものの機微にして思議す可らざるが故に、何れの時にも不意に屡々発見するものの状態は我らの知識を以て曉る能はざるによるなり。けだし我らの意は甚だ堅固にして、善に膠着すといへども、主の照管は我らを誘惑の境に棄て且投ずる一回のみにあらざることは、福なるパウェルの言ひし如し、曰く『黙示の至大なるによりて我が高ぶらざらん為に、一の刺は我が肉体に與へられたり、即サタナの使なり、我を撃たん為我が高ぶらざん為なり、我三次主に之を我より離さんことを求めたり然れども主は我に謂へり、我の恩寵は汝に足れり。けだし我の力は弱き中に行はる』〔コリンフ後十二の七、九〕。
主よ、是れ既に汝の旨ならば、我らの幼稚なるも、汝に導かれて自から覚醒せんが為に、此のすべてのものを要求す、矧んや人も我と同じく汝の愛に酔はしめられ、酩酊の中に在りて、世には目を全く注がざるにより引誘せられて、善なる者に追随するに於てをや、ただに是のみに非ず、汝は我に肉体の舌にて説明する能はざる黙示と直覚とを與へ、霊神上の勤を見、且その声を聞かしめて、聖徳を充ち満てる汝の直覚を賜はるに於てをや、しかれども此すべてに拘はらず、我れハリストスによりて成全せられたる人は、自己を保護するが為に不充分なり、何となれば予はハリストスの心を得たるに拘はらず、機微にして予の力を以て悟る能はざるものあるによる、故に主よ、予が弱きと、患難と、牢獄と、械繫[1]と、窮乏とに於て喜ぶは之が為なり。これ性によるか、性の子によるか、或はその敵によるか、今はただ予の弱きを喜んで忍受す、即試惑に於て予の弱きを忍受す、神の力の我に宿らん為なり。もし此すべての後汝の住所が予の中に膨張展開して、予も汝に近づきて守られれん為、試惑の杖に必要を有するならば、予は知る、我より多く汝に愛せらるる者はあらずして、随て汝は我を衆人より高うしたるを。且汝は奇異にして光栄なる力を識るを予の同労者たる使徒の一人にも予に與へし如くには與へ給はずして、汝は予を選器と名づけ給へり、〔行実九の十五〕何となれば汝の愛の法を予は誠実に守るによる。此のすべての為、特に伝道の業の大に進歩して将来益々拡張するが為にも有益なりしならば、汝は予に自由を賜ふべかりしを予は幾分か理会するなり。しかれども汝は予が此世に患難と憂慮なくして居らざらんことを嘉みし給へり、けだし汝の福音を世に傳ふる事業の大に増加するは、予が試惑により益を得て、予の霊魂が汝によりて健全に守らるる程汝の為に重要なるには非ざるに因る。
終に、思慮ある者よ、もし此すべては試惑の大なる賜にして、人が称揚せられて、パウェルと同じく神に入る程は、更に愈々畏懼と戒慎とに必要を有して、その遭遇する所の試惑より益を刈るならば、誰か此の奪ひし者らが充ち満てる保証の国に達して、〔マトフェイ十一の十二〕我らと偕ならずしては全きを受けざる為に〔エウレイ十一の四十〕聖なる天使らにも與へられざる堅固なる者となり得べきものを受け、すべて霊神上にも肉体上にも反対する所のものを受けて、全く不変不易なる者とならんことを欲するか、試惑が彼にその思にも近づかざらんことを欲するか。然して此世の法は悉くの聖書に顕はされたる如く、その意左の如し、即もし毎日幾千の打撃を常に受くるも畏避退怯するなかれ、場裡に馳走するを止むるなかれ、何となれば我らは一の些細なる機会に勝利を奪ふて栄冠を受くべきによる。
此の世は競争にして競争の為の道場なり。此の時は角逐の時なり。然れども角逐の国にも競争の時にも法は置かれざるなり、即王はその戦士の為に競争を終ふる迄は界限を置かずしてすべての人は主宰たる王の庭にみちびかるべく、而して競争したる者は、勝を奏するを許さざりし者も敗北したる者も、共に彼処に於て審査せらるべし。けだし不鍛錬によりて何の用にも立たざる人は不断に撃破せられ、打勝たれて、何れの時にも無力にして存すれども、巨人の子の軍隊の手よりその軍旗を俄に奪ふときは、その名は称揚せらるべくして、彼は奮闘し勝つて著名になりし者らよりも更に讃美せられ、その友に愈りて栄冠と貴重なる賜とを受くる機会は多く之あるべし。故に一人も失望するなかれ。ただ祈祷を等閑にせざるのみならず、主に助を求むるに怠らざらん。
我らは此世に於て肉体に置かるる間は、たとひ天の穹窿迄昇りたりとも、行為と労苦となくして居り、憂慮なくして存する能はざることを確く己の意中に置かん。是れぞ〔我を免せ〕即完全にして此より過ぐるものは愚にして考無きなり。
我らが神に光栄及び権柄及び美麗は世々にあるべし。「アミン」。