シリヤの聖イサアク全書/第四十九説教

提供: Wikisource
ナビゲーションに移動 検索に移動
wikisource:宗教 > シリヤの聖イサアク全書

第49説教[編集]

<< しんこうけんとくこと >>

しょうなるひとよ、なんぢいのちんをねがふか、しんこうけんとくおのれまもるべし、なんとなればこれによりあわれみとたすけとかみよりしんちゅうげらるることばとをべく、おなじくまたひそかにもあらはにもなんぢともにするしゅごしゃべければなり、せいめいきょうよんをねがふか。せいちょくもっかみまえくべし、ちしきもってするなかれ。せいちょくしんこうともなへども、しねんけいはくてんとうとはじふともなひ、じふかみよりとほざかることをともなふ。

かみまえきとうつときは、そのしねんありごとくなるべく、ほふくするものごとくなるべく、ひるごとくなるべく、おし[1]なるしょうにごとくなるべし。かみまえなにちしきによりふあるなかれ、えいじごとくなるいしもっかれちかづき、かれまえくべし、ちちがそのえいじたるためゆうするちちたるしょうかんなんぢたまはらんためなり。ふあり、『しゅえいじまもる』〔聖詠百十四の五〕。えいじへびちかづき、つかんでこれをそのくびくるも、へびかれがいせず。ひとびといふくおほつつまるるもかんきはそのぜんしんとほまったくのふゆかれらたいにてき、げんかんひょうとうらたいにてするもまざるなり。けだしじんじゃくなるしたいまもはかべからざるしょうかんは、かれせいちょくたいえざるいふくもっおほひ、かれなんがいをもちかづかしめざるなり。

いまなんぢはかるべからざるしょうかんのあるをしんずるか、そのなんぢゃくへいぜいやまいあるとによりなにらがいをもただちくべきなんぢゃくなるは、これはんたいなるものあいだしょうかんもっほごせられて、そのところとならざるなり。しゅえいじまもる、しかれどもただしょうなるものまもるのみならず、ちしゃしょうせらるるものをもまもる、ゆえかれらはおのれちしきてて、まったじゅうぶんなるえいちいらいし、そののぞみえいじして、そののちがくしゅうろうもってはかんずるあたはざるちえすでまなびぬ。しんちたるパウェルぜつみょうこれへり。いはく『このよおいなるものおもものあらばとならんがためぐしゃとなるべし』〔コリンフ前三の十八〕と。さりながらなんぢしんこうしゃくどたっせしめんことをかみねがふべし、なんぢこのたのしみしんちゅうかんずるならばもはやなんぢハリストスよりそむかしむるものあらずとこのときぐるをかたんぜざるべし。またなんぢまいじぞくするものよりとほとらられて、れつじゃくなるにあるところのもののそうきとよりかくされんこともなんぢためかたからざるべし。このことためおこたらずしていのるべく、せつこれねがふべく、これくるにいたまでだいなるべんれいもったんがんすべし。しかしてまたよわらざらんことをいのるべし。もしおのれひ、しんこうによりそのおもんばかりをかみたくしてそのおもんばかところのものをかみしょうかんふるならば、これたまはらん。かみなんぢいしまったじゅんけつなるをもっじこしんにんせずして、かみそのものしんにんし、じこれいこんいらいせずして、つとめてかみいらいするのこのじゆうなんぢおいるあらば、るべからざるのうりょくなんぢやどるべく、なんぢのうりょくうたがいなくなんぢともにするをあきらかかんぜん、これすなはちおほくのものこれおのれにかんじておもむくもおそれず、すいちゅうくもおぼれんをおそれてそのちゅうちょするをさざるのうりょくなり、なんとなればしんこころかんかくかたむるによる、ゆええざるものがひとすすめておそるべきじぶつげんしょうちゅういせざらしむると、かんかくためふべからざるげんしょうかんぼうせざらしむるとをひとみづからかんずればなり。

けだなんぢおもふならん、あるものれいてきちしきしんてきちしきによりけんと。れいてきちしきしんてきちしきもっくるをざるのみならず、かんかくもっこれるることも、あるいしんてきちしきねっしんけんきゅうするあるものこれたまはることもあたはざるなり。もしかれらのうちれいてきちしきちかづかんをねがものありとも、しんてきちしきとそのきびしゅじゅなるじゅっけいとそのおほくのふくざつなるほうほうとをててえいじごとくなるおもいじょうたいおのれてざるあいだれいてきちしきごうちかづくあたはざるべし。かへつてかれらのためだいなるぼうがいとなるものはしんてきちしきしゅうかんかいとにして、ぜんぜんこれしょうめつせざるあいださまたげとならん。れいてきちしきじゅんぜんむざつにしてしんてきしねんにはかがやかざるなり。れいちおほくのしねんよりじゆうじょうけつどくいちじゅんせいたっせざるあいだは、れいてきちしきかんずるあたはざるべし。よ、ちしきていほういのちかんずるにあり、ゆえにかれおほくのしねんはいせきす。しんてきちしきおほくのしねんほかちりょくじゅんせいもっくるをべきものをあたはざることは、しゅたまひしごとし、いはく『もしてんじておさなごごとくならずばかみくにるをず』〔マトフェイ十八の三〕。しかれどもおほくのものこのじゅんせいたっせずして、かえつてそのぜんりょうなるこういによりてんごくおいくべきぶぶんまもられんをきぼうすることは、しゅしゅじゅけいようたまへるふくいんしんぷくりょうかいするによりわれこれかくちするをべくして、しゅしんぷくもっかくしゅしょうがいおけおほくのへんかわれらにしめたまひき、なんとなればかくじんかみしんこうするしゅじゅみちおいことごとくのほうほうによりてんごくもんじこまえひらくべきによる。

さりながらもしてんじておさなごごとくならずば、たれれいてきちしきをうくるあたはざるべし。けだしただこのときよりてんごくたのしみかんずるをるなり。てんごくのことはひとみなかれれいてきちょっかくなりと。ちょっかくしねんはたらきもっらるべきにあらず、ただおんちょうによりこれあじわふをべくして、ひとおのれいさぎようせざるあいだは、これくだにじゅうぶんちからゆうせざるべし、なんとなればたれまなんでこれあたはざればなり。よ、もしなんぢひとびとよりはなれてちんもくし、しんこうによりてしょうぜらるるこころじょうけつたっし、このよちしきわすれて、これるるだもあらずんば、れいてきちしきもとめずしてなんぢらるべし。ふあり、とうててこれあぶらそそげよ、さらばそのうちおいたからはっけんせんと。されどもししんてきちしきなわもっしばらるるならば、このなわだっするよりもてっかいだっするは、なんぢためさらやすしとふはふてきとうにあらざるべし。なんぢきょうわくあみよりつねとほざからざるべく、しゅまえおけゆうきしゅたいするのきぼうとをいかにしてゆうすべきをけっしてりょうかいせざるべく、いずれのときつるぎさきおうらいし、いかにしてもゆうりょなくしてあたはざるべし。なんぢしゅまえよろしくせいかつするとゆうりょなくしてらんことをよわきとせいちょくとをもっきとうすべし。けだしかげかたちともなごとく、あわれみもけんそんともなふ。おわりにもしこれまなぶをねがはばれつじゃくなるしねんけっしてすなかれ。もしもろもろのがいともろもろのあくとすべてのきけんとがなんぢいにょうしてなんぢおどすありとも、これねんとうくるなかれ、これしがにもくなかれ。

もしなんぢなんぢほごするためまったじゅうぶんなるしゅひとたびおのれたくし、そのなんぢしょうかんするにしんにんして、しゅずいこうするならば、またなにごとけいりょするなかれ、おのれいこんげてつぎごとふべし『おのれれいこんひとたびわたしたるものためなにらことたいしてもじゅうぶんなり。このところにあらざるもかれこれる』と。そのときかみきせきじつかんぱすべく、いかなるときにもかみちかくして、かみおそるるものすくひ、かみしょうかんえずといへどもかれらをいかいにょうするをかんぱせん。しかれどもなんぢともにするしゅごしゃにくたいにはえざるにより、なんぢかれうたがつてらざるもののごとおもふべからず、けだしかれなんぢやすんぜしめんためにくたいにもあらはるることたびたびこれあればなり。

ひとはすべてゆうけいなるたすけにんげんきぼうみづからほうきし、しんねんきよこころとをもっかみあとしたがふならば、ただちにおんちょうかれともなひ、しゅじゅたすけもってそのちからかれにあらはさん。しんたいかんするけんぜんなるものにそのちからもらし、そのしょうりょもったすけをかれにあらはすはこれもっかみしょうかんちからおほいかれかんとくせしめんためなり。けんぜんなるものをりょうかいするによりしんぴなるものにもしんくは、そのしそうようちとそのしょうがいとにいかてきとうなるや。けだしひとこのこといたさずんばひとためようようなるものをいかにしてそなふべけんや、ひとちかづきてしばしばきけんたさるるおほくのだげきひとのそのことおもうこともせざるさいすぎることあり、これそのさいおんちょうめいめいかつもっともふかしぎこれかれよりはんきょするものにして、かれまもることあたかとりのそのひなやしなひ、つばさりてこれなんがいをもちかづかしめざるごとくするなり。おんちょうひとがいせっきんしたりしこととむがいにしてそんしたることとをひともくげきせしむるなり。しんぴにしてべからざるものにかんしてもおんちょうはかくのごとひとおしへ、かいがたさとやすからざるいしおよしねんこうかいをそのもくぜんにあらはす。ゆえにひとかれらのかんけいとそのたがいれんごうとそのゆうわくとそのうちなんしねんひとしゅうほせらるると、かれらはいかたがいあいしょうじてれいこんがいするとをたやすくそうさくするをべし。しかしてまたおんちょうまきのすべてのかんけいとそのあくねんひそまるかくれがひともくぜんにあらはして、これはずかしめ、みらいりょうかいするさいのうひとれ、そのせいちょくためしんぴなるひかりらしかかるはきびなるしねんりかいするののうりょくじゅうぶんかくちせしめんがためにして、もしこれかくちせずんば、ひとなににんじゅすべきか、これしめすことあたかゆびもっしめごとし。さればそのときひとだいなるもしょうなるもすべてのこときとうおいぞうせいしゃねがはざるべからずとのれよりひとしょうずるなり。

のすべてにおいかみいらいせしめんためしんせいなるおんちょうひといしかたむるときは、ぜんぜんひとしわくるをはじむべくしておんちょうひとにそのりょうおうずるしわくつかはすをゆるすは、ひとをしてしわくちからにんたいせしめんためなり。しかしてこれらのしわくおいてそのたすけせつひとちかづくは、ひとぜんぜんまなんでちえもとめ、かみいらいしてそのてきかろんずるにいたまでゆうきならんためなり。けだしひとれいかいたたかいちえじこしょうかんしゃにんしきし、じこかみかんじて、かれしんずるにひそかかくりつせんことは、ただそのふるところしけんちからるにあらずんばあたはざるなり。

おんちょうひとねんとうたしょうじふしんあらはれてひとおのれたかるや、ただちにひとたいするしわくますますはげしくつよまるにほうにんすべくして、ひとおのれよわきをにんしきし、はしりてかみためけんそんとらへらるるにいたまでは、かくごとくならん。これによりひとかみしんずるとのぞむとをもっせいじんりょうたっし、たかめられてあいいたらん。けだしかみひとたいするきいなるあいひとがそののぞみをはかいせんとするきょうぐうときにんしきせらるるなり、このところかみはそのちからひとすくいおいあらはしたまふ。けだしひとあんそくじゆううちりては、かみちからけっしてにんしきせざるべくして、かみもただそのちんもくとにおいてする、すなはちひとびとともともあつまりてけんそうするをうばはれたるところおいてするのほかいずこにもそのはたらきげんぜんとあらはさざりき。

どうとくちゃくしゅするや、ざんにんにしてもうれつなるかんなんはっぽうよりなんぢけいちゅうするをあやしむなかれ、なんとなればことこんなんともなはずしてじょうじゅするものは、どうとくともしいせられざるによる。けだし聖イオアンひしごとかれづけてどうとくしょうせらるるもこれためなるなり、へらく『どうとくこんなんむかふるをれいとす、もしあんそくつらなるならば、かれひなんあたいす』ふくなるしゅうどうマルクへり、『すべおこなところどうとくしんかいめいじっこうするときはじゅうじかづけらるべし』と。ゆえしゅくにおいイイスス ハリストスりてせいわたらんとほっするものみなきんちくせられん〔ティモフェイ後三の十二〕。けだししゅへり、『われしたがはんとほっするものおのれて、そのじゅうじかひてわれしたがへ』〔マルコ八の三十四〕。あんそくきんことをほっせざるものは『ためおのれせいめいうしなひてこれん』〔マトフェイ十六の二十五〕。かれなんぢさきだちてなんぢためじゅうじかそなへたるは、なんぢじこためさだめ、そののちおのれいのちをささげてかれしたがはんためなり。

つよきことしつぼうごときはあらず、たれこれせいふくするにみぎもってせんか、あるいひだりもってせんか、かれとんちゃくせざるざり。ひとがそのいちゅうきぼういのちうばふときは、これよりきょうぼうなるものはあらざるべし。なにらてきかれにはていこうするあたはざるべく、いかなるかんなんのことをかしむるもかれねんよわらしめずなんとなればすべてところかんなんよりかろくして、かれはそのおのれにけんがためにそのこうべるればなり。もしなんぢいかなるばしょおいいかなるこういもって、いかなるときなにごとをかさんとほっするもそのいしにてもくてきこういかなしみとをよそうするならば、なんぢまえあらはるるすべてのふべんふりていこうするがためいづれのときにもゆうきにしておこたらざるものとなるのみならず、あんそくとっしんするしねんためつねしょうじてなんぢおどかつおそれしむるいしなんぢこれらのしりょによりなんぢよりとうそうせん。さればすべてなんぢそうぐうするこんなんなるものとふべんなるものとはなんぢためべんりにしてよういなるものとならん。なんぢしょきはんたいなるものはたびたびなんぢぐうかいするあらん、しかれどもかくのごときもののたえまったなんぢぐうかいせざることもまたおうおうこれあるべし。

あんそくのぞみは、いかなるときにもひとびとをしてだいなるものとぜんなるもの、またどうとくをもぼうきゃくせしむるは、なんぢところなり。しかれどもこのよにくたいためせいかつするものらも、もしかいにんたいするをそのこころけっせずんば、そのがんいまったすいこうするをあたはざるべし。じっけんこれしょうめいするにより、ことばもっこのことすすむるのようあらず、なんとなればむかしよりいまいたまでひとびとすいじゃくするは、なんためにもあらず、すなはちこれためにして、ただにかちそうせざるのみならずさいりょうなるものをもうばはるるなり。ゆえかんたんこれはんに、もしひとてんごくのことをかろんずるならば、れただささいなるこのよあんらくのぞみによるなり。しかしてひとにはただいつのぞみのみにあるにあらずして、はげしきだげきおそるべきしわくとはすべてそののぞみせんしんちゅういするひとためしきりにそなへらるるもひとしそうれとあいてきするなり、なんとなればにくよくこれせいぎょするによる。

とりとどまるところねらひつつあみちかづくをたれらざらん。きょうぐうばしょあるいなにごともってかかくおほはるるものにおけわれらのちしきしょうなるとりちしきしておうおうおよばざるところありて、ただこれによりまきさいしょよりあんそくやくとそのことしねんとをもっわれらをとらふるなり。

ごとことしんこうせしめんとほっして、このせっきょうためさいしょよそうしたるもくてきよりはなれたり、なんぞや、われらはしゅためかどでをなさんことをほっするすべてのこうどうおいてそのかんなんよそうしてもくてきとなし、こうろおわりをそのはじめしさいかくていするは、いづれのときにもかんようなることこれなり。ひとしゅためことはじめんとほっするや、いかんしてたびたびごとふか、『このことあんそくありや、このこうろろうなくしてべんりべきほうほうあらざるか、あるいこのこうろにはしんたいつからすべきかんなんあらざるか』と。よ、われらはいづこにもあらゆるほうほうこうじてあんそくひてもとむるを。ひとよ、なんぢなにふか。てんのぼかしこくにをうけ、かみたいごうし、かしこふくらくやすんじ、しょてんしまじはり、えいきゅうふしせいめいけんをねがふて、このこうろろうくりやしやをふか。きかいことかな。ざんじぞくするものをねがものは、おそるべきかいろうわたり、やすからざるみちぐるをあえてして、そのさんとほっするところことろうくあるいひあいうむのことはたえはざるにあらずや。これはんしてわれらはいづれのところにもあんそくたんもんす。さりながらもしいかなるときにもじゅうじゅかこうろこころそうぞうするならばいかなるあいこのこうよりやすからざるか、おもふべきなり。

もしひとさいしょよりかんなんろうくかろんずるものとならずんば、けっしてたたかいしょうりものあらざるべく、つべきえいかんをさへけずして、そのねがいさんびすべきにかかはらず、これぐるにいたらざるべし、なにもってもかみことつとめず、しょうさんすべきぜんこういつにもしんぽせず、あんそくいんゆうするのおもいゆるして、みづからこれしたしみ、とうかんたいまんおよきょうだしょうじ、これりてまったすいじゃくするにいたらん、このことまったしんようせざるひとありや、おそらくはあらざらん。

こころどうとくふんねつはじむるそのときしかくちょうかくびかくみかくしょっかくごとがいぶかんかくてんねんちからゆるけうひじょうなるこんなんかちゆずらざるべし。しかしててんねんしげきてきじにそのはたらきあらはすならば、しんたいせいめいふんどよりかろからん。けだしこころせいしんもっふんねつはじむるときは、かんなんためうれへざるべく、おそれざるべく、おそれてちぢまらざるべく、こころかたく、こんごうせきごとくなりて、あらゆるしわくていこうせん。われらもイイススむねほうずるせいしんふんねつもっねっちゅうせん、さらばわれらがいちゅうたいまんしょうずべきなんらふちゅういわれらよりおいはらはれん、なんとなればねっしんゆうきしんれいのうりょくしんたいべんれいとをしょうずればなり。れいこんまきむかつててんぷつよねっしんうごかすならば、まきなんらちからありや。しかしてふんしんまたねっしんしょさんつけらる。もしふんしんはそのちからはたらかし、しんちゅうおいおそれざるものとなれるすべてのちからつよきをくわふるときは、くぎょうしゃおよちめいしゃらがにんたいもっくるじゅんきょうえいかんてんねんしげきによりてしょうずるねっしんふんしんふたつはたらきもっらるるなり〉ひとびともうれつなるくなんうちりておそれざるだいたんなるものとならん。かみわれらにもかくのごとふんしんあたへてかみよろこばしめん。「アミン」。

脚注[編集]

  1. 投稿者注:まだ話すことができないの意であり、ろうあの人を意味しない。