シリヤの聖イサアク全書/第四十九説教

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第49説教[編集]

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しょうなるひとよ、なんじ生命いのちんをねがふか、信仰しんこう謙徳けんとくおのれまもるべし、なんとなればこれによりあわれみとたすけとかみより心中しんちゅうげらるることばとをべく、おなじくまた隠密ひそかにも顕然あらはにもなんじともにする守護者しゅごしゃべければなり、生命せいめい供與きょうよんをねがふか。正直せいちょくもっかみまえくべし、知識ちしきもってするなかれ。正直せいちょく信仰しんこうともなへども、思念しねん軽薄けいはく転倒てんとうとは自負じふともなひ、自負じふかみよりとおざかることをともなふ。

かみまえ祈祷きとうつときは、その思念しねんありごとくなるべく、匍匐ほふくするものごとくなるべく、水蛭ひるごとくなるべく、おし[1]なる小児しょうにごとくなるべし。かみまえなに知識ちしきによりふあるなかれ、嬰児えいじごとくなる意思いしもっかれちかづき、かれまえくべし、ちちがその嬰児えいじたるためゆうするちちたる照管しょうかんなんじたまはらんためなり。ふあり、『しゅ嬰児えいじまもる』〔聖詠百十四の五(詩編百十六の六)〕。嬰児えいじへびちかづき、つかんでこれをそのくびくるも、へびかれがいせず。人々ひとびと衣服いふくおおつつまるるも寒気かんきはその全身ぜんしんとおまったくのふゆかれ裸体らたいにてき、厳寒げんかん氷凍ひょうとう裸体らたいにてするもまざるなり。けだし荏弱じんじゃくなる肢体したいまもはかべからざる照管しょうかんは、かれ正直せいちょくたいえざる衣服いふくもっおおひ、かれなんがいをもちかづかしめざるなり。

いまなんじはかるべからざる照管しょうかんのあるをしんずるか、その軟弱なんじゃく平生へいぜいやまいあるとにより何等なにらがいをもただちくべき軟弱なんじゃくなるは、これ反対はんたいなるものあいだ照管しょうかんもっ保護ほごせられて、そのところとならざるなり。しゅ嬰児えいじまもる、しかれどもただしょうなるものまもるのみならず、智者ちしゃしょうせらるるものをもまもる、ゆえかれらはおのれ智識ちしきてて、まった充分じゅうぶんなる睿智えいち倚頼いらいし、そののぞみ嬰児えいじして、そののち学習がくしゅうろうもってはかんずるあたはざる智慧ちえすでまなびぬ。神智しんちたるパウェル(パウロ)は絶妙ぜつみょうこれへり。いはく『此世このよおいなるものおもものあらばとならんがため愚者ぐしゃとなるべし』〔コリンフ前三の十八〕と。さりながらなんじ信仰しんこう尺度しゃくどたっせしめんことをかみねがふべし、なんじ此楽このたのしみ心中しんちゅうかんずるならば最早もはやなんじハリストスよりそむかしむるものあらずと此時このときぐるをかたんぜざるべし。またなんじ毎時まいじぞくするものよりとおとらられて、劣弱れつじゃくなるにあるところのものの想起そうきとよりかくされんこともなんじためかたからざるべし。此事このことためおこたらずしていのるべく、せつこれねがふべく、これくるにいたまでだいなる勉励べんれいもっ嘆願たんがんすべし。しかして又弱またよわらざらんことをいのるべし。もしおのれひ、信仰しんこうによりそのおもんばかりをかみたくしてそのおもんばかところのものをかみ照管しょうかんふるならば、これたまはらん。かみなんじ意思いしまった純潔じゅんけつなるをもっ自己じこ信任しんにんせずして、かみそのもの信任しんにんし、自己じこ霊魂れいこん倚頼いらいせずして、つとめてかみ倚頼いらいするのこの自由じゆうなんじおいるあらば、るべからざる能力のうりょくなんじやどるべく、なんじ能力のうりょくうたがいなくなんじともにするをあきらかかんぜん、これすなはちおおくのものこれおのれにかんじておもむくもおそれず、水中すいちゅうくもおぼれんをおそれてその躊躇ちゅうちょするをさざる能力のうりょくなり、なんとなればしんこころ感覚かんかくかたむるによる、ゆええざるものがひとすすめておそるべき事物じぶつ現象げんしょう注意ちゅういせざらしむると、感覚かんかくためふべからざる現象げんしょう看望かんぼうせざらしむるとをひとみづからかんずればなり。

けだなんじおもふならん、或者あるものの霊的知識をの心的知識によりけんと。の霊的知識はの心的知識をもっくるをざるのみならず、感覚かんかくもっこれるることも、あるいは心的知識を熱心ねっしん研究けんきゅうする或者あるものこれたまはることもあたはざるなり。もしかれらのうち霊的知識にちかづかんをねがものありとも、の心的知識とその機微きび種々しゅじゅなる術計じゅっけいとそのおおくの複雑ふくざつなる方法ほうほうとをてて嬰児えいじごとくなるおもい状態じょうたいおのれてざるあいだは霊的知識にごうちかづくあたはざるべし。かへつてかれらのためだいなる妨害ぼうがいとなるものは心的知識の習慣しゅうかんかいとにして、漸々ぜんぜんこれ消滅しょうめつせざるあいださまたげとならん。の霊的知識は純然じゅんぜん無雑むざつにして心的思念しんてきしねんにはかがやかざるなり。霊智れいちおおくの思念しねんより自由じゆう浄潔じょうけつ独一どくいち醇正じゅんせいたっせざるあいだは、霊的知識をかんずるあたはざるべし。よ、知識ちしき定法ていほう生命いのちかんずるにあり、ゆえにかれおおくの思念しねん排斥はいせきす。の心的知識はおおくの思念しねんほか智力ちりょく醇正じゅんせいもっくるをべきものをあたはざることは、しゅたまひしごとし、いはく『もしてんじて幼児おさなごごとくならずばかみくにるをず』〔マトフェイ十八の三〕。しかれどもおおくのものこの醇正じゅんせいたっせずして、かえつてその善良ぜんりょうなる行為こういにより天国てんごくおいくべき部分ぶぶんまもられんを希望きぼうすることは、しゅ種々しゅじゅ形容けいようたまへる福音ふくいん真福しんぷく了會りょうかいするによりわれこれ確知かくちするをべくして、しゅ真福しんぷくもっ各種かくしゅ生涯しょうがいおけおおくの変化へんかわれらにしめたまひき、なんとなれば各人かくじんかみ進行しんこうする種々しゅじゅみちおいことごとくの方法ほうほうにより天国てんごくもん自己じこまえひらくべきによる。

さりながらもしてんじて幼児おさなごごとくならずば、たれの霊的知識をうくるあたはざるべし。けだしただ是時このときより天国てんごくたのしみかんずるをるなり。天国てんごくのことは人皆ひとみなかれ霊的直覚れいてきちょっかくなりと。直覚ちょっかく思念しねんはたらきもっらるべきにあらず、ただ恩寵おんちょうによりこれあじわふをべくして、ひとおのれいさぎようせざるあいだは、これくだに充分じゅうぶんちからゆうせざるべし、なんとなればたれまなんでこれあたはざればなり。よ、もしなんじ人々ひとびとよりはなれて沈黙ちんもくし、信仰しんこうによりてしょうぜらるるこころ浄潔じょうけつたっし、此世このよ知識ちしきわすれて、これるるだもあらずんば、霊的知識はもとめずしてなんじらるべし。ふあり、とうててこれあぶらそそげよ、さらばそのうちおいたから発見はっけんせんと。されどもし心的知識のなわもっしばらるるならば、このなわだっするよりも鉄械てっかいだっするは、なんじためさらやすしとふは不適当ふてきとうにあらざるべし。なんじ誑惑きょうわくあみよりつねとおざからざるべく、しゅまえおけ勇気ゆうきしゅたいするの希望きぼうとを如何いかにしてゆうすべきをけっして了解りょうかいせざるべく、いずれのときつるぎさき往来おうらいし、如何いかにしても憂慮ゆうりょなくしてあたはざるべし。なんじしゅまえよろしく生活せいかつすると憂慮ゆうりょなくしてらんことをよわきと正直せいちょくとをもっ祈祷きとうすべし。けだしかげかたちともなごとく、あわれみも謙遜けんそんともなふ。おわりにもしこれまなぶをねがはば劣弱れつじゃくなる思念しねんけっしてすなかれ。もしもろもろのがいともろもろのあくとすべての危険きけんとがなんじ囲繞いにょうしてなんじおどすありとも、これ念頭ねんとうくるなかれ、これ歯牙しがにもくなかれ。

もしなんじなんじ保護ほごするためまった充分じゅうぶんなるしゅひとたびおのれたくし、そのなんじ照管しょうかんするに信任しんにんして、しゅ随行ずいこうするならば、また何事なにごと掛慮けいりょするなかれ、おの霊魂れいこんげてつぎごとふべし『おのれ霊魂れいこんひとたびわたしたるものため何等なにらことたいしても充分じゅうぶんなり。このところにあらざるもかれこれる』と。そのときかみ奇蹟きせきじつ看破かんぱすべく、如何いかなるときにもかみちかくして、かみおそるるものすくひ、かみ照管しょうかんえずといへどもかれらを如何いか囲繞いにょうするを看破かんぱせん。しかれどもなんじともにする守護者しゅごしゃ肉体にくたいにはえざるにより、なんじかれうたがつてらざるもののごとおもふべからず、けだしかれなんじやすんぜしめんため肉体にくたいにもあらはるること度々たびたびこれあればなり。

ひとはすべて有形ゆうけいなるたすけ人間にんげん希望きぼうみづから放棄ほうきし、信念しんねんきよこころとをもっかみあとしたがふならば、ただちに恩寵おんちょうかれともなひ、種々しゅじゅたすけもってそのちからかれにあらはさん。身体しんたいかんする顕然けんぜんなるものにそのちからもらし、その照慮しょうりょもったすけをかれにあらはすはこれもっかみ照管しょうかんちからおおいかれ感得かんとくせしめんためなり。顕然けんぜんなるものを了解りょうかいするにより神秘しんぴなるものにもしんくは、その思想しそう幼稚ようちとその生涯しょうがいとに如何いか適当てきとうなるや。けだしひと此事このこといたさずんばひとため要用ようようなるものを如何いかにしてそなふべけんや、ひとちかづきて屡々しばしば危険きけんたさるるおおくの打撃だげきひとのそのことおもうこともせざるさいすぎることあり、これそのさい恩寵おんちょう冥々めいめいかつもっとも不可思議ふかしぎこれかれより反拒はんきょするものにして、かれまもることあたかとりのそのひなやしなひ、つばさりてこれなんがいをもちかづかしめざるごとくするなり。恩寵おんちょうひとがい接近せっきんしたりしことと無害むがいにしてそんしたることとをひと目撃もくげきせしむるなり。神秘しんぴにしてべからざるものにかんしても恩寵おんちょうはかくのごとひとおしへ、かいがたさとやすからざる意思いしおよ思念しねん狡獪こうかいをその目前もくぜんにあらはす。ゆえにひとかれらの関係かんけいとそのたがい連合れんごうとその誘惑ゆうわくとそのうちなん思念しねんひと緝捕しゅうほせらるると、かれらは如何いかたがいあいしょうじて霊魂れいこんがいするとをたやすく捜索そうさくするをべし。しかしてまた恩寵おんちょう魔鬼まきのすべての奸計かんけいとその悪念あくねんひそまる匿所かくれがひと目前もくぜんにあらはして、これはずかしめ、未来みらい瞭解りょうかいする才能さいのうひとれ、その正直せいちょくため神秘しんぴなるひかりらしかかるは機微きびなる思念しねん理解りかいするの能力のうりょく充分じゅうぶん覚知かくちせしめんがためにして、もしこれ確知かくちせずんば、ひとなに忍受にんじゅすべきか、これしめすことあたかゆびもっしめごとし。さればその時人ときひとだいなるもしょうなるもすべてのこと祈祷きとうおい造成者ぞうせいしゃねがはざるべからずとのれよりひとしょうずるなり。

のすべてにおいかみ依頼いらいせしめんため神聖しんせいなる恩寵おんちょうひと意思いしかたむるときは、漸々ぜんぜんひと試惑しわくるをはじむべくして恩寵おんちょうひとにそのりょうおうずる試惑しわくつかはすをゆるすは、ひとをして試惑しわくちから忍耐にんたいせしめんためなり。しかしてこれらの試惑しわくおいてそのたすけせつひとちかづくは、ひと漸々ぜんぜんまなんで智慧ちえもとめ、かみ依頼いらいしてそのてきかろんずるにいたまで勇気ゆうきならんためなり。けだしひと霊界れいかいたたかい智慧ちえ自己じこ照管者しょうかんしゃ認識にんしきし、自己じこかみかんじて、かれしんずるにひそか確立かくりつせんことは、ただそのふるところ試験しけんちからるにあらずんばあたはざるなり。

恩寵おんちょうひと念頭ねんとう多少たしょう自負心じふしんあらはれてひとおのれたかるや、ただちにひとたいする試惑しわく益々ますますはげしくつよまるに放任ほうにんすべくして、ひとおのれよわきを認識にんしきし、はしりてかみため謙遜けんそんとらへらるるにいたまでは、かくごとくならん。これによりひとかみしんずるとのぞむとをもっ成人せいじんりょうたっし、たかめられてあいいたらん。けだしかみひとたいする奇異きいなるあいひとがそののぞみを破壊はかいせんとする境遇きょうぐうとき認識にんしきせらるるなり、このところかみはそのちからひとすくいおいあらはしたまふ。けだしひと安息あんそく自由じゆううちりては、かみちからけっして認識にんしきせざるべくして、かみもただその沈黙ちんもくとにおいてする、すなはち人々ひとびとともともあつまりて喧騒けんそうするをうばはれたるところおいてするのほか何処いずこにもそのはたらき現然げんぜんとあらはさざりき。

道徳どうとく着手ちゃくしゅするや、残忍ざんにんにして猛烈もうれつなる患難かんなん八方はっぽうよりなんじ傾注けいちゅうするをあやしむなかれ、なんとなればこと困難こんなんともなはずして成就じょうじゅするものは、道徳どうとくとも思惟しいせられざるによる。けだし聖イオアン(ヨハネ)のひしごとかれづけて道徳どうとくしょうせらるるもこれためなるなり、へらく『道徳どうとく困難こんなんむかふるをれいとす、もし安息あんそくつらなるならば、かれ非難ひなんあたいす』福なる修道士マルクへり、『すべおこなところ道徳どうとくしん誡命かいめい実行じっこうするときは十字架じゅうじかづけらるべし』と。ゆえしゅくにおいイイスス ハリストスりてせいわたらんとほっするものみな窘逐きんちくせられん〔ティモフェイ後三の十二〕。けだししゅへり、『われしたがはんとほっするものおのれて、その十字架じゅうじかひてわれしたがへ』〔マルコ八の三十四〕。安息あんそくきんことをほっせざるものは『ためおのれ生命せいめいうしなひてこれん』〔マトフェイ十六の二十五〕。かれなんじさきだちてなんじため十字架じゅうじかそなへたるは、なんじ自己じこためさだめ、そののちおのれ生命いのちをささげてかれしたがはんためなり。

つよきこと失望しつぼうごときはあらず、たれこれ征服せいふくするにみぎもってせんか、あるいひだりもってせんか、かれ頓着とんちゃくせざるざり。ひとがその意中いちゅう希望きぼう生命いのちうばふときは、これより狂妄きょうぼうなるものはあらざるべし。何等なにらてきかれには抵抗ていこうするあたはざるべく、如何いかなる患難かんなんのことをかしむるもかれねんよわらしめずなんとなればすべてところ患難かんなんよりかろくして、かれはそのおのれにけんがためにそのこうべるればなり。もしなんじ如何いかなる場所ばしょおい如何いかなる行為こういもって、如何いかなるとき何事なにごとをかさんとほっするもその意思いしにて目的もくてき行為こういかなしみとを預想よそうするならば、なんじまえあらはるるすべての不便ふべん不利ふり抵抗ていこうするがためいづれのときにも勇気ゆうきにしておこたらざるものとなるのみならず、安息あんそく突進とっしんする思念しねんためつねしょうじてなんじおどかつおそれしむる意思いしなんじこれらの思慮しりょによりなんじより逃走とうそうせん。さればすべてなんじ遭遇そうぐうする困難こんなんなるものと不便ふべんなるものとはなんじため便利べんりにして容易よういなるものとならん。なんじ所期しょき[2]反対はんたいなるものは度々たびたびなんじ偶会ぐうかいするあらん、しかれどもかくのごときもののたえまったなんじ偶会ぐうかいせざることもまた往々おうおうこれあるべし。

安息あんそくのぞみは、如何いかなるときにも人々ひとびとをしてだいなるものとぜんなるもの、また道徳どうとくをも忘却ぼうきゃくせしむるは、なんじところなり。しかれども此世このよ肉体にくたいため生活せいかつするものらも、もしかい忍耐にんたいするをそのこころけっせずんば、その願意がんいまった遂行すいこうするをあたはざるべし。実験じっけんこれ証明しょうめいするにより、ことばもっ此事このことすすむるのようあらず、なんとなればむかしよりいまいたまで人々ひとびと衰弱すいじゃくするは、なんためにもあらず、すなはちこれためにして、ただにかちそうせざるのみならず最良さいりょうなるものをもうばはるるなり。ゆえ簡短かんたんこれはんに、もしひと天国てんごくのことをかろんずるならば、れただ些細ささいなる此世このよ安楽あんらくのぞみによるなり。しかしてひとにはただいつのぞみのみにあるにあらずして、はげしき打撃だげきおそるべき試惑しわくとはすべてそののぞみ専心せんしん注意ちゅういするひとためしきりにそなへらるるもひと思想しそうれと相適あいてきするなり、なんとなれば肉欲にくよくこれ制御せいぎょするによる。

とりとどまるところねらひつつあみちかづくをたれらざらん。境遇きょうぐう場所ばしょあるい何事なにごともってかかくおおはるるものにおけわれらの知識ちしきしょうなるとり知識ちしきして往々おうおうおよばざるところありて、ただこれにより魔鬼まき最初さいしょより安息あんそくやくとそのこと思念しねんとをもっわれらをとらふるなり。

ごとこと進行しんこうせしめんとほっして、此説教このせっきょうため最初予想さいしょよそうしたる目的もくてきよりはなれたり、なんぞや、われらはしゅため首途かどでをなさんことをほっするすべての行動こうどうおいてその患難かんなん預想よそうして目的もくてきとなし、行路こうろおわりをそのはじめ仔細しさい確定かくていするは、いづれのときにも肝要かんようなることこれなり。ひとしゅためことはじめんとほっするや、如何いかんして度々たびたびごとふか、『此事このこと安息あんそくありや、この行路こうろろうなくして便利べんりべき方法ほうほうあらざるか、あるいこの行路こうろには身体しんたいつからすべき患難かんなんあらざるか』と。よ、われらは何処いづこにもあらゆる方法ほうほうこうじて安息あんそくひてもとむるを。ひとよ、なんじなにふか。てんのぼ彼処かしこくにをうけ、かみ体合たいごうし、彼処かしこ福楽ふくらくやすんじ、諸天使しょてんしまじはり、永久えいきゅう不死ふし生命せいめいけんをねがふて、この行路こうろ労苦ろうくりやしやをふか。奇怪きかいことかな。暫時ざんじぞくするものをねがものは、おそるべき海浪かいろうわたり、やすからざるみちぐるをあえてして、そのさんとほっするところこと労苦ろうくあるい悲哀ひあい有無うむのことはたえはざるにあらずや。これはんしてわれらはいづれのところにも安息あんそく探問たんもんす。さりながらもし如何いかなるときにも十字架じゅうじゅか行路こうろこころ想像そうぞうするならば如何いかなるあいこのこうよりやすからざるか、おもふべきなり。

もしひと最初さいしょより患難かんなん労苦ろうくかろんずるものとならずんば、けっしてたたかい勝利しょうりものあらざるべく、つべき栄冠えいかんをさへけずして、そのねがい讃美さんびすべきにかかはらず、これぐるにいたらざるべし、なにもってもかみことつとめず、賞賛しょうさんすべき善行ぜんこういつにも進歩しんぽせず、安息あんそく引誘いんゆうするのおもいゆるして、みづからこれしたしみ、等閑とうかん怠慢たいまんおよ怯懦きょうだしょうじ、これりてまった衰弱すいじゃくするにいたらん、此事このことまった信用しんようせざるひとありや、おそらくはあらざらん。

こころ道徳どうとく奮熱ふんねつはじむるそのとき視覚しかく聴覚ちょうかく鼻覚びかく味覚みかく触覚しょっかくごと外部がいぶ感覚かんかく天然てんねんちからゆる稀有けう非常ひじょうなる困難こんなんかちゆずらざるべし。しかして天然てんねん刺激しげき適時てきじにそのはたらきあらはすならば、身体しんたい生命せいめい糞土ふんどよりかろからん。けだしこころ精神せいしんもっ奮熱ふんねつはじむるときは、患難かんなんためうれへざるべく、おそれざるべく、おそれてちぢまらざるべく、こころかたく、金剛石こんごうせきごとくなりて、あらゆる試惑しわく抵抗ていこうせん。われらもイイススむねほうずる精神せいしん奮熱ふんねつもっ熱中ねっちゅうせん、さらばわれらが意中いちゅう怠慢たいまんしょうずべき何等なんら不注意ふちゅういわれらより逐払おいはらはれん、なんとなれば熱心ねっしん勇気ゆうき心霊しんれい能力のうりょく身体しんたい勉励べんれいとをしょうずればなり。霊魂れいこん魔鬼まきむかつて天賦てんぷつよ熱心ねっしんうごかすならば、魔鬼まき何等なんらちからありや。しかして憤心ふんしんまた熱心ねっしん所産しょさんつけらる。もし憤心ふんしんはそのちからはたらかし、心中しんちゅうおいおそれざるものとなれるすべてのちからつよきをくわふるときは、〔苦行者およ致命者ちめいしゃらが忍耐にんたいもっくる殉教じゅんきょう栄冠えいかん天然てんねん刺激しげきによりてしょうずる熱心ねっしん憤心ふんしんふたつはたらきもっらるるなり〕人々ひとびと猛烈もうれつなる苦難くなんうちりておそれざる大胆だいたんなるものとならん。かみわれらにもかくのごと憤心ふんしんあたへてかみよろこばしめん。「アミン」。

脚注[編集]

  1. 投稿者注:まだ話すことができないの意であり、ろうあの人を意味しない。
  2. 投稿者注:期待するところ。