<< 神に感謝すること并に初等の教の簡短なる説明。 >>
受くる者の感謝は與ふる者をして先に受けたるよりも多くの賜を與へしむ。少き者の為に感謝せざる者は多き者に於ても偽なり、不真実なり。
病んで、その病を知る者は必ず療法を尋ねん。己の病を他に告ぐる者は治療に近づきてその療法を易く発見せん。心の頑なるによりて彼の病は増加す、もし病者は医に反対するならば、その苦痛は益々大ならん。悔いざる罪の外に赦す可らざる罪なし。而して賜はただ之が為に感謝することなき時の外は加増なくして了らざるなり。愚鈍なる者の受くる部分はその眼中に小なり。
徳行に於て汝より優越なる者を常に記憶に存して忘れざるべし。彼等の尺度に対して己の足らざるを不断に見んが為なり。憂ふる者と軽蔑せられたる者の最苦しき憂愁を常に心に存すべし、汝自ら逢ふ所の微小にして論ずるに足らざる憂愁の為にも当然の感謝を為し喜んで之を忍耐するを得んが為なり。
打撃と衰弱と怠慢の時に当り、敵の為に苦しき疲労と罪の重きとに拘繋抑留せらるゝ者は以前の勉励の時をその心に思ひ浮ぶべし。汝は凡て小なることをさへ如何に慮りしか、如何なる苦行をあらはしたりしか、汝の進行を妨げんと欲したる者に如何なる熱心を以て抵抗したりしか。然のみならず、汝の怠慢により、汝に現れたる瑕瑾の為に汝は如何なる痛心嘆息をなしたりしか、此のすべての際に汝は如何なる勝利の冠をうけたりしかと、此を念ふ可し。けだし凡てかくの如き想出により汝の霊魂の喚起せらるゝは深処よりする如くなるべく、燃ゆるが如くなる熱心を被るは死者の葬られたるより復活して起上る如くなるべくして、魔鬼と罪とに熱心抵抗するを以てその元始の秩序に立帰らん。
有力者の陥りしを記憶して、己の善行に謙遜せよ。昔陥りて悔改したる者の重き墜堕を想起せよ、而して之と同く彼等がその後に賜りたる高きと尊敬とを想起せよ、さらば己の悔改に勇敢ならん。
自から己を責めよ、さらば汝の敵は汝の近づくにより逐払はれん。自から己と和せよ、さらば天と地は汝と和せん。己が内部の室に入らんことを勉めよ、さらば天の室を見ん何となれば彼と此とは同一にして一に入りつつ両ながら見るべければなり。彼の国の階梯は汝の内部に汝の霊中に秘蔵せらる、罪を離れて自己に沈没せよ、然らば彼処に登るべき路を発見し、之によりて登るを得ん。
聖書は来世に如何なるもののあるを我らに説示さず。然れども天然の変化至りて此世界より出づるに先だち、未来の楽みの如何なるを此処に於て感知し得べきことを便宜に我等に教ふるなり。さりながら縦ひ我等を喚起して未来の幸福を願はしめんが為に、我等に慕はしくして且光栄なる愉快にして且貴重なる物の名を以て此を描写すといへども、『目未だ見ず耳未だ聞かず』云々〔コリンフ前二の九〕と言へば之により未来の幸福の測る可らずして、此処の幸福とは何の同じきこともあらざるを我等に知らしむるなり。
心神の楽は受くる者の霊性の外に独立して存在する何等の物をも利用することあらず。然れども別に『天国は汝の衷にあり』〔ルカ十七の二十一〕と言ひ、又『汝の国は来れ』〔マトフェイ六の十〕といへば、是れ既に我等は己の内部に或る感覚に属する実体を感じ、此中に籠る所の楽みを聘質として受けたるを示すなり。けだし獲たるそのものは必ず聘質と同じき者なるべく、全きものは部分の合したるものならざるべからず。ゆえに『鏡に縁りて観るが如し』〔コリンフ前十三の十二〕といふは、独立的に存する者を示さずといへども、同じきものを受けたるを意味するなり。然して此の感知は聖神の智慧ある作用なりといへる聖書解釈者の証明は、もし真ならば、此感知は亦既に彼の全きものの部分なるなり。
戦て善を為す者は道徳を愛する者にあらず、之に随つて生ずる不幸を喜んで受くる者は道徳を愛する者なり。人が道徳の為に患難を忍耐するは大なる行為にあらず。五官の誘惑的肉痒の時に当り、善意の選択を為すが為に智の惑はざるは、大なる行為なり。
すべて後悔は自由を奪はるれば喜をも生ぜず、又此を為しし者に恩賞に対する権利をも與へざるなり。
もし汝に害なくんば陥る者を庇護すべし、然らば彼にも善心を添ふべく、汝の主宰の憐みは汝をも扶けん。劣弱なる者と傷心する者とは言を以て之を堅むべく、汝の手の届く丈すべての方法を以て堅めよ、然らば全宰なる右の手は汝を堅めん。祈祷の労を以ても中心の愛情を以ても傷心する者と親與せよ、然らば汝の願の為に憐みの泉は開かれん。
感動に満たさるゝ清き思念を心に有する神の前の祈祷を以て常に己を労らすべし、然らば神は汝の智を不潔汚穢なる思念より守り、神の途は汝によりて辱められざるべし。
神の書を読み、その確実なる理解を以て常に黙想を練習せよ、汝の智の閑なるに乗じて、汝の視覚が他の未だ知らざる放蕩の汚穢を以て汚されざらん為なり。
勝たれざるべしと思ふ時にも、或は放蕩なる思念を以ても、或は汝を誘惑に引き入るゝ容顔を見るを以ても己の智を試みるを決行するなかれ、何となれば賢者も此の如くして暗まされ驕傲に陥りたればなり。その肉体の強き憂なくして火焔をその懐に隠すなかれ。
青年には学ばずして聖物の軛下に自から投すること難し。智の昏昧の始は、(その徴候が心中に始て顕はるゝ時)先づ神の勤めに怠ると、祈祷に怠慢なるとに於て発見せらるべし。けだし霊魂が先づ此より離れずば、心霊上の誘惑に入るべき他の途なければなり。然して霊魂は神の助を奪はるゝならば、その敵の手に易く陥らん。且霊魂は道徳の行を等閑視するものとなるや、必ず之と反対なるものに誘はれん。けだし如何なる方面なりとも、此より他に轉ずるは、最早反対なる方面の始なり。道徳のため、及び霊魂の為に為す所あらば、無益の事に掛念するなかれ。己の弱きを不断神の前に打明すべし。然らば保護なくして独り居るも、他の為に誘はれざるべし。
十字架的実験に二様あり。性の二様なるにより彼も二部に分たるゝなり。その一は霊魂の刺激的部分の働により起さるゝ肉体の憂を忍耐するにありて、是れ所謂実験なり。之に反して他は才智の鋭敏なる活動と神聖なる黙想とにあり、同く亦祈祷を専らにする等にありて彼は霊魂の願望的部分に行はれ直覚と名づけらるゝなり。而して一者即実験なるものは熱心の力によりて霊魂の慾に属する部分を潔むべく、次者は真実なる愛の働にして即ち霊魂の聡明なる部分を光照する天然の願望なり。凡て第一の部分に於て完全に学習を為すに先だち、此の第二の部分に移り、その美に心を奪はるゝ人のことは、予は最早その怠慢は言はざるべきも『地に在る肢体』〔コロサイ三の五〕を先づ殺さざるが為に、怒は彼に及ばん、即十字架的汚辱の行為を忍耐練習するを以て意思の弱きを癒さず、却て十字架的光栄のことをその心に妄想するを敢てしたるが為に怒は及ばん。古聖のいはゆるその官能の弱きを癒して、静黙に達するに先だち、智は十字架に上るを企つるならば、神の怒は及ばんといふは、亦此義を示す。怒を招くべき此の十字架に上るの事は憂愁を忍耐する、即肉体に釘する第一の部分にあるには非ずして、人が直覚に入らんとする時にあり、されどこは霊魂を癒したる後に従ふべき第二の部分あり。耻づべき慾の為に智を汚されたる者と虚妄の念を以て智に満たさんと急ぐ者とは、先づ憂愁を以て心を潔めず、肉体の願望を制せずして、耳に聞くものと墨汁にて書したるものとに依頼し、自から目を盲まして、暗黒に満たさるゝ途を行かんと驀進するが為にその口は塞がれん。けだし視覚の健全なる者は、光に満たされ、恩寵の嚮導を己れに得るとも、日夜戦々兢々としてその目は涙に満たさるゝなり、而して彼等を途に要する甚だ恐るべきものとその遭遇する恐るべき懸崖と、欺かれ易き幻像と相混じてあらはるゝ真理の仮装の故に彼等は祈祷と涕泣とに於てその勤を終日続行し夜に至らんとす。
或人言ふ『神よりするものは自然に来る、然れども、汝は感知せざるなり』と。是れ真実なり、然れどもただ願くは場所の浄潔にして、汚さるゝ無からんことを。もし汝の心の目の眸子が不潔ならば、太陽の球体に敢て目を注するなかれ、恐らくは汝は此の小なる光線をも失ひ、即一片の信仰と謙遜と心の信認と汝の力に準する小なる行為をも失ひて、霊物の居る唯一の範囲に投ぜられん、即神の外にありて外域の幽暗と称する地獄と同じき所に投ぜらるゝこと、夫の不潔の衣を服して婚姻に来るを耻ぢざりし者の投ぜられし如くなるを免れざらん。
思の浄潔は労苦と己を守るとより流れ出づべく、思慮あることの光は思の浄潔より流れ出でん。此により才智は恩寵に依りみちびかれて、五感が権を有せざるものと教へざるものと学ばざるものとに至らん。
道徳は即体にして直覚は即ち霊なるを想ふべし、而して彼と此とは、五感に属すると霊智に属する二の部分よりして、精神を以て合成せらるゝ一の完全なる人を成す。肉体とその部分が完全に形作らるゝなくんば、霊魂は存在を受けて生ずる能はざるべし、此の如く霊魂の為に第二の直覚に達する即黙示の精神に達し、霊的種子の実質を己れに受くる子宮に於て形成せらるべき直覚に達するの事も、道徳の行為を成すなくしては能はざるべし、而して是れ即天啓を己れに受くる力を認識する者等の居る所なり。
直覚は物とその原因とに隠るゝ神聖なる奥秘を感知する是なり。世に遠ざかると世を棄つると、世にあるすべてのものより潔まるの事を聞く時は、先づ「世」といふ名称は如何なる意味なると如何なる区別により此名の成るとを理解し且認識するに通俗の意味を以てせず、純理の見解を以てせんこと汝に要用なり、然らば汝は自己の霊魂が幾ばく世に遠ざかると世より之に何を混ぜらるゝとを認識するを得ん。「世」といふ言は我等が計算する諸慾を自から包括する集合名辞なり。もし人は世の如何なるを先づ覚知せずんば、何の肢体を以て世に遠ざかり、何の肢体を以て世と結ばるゝを認識する迄に到り達せざるべし、二三の肢体を以て世より脱し、之を以て世と交るを避け、竊に己を以てその生活は世に遠ざかれりと思ふ者多し、けだし彼等はただ二の部分にて世の為に死したれど、他の肢体を以ては世に生くるを理会せず、睿智を以て悟らざるなり。然して彼等は自から己の慾をも自覚するあたはずして、既に之を自覚せざれば、之を療することにも意を致さざるなり。
理論的推究によれば世とは分ち取る所の諸慾を自から包括する集合名辞の組成をも名づく。されば慾を総括して之に名を下さんと欲するときは、之を世といへども、その名の区別により之を分たんと欲するときは、之を慾と名づくるなり。慾は連綿として継々承々する世の流れの部分なり、ゆえに慾の廃絶する処に於ては世はその連綿たる継承を止めん。慾とは左の如し、富の為及び或る物体を聚むるが為に熱中するなり、肉体上の快楽なり、結婚の熱情は之より生ず尊貴の願なり、嫉妬は之より流る、首領となりて令せんとの願なり、権勢の高きに傲然として誇るなり、修飾して意を悦ばせんとの願なり、人間の名誉を索むるなり、是れ怨の原因なり、肉体の為に恐るゝ心なり。此等の慾のその流を止むる処に於ては、世も死すべく、此等の慾の或る部分が彼処に不足する程は、それにしたがひて、世はその組織のその部分に於ては活動せずして休止するなり、聖者のことに就て或人の言ひし如し、曰く彼等は生存しつつ死せり、何となれば肉に於て生くれども、肉に従はずして生くればなりと。ゆえに汝も此等の中の何の部分を以て生くるを見よ、その時は何の部分を以て世に生きて何の部分を以て死せるを汝は認識せん。世の如何なるものたるを確知するときは此のすべての区別により何を以て世と結ばれ、何を以て世より脱するを確知せん。略して之を言へば世とは肉体的生涯と肉体の念慮をいふ。人の己を此より奪ひ去ることに依り人が世より出でたることは認識せらるゝなり。されば世より遠ざかることも左の二の徴候により認識せらるべし、即超絶なる生涯に依り及びその智見の卓越なるに依り、認識せらるゝなり。此よりして終に庶物に対する概念は汝の思に生じて、その概念により思は庶物の上に飄らん。されば性が己を強ひずして願欲するものは何なるか、汝にある所の萌芽は滅さるゝ能はざるものなるか、或はただ偶然に生ずるものなるか。智は全く無形体なるものを理解認識するに到達したるか、或は全く有形物体なるものに動かされて此の物体なるものは嗜慾的なるか。之と相準じて汝はその生涯の尺度を得ん。けだしすべて行ふ所のものに智が自然にあらはるゝ行為の具体化したる印象は是ぞ即道徳なる。善なる目的と共に身を以て労せんとする思念の熱切と集中は、もし嗜慾的にあらずんば、此の熱切を練習するが為に、原因を自から此等の印象より健然に借り来るべくして、此等の思念の隱なる印象と相会しつつ、神に於る最良なる熱心の為に無益なる記憶は常に割断せらるゝにより智は弱るなるや否やを察すべし。
此章に於て示したる此等の僅少なる徴候は、もし人は黙想に専らにして遁世生活を為すときは人を光照するが為に充分にして、こは多くの書に易ふるを得ん。肉体の為の恐れは人々に於て有力にして、之により人々は或る名誉なる事、又は尊敬すべき事をも成すに堪へざるものとなり了ること屡々之あり。しかれども肉体の為の恐れに霊魂の為の恐れが臨むときは、肉体上の恐れは心霊上の恐れに対して無力なること、恰も蠟の之を焼く火の力に於る如くなるべし。我等が神に光栄は世々に。「アミン」