シリヤの聖イサアク全書/第二十一説教の一

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第21説教の1[編集]

<< 種々しゅじゅなるこうつい問答もんどう。>>


問 人心じんしんあくむかはざらんがため如何いかなる鏈鎖れんさにてしばらるべきか。

答 つねえいしたが生命せいめいおしへにむをもっしばらるべし。けだし放恣ほうしおさへんがために、かくのごと有力ゆうりょくなる鏈鎖れんさこれあらざるなり。


問 えいしたがもの進行しんこう終極しゅうきょくなんところこれありや、その学習がくしゅう如何いかがしてまっとうせらるべきか。

答 その進行しんこうおいこの終極しゅうきょくたっせんことは、じつあたはず、なんとなれば諸聖人しょせいじんこのことおいては完全かんぜんいたまでたっせざればなり。えいみちおわりなし。これりてものかみがっするにいたまでは、上へ上へと進行しんこうす。無限むげんかれ追求ついきゅうするはこれその表徴ひょうちょうなり、なんとなればえいかみみづからなればなり。


問 われらをえいちかづかしむる第一だいいちみち如何いかなるか、そのみち起首はじめなににあるか。

答 かみえいあとしたひ、全力ぜんりょくもっ進行しんこうすると、進向しんこうおい生命せいめいおわりいたまで全霊ぜんれいもっいそぐと、もし必要ひつようあるときは生命せいめいそのものをもだっこれみづからなげうつことをさへかみあいするにより等閑とうかんせざるとにあり。


問 たれさいあるもの当然とうぜんづけらるべきか。

答 この生命いのち界限かぎりのあるを真実しんじつさとものこれなり。かれ犯罪はんざいにも界限かぎりくをべし。けだしいかなる知識ちしきあるい如何いかなる通暁さとりこれより高尚こうしょうなるか、すなはちひと智慧ちえけられ、欲望よくぼう悪臭あくしゅうけがされたるひとつ部分ぶぶんをもゆうせず、また欲望よくぼうあまきにとどめらるる霊魂れいこん何等なにら汚点おてんをもゆうせずして、この生命せいめいよりいで不朽ふきゅうるをさとるより高尚こうしょうなるものありや。けだしもし何人なんびとてん万物ばんぶつ奥秘おうひ透徹とうてつせんがために、その思想しそうり、発明はつめい観察かんさつとによりてもろもろの知識ちしきむも、その霊魂れいこんつみかいにけがされ、心中しんちゅう希望きぼうおいては証明しょうめいけざるにかかはらず、希望きぼうみなとさいわいりたりとおもふならば、かれよりなるひとやある、なんとなればかれこうむかっ不断ふだん進行しんこうするによりかれをただ此世このよ希望きぼうにみちびきしのみなればなり。


問 たれ真実しんじつもっともごうなるか。

答 生命せいめい勝利しょうりさかえかくるる一時いちじ苦阨くやくにはこころなぐさめて、ごく悪臭あくしゅう潜伏せんぷくたづぬるもの嘆息たんそく分子ぶんしましむる寛縦かんしょう[1]ねがはざるものこれなり。


問 もしたれ誘惑ゆうわくりてぜんなる行為こういよりはなるるならばかみ進行しんこうするに如何いかなるがいあるか。

答 患難かんなんなくんばかみちかづくあたはず、患難かんなんなくんば人間にんげん正義せいぎ不変ふへん不易ふえきまもられざるなり、もしひと正義せいぎ増殖ぞうしょくする行為こういつるならば、これ保護ほごする行為こういをもてん。さればかれ保護ほごせられざるたからおなじかるべく、敵軍てきぐん囲繞いぎょせるとき武装ぶそうがれたる戦士せんしおなじかるべく、綱具こうぐゆうせざるふねおなじかるべく、渾々こんこんとしてながるるみづいづみもっおおうるおされざるそのおなじかるべし。


問 たれ悟性ごせい光照こうしょうせられたるか。

答 甘味かんみうちひそまれる苦味くみたづぬるをくし、そのくちこのさかづきむをきんじ、如何いかんしてそのたましいすくはんかとつね捜索そうさくし、此世このよはなるるにいたまではその進行しんこうとどめず、五感ごかんもんぢて、この生命せいめいたいする執着しゅうじゃくねんらしめず、かれをしてその奥密おうみつなるたからうばはしめざるものこれなり。


問 とはなんぞや。かれ如何いか認識にんしきすべきか、かれあいするもの幾何いくばくがいあるか。

答 とはそのしたこれ熟視じゅくしするもの引誘いんゆうしてこれあいせしむる淫婦いんぷなり。さればいささかたりとも恋愛れんあいするじょうしゅたるありて、これほださるるものは、そのよりだっするあたはずして、はその生命せいめいうばふにいたらん。しかしてひとより一切いっさいりて、するかれをそのいえよりもちるならばそのときひとじつ淫者いんしゃたるとへんしゃたるとを確知かんちせん。しかれどもたれ此世このよ暗中あんちゅうかくまるるあいだこれよりだっせんと尽力じんりょくするも、そのみちさとるあたはざるべし。かくのごとくなればはその門徒もんと諸子しょしとを自己じこひきむるのみならず、しばらるれどむさぼらざる苦行者くぎょうしゃらをも、また鏈鎖れんさやぶりて一時いちじよりうえちしものらをもひきとむるなり。種々しゅじゅ手段しゅだんもっかれらをその行為こういおいとらへ、これをその足下そくかとうじて、蹂躙じゅうりんするを。


問 やまい困難こんなんとが身体しんたいかこみ、これあわせて意思いしぜんなるものをねがふののぞみとその最初さいしょかたきとにおいよわるときは、われこれ如何いかすべきか。

答 一半いっぱんしゅあとふてけども、一半いっぱんとどまりて、そのこころ此世このよにあるものよりだっせず、自己じこ分割ぶんかつして、或時あるときにはまえのぞめども、或時あるときにはうしろかえりみるものらをることまれなりとせず。ゆえに智者ちしゃは『二心ふたごころもっしゅくなかれ』といひ〔シラフ一の二十八ものごとものごとくべしといへるは、おもふに自己じこ分割ぶんかつしてかみ睿智えいちみちちかづくものらに教訓きょうくんあたふるなり、しゅ不充分ふじゅうぶんてて自己じこ分割ぶんかつしたるものらが肉体にくたいよくいまみづからてざるにより、畏懼いく患難かんなんとにくちり、心意しんいもって、いな確言かくげんすれば思念しねんもっうしろかえりみるをり、心意しんい衰弱すいじゃくかれらになげうたしめんとほっし、かれらに一定いってい教訓きょうくんげていへり『われしたがはんとほっせばおのれつべし』云々うんぬんといへり〔マトフェイ十六の二十四〕。


問 おのれつとはなにふか。

答 十字架じゅうじかのぼらんと準備じゅんびせしものは、そのこころ一念いちねんゆうし、かくのごとくして十字架じゅうじかのぼり、現世げんせい生命いのちふたたぶんゆうするをおもはざるならん。おのれつることを実行じっこうせんとほっするものかくごとし。けだし十字架じゅうじかとは如何いかなる患難かんなんをもけんとの意思いしこれなり。しゅ此事このこと何故なにゆえかくのごとくなるべきかをおしへんとほっするや、げていへり、此世このよきんとほっするもの真生命しんせいめいためおのれほろぼさん、しかれどもこのところおいためおのれほろぼものは、彼処かしこおいおのれん、〔マトフェイ十の二十五すなはち十字架じゅうじかみち進行しんこうしてそのあし彼処かしこおいつるものおのれんと。されどもしたれこの生命いのちのことをさらおもんばかるならば、これそのでて患難かんなんむかひし希望きぼうかれみづからうばへるなり。けだしこの念慮なんりょかれかみため患難かんなんちかづくをゆるさずして、かれこの念慮ねんりょしたがふにより、漸々ぜんぜんかれいざなふて、苦行的くぎょうてき有福ゆうふくなる生涯しょうがいうちよりひきるべくして、かれ征服せいふくするにいたまでこの念慮ねんりょかれ増々ますます成長せいちょうせん。われあいするにより、『ためおのれ生命せいめいをそのこころおいほろぼものは、』間然かんぜんするところなくそこなはれずして、永遠えいえん生命いのちまもられん、『ためその生命いのちほろぼものこれん』とはすなはち此義このぎしめすなり。さればなお此世このよおいこの生命いのちためおのれ生命いのちまったほろぼすにみづからそなへよ。もし生命いのちためおのれほろぼすならば、しゅまたおな意味いみにていへり、『なんぢ永遠えいえん生命いのちあたふること』なんぢやくせしごとくせん〔イオアン十の二十八〕。されどなんぢ生命いのちとどまるならば、約束やくそく未来みらい幸福こうふくおけ保証ほしょうとをなおこのところ実際じっさいもっなんぢらにしめさん。この生命いのちかろんずるときは、永遠えいえん生命いのちん。武装ぶそうもっ苦行くぎょう出発しゅっぱつするときは、すべ患難かんなん憂苦ゆうく思惟しいせらるるところのものは、なんぢ眼中がんちゅうかろんぜられん。けだし心がかくごと武装ぶそうせらるるときは、かれためたたかいもなく、あやうきにのぞみて憂愁ゆうしゅうすることもあるなし。ゆえにもしひと未来みらい有福ゆうふくなる生命いのちのぞむがため此世このよおけ自己じこ生活せいかつにくまずんば、毎時まいじ毎刻まいこくきたところ種々しゅじゅなる患難かんなん労苦ろうくとをまった忍耐にんたいするあたはざる所以ゆえんかくとしてらんこと肝要かんようなり。


問 如何いかんしてひと従前じゅうぜん習慣しゅうかんをすてて、欠乏けつぼう苦行的生活くぎょうてきせいかつるべきか。

答 身体しんたい奢侈しゃし懦弱だじゃくとにたすくるもののためかこまるるあいだは、その必要ひつようたさずして生活せかつするをあまんぜざらん、しかして身体しんたいすべ懦弱だじゃくしょうずるものよりのぞかれざるあいだは、もそのたい奢侈しゃしよりとどむるあたはざるべし。けだし奢侈しゃし浮華ふかとの観場かんじょうがそのまえひらかるるありて、懦弱だじゃくたすくるところのものをほとん毎時まいじざることなきときは、火焔かえんごと欲望よくぼうおこりて、かれ衝動しょうどうすることくがごとくならん。ゆえ贖罪者しょくざいしゃたるしゅはそのあとしたがっかんことを約束やくそくしたるものに、裸体らたいにしてよりづべきをいと誡命かいめいたまへり、何となれば人は凡て懦弱だじゃくたすくるところのものをみづから抛棄ほうきして、そののちこと着手ちゃくしゅせんをようすればなり。しゅみづから魔鬼まきたたかいはじむるや、いと無趣味むしゅみなるおい開戦かいせんたまへり。パウェルハリストス十字架じゅうじかおのれにになものゆうよりづべきを勧告かんこくす。いへらく『われらはかれはずかしめになひ、邑外ゆうがいでてかれくべし』〔エウレイ十三の十三〕、なんとなればしゅ邑外ゆうがいおいくるしみをうけたればなり。けだしひととすべてにあるところのものよりおのれ分離ぶんりするや、その従前じゅうぜん習慣しゅうかん従前じゅうぜん生活せいかつ有様ありさまとをすみやかわすれて、これらのためなが占有せんゆうせられざらん。これはんしてひと事物じぶつちかづかしむるにより、ただちにその智力ちりょくよわめん。ゆえに救済的きゅうさいてきおよ苦行的くぎょうてきたたかいだいなる進歩しんぽすがために、こと協力きょうりょくしてこれみちびくは何物なにものなるをらんこと肝要かんようなり、修道士しゅうどうしいおりまづしく欠乏けつぼうなる状態じょうたいにあらんことと、修道士しゅうどうしためいおり空虚くうきょにして、安息あんそくのぞみ挑発ちょうはつすべきものをいつたくはへざらんことは有益ゆうえきにして、このたたかいたすくるなり。けだしひと懦弱だじゃくならしむる原因げんいんよりとおざかるときは、ひと二様にようたたかいおいて、すなはち内部ないぶ外部がいぶたたかいおいあやうきをのがれん。かくのごと安逸あんいつたすくるものをみづからとおざくるひとはその欲望よくぼうおこすもののちかきにものすればろうせずして勝利しょうりん。けだしここには二倍にばい苦行くぎょうあるなり。

ひとはその住所じゅうしょ整頓せいとん設備せつびため必要ひつようなるものをときは、ひと要求ようきゅうたやすくかろんぜらるべく、その要求ようきゅう適宜てきぎたさざるべからざる緊要きんようときおいても、ひとこれるに欲望よくぼうもってせず、何等なんら微物びぶつもってもたいよろこばしめずして、これることかろんずべきものをるがごとくし、しょくちかづくもこれあまんずるがためにあらず、せいたすけてこれかたむるがためにせんとす。かくのごときの勉励べんれいすみやかひとみちびきてうれひずかなしまざる意思いしもっ苦行くぎょう着手ちゃくしゅせしむるにいたらん。ゆえにすべ修道士しゅうどうしたたかふものをば、これけんがため疾足しっそくして、あとかえりみづ、かれ開戦かいせんせんとするものと交通こうつうせず、これ一見いっけんするだも節制せっせいして、もしちかづききたるときは、出来得できうるだけこれとおざかるは、勉励べんれいなる修道士しゅうどうし適当てきとうなり。此事このことふはただはらためふにあらず、すべて修道士しゅうどうし自由じゆういざなはれかつこころみらるべき誘惑ゆうわくたたかいとにみちびきれんとするものにつきてふなり。けだしひとかみきたるときは、すべて件々けんけん節制せっせいすることをかみ約束やくそくするなり、すなはち婦人ふじんおもてうかがはざること、なる容顔ようがんざること、何物なにものたいしても願望がんぼういだかざること、奢侈しゃしふけらざること、装飾そうしょくせる衣服いふくざること、俗人ぞくじん開設かいせつしたるすべての陳列場ちんれつじょううかがはざること、かれらの言説げんせつかざること、およこれ好着こうちゃくせざらんことをやくす、なんとなれば慾念よくねんすべこれらのものと接近せっきんするにより、おほいなる勢力せいりょく苦行者くぎょうしゃ懦弱だじゃくにし、その思想しそう企図きととをへんぜしむるによる。それぜんなるものを一見いっけんするは、しん熱心者ねっしんしゃ同意どうい喚起かんきして、ぜんすにかたむかしむるならば、これ反対はんたいなるところのものも心意しんいあっして、これ奴隷どれいにする勢力せいりょくゆうすることあきらかなり。しかして黙想もくする心意しんい遇会ぐうかいするものは、だいなるものにはあらずして、ただこれ戦闘せんとう苦行くぎょうおとしいるるのみなるも、これまたすでだいなる損失そんしつなり、すなはち心意しんいそのものを平安へいあんなる状態じょうたいより混乱こんらんなる状態じょうたい随意ずいいおとしいるるなり。

それ奮闘ふんとうおいこころみられたるろう苦行者くぎょうしゃ一人いちにんは、ひげなくして婦人ふじんごとくなる青年せいねんみとめ、これもっ思念しねんためがいありとなし、その苦行くぎょうためどくなりとなせしならば、此聖人このせいじんりて兄弟けいてい接吻せっぷんするを躊躇ちゅうちょしたりしを、たれこれ等閑とうかんしてこれことにあらずとすをん。けんなる老人ろうじん熟々つらつらおもふやう『もしただ是夜このよおい此処こここれあいるいすることのあらんをすこしにてもおもふならば、これまたためだいなるがいとならん』と。ゆえにかれらずしてげていへり、『おそれず、さりながらなんためいたずらに自己じこむかつてたたかいおこすをねがはんや。これあいるいする何事なにごとをか想起そうきするは、こころだいなる混乱こんらんしょうぜん。えばこのかくにかくるるありて、これによりだいなるたたかいひとのぞまん、さればひと自己じこ保護ほごして、そのきたらんとするたたかいをばおのれためゆるうして、逃走とうそうもっすくはれんこと肝要かんようなり。しかれどもひとよ、何事なにごと接近せっきんきたるときは、たとひおのれぜんゆといへども、つねこれかつこれねがひつつはやくもあやうきにひんせん』。

地中ちちゅうにはおおくの埋没まいぼつせる薬物やくぶつるべきも、なつ炎熱えんねつゆえ何人なにびともこれをらず、しかるに滋潤じじゅんいたりて清涼せいりょうなる空気くうきちからるるときは、かく薬物やくぶつ地中ちちゅう何処いづこにかうづまりしものあらはるるなり。かくのごとひと黙想もくそう恩寵おんちょう節制せっせい温暖おんだんるときは、じつおおくの慾念よくねんより休止きゅうしせん、しかれどももし世事せいじ関渉かんしょうするならば、その時各ときかく慾念よくねんおこりてそのこうべあぐるをん、いわん安息あんそく香気こうきるるときおいてをや、これふは、この肉体にくたいあいだせざるあいだは、たれ自負じふおちいらざらんがためなり、かつはすべてよこしまなる生活せいかつにみちびくところのものをけ、かつこれとおざかり、苦行的くぎょうてき戦闘せんとうおいおほいひとたすくるところのものをしめさんとほっするなり。想起そうきわれらにはぢをかうむらしむるものをおそるることまたこれおなじく良心りょうしん蹂躙じゅうりんせざることとこれかろんぜざることは、つねわれらに肝要かんようなり。ついわれらは身体しんたい一時いちじとおざくるをこころみ、これをして忍耐にんたいせしめん。しかれどももっとも重要じゅうようなるは、おのおの此事このこと各人かくじんためこころいたましむべしといへどもこれためひと最早もはやなにおそるるところあらざるべし〉何処いづこにありとも、たたかい原因げんいんとなるものよりとおざかるに尽力じんりょくするにあるべし、これ需要じゅようしょうきたらんとき、その要求ようきゅうたすべきもののちかきにあるがためこれおちいるをまぬかれんためなり。


問 種々しゅじゅ引誘いんゆうみづからちて苦行くぎょうものは、つみたたかふに如何いかなる起初きしょ如何いか奮闘ふんとうはじむべきか。

答 すべてつみ欲望よくぼうとにたたかふがため起初きしょとなるべきものは、労苦ろうく儆醒けいせい禁食きんしょくとなることは衆人しゅうじんところなり、いはんやもしたれわれらが内部ないぶところつみたたかふにおいてをや。えざるたたかいものらがつみ欲望よくぼうとにたいしてこれにくむの徴候ちょうこうこれもっみとめらるべくして、かれらは禁食きんしょくもっこれはじめ、そののち夜間やかん儆醒けいせい苦行くぎょうたすくるなり。

脚注[編集]

  1. 投稿者注:望むまま、自由に行動できること。