<< 神の子の人体を藉る事。 >>
神の独生の子たる彼は自らまた処女より生れたまひしを信ずべし、福音者イオアンのいふ所を信ぜよ、曰く『言は肉身となりて我等の中に宿れり』〔イオアン一の十四〕。永遠の言は世々の先に父より生れたり、然れども彼は近き世に於て我等の為に肉身をうけ給へり。
イイススは何の為に降り給ひしや、……そもそも神は六日の間に世界をつくりたまへり、然れども世界は人の為につくられたり。太陽は赫々たる光線をもてひかり輝く、然れども彼は人を照らさんが為に存在をうけたり。又あらゆる動物も我等につとめんが為に造られたり。草木も我等を楽ましめんが為につくられたり。ことごとくの造物は最美はし、然れどもその中の一も神の像なるものはあらず、神の像はただ人のみなり。太陽は一の命令にてつくられたり、然れども人は神の手を以てつくられたり。『我等の像により、肖せて人を造らん』〔創世記一の二十六〕といへり。それ此世の王の木像さへも尊宗せらるるならば、况や神の霊像は尊宗せらるること豈当然にあらずや。さりながら此の楽園に在りて悦び楽み、造物中の最も卓絶なる者は魔鬼の猜みによりて彼処より逐出されき。その憎む所の者の陥りしや、敵は大に喜べり。汝は敵の続いて喜ばんことを欲するか。彼は男子にはその剛強なるがために敢て近づかずして、最荏弱なる者に就けり、即尚処女なりし婦に就けり。けだし既に楽園より逐はれたる後『アダムはその妻エワを知りしなり』〔創世記四の一〕。
人間の第二嗣者はカインとアウェリなりき。然れどもカインは殺人者の嚆矢となれり。後来人類の大悪により、洪水地に氾濫せり。ソドム人の不法の為に天より火降れり。時を経て神はイズライリ民を選び給へり。然れども此の民も放蕩に陥りて選族は傷つけられたり。けだしモイセイが山上に於て神の前に立ちしに、民は神に代へて金牛を拝せり。立法者モイセイの時、告て『淫を行ふなかれ』〔出埃及記二十の十四〕との給へり、然るにイズライリ民は淫所に入りて、敢て淫を縦にせり〔民数記二十五の八〕。モイセイの後イズライリ民を療せんが為に預言者らをつかはし給へり、然れども療する者らは病に勝つあたはずして、此を涕泣せり、けだしその中の一人言へり、曰く『アア我は禍なるかな、善人地に絶え、人の中に直き者なし』〔ミヘイ七の二〕又言ふあり『皆迷ひ、均しく朽ち敗れたり、善を行ふ者なし、一も亦なし』〔聖詠十三の三(詩編十四の三)〕又言ふあり『詛ひ、偽り、兇殺、盗賊、姦淫のみにして、血地につづき流る』〔オシヤ四の二〕『己の子と己の女とを悪魔に献祭し』〔聖詠百五の三十七(詩編百六の三十七)〕鳥占、魔法、妖術を行へり。又言ふあり『彼等は質にとれる衣服を諸々の壇の傍らに敷いてその上に俯し、罰金をもて得たる酒をその神の家に飲む』〔アモス二の八〕。
人間のかうむりたる傷は甚だ大なり『足のうらより頭に至るまで〔彼には〕全きところなく、これを合すものなく、包むものなく、亦あぶらにて軟ぐる者もなし』〔イサイヤ一の六〕。此の後預言者らは痛嘆大息して言へること下の如し、曰く『誰かシオンより救をイズライリに與へんや』〔聖詠十三の七(詩編十四の七)〕。又曰く『願はくは汝の手は汝が右の手の人の上に、汝が己の為に固めし人の子の上にあらん。我等も汝より離れざらん』〔聖詠七十九の十八、十九(詩編八十の十八、十九)〕。且預言者の或者は祈願していへらく『主や天を傾けて降りたまへ』〔聖詠百四十三の五(詩編百四十四の五)〕。人間の傷は我等の治術の助を超え、『汝の預言者を殺し、汝の壇を毀つ』〔列王記上十九の十〕。とこれいふ意は悪は我等に於て改めらるるあたはざるものとなりぬ、改善者とならんことは汝に必要なりとなり。
預言者らの祈りを主は聴き給へり。我等人類の亡びんことを父はかろんぜずして、その子なる主を天より医者としてつかはし給へり。されば或る預言者はいへらく『汝等求むるところの主は忽に来らん』〔マラヒヤ三の一〕。されども彼は何処に来るか。主は汝等が石を投げたる己の殿に来らん〔イオアン八の五十九〕。その後他の預言者は此をききていへらく神の救を報ずるに何故ひそかにいふか。神の救の臨格を福音するに何故隠処にいふか。『よき音信をシオンに傳ふる者や、高き山にのぼれ、イウデヤのもろもろの邑につげよ』〔イサイヤ四十の九〕。されど何をつぐるか。曰く『視よ汝等の神を、みよ主は能力をもて来らん』〔同十〕。主は亦自ら告て左の如く言へり、曰く『みよ我れ来りて汝等の中に住まん、許多の民は主に趨り附かん』〔ザハリヤ二の十、十一〕。イズライリの民は我がなしし所の救を拒めり、『我れ来らばもろもろの民と族とをあつめん』〔イサイヤ六十六の十八〕。けだし『彼は己の領分に来りしに、領分の民彼をうけざればなり』〔イオアン一の十一〕。爾は来らん、然れども民に何を賜ふか、曰く『我れ来らばもろもろの民をあつめて、かれらの中に休徴をたてん』。いふ意は我が十字架に難をうくるによりて我が軍兵におのおのその額に王たる休徴をしるさしめんとなり[1]。又他の預言者はいへらく『天を傾けて降れり、その足下は闇冥なり』〔聖詠十七の十(詩編十八の十)〕。けだし天より降るは人々に知れざりしなり。
その後ソロモンは父なるダウィドの此をいひしをききて神の稀有なる家を建て又これに来らんとする者を預め見て、おどろきて問へり『神は実に人と共に地に住み給ふや』と〔列王記上八の二十七〕。さりながらこれに先だちてダウィドは聖詠に於てこれが答をなしぬ、そのソロモンの事の詠に曰く『彼は降ること羊毛の上に降る雨の如くならん』〔聖詠七十一の六(詩編七十二の六)〕。雨とは天にある者の為にいひ、羊毛の上とは人間の為にいふなり。けだし羊毛の上に降る所の雨はさはがしきことなうして降らん。故に博士らも降生の奥義を知らざるが為に問ふていへり『イウデヤの王は何処に生るべきや』〔マトフェイ二の二〕。又懼れを懐けるイロドは生れし者の事を詮索して言へり、『ハリストスは何処に生るべきや』〔同四〕。
此の降る所の者は誰なりや。ダウィドは前條聖詠の言の続きに於ていへり、曰く『日月の在る時、人汝を世々に畏れん』〔聖詠七十一の五(詩編七十二の五)〕。又他の預言者もいへり、曰く『シオンの女や、大に喜べ、イェルサリムの女や、呼はれ、みよ汝の王は汝に来る、彼は正しくして救を賜ふ』〔ザハリヤ九の九〕。それ王は多し、預言者や、汝が言ふ所は何れの王を指すか。他の諸王の有たざる徴候を我等に示し給へ。もし王は紫紺衣を衣るといはば此の如き衣服の尊きは他の諸王の預て有する所ならん。もし軍兵に護衛せられ、鍛金製の車に乗るといはばこれも他の諸王の預て有する所ならん、王の特別なる徴候を我等に示し、その来るを報ずべしといはんか。然るに預言者はこれに答へていへらく『視よ汝の王は汝に来らんとす、彼は正しくして救を賜ふ、彼は温柔にして牝驢及び驢駒に乗る』、さりながら車には乗らずといへり。これぞ将に来らんとする王の本来独一の徴候なる。諸王の中ただひとりイイススは未だ己に軛を駕せざる驢駒に乗り、大なる頌讃の中に王としてイェルサリムに入り給ひき。さて此の入り給ひし王は何を行はんとするか。『汝についてはまた汝の契約の血の為に我かの水なき坑より汝の被俘人を放出さん[2]』〔ザハリヤ九の十一〕。
さりながら他の王も驢駒に乗ることを得ん。我等に尚精しく徴候を示し給へ、入る所の王は何処に止まらんとするか、城より遠く隔たらざる処に於て徴候を示し給へ、我等知らずに終らざらんが為なり、我等に近く顕然たる徴候を示し給へ、我等城中にありてその場所を見んが為なりといはんか。預言者は更にこれに答へて言へり、曰く『その日にはイェルサリムの前に当り、東にある所の橄欖山の上に彼の足立たん』〔ザハリヤ十四の四〕。されば誰か城中にありて此の場所を見ざるあらんや。
我等は二つの徴候を有す、されども彼等は第三の徴候をも知らんと欲す。来る所の主は何を行はんとするか、我等に告げ給へ。そも他の預言者はいへらく『視よ我等の神、云々彼は来りて我等を救ひ給ふべし。その時瞽者の目はひらけ、聾者の耳はあくことを得べし。その時跛者は鹿のごとく飛び走り、唖者の舌はうたうたはん』〔イサイヤ三十五の四-六〕。我等には又他の證をも告げらるべし。預言者よ、汝は将に来らんとする者を称して未だ嘗て有らざる休徴を行ふの主と曰ふ。さりながら汝は他のいかなる明白の徴候を告げんとするか。曰く『主は自ら民の長老とそのもろもろの君と共にさばきに入り給はん』〔イサイヤ三の十四〕。主が僕たる長老らにさばかれてこれを忍び給ふはこれぞ特殊の徴候なる。
イウデヤ人らは此をよむも心を留めず、何故なれば彼等は心の耳をふさぎて聴かざりしによる。然れども我等はイイスス ハリストスの肉体により来りて人となれるを信ず、何故なればもし然らざらんには我等の為に近づくことあたはざればなり。けだし我等は彼れの自ら有する所のものを見ることも又これを楽むこともあたはざるにより、彼は我等とひとしき者となり給へり、これ我等の彼をもて楽むを得んが為なり。けだし我等は第四日に造られたる太陽をさへ全く見る能はずんば、これをつくれる造物主神をいかんして見るを得んや。主は西乃山の上に於て火中に降り給ひしに、民はこれに堪ふる能はず、モイセイにつげていへり、曰く『汝我等と語れ、我等きかん。ただ神が我等と語り給ふことあらざらしめよ、恐らくは我等死なん』〔出埃及記二十の十九〕。又いふあり『肉身の者の中誰かよく火の中よりいひ給ふ活神の声をききて生くる者あらんや』〔復傳律令五の二十六〕。それ神がいひ給ふ声をきくさへも死の因とならば、神その者を見るはいかんぞ。死の因とならざらんや。これ何ぞ怪しむに足らんや。モイセイは自らいへり、曰く『恐懼戦慄せり』〔エウレイ十二の二十一〕。
然らば汝は何を願ふか。救ひの為に来りし者が淪亡の因とならんことを願ふか、何故なれば彼の来るは人々の為に堪ふるあたはざればなり。或は恩寵が我等と相応せんことを願ふか[3]。ダニイルは神使の現はれにさへ堪へ得ざりき、然るを汝は神使の主宰の面を見るに自ら堪ふるか。ガウリイル現はれしにダニイルは面を伏せり。さて此の現はれし者はいかなる形状にてその前に立ちしや。その面は電光の如し、されども太陽の如くなるにはあらず、又その目は火の焔の如くして火炉の如くなるにはあらず、その言ふ声は群集の声の如くして〔ダニイル十の六〕神使の十二軍隊の声の如くにはあらざりき。然れども預言者は地に俯伏せり、神使は彼に近づきて言へり、ダニイルよ、恐るるなかれ、起てよ、力を厲ませよ、汝の言はきかれたりと〔十二〕。然るにダニイルは言へり、此の時我れ戦きて立てりと〔十一〕。さて此のすべての時に於て人手のごときものありて彼にふれざりし間は彼は何も答へざりき、〔十〕而して此の現はれし者が人の形の如くに変化したる時にダニイル始めて口をひらきていへり。彼は何をいひしや。『主よ汝の示現によりて我れ恐れに堪へず、全く力をうしなへり、〔十六〕気息も止まらんばかりなりし』〔十七〕といへり。それ此の現はれし神使は預言者の声をも力をもうばひしならば神の現はるるは豈気息を存さんや。聖書に『人の形の如きもの触らざりし』間は、ダニイル言ふを敢てせざりしといへり。ゆえに我等が劣弱は実際に證されたるにより、主は人の要する所のものを己にうけ給へり。人は己れと同形なる者よりきかんことを要したるにより、救世主は我等と同形なるものを己れにうけ給へり、人々の大に学び易からんが為なり。
さりながら汝は又主の来りし他の因由をも聴聞せよ。ハリストスは自ら洗礼をうけて洗礼を聖にせんが為に来り、又海水の上を歩みて奇跡を行はんが為に来り給へり、けだし彼が肉体によりて来らるる先きには『海は見て走りイオルダンは退けり』〔聖詠百十三の三(詩編百十四の三)〕ゆえに主の己れに体をうけ給ひしは、海は見てとどまり、イオルダンは恐れずして彼をうけんが為なり。これ一の因由なり、さりながら又他の因由もこれあり。処女エワによりて死は入りぬ、故に必ず処女により、否精しくいはば処女より生命はあらはれざるべからず、蛇の彼をいざなひし如くガウリイルの此を福音せんが為なり。人々は神をすてて自ら人形をきざめる像をつくりぬ。故に人々偽りて、人形をきざめる像を神の如く拝し始めたる時、神は実に人となり給へり、偽りを滅ぼさんが為なり。魔鬼は我等に対して肉体を器械の如く利用せり、故に此を知りてパウェルはいへり『我が肢体に他の法あり、我が心の法とたたかひて我を虜にし』云々〔ローマ七の二十三〕。是故に魔鬼が我等を倒したると同じき器械を以て我等は救はれたり。人間を救はんが為に主は我等と同様なるものをうけ給へり、乏しき所の者にいよいよ多く恩寵をあたへんが為、又罪ある人間の神と体合せんが為に我等と同様なるものをうけ給へり。『然れども罪の増す所には恩寵も愈増されり』〔ローマ五の二十〕。主は我等の為に必ず苦をうくべかりき、然れどももし魔鬼は彼を知りしならば彼に近づくを敢てせざりしならん。『もし識らば栄の主を十字架に釘せざりしならん』〔コリンフ前二の八〕、故に体は死の餌となれり、蛇の呑まんと欲して呑みし者をも吐き出さんが為なり。けだし『とこしへまで死を呑み給はん[4]神はすべての面より涙をぬぐひ給はん』〔イサイヤ二十五の八〕。
- ↑ 原文注1:我は十字架に苦しみをうくるより霊神上の敵〔魔鬼、世俗、及び肉身〕とたたかふ我が門徒におのおのその額に王たる記号即十字形なる勝利の記号をしるすの権を與へん。
- ↑ 原文注2:いふ意は汝が十字架に流したる血により罪に縛られたる者を永遠の死より放出さんとなり。
- ↑ 原文注3:いふ意は我等が主イイスス ハリストスの恩寵により救ひの為に世に来るは、汝の智慧の為に曉り得らるべき様子にて成らんことを願ふかとなり。
- ↑ 原文注4:いふ意は主は己の死を以て永遠の死を滅ぼさんとなり。