コンテンツにスキップ

イェルサリム大主教聖キリール教訓/第三講話

正教の首(おも)なる定理

[編集]

<< 神の子の人体を藉(か)る事。 >>

神(かみ)の独生(どくせい)の子(こ)たる彼(かれ)は自(みづか)らまた処女(しょじょ)より生(うま)れたまひしを信(しん)ずべし、福音(ふくいん)者(しゃ)イオアンのいふ所(ところ)を信(しん)ぜよ、曰(いは)く『言(ことば)は肉身(にくしん)となりて我(われ)等(ら)の中(うち)に宿(たど)れり』〔イオアン一の十四〕。永遠(えいえん)の言(ことば)は世々(よよ)の先(さき)に父(ちち)より生(うま)れたり、然(しか)れども彼(かれ)は近(ちか)き世(よ)に於(おい)て我(われ)等(ら)の為(ため)に肉身(にくしん)をうけ給(たま)へり。

イイススは何(なに)の為(ため)に降(くだ)り給(たま)ひしや、……そもそも神(かみ)は六日(むいか)の間(あいだ)に世界(せかい)をつくりたまへり、然(しか)れども世界(せかい)は人(ひと)の為(ため)につくられたり。太陽(たいよう)は赫々(かくかく)たる光線(こうせん)をもてひかり輝(かがや)く、然(しか)れども彼(かれ)は人(ひと)を照(て)らさんが為(ため)に存在(そんざい)をうけたり。又(また)あらゆる動物(どうぶつ)も我(われ)等(ら)につとめんが為(ため)に造(つく)られたり。草木(そうもく)も我(われ)等(ら)を楽(たのし)ましめんが為(ため)につくられたり。ことごとくの造物(ぞうぶつ)は最(いと)美(うる)はし、然(しか)れどもその中(うち)の一(ひとつ)も神(かみ)の像(ぞう)なるものはあらず、神(かみ)の像(ぞう)はただ人(ひと)のみなり。太陽(たいよう)は一(いつ)の命令(めいれい)にてつくられたり、然(しか)れども人(ひと)は神(かみ)の手(て)を以(もつ)てつくられたり。『我(われ)等(ら)の像(ぞう)により、肖(に)せて人(ひと)を造(つく)らん』〔創世記一の二十六〕といへり。それ此(この)世(よ)の王(おう)の木像(もくぞう)さへも尊宗(そんそう)せらるるならば、况(いはん)や神(かみ)の霊像(れいぞう)は尊宗(そんそう)せらるること豈(あに)当然(とうぜん)にあらずや。さりながら此(こ)の楽園(らくえん)に在(あ)りて悦(よろこ)び楽(たのし)み、造物中(ぞうぶつちゅう)の最(もっと)も卓絶(たくぜつ)なる者(もの)は魔鬼(まき)の猜(そね)みによりて彼処(かしこ)より逐(おひ)出(いだ)されき。その憎(にく)む所(ところ)の者(もの)の陥(おちい)りしや、敵(てき)は大(おほい)に喜(よろこ)べり。汝(なんぢ)は敵(てき)の続(つづ)いて喜(よろこ)ばんことを欲(ほつ)するか。彼(かれ)は男子(だんし)にはその剛強(ごうきょう)なるがために敢(あえ)て近(ちか)づかずして、最(もっとも)荏弱(にんじゃく)なる者(もの)に就(つ)けり、即(すなはち)尚(なお)処女(しょじょ)なりし婦(おんな)に就(つ)けり。けだし既(すで)に楽園(らくえん)より逐(お)はれたる後(のち)『アダムはその妻(つま)エワを知(し)りしなり』〔創世記四の一〕。

人間(にんげん)の第二(だいに)嗣者(ししゃ)はカインとアウェリなりき。然(しか)れどもカインは殺人者(さつじんしゃ)の嚆(こう)矢(し)となれり。後来(こうらい)人類(じんるい)の大悪(だいあく)により、洪水(こうずい)地(ち)に氾濫(はんらん)せり。ソドム人(じん)の不法(ふほう)の為(ため)に天(てん)より火(ひ)降(ふ)れり。時(とき)を経(へ)て神(かみ)はイズライリ民(みん)を選(えら)び給(たま)へり。然(しか)れども此(こ)の民(たみ)も放蕩(ほうとう)に陥(おちい)りて選族(せんぞく)は傷(きず)つけられたり。けだしモイセイが山上(さんじょう)に於(おい)て神(かみ)の前(まえ)に立(た)ちしに、民(たみ)は神(かみ)に代(か)へて金牛(きんぎゅう)を拝(はい)せり。立法者(りっぽうしゃ)モイセイの時(とき)、告(つげ)て『淫(いん)を行(おこな)ふなかれ』〔出(しゅつ)埃及(エジプト)記二十の十四〕との給(たま)へり、然(しか)るにイズライリ民(みん)は淫所(いんしょ)に入(い)りて、敢(あえ)て淫(いん)を縦(ほしいまま)にせり〔民数記二十五の八〕。モイセイの後(のち)イズライリ民(みん)を療(りょう)せんが為(ため)に預言者(よげんしゃ)らをつかはし給(たま)へり、然(しか)れども療(りょう)する者(もの)らは病(やまい)に勝(か)つあたはずして、此(これ)を涕泣(ていきゅう)せり、けだしその中(うち)の一人(いちにん)言(い)へり、曰(いは)く『アア我(われ)は禍(わざわい)なるかな、善人(ぜんにん)地(ち)に絶(た)え、人(ひと)の中(うち)に直(なお)き者(もの)なし』〔ミヘイ七の二〕又(また)言(い)ふあり『皆(みな)迷(まよ)ひ、均(ひとし)しく朽(く)ち敗(やぶ)れたり、善(ぜん)を行(おこな)ふ者(もの)なし、一(いつ)も亦(また)なし』〔聖詠十三の三(詩編十四の三)〕又(また)言(い)ふあり『詛(のろ)ひ、偽(いつわ)り、兇殺(きょうさつ)、盗賊(とうぞく)、姦淫(かんいん)のみにして、血地(ちち)につづき流(なが)る』〔オシヤ四の二〕『己(おのれ)の子(こ)と己(おのれ)の女(むすめ)とを悪魔(あくま)に献祭(けんさい)し』〔聖詠百五の三十七(詩編百六の三十七)〕鳥占(ちょうせん)、魔法(まほう)、妖術(ようじゅつ)を行(おこな)へり。又(また)言(い)ふあり『彼(かれ)等(ら)は質(しち)にとれる衣服(いふく)を諸々(もろもろ)の壇(だん)の傍(かたわ)らに敷(し)いてその上(うえ)に俯(ふ)し、罰金(ばっきん)をもて得(え)たる酒(さけ)をその神(かみ)の家(いえ)に飲(の)む』〔アモス二の八〕。

人間(にんげん)のかうむりたる傷(きず)は甚(はなは)だ大(おほい)なり『足(あし)のうらより頭(かしら)に至(いた)るまで〔彼には〕全(まった)きところなく、これを合(あは)すものなく、包(つつ)むものなく、亦(また)あぶらにて軟(やわら)ぐる者(もの)もなし』〔イサイヤ一の六〕。此(こ)の後(のち)預言者(よげんしゃ)らは痛嘆(つうたん)大息(たいそく)して言(い)へること下(しも)の如(ごと)し、曰(いは)く『誰(たれ)かシオンより救(すくい)をイズライリに與(あた)へんや』〔聖詠十三の七(詩編十四の七)〕。又(また)曰(いは)く『願(ねが)はくは汝(なんぢ)の手(て)は汝(なんぢ)が右(みぎ)の手(て)の人(ひと)の上(うえ)に、汝(なんぢ)が己(おのれ)の為(ため)に固(かた)めし人(ひと)の子(こ)の上(うえ)にあらん。我(われ)等(ら)も汝(なんぢ)より離(はな)れざらん』〔聖詠七十九の十八、十九(詩編八十の十八、十九)〕。且(かつ)預言者(よげんしゃ)の或(ある)者(もの)は祈願(きがん)していへらく『主(しゅ)や天(てん)を傾(かたぶ)けて降(くだ)りたまへ』〔聖詠百四十三の五(詩編百四十四の五)〕。人間(にんげん)の傷(きず)は我(われ)等(ら)の治術(ちじゅつ)の助(たすけ)を超(こ)え、『汝(なんぢ)の預言者(よげんしゃ)を殺(ころ)し、汝(なんぢ)の壇(だん)を毀(こぼ)つ』〔列王記上十九の十〕。とこれいふ意(こころ)は悪(あく)は我(われ)等(ら)に於(おい)て改(あらた)めらるるあたはざるものとなりぬ、改善者(かいぜんしゃ)とならんことは汝(なんぢ)に必要(ひつよう)なりとなり。

預言者(よげんしゃ)らの祈(いの)りを主(しゅ)は聴(き)き給(たま)へり。我(われ)等(ら)人類(じんるい)の亡(ほろ)びんことを父(ちち)はかろんぜずして、その子(こ)なる主(しゅ)を天(てん)より医者(いしゃ)としてつかはし給(たま)へり。されば或(あ)る預言者(よげんしゃ)はいへらく『汝(なんぢ)等(ら)求(もと)むるところの主(しゅ)は忽(たちまち)に来(きた)らん』〔マラヒヤ三の一〕。されども彼(かれ)は何処(いづこ)に来(きた)るか。主(しゅ)は汝(なんぢ)等(ら)が石(いし)を投(な)げたる己(おのれ)の殿(でん)に来(きた)らん〔イオアン八の五十九〕。その後(のち)他(た)の預言者(よげんしゃ)は此(これ)をききていへらく神(かみ)の救(すくい)を報(ほう)ずるに何故(なにゆえ)ひそかにいふか。神(かみ)の救(すくい)の臨格(りんかく)を福音(ふくいん)するに何故(なにゆえ)隠処(いんしょ)にいふか。『よき音信(いんしん)をシオンに傳(つた)ふる者(もの)や、高(たか)き山(やま)にのぼれ、イウデヤのもろもろの邑(まち)につげよ』〔イサイヤ四十の九〕。されど何(なに)をつぐるか。曰(いは)く『視(み)よ汝(なんぢ)等(ら)の神(かみ)を、みよ主(しゅ)は能力(のうりょく)をもて来(きた)らん』〔同十〕。主(しゅ)は亦(また)自(みづか)ら告(つげ)て左(さ)の如(ごと)く言(い)へり、曰(いは)く『みよ我(わ)れ来(きた)りて汝(なんぢ)等(ら)の中(うち)に住(す)まん、許多(おほく)の民(たみ)は主(しゅ)に趨(はし)り附(つ)かん』〔ザハリヤ二の十、十一〕。イズライリの民(たみ)は我(わ)がなしし所(ところ)の救(すくい)を拒(こば)めり、『我(わ)れ来(きた)らばもろもろの民(たみ)と族(ぞく)とをあつめん』〔イサイヤ六十六の十八〕。けだし『彼(かれ)は己(おのれ)の領分(りょうぶん)に来(きた)りしに、領分(りょうぶん)の民(たみ)彼(かれ)をうけざればなり』〔イオアン一の十一〕。爾(なんぢ)は来(きた)らん、然(しか)れども民(たみ)に何(なに)を賜(たま)ふか、曰(いは)く『我(わ)れ来(きた)らばもろもろの民(たみ)をあつめて、かれらの中(うち)に休徴(しるし)をたてん』。いふ意(こころ)は我(わ)が十字架(じゅうじか)に難(なん)をうくるによりて我(わ)が軍兵(ぐんぺい)におのおのその額(ひたい)に王(おう)たる休徴(しるし)をしるさしめんとなり[1]。又(また)他(た)の預言者(よげんしゃ)はいへらく『天(てん)を傾(かたぶ)けて降(くだ)れり、その足下(あしもと)は闇冥(あんめい)なり』〔聖詠十七の十(詩編十八の十)〕。けだし天(てん)より降(くだ)るは人々に知(し)れざりしなり。

その後(のち)ソロモンは父(ちち)なるダウィドの此(これ)をいひしをききて神(かみ)の稀有(けう)なる家を建て又(また)これに来(きた)らんとする者(もの)を預(あらかじ)め見(み)て、おどろきて問(と)へり『神(かみ)は実(じつ)に人(ひと)と共(とも)に地(ち)に住(す)み給(たま)ふや』と〔列王記上八の二十七〕。さりながらこれに先(さき)だちてダウィドは聖詠(せいえい)に於(おい)てこれが答(こたえ)をなしぬ、そのソロモンの事(こと)の詠(えい)に曰(いは)く『彼(かれ)は降(くだ)ること羊毛(ひつじのけ)の上(うえ)に降(ふ)る雨(あめ)の如(ごと)くならん』〔聖詠七十一の六(詩編七十二の六)〕。雨(あめ)とは天(てん)にある者(もの)の為(ため)にいひ、羊毛(ひつじのけ)の上とは人間(にんげん)の為(ため)にいふなり。けだし羊毛(ひつじのけ)の上に降(ふ)る所(ところ)の雨(あめ)はさはがしきことなうして降(くだ)らん。故(ゆえ)に博士(はかせ)らも降生(こうせい)の奥義(おうぎ)を知(し)らざるが為(ため)に問(と)ふていへり『イウデヤの王(おう)は何処(いづこ)に生(うま)るべきや』〔マトフェイ二の二〕。又懼(おそ)れを懐(いだ)けるイロドは生(うま)れし者(もの)の事(こと)を詮索(せんさく)して言(い)へり、『ハリストスは何処(いづこ)に生(うま)るべきや』〔同四〕。

此(こ)の降(くだ)る所(ところ)の者(もの)は誰(たれ)なりや。ダウィドは前條(ぜんじょう)聖詠(せいえい)の言(ことば)の続(つづ)きに於(おい)ていへり、曰(いは)く『日月(じつげつ)の在(あ)る時(とき)、人(ひと)汝(なんぢ)を世々(よよ)に畏(おそ)れん』〔聖詠七十一の五(詩編七十二の五)〕。又(また)他(た)の預(よ)言(げん)者(しゃ)もいへり、曰(いは)く『シオンの女(むすめ)や、大(おほい)に喜(よろこ)べ、イェルサリムの女(むすめ)や、呼(よば)はれ、みよ汝(なんぢ)の王(おう)は汝(なんぢ)に来(きた)る、彼(かれ)は正(ただ)しくして救(すくい)を賜(たま)ふ』〔ザハリヤ九の九〕。それ王(おう)は多(おほ)し、預言者(よげんしゃ)や、汝(なんぢ)が言(い)ふ所(ところ)は何(いづ)れの王(おう)を指(さ)すか。他(た)の諸王(しょおう)の有(も)たざる徴候(ちょうこう)を我(われ)等(ら)に示(しめ)し給(たま)へ。もし王(おう)は紫紺(しこん)衣(い)を衣(き)るといはば此(かく)の如(ごと)き衣服(いふく)の尊(とおと)きは他(た)の諸王(しょおう)の預(かね)て有(ゆう)する所(ところ)ならん。もし軍兵(ぐんぺい)に護衛(ごえい)せられ、鍛金(たんきん)製(せい)の車(くるま)に乗(の)るといはばこれも他(た)の諸王(しょおう)の預(かね)て有(ゆう)する所ならん、王(おう)の特別(とくべつ)なる徴候(ちょうこう)を我(われ)等(ら)に示(しめ)し、その来(きた)るを報(ほう)ずべしといはんか。然(しか)るに預言者(よげんしゃ)はこれに答(こた)へていへらく『視(み)よ汝(なんぢ)の王(おう)は汝(なんぢ)に来(きた)らんとす、彼(かれ)は正(ただ)しくして救(すくい)を賜(たま)ふ、彼(かれ)は温柔(おんじゅう)にして牝驢(ひんろ)及(およ)び驢駒(ろく)に乗(の)る』、さりながら車(くるま)には乗(の)らずといへり。これぞ将(まさ)に来(きた)らんとする王(おう)の本来(ほんらい)独一(どくいつ)の徴候(ちょうこう)なる。諸王(しょおう)の中(うち)ただひとりイイススは未(いま)だ己(おのれ)に軛(くびき)を駕(が)せざる驢駒(ろく)に乗(の)り、大(おほい)なる頌讃(しょうさん)の中(うち)に王(おう)としてイェルサリムに入(い)り給(たま)ひき。さて此(こ)の入(い)り給(たま)ひし王(おう)は何(なに)を行(おこな)はんとするか。『汝(なんぢ)についてはまた汝(なんぢ)の契約(けいやく)の血(ち)の為(ため)に我(われ)かの水(みづ)なき坑(あな)より汝(なんぢ)の被俘(とらわれ)人(びと)を放出(はなちいだ)さん[2]』〔ザハリヤ九の十一〕。

さりながら他(た)の王(おう)も驢駒(ろく)に乗(の)ることを得(え)ん。我(われ)等(ら)に尚(なお)精(くわ)しく徴候(ちょうこう)を示(しめ)し給(たま)へ、入(い)る所(ところ)の王(おう)は何処(いづこ)に止(とど)まらんとするか、城(しろ)より遠(とお)く隔(へだ)たらざる処(ところ)に於(おい)て徴候(ちょうこう)を示(しめ)し給(たま)へ、我(われ)等(ら)知(し)らずに終(おは)らざらんが為(ため)なり、我(われ)等(ら)に近(ちか)く顕然(けんぜん)たる徴候(ちょうこう)を示(しめ)し給(たま)へ、我(われ)等(ら)城中(じょうちゅう)にありてその場所(ばしょ)を見(み)んが為(ため)なりといはんか。預(よ)言(げん)者(しゃ)は更(さら)にこれに答(こた)へて言(い)へり、曰(いは)く『その日(ひ)にはイェルサリムの前(まえ)に当(あた)り、東(ひがし)にある所(ところ)の橄欖山(かんらんざん)の上に彼(かれ)の足(あし)立(た)たん』〔ザハリヤ十四の四〕。されば誰(たれ)か城中(じょうちゅう)にありて此(こ)の場所(ばしょ)を見(み)ざるあらんや。

我(われ)等(ら)は二(ふた)つの徴候(ちょうこう)を有(ゆう)す、されども彼(かれ)等(ら)は第三の徴候(ちょうこう)をも知(し)らんと欲(ほつ)す。来(きた)る所(ところ)の主(しゅ)は何(なに)を行(おこな)はんとするか、我(われ)等(ら)に告(つ)げ給(たま)へ。そも他(た)の預言者はいへらく『視(み)よ我(われ)等(ら)の神(かみ)、云々(うんぬん)彼(かれ)は来(きた)りて我(われ)等(ら)を救(すく)ひ給(たま)ふべし。その時瞽者(めしひ)の目(め)はひらけ、聾者(みみしひ)の耳(みみ)はあくことを得(う)べし。その時跛者(あしなへ)は鹿(しか)のごとく飛(と)び走(はし)り、唖者(おふし)の舌(した)はうたうたはん』〔イサイヤ三十五の四-六〕。我(われ)等(ら)には又(また)他(た)の證(あかし)をも告(つ)げらるべし。預言者よ、汝は将(まさ)に来(きた)らんとする者(もの)を称(しょう)して未(いま)だ嘗(かつ)て有(あ)らざる休徴(しるし)を行(おこな)ふの主(しゅ)と曰(い)ふ。さりながら汝(なんぢ)は他(た)のいかなる明白(めいはく)の徴候(ちょうこう)を告(つ)げんとするか。曰(いは)く『主(しゅ)は自(みづか)ら民(たみ)の長老(ちょうろう)とそのもろもろの君(きみ)と共(とも)にさばきに入(い)り給(たま)はん』〔イサイヤ三の十四〕。主(しゅ)が僕(ぼく)たる長老(ちょうろう)らにさばかれてこれを忍(しの)び給(たま)ふはこれぞ特殊(とくしゅ)の徴候(ちょうこう)なる。

イウデヤ人らは此(これ)をよむも心(こころ)を留(と)めず、何故(なにゆえ)なれば彼(かれ)等(ら)は心(こころ)の耳(みみ)をふさぎて聴(き)かざりしによる。然(しか)れども我(われ)等(ら)はイイスス ハリストスの肉体(にくたい)により来(きた)りて人(ひと)となれるを信(しん)ず、何故(なにゆえ)なればもし然(しか)らざらんには我(われ)等(ら)の為(ため)に近(ちか)づくことあたはざればなり。けだし我(われ)等(ら)は彼(か)れの自(みづか)ら有(ゆう)する所(ところ)のものを見(み)ることも又(また)これを楽(たのし)むこともあたはざるにより、彼(かれ)は我(われ)等(ら)とひとしき者(もの)となり給(たま)へり、これ我(われ)等(ら)の彼(かれ)をもて楽(たのし)むを得(え)んが為(ため)なり。けだし我(われ)等(ら)は第四日に造(つく)られたる太陽(たいよう)をさへ全(まった)く見(み)る能(あた)はずんば、これをつくれる造物主(ぞうぶつしゅ)神(かみ)をいかんして見(み)るを得(え)んや。主(しゅ)は西乃(シナイ)山(ざん)の上(うえ)に於(おい)て火中(かちゅう)に降(くだ)り給(たま)ひしに、民(たみ)はこれに堪(た)ふる能(あた)はず、モイセイにつげていへり、曰(いは)く『汝(なんぢ)我(われ)等(ら)と語(かた)れ、我(われ)等(ら)きかん。ただ神(かみ)が我(われ)等(ら)と語(かた)り給(たま)ふことあらざらしめよ、恐(おそ)らくは我(われ)等(ら)死(し)なん』〔出(しゅつ)埃及(エジプト)記二十の十九〕。又(また)いふあり『肉身(にくしん)の者もの)の中(うち)誰(たれ)かよく火(ひ)の中(うち)よりいひ給(たま)ふ活神(いけるかみ)の声(こえ)をききて生(い)くる者(もの)あらんや』〔復傳律令五の二十六〕。それ神(かみ)がいひ給(たま)ふ声(こえ)をきくさへも死(し)の因(いん)とならば、神(かみ)その者(もの)を見(み)るはいかんぞ。死(し)の因(いん)とならざらんや。これ何(なん)ぞ怪(あや)しむに足(た)らんや。モイセイは自(みづか)らいへり、曰(いは)く『恐懼(きょうく)戦慄(せんりつ)せり』〔エウレイ十二の二十一〕。

然(しか)らば汝(なんぢ)は何(なに)を願(ねが)ふか。救(すく)ひの為(ため)に来(きた)りし者(もの)が淪亡(ほろび)の因(いん)とならんことを願(ねが)ふか、何故(なにゆえ)なれば彼(かれ)の来(きた)るは人々(ひとびと)の為(ため)に堪(た)ふるあたはざればなり。或(あるい)は恩寵(おんちょう)が我(われ)等(ら)と相応(そうおう)せんことを願(ねが)ふか[3]。ダニイルは神使(しんし)の現(あら)はれにさへ堪(た)へ得(え)ざりき、然(しか)るを汝(なんぢ)は神使(しんし)の主宰(しゅさい)の面(おもて)を見(み)るに自(みづか)ら堪(た)ふるか。ガウリイル現(あら)はれしにダニイルは面(おもて)を伏(ふ)せり。さて此(こ)の現(あら)はれし者(もの)はいかなる形状(かたち)にてその前(まえ)に立(た)ちしや。その面(おもて)は電光(いなびかり)の如(ごと)し、されども太陽(たいよう)の如(ごと)くなるにはあらず、又(また)その目(め)は火(ひ)の焔(ほのお)の如(ごと)くして火炉(かろ)の如(ごと)くなるにはあらず、その言(い)ふ声(こえ)は群集(ぐんしゅう)の声(こえ)の如(ごと)くして〔ダニイル十の六〕神使(しんし)の十二軍隊(レギオン)の声(こえ)の如(ごと)くにはあらざりき。然(しか)れども預言者は地(ち)に俯伏(ふふく)せり、神使(しんし)は彼(かれ)に近(ちか)づきて言(い)へり、ダニイルよ、恐(おそ)るるなかれ、起(た)てよ、力(ちから)を厲(はげ)ませよ、汝(なんぢ)の言(ことば)はきかれたりと〔十二〕。然(しか)るにダニイルは言(い)へり、此(こ)の時(とき)我(わ)れ戦(おのの)きて立(た)てりと〔十一〕。さて此(こ)のすべての時に於(おい)て人手(じゅしゅ)のごときものありて彼(かれ)にふれざりし間(あいだ)は彼(かれ)は何(なに)も答(こた)へざりき、〔十〕而(しこう)して此(こ)の現(あら)はれし者(もの)が人(ひと)の形(かたち)の如(ごと)くに変化(へんか)したる時(とき)にダニイル始(はじ)めて口(くち)をひらきていへり。彼(かれ)は何(なに)をいひしや。『主(しゅ)よ汝(なんぢ)の示現(じげん)によりて我(わ)れ恐(おそ)れに堪(た)へず、全(まった)く力(ちから)をうしなへり、〔十六〕気息(いき)も止(と)まらんばかりなりし』〔十七〕といへり。それ此(こ)の現(あら)はれし神使(しんし)は預言者の声(こえ)をも力(ちから)をもうばひしならば神(かみ)の現(あら)はるるは豈(あに)気息(いき)を存(のこ)さんや。聖書(せいしょ)に『人(ひと)の形(かたち)の如(ごと)きもの触(さわ)らざりし』間(あいだ)は、ダニイル言(い)ふを敢(あえ)てせざりしといへり。ゆえに我(われ)等(ら)が劣弱(れつじゃく)は実際(じっさい)に證(あか)されたるにより、主(しゅ)は人(ひと)の要(よう)する所(ところ)のものを己(おのれ)にうけ給(たま)へり。人(ひと)は己(おの)れと同形(どうけい)なる者(もの)よりきかんことを要(よう)したるにより、救世主(きゅうせいしゅ)は我(われ)等(ら)と同形(どうけい)なるものを己(おの)れにうけ給(たま)へり、人々(ひとびと)の大(おほい)に学(まな)び易(やす)からんが為(ため)なり。

さりながら汝(なんぢ)は又(また)主(しゅ)の来(きた)りし他(た)の因由(いんゆう)をも聴聞(ちょうもん)せよ。ハリストスは自(みづか)ら洗礼(せんれい)をうけて洗礼(せんれい)を聖(せい)にせんが為(ため)に来(きた)り、又(また)海水(かいすい)の上(うえ)を歩(あゆ)みて奇跡(きせき)を行(おこな)はんが為(ため)に来(きた)り給(たま)へり、けだし彼(かれ)が肉体(にくたい)によりて来(きた)らるる先(さ)きには『海(うみ)は見(み)て走(はし)りイオルダンは退(しりぞ)けり』〔聖詠百十三の三(詩編百十四の三)〕ゆえに主(しゅ)の己(おの)れに体(たい)をうけ給(たま)ひしは、海(うみ)は見(み)てとどまり、イオルダンは恐(おそ)れずして彼(かれ)をうけんが為(ため)なり。これ一の因由(いんゆう)なり、さりながら又(また)他(た)の因由(いんゆう)もこれあり。処女(しょじょ)エワによりて死(し)は入(い)りぬ、故(ゆえ)に必(かなら)ず処女(しょじょ)により、否(いな)精(くわ)しくいはば処女(しょじょ)より生命(いのち)はあらはれざるべからず、蛇(へび)の彼(かれ)をいざなひし如(ごと)くガウリイルの此(これ)を福音(ふくいん)せんが為(ため)なり。人々(ひとびと)は神(かみ)をすてて自(みづか)ら人形(ひとのかたち)をきざめる像(ぞう)をつくりぬ。故(ゆえ)に人々(ひとびと)偽(いつわ)りて、人形(ひとのかたち)をきざめる像(ぞう)を神(かみ)の如(ごと)く拝(はい)し始(はじ)めたる時(とき)、神(かみ)は実(じつ)に人(ひと)となり給(たま)へり、偽(いつわ)りを滅(ほろぼ)ぼさんが為(ため)なり。魔鬼(まき)は我(われ)等(ら)に対(たい)して肉体(にくたい)を器械(きかい)の如(ごと)く利用(りよう)せり、故(ゆえ)に此(これ)を知(し)りてパウェルはいへり『我(わ)が肢体(したい)に他(た)の法(のり)あり、我(わ)が心(こころ)の法(のり)とたたかひて我(われ)を虜(とりこ)にし』云々(うんぬん)〔ローマ七の二十三〕。是故(このゆえ)に魔鬼(まき)が我(われ)等(ら)を倒(たお)したると同(おな)じき器械(きかい)を以(もつ)て我(われ)等(ら)は救(すく)はれたり。人間(にんげん)を救(すく)はんが為(ため)に主(しゅ)は我(われ)等(ら)と同様(どうよう)なるものをうけ給(たま)へり、乏(とぼ)しき所(ところ)の者(もの)にいよいよ多(おほ)く恩寵(おんちょう)をあたへんが為(ため)、又(また)罪(つみ)ある人間(にんげん)の神(かみ)と体合(たいごう)せんが為(ため)に我(われ)等(ら)と同様(どうよう)なるものをうけ給(たま)へり。『然(しか)れども罪(つみ)の増(ま)す所(ところ)には恩寵(おんちょう)も愈(いや)増(ま)されり』〔ローマ五の二十〕。主(しゅ)は我(われ)等(ら)の為(ため)に必(かなら)ず苦(くるしみ)をうくべかりき、然(しか)れどももし魔鬼(まき)は彼(かれ)を知(し)りしならば彼(かれ)に近(ちか)づくを敢(あえ)てせざりしならん。『もし識(し)らば栄(さかえ)の主(しゅ)を十字架(じゅうじか)に釘(くぎ)せざりしならん』〔コリンフ前二の八〕、故(ゆえ)に体(からだ)は死(し)の餌(えさ)となれり、蛇(へび)の呑(の)まんと欲(ほつ)して呑(の)みし者(もの)をも吐(は)き出(いだ)さんが為(ため)なり。けだし『とこしへまで死(し)を呑(の)み給(たま)はん[4]神(かみ)はすべての面(かお)より涙(なみだ)をぬぐひ給(たま)はん』〔イサイヤ二十五の八〕。

脚注

[編集]
  1. ↑ 原文注1:我は十字架に苦しみをうくるより霊神上(れいしんじょう)の敵(てき)〔魔鬼(まき)、世俗(せぞく)、及(およ)び肉身(にくしん)〕とたたかふ我(わ)が門徒(もんと)におのおのその額(ひたい)に王(おう)たる記号即(すなはち)十字形(じゅうじけい)なる勝利の記号をしるすの権(けん)を與(あた)へん。
  2. ↑ 原文注2:いふ意(こころ)は汝(なんぢ)が十字架に流(なが)したる血(ち)により罪(つみ)に縛(しば)られたる者(もの)を永遠(えいえん)の死(し)より放出(はなちいだ)さんとなり。
  3. ↑ 原文注3:いふ意(こころ)は我(われ)等(ら)が主(しゅ)イイスス ハリストスの恩寵(おんちょう)により救(すく)ひの為(ため)に世(よ)に来(きた)るは、汝(なんぢ)の智慧(ちえ)の為(ため)に曉(さと)り得(え)らるべき様子(ようす)にて成(な)らんことを願(ねが)ふかとなり。
  4. ↑ 原文注4:いふ意(こころ)は主(しゅ)は己(おのれ)の死(し)を以(もつ)て永遠(えいえん)の死(し)を滅(ほろぼ)ぼさんとなり。