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に、又 他の軍人の德、卽 工夫を善く運らすこと、甚 堪能なる軍略 兵法ありき。實に、蒙古人は、亞細亞の荒遠なる隅より出で、國の地圖をも、又その地形を學ぶべききまれる方便すらもたざりし事、彼等は、歐囉巴にのみならず、西の人の考へ方などにも全く他國人(不知案內)なりし事、彼等は、實驗の長き續きにて戰の爲に自ら用意したるに非ずして、雪なだれの如く人の國に突︀進したる事、彼等の衣食の供給 運送のしかたは、亞細亞の曠野 沙漠に適すれども歐囉巴の事物の甚 異なる狀態に適せざりし事、これらの事をのみ考へなば、彼等のしか成功したるのみならず、その軍略上の計畫は、理學に依りたるが如く立てられたる事は、殆ど神︀異 不測に近しと思はざるべからず。疑なく彼等の皆殺︀しと殘酷との恐ろしき方法は、その敵人の膽を破りて神︀經を痺れさせき。疑なく又 彼等は、科曼 人 嚕西亞 人などの如き、いかなる寇にても掠奪を許さるれば嚮導 先鋒として十分に働かんとする雇はれ根性の浪人どもを使ひき。然れどもこの事ありとも、我等は猶この偉勳に驚き、軍の成功として世界の歷史の何れにも之を較ぶることを辭せざらん。」

太宗に對する​訶倭兒思​​ホヲルス​の稱揚

訶倭兒思は、又 太宗の事業を殘らず述べたる後に、「我等は、斡歌台を最 運好き征服者︀と見ても、納坡列 翁 阿歷散迭兒の帝國も較ぶれば甚 小きほどの大國を支配する强盛なる君主と見ても、夥しき民眾を長き時代に涉りて結び固めたる制度を組立つることを差圖したる治國者︀と見ても、世界に現れたる最大なる帝王の一人たる人格を彼に與へざるべからず。事業の多くは人の手にて彼に代りて爲されしことは、彼の位置より價を減ぜず。大國の君 屢 誤るは、能臣の選擇にあり。成吉思の大名は、少くとも英吉利 文學にては、その子のそれを蝕し(蔽ひ)たり。この論は、より多く注意を彼に引かんとする甚 穩當なる企望に外ならず」と云ひて太宗の篇を結べり。


§282(12:58:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


太宗 十二年の大會

 ​大​​オホ​ ​忽哩勒塔​​クリルタ​に​會​​クワイ​して、​鼠​​ネズミ​の​年​​トシ​ ​七月​​シチガツ​に​客魯嗹 河​​ケルレン ガハ​の​闊迭額 阿喇勒​​コデエ アラル​の​朶羅安 孛勒荅黑​​ドロアン ボルダク​ ​失勒斤扯克​​シルギンチエク​ ​兩​​フタツ​の​閒​​アヒダ​なる​斡兒朶思​​オルドス​に​下馬​​ゲバ​して​居​​ヲ​る​時​​トキ​、​書​​カ​きて​畢​​ヲ​へたり。(鼠の年は、我が四條 天皇 仁治 元年 庚子、宋の理宗 嘉熙 四年、元の太宗 十二年、西紀 一二四〇年なること、序論に云へるが如くにて、太宗 昇遐の前年なり。闊迭額 阿喇勒は、卷四 一三六頁〈[#「一三六頁」は§136に相当]〉とこの卷 五八四頁〈[#「五八四頁」は§269に相当]〉とに注せり。朶羅安 孛勒荅黑は、卷四 一三六頁に、朶羅安 孛勒荅兀揚とありて、そこに注せり。朶羅安 孛勒荅兀惕は、七つの孤山にして、孛勒荅兀惕は、孛勒苔黑の複稱なり。孤山 七つあれば、複稱に云ふべきを、こゝに單稱に書けるは、恐らくは誤ならん。又 原文に孛勒荅合とあり。孛勒荅合は、「孛勒荅黑に」なり。こゝは、「に」の字の入るべき所に非ざる故に、誤寫ならんと見て删れり。斡兒朶思は、斡兒朶の複稱なり。

太祖︀の大​斡兒朶​​オルド​

こゝは太祖︀の大 斡見朶にして、帳殿の設けも、一二に止まらざる故に、複稱に呼べり。上文 五九五頁〈[#「五九五頁」は§271に相当]〉に大 斡兒朶思、親征錄に、戊子の年「秋、太宗皇帝自虎八於先太祖︀皇帝之大宮、」太祖︀紀に十一年 丙子「春、還廬胊 河行宮、」太宗紀 元年 己丑 卽位の處に曲雕 阿蘭の地、また庫鐵烏 阿剌里、四年 壬辰「十二月、如太祖︀行宮、」憲宗紀 元年 辛亥 卽位の處に闊帖兀 阿闌の地、七年 丁巳「夏六月、謁︀太祖行宮、祭旗鼓、」明宗紀 天曆 二年 六月「戊申、次