闊朶傑 阿剌倫㆒」などあるは、皆この斡兒朶思なり。
后妃表を案ずるに、太祖︀の斡兒朶は、四所にあり。第一の斡兒朶を大 斡兒朶と云ひ、孛兒台 旭眞 大皇后(孛兒帖 兀眞 大合屯)と皇后 六人と妃子 一人とそれに住み、第二の斡兒朶には、忽蘭 皇后(忽闌 合屯)以下皇后 四人と妃子 四人と住み、第三の斡兒朶には、也速 皇后(也遂 合屯)以下 皇后 七人と妃子 三人と住み、第四の斡兒朶には、也速干 皇后(也速干 合屯)以下 皇后 五人と妃子 七人と住み、四の斡兒朶を合せて、大皇后 一人、皇后 二十二人、妃子 十五人なり。外に斡兒朶の知れざる妃子 一人ありて、后妃すべて三十九人なり。表の皇后 妃子は、蒙古語の合屯(妃)額篾(妻)をしか譯したるにて、支那の后妃よりは輕く、大皇后 卽 大合屯のみは、眞の皇后なり。洪鈞 曰く「拉施特 書 曰「成吉思 婦 有㆓五百㆒。」案、五百、恐是五十之訛。」四の斡兒朶のありかは、諸︀史に明文なけれども、大斡兒朶は、こゝの斡兒朶思なること論なし。他の三は、意をもて推すに、第二は、薩里 川(撒阿里 客額兒)の哈老徒の行宮、金幼孜の北征錄なる撒里 怯兒の宮殿なるべし。第三は、王罕の舊營なる禿剌 河の合喇屯の斡兒朶なるべし(前卷の五四三頁〈[#「五四三頁」は§264に相当]〉に見えたり)。第四は、西游記なる乃滿 國の窩里朶、卽 乃蠻の塔陽 罕の舊營なる額帖兒 河の斡兒朶にして(前卷の四七六頁 四七七頁〈[#「四七六頁 四七七頁」は§257に相当]〉を見よ)、その「皇后」と云へるは、也速干 合屯なるべく、「漢︀ 夏 公主」と云へるは、金の衞紹王の女 岐國 公主と夏の襄宗の女 察合となるべし。忽哩勒塔は、卽 忽哩勒台にして、「に」なる後置詞を踏む時は「亦」の音を略く。
忽哩勒台 卽 聚會は、遊牧の諸︀部落には大抵 有れども、その部落 大きくなり、君權 强くなるに隨ひて、聚會の勢力 衰ふるは常の事なるに、蒙古にては、國はいやが上に太りたれども、聚會は中中 廢れずして、永く(少くとも世祖︀の卽位の頃までは)その勢力を保てり。百戶 內外の部落ならば、相談の必要ある時、酋長は、小山などに登りて、「相談あるから聚れ」と大音に呼はりても、部眾 殘らずを卽刻に聚め得らるべし。しかるに亞細亞 歐囉巴に跨れる大國となりては、召集の使を發してより會員の揃ふまでに一年 餘りを費やし、又その會員は、聚まり得る人數に限ありて、平民は參列することを得ず、代議の制などは夢にも知らざれば、おのづから皇族 貴族 重官 大帥の聚會となれり。かくて一むれのむらびとの總寄合は、四海︀に薄れる大帝國の國會となり、牛飼︀ 羊飼︀どもの寄り聚ひたる平民の相談會は、王侯 將相の列れる威儀 堂堂たる貴族 議院となり、迭抹克喇西は、阿哩思脫克喇西に變じたり。
太宗の崩じたる後 五年目 丙午の年(定宗 元年、西紀 一二四四年)に、攝政 禿喇奇納 合屯(祕史 朶咧格捏、元史 脫列哥那)の召集に由りて聚れる大會の時、囉馬 敎主の命を受けて蒙古に使せる普剌諾 喀兒闢尼、その處に居て、記錄を世に遺したれば、漢︀文の書には更に見えざる蒙古の大會の盛況も、我等に知らるゝに至れり。訶倭兒思の蒙古史に曰く「大 忽哩勒台は、斡歌台の常に夏を過せる科依揭の湖に近き地に聚るべく召集せられき。」斡歌台の常に夏を過したる所は、多遜の史に斡兒篾克禿阿の昔喇 斡兒都︀なりとあれば、「科依揭の湖に近き地」は、何かの誤ならん。「今 巴禿 罕は、蒙古にて最 重要なる人なりしが、この王の來會 遲きに由りて、大會は延び延びになりき。巴禿の口實は、その馬どもの足 弱しと云へるなれども、實の理由は、攝政とその子 庫由克とを惡めるなりき。巴禿は竟に會せずして、大會は、一二四四年の春、巴禿なしにて開かれき。大會の開かれたる昔喇 斡兒都︀まで亞細亞のあらゆる所より輻輳せる かなた こなた の道路に、旅人 羣集しけり。成吉思の弟 兀出肯は、その子孫 四十八人を伴れて來ぬ。拖雷の寡婦とその諸︀子