一坐ヒトトコロに二十ニジフの兀剌阿臣ウラアチンと做ナしたり。坐ザごとに二十ニジフづゝの兀剌阿臣ウラアチンと做ナしたり。驛舍エキシヤの騸馬センバども、汁シルの羊ヒツジども(肉汁を作るべき羊ども)、擠シボる騍馬メウマども、車クルマに駕ツくる牛ウシども、車クルマどもは、こゝより我等ワレラより限カギりたる限カギリより、短ミジカ斡豁兒き繩ナハ(なりとも)缺カかさば、項ウナジ斡兒豁里牙兒に依ヨりて切セツり(項を切り)罪ツミあるとなさん。匙サジ合勒不合ほどの輻ヤ(なりとも)缺カかさば、鼻ハナ合巴兒を切セツり罪ツミあるとなさん」と勅ミコトありき。(この站の事は、蒙韃 備錄に「凡見㆑馬則換易。幷㆓一行人從㆒、悉可㆑換㆑馬。謂㆔之乘㆓鋪馬㆒。亦古乘㆑傳之意」とあり。
太宗紀 元年には、たゞ「立㆓驛傳㆒」の三字あるのみなれども、兵志 四 站赤の篇にはその事を委しく記せり。まづその序に曰く「元制、站赤 者︀、驛傳之譯名也。蓋以通㆓達邊情㆒、布㆓宣號令㆒。古人所謂「置㆑郵而傳㆑命、」未㆑有㆘重㆓於此㆒者︀㆖焉。凡站、陸則以㆑馬以㆑牛、或以㆑驢、或以㆑車、而水則以㆑舟。其給㆓驛傳㆒璽書、謂㆓之鋪馬聖旨㆒。遇㆓軍務之急㆒、則又以㆓金字圓符㆒爲㆑信、銀字者︀次㆑之。內則掌㆓之天府㆒、外則國人之爲㆓長官㆒者︀主㆑之。其官有㆓驛令㆒、有㆓提領㆒。又置㆓脫脫禾孫 於關會之地㆒、以司㆓辨詰㆒。皆總㆓之於通政院及中書兵部㆒。而站戶闕乏逃亡、則又以㆑時僉補、且加㆓賑䘏㆒焉。於㆑是四方往來之使、止則有㆓館︀舎㆒、頓則有㆓供帳㆒、饑渴則有㆓飮食㆒、而梯航畢達、海︀字會同。元之天下、視︀㆓前代㆒、所㆔以爲㆓極盛㆒也。今故著︀㆓其驛政之大者︀㆒、然後紀㆓各省水陸凡若干站㆒、而遼東狗站、亦因以附見云」と云ひて、次に「太宗元年十一月、勅㆓諸︀牛鋪馬站㆒、每㆓一百戶㆒、置㆓運漢︀車一十具㆒、各站俱置㆓米倉㆒、站戶每年一牌內納㆓米一石㆒、令㆓百戶一人掌㆒㆑之。北使臣每日支㆓肉一斤麵一斤米一升酒一瓶㆒。四年五月、諭㆓隨路官員幷 站赤 人等㆒、使臣無㆓牌面文字㆒、始㆑給馬之驛官及元差官、皆罪之。有㆓文字牌面㆒、而不㆑給㆓驛馬㆒者︀、亦論㆑罪。若係㆓軍情急速㆒、及送納顏色絲線酒食米栗段匹鷹隼、但係㆓御用諸︀物㆒、雖㆑無㆓牌面文字㆒、亦驗㆑數應㆑付㆓車牛㆒」とあり。以下は、世祖︀ 成宗 仁宗 泰定 四朝の站に關する沿革 法令と各省の站赤 船車 人畜の數とを載せたり。)
§281(12:54:10)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
斡歌歹 合罕オゴダイ カガン 宣ノリタマはく「皇考スメラミオヤの大位タカミクラに坐ヰて、皇考スメラミオヤの後ノチに勤イソシみたることは、我ワが札忽惕ヂヤクト(明 旁譯 金人 毎)の民タミの處トコロに出征シユツセイして、札忽惕ヂヤクトの民タミを平タヒラげたり、我ワレ。次ツギに我ワが事業ジゲフは、我等ワレラの使路ツカヒミチに快ハヤく走ハシり又マタ 用モチふる品物シナモノを搬ハコばするに、站ヂヤムどもを置オかせたり。又マタ 次ツギの事業ジゲフは、水ミヅなき地チに井ヰどもを掘ホら