せて、出イダさしめて、國クニの民タミを水草ミヅクサに有附アリツかしめたり。又マタ 處處トコロドコロの城シロどもの民タミの處トコロに斥候モノミ 探馬臣タンマチンを置オきて、國クニの民タミの足アシ闊勒を土ツチ闊薛兒に手テ合兒を地ヂ合札兒に置オかせて住スませたり、我ワレ。皇考スメラミオヤに後ノチに四ヨツの事業ジゲフを添ソへたるぞ。又マタ 皇考スメラミオヤの大位タカミクラにも居ヰられて、
あまたの國民クニタミを我ワが上ウヘに擔ニナひて往ユかれて、
便スナハチ 葡萄酒ブダウシユの酒サケに我ワが勝カたれたるは、過アヤマチとなれり。一ヒトツの我ワが過アヤマチとこれはなれるぞ。(耶律 楚材の傳に「帝素嗜㆑酒、日與㆓大臣㆒酣飮。楚材屢諫、不㆑聽。乃持㆓酒槽鐵口㆒進曰「麹糵能腐㆑物。鐵尙如㆑此、況五臟乎。」帝悟、語㆓近臣㆒曰「汝曹愛㆑君憂國之心、豈有㆘如㆓吾圖 撒合里㆒者︀㆖耶。」賞以㆓金帛㆒。勅㆓近臣㆒、日進㆓酒三鍾㆒而止」とあるに據れば、太宗のみづから過を知れるは、楚材の諫に因れるなり。然れども又 傳の後文に「楚材嘗與㆓諸︀王㆒宴、醉臥㆓車中㆒。帝臨㆓平野㆒見㆑之、直至㆓其營㆒、登㆑車手撼㆑之。楚材熟睡未㆑醒、方怒㆓其擾㆒㆑己。忽開㆑目視︀、始知㆓帝至㆒、驚起謝。帝曰「有㆑酒獨醉、不㆓與㆑朕同㆒㆑樂耶」笑而去。楚材不㆑及㆓冠帶㆒、馳詣㆓行宮㆒。帝爲置酒、極㆑歡而罷」とあるを見れば、楚材もなかなかの酒好きにして、太宗の節︀飮も厲行せられざるに似たり。かくて太宗紀 十三年 辛丑(本書の成りし翌年)に「十一月丁亥大獵、庚寅還至㆓鈋鐵𨬕 胡蘭 山㆒。奧都︀ 剌合蠻 進㆑酒、帝歡飮極㆑夜乃罷。辛卯遲明、帝崩㆓于行殿㆒。壽五十有六」とあり。さよなかまで酒飲みて、翌朝 崩じたるは、必 卒中にて斃れたるならん。然らば太宗は、酒の害を悟りながら、終に節︀すること能はずして、少し命を縮め、太祖︀より十歲 短く、本書の譯者︀の今年の齡にて遠に世を去りたるなり。)
次ツギの過アヤマチは、故ユヱなく女ヲミナの人ヒトの言コトバに入イりて、斡惕赤斤オツチギン 叔父ヲヂの部眾ブシウの女ヲトメどもを取トり來コさせたるは、非違ヒヰとなれるぞ。國民クニタミの主ウシ 合罕カガンなるに、故ユヱなく非違ヒヰの事業ジゲフに我ワが趁ハシれるは、一ヒトツの過アヤマチとこれはなれるぞ。(太宗紀に「九年丁酉六月、左翼諸︀部、訛㆔言括㆓民女㆒。帝怒、因括以賜㆓麾下㆒」とあり。訛言を怒らば、括せずして、訛言の訛なることを明にすべき筈なるに、怒に因りて括すと云へるは、怪むべし。今 祕史なる太宗の懺悔︀に據れば、婦人の言に從ひてこの事を爲せるにて、謂はゆる訛言は、訛言に非ずして預言なりき。斡惕赤斤の領地は、左翼の大部を占め居たる故に、左翼 諸︀部にて譟ぎたるなり。多遜の史には「斡亦喇惕 人は、その女どもを合罕は他の部落に嫁がせんとすと云ふ噂を聞きて、直に緣附けき。斡歌台この事を聞き、その部落の七歲以上の女ども、その年に嫁ぎたる女ども、凡て四千人を一列に竝べて、その中に