と提說テイセツせり」と云イひて來キぬ。
§280(12:51:10)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
それより斡歌歹 合罕オゴダイ カガン 宣ノリタマはく(以下の一段は、末なる「驛舍の騸馬ども云云」の外は、皆 叙事の文に書くべき處なるを、太宗の言として記せり。蓋 史臣は、これらの政令を太宗の口より聞きて筆記したるなるべし。)「察阿歹 兄チヤアダイ イロセ 巴禿バトを首ハジメとせる右手ミギテの諸︀王ミコダチ 兄アニだち弟オトヽだち。眾モロ〳〵、斡惕赤斤 那顏オツチギン ノヤン 也古エグを首ハジメとせる左手ヒダリテの兄アニだち弟オトヽだち眾モロ〳〵の諸︀王ミコダチ、內地ナイチの公主ヒメミコだち駙馬ムコギミだち、萬戶バンコ 千戶センコ 百戶ヒヤクコ 十戶ジツコの官人クワンニンだち、眾モロ〳〵にて可ヨシとしけり。可ヨシとするは、「海︀ウミの合罕カガン(四海︀の主)の湯羊タウヤウに年トシ[年ドシ]に羊羣ヤウグンの一ヒトツの二歲ニサイの騸羊センヤウを出イダさば、何ナニかあらん。百ヒヤクの羊ヒツジより一ヒトツの一歲イツサイ[の羊ヒツジ]を出イダして、貧マヅしく乏トボしきに與アタふるは、好ヨくあり。站ヂヤムを置オかしめて、札木臣ヂヤムチン 兀剌阿臣ウラアチンを出イダさば、多オホき國民クニタミに安ヤスからしめ、使ツカヒにも行ユくに便タヨリ 善ヨけん」と云イへば、眾モロ〳〵にて只タヾ 可ヨシとしけり。この(原文に、客延「とて」とあれど、「とて」にては、文意 通らぬ故に、假に「この」と改めたり。)合罕カガンの勅ミコトを察阿歹 兄チヤアダイ イロセに謀ハカりて、察阿歹 兄チヤアダイ イロセに可ヨシとせられて、眾モロ〳〵の國民クニタミより、處處トコロドコロの千戶センコ 千戶センコより、合罕カガンの勅ミコトに依ヨり年年トシドシに湯羊タウヤウを羊羣ヤウグンより一ヒトツの二歲ニサイの騸羊センヤウを、百ヒヤクの羊ヒツジより一ヒトツの一歲イツサイの羊ヒツジを出イダさしめたり。騍馬メウマどもを出イダさしめて、乳馬飼︀ニウバカヒを坐スゑたり。乳馬飼︀ニウバカヒ 財守タカラモリ 穀︀守コクモリを出イダさしめたり。札木臣ヂヤムチン 兀剌阿臣ウラアチンを出イダさしめて、坐坐ザザどもの地チ(站を坐ゑ置くべき處處)を斟酌ミハカラはせて、站ヂヤムを置オかしむるに、
驛遞エキテイの長 阿喇淺アラツエン 脫忽察兒トクチヤル
阿喇淺アラツエン 脫忽察兒トクチヤル(太祖︀ 西征の役に見えたる脫忽察兒、卽 博爾忽の傳なる塔察兒)二人フタリに整トヽノへさせて、站ヂヤム